カサコソ、耳の奥で
拓海が学校に来なくなって、今日で三日目になる。
あいつが最後に俺の前に姿を見せたのは、放課後の駐輪場だった。目の下には酷いクマを作り、頬はこけ、まるで何日も眠っていないような顔で、俺に黒いヘッドホンを押し付けてきたのだ。
「頼む、これお前にもらってほしい。リサイクルショップで買ったんだけど……呪われてるんだ。ずっと、耳の奥で音がする。俺の耳から、こいつを連れ出してくれ」
意味不明な戯言だった。俺は「ラッキー、無名メーカーだけどノイズキャンセリング付きじゃん」と軽く笑い、その不気味なほど冷たいヘッドホンを受け取った。
拓海が安堵したような、それでいてひどく絶望したような顔で俺を見ていたことなど、その時は気に留めもしなかった。
*
その日の夜。自室のベッドに寝転がり、俺はもらったヘッドホンをスマホに繋いだ。
電源を入れると、スイッチ一つでノイズキャンセリング機能が作動した。
エアコンの駆動音も、外を走る車の音も、文字通り「消滅」した。完璧な静寂。自分の心臓の音すら聞こえなくなるほどの、圧倒的な無音空間だった。
「すげえな、これ……」
音楽を再生しようと、スマホの画面に指を伸ばした。
その時だった。
カサ……コソ……。
右のイヤーパッドの奥から、音がした。
音楽ではない。乾いた綿棒で耳の穴を直接こすられているような、ひどく近い音。
いや、ただの音ではなかった。
ゴソッ、ガサガサッ……。
「うわっ!?」
右耳の穴の入り口を、無数の細く硬い『脚』のようなものが這い回る、生々しい感触。
虫だ。ヘッドホンの中に、虫が入り込んでいる。
俺は慌ててヘッドホンを外そうと、両手でイヤーパッドを掴んだ。
外れない。
「は……? え、嘘だろ……っ」
力任せに引っ張るが、イヤーパッドは俺の耳の周りの皮膚に完全に癒着しているかのように、ビクともしない。無理に剥がそうとすると、皮膚が千切れるような激痛が走った。
ゴソゴソゴソゴソッ!!
「あ、あああぁぁっ!?」
異物は、明確な意志を持って俺の耳の穴を内側へと押し広げ始めた。
みちみちと外耳道が押し広げられ、硬い甲殻と無数の脚が、粘膜をガリガリと削りながら奥へ奥へと潜り込んでくる。痛い。気持ち悪い。頭がおかしくなりそうだ。
その時。
完璧なノイズキャンセリングの無音空間と、耳の奥の蠢く音に混じって、別の音が聞こえた。
コン、コン、コン。
二階にある自室の窓ガラスを、外から叩く音だった。
俺は耳を両手で押さえたまま、脂汗を浮かべて窓の方へゆっくりと顔を向けた。
カーテンの隙間、月明かりに照らされた曇りガラスの向こう。
そこに『それ』は張り付いていた。
犬ほどの大きさがある、黒く巨大な蜘蛛のようなシルエット。八本の太い脚がガラスに吸い付き、毛に覆われた胴体が不気味に脈打っている。
コン、コン。
窓を叩いているのは、その蜘蛛の前脚だった。
そして、ガラス越しに、ノイズキャンセリングを貫通して、はっきりと『声』が聞こえた。
『あ、け、て……。俺だ、よ……』
心臓が止まるかと思った。
間違いない。拓海の声だった。
恐怖で声も出ない俺の目の前で、巨大な蜘蛛の頭部がゆっくりと持ち上がり、ガラスにぴったりと押し付けられる。暗闇の中で、人間の眼球だけが異常に肥大化したような二つの目が、俺をじっと見つめていた。
『い、たい……。み、みが、われた……』
拓海だった。
拓海は、あの蜘蛛になってしまったのだ。耳の奥に入り込んだ何かに、脳髄からすべてを喰い破られ、あんな異形の姿に。
ズ、ズズ……ゴソゴソゴソッ!
「あ、アァァ……ァ……」
絶望的な理解と同時に、俺の右耳の奥で、異物がいよいよ最深部へと到達した。
今、俺の頭蓋骨の中で蠢いているものが、やがて俺の頭を内側から突き破り、俺を『あれ』と同じ姿に変えるのだ。
窓の外で、拓海の声をした巨大な蜘蛛が、嬉しそうにガラスを引っ掻き始めた。
『おそ、ろい……おそろい、だ……』
ベリィッ。
鼓膜が破られる鋭い音と共に、俺の意識は完璧な暗闇の中へ沈んでいった。




