第四章 夜のとばり
『コンコンコン』
……
明かりの灯った廊下。戻ってくる途中、クラヤはあの「行き止まり迷宮」に危うく迷い込みそうになりながら、なんとかここまでたどり着いた。そして今、目の前の魔王の部屋の扉を前にして、ぼんやりと立ち尽くしていた。
迷っていた。一方では、こんなによくしてもらっているのに、まだ完全に信頼できていない自分が少し嫌だった。もう一方では、ノックをしても返事がなく、本当に邪魔していいのかどうか、そちらの不安の方が大きくなっていた。
それでも幸い、扉は開いた。
「あ、クラヤ。入って」
扉の向こうに現れたトークは、ほのかに香りをまとい、銀髪がまだ少し湿っていた。服は黒いパジャマに替わっており、その少しぼんやりとした表情が、その場の雰囲気によく似合っていた。
お風呂上がりかな。クラヤはそう思った。
「トークさん、さっきお風呂に入ってたんですか……?」
「うん、そうだよ。クラヤも必要なら——あ、でも、もう入ってきたみたいだね。パジャマに着替えてるし、いい香りがするし」
「そういうことは言わないでください……」
クラヤの頬がうっすら赤くなったのを見て、トークはかすかに笑った。とはいえクラヤには反論する余地もなかった。さっきセリスに頼んでそのあたりのことをちゃんと聞いていたのだから。女の子にとって、お風呂は欠かせない。幸い、浴室は自分の部屋と繋がっていて、というかあの部屋自体が一体型の小さな居室になっていたのだ。
ともかく、今一番大事なのは——
「……それで、クラヤは俺に何か用?」
「何の用があるかって……聞くまでもないじゃないですか。聞きたいことがたくさんあるんです。だから、少し入ってもいいですか?」
クラヤはちょっとむくれた顔で言った。あの大魔王トークがにやにやしているのを見て、さらにむくれた。わけも分からないままここに連れてこられたのに、何の用かと聞き返されるなんて、分かりきったことじゃないか。
「まあ……いいけど。全部は答えないよ。魔王だって、プライバシーってものがあるから」
「プライバシーとか関係ないでしょう!自分のことなのに、なんで『プライバシー』なんですか……ちゃんと教えてくれるって言ったじゃないですか!」
クラヤは大きな声で不満をぶつけた。トークはくるりと振り返ってベッドに腰を下ろし、背をそっと壁に預けた。薄暗い灯りの中で、その姿はどこか神秘的で、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
「まあまあ……全部話すとは言ってないよ。難しく考えないでよ。話せないこともあるけど、話せることだってあるんだから。それに……この世界についても、もっと知りたいんじゃない?」
そのひと言が、クラヤの胸に刺さった。
——「この世界」と言った。
——つまり……。
「私が……この世界の人間じゃないって、知ってるんですか?」
ずっとひっかかっていた感覚が、ついて言葉になった。そして返ってきたのは、意外でありながら、どこか腑に落ちる答えだった。
「ああ。知ってる」
さらりとした、短い言葉。それがかえって、クラヤをよけいに困惑させた。
「じゃあ……なんで私はここに来たんでしょう。それに……正直、自分に何があったのか、まるで覚えていないんです。気がついたらあの場所で……あの、あの人はどうして私にあんなことを……」
「それについては……後半の質問にしか答えられない。前半は、俺にも正直よく分からないんだ。あの人は、たぶん、君の首のものが欲しかったんだと思う」
「……これのことですか?」
クラヤは首元の青い宝石を指でそっと触れた。今もそれは静かに光を放っていた。
「……さっきお風呂に入ったとき、外そうとしたんですけど、なぜか全然取れなくて。まるで首と一体化してるみたいで……」
言いながら、クラヤは首輪を引っ張るような仕草をしてみせた。びくともしない、という意思表示だった。
「……ああ。それは普通のことだよ。その石は——ロルヤの石、って言ってね。とても希少な宝物なんだ。だから、さっきみたいな盗賊に目をつけられやすい」
「そんな大切なものが、なんで私に……あ、もしかして、この石が目的でトークさんは私をここへ連れてきたんですか!」
「そうそう、俺はそんなに欲深いから」
クラヤは腕を組んで、どう考えても信じられないという顔をした。トークはそのまま話を流した。実際のところ、クラヤにも半信半疑なところがあった。この石はどうやっても外れない。まるで「もう君のものだ」とでも言っているかのような感覚がした。ただの高価な宝石なら、こんな反応はしないはずだ。ただ、トークがこれ以上説明するつもりがないことも分かったので、とりあえず今は追及しないことにした。
「では……このままここに住むことになるんですか。うーん……何か私にできることはありますか?何もしないでご飯を食べてるのは、ちょっと気が引けて」
「それについては……仕事より先に、勉強が必要だと思う。たぶん今、ここの文字は全然読めないよね?」
クラヤは頷いた。確かに、ここに来てから見る文字はどれもおたまじゃくしのようにしか見えず、意味が全く掴めなかった。
「実はね、俺自身も不思議だと思ってるんだけど。この世界にはこんなに多くの種族がいる——魔族、人間、精霊、獣人。なのに、みんな同じ文字を使ってる。どうやってここまで統一されたのか、正直よく分からないんだよね」
そう言いながらトークはベッドから立ち上がり、本棚をしばらくごそごそと漁った。やがて取り出したのは、分厚くて赤い一冊の本だった。引き抜いた瞬間、灯りの中にほこりがはらはらと舞い落ちた。ずいぶん長い間、開かれていなかったようだった。
「これは辞書みたいなものだよ。俺が子どもの頃、字を覚えるのに使ってた。よかったら、少し教えてあげる。話し言葉の文法はたぶんほとんど変わらないから、文字さえ覚えれば、きっとすぐ上達すると思う」
「私の学習能力、かなり信頼してくれてますね」
「調子に乗らないようにね」
トークは立ち上がり、書き物机の椅子を引き、扉の横からもう一脚持ってきた。二脚が並んで置かれた。
「もう今夜から始めるんですか……?」
「勉強」という言葉を聞いた途端、クラヤの表情がはっきりと苦しそうになった。DNAに刻み込まれた、学習への生理的な拒否反応かもしれない。とはいえ、トークが横で手ほどきしてくれるとなると、思っていたよりは難しくなさそうだった。
「じゃあ、これを読んでみて」
「『花が咲いた』」
「これは?」
「『ナスビ』……あ、違う?」
「それはクリップ」
……
……
「いいね、なかなか飲み込みが早い!」
ときおり、クラヤはこっそりトークの横顔を盗み見た。長いまつ毛、髪に隠れた瞳。長時間の勉強がもたらす不可抗力の注意散漫というやつで、でも学習の妨げにはならなかった。
……まあ、この魔王は確かに、なかなかの顔立ちをしていると思う。
いつの間にか、クラヤはこの新鮮な感覚にすっかり浸っていた。時間が経つのも忘れそうになるほどに。時計の針がかちかちと刻み続けて、気がつけば、数百もの語彙を覚えていた。
「今日はここまで!」
「ふう……思ってたより、ずっと疲れましたね……」
トークは椅子の背にもたれて大きく伸びをした。最初に会ったときの神秘的な雰囲気が、すっかり抜けていた。それからクラヤに向かって軽く合図を送り、今日のところは十分だと示した。
「おつかれ。ふわあ……もう十二時か。この世界の時間も、もとの世界と同じなんだね」
「そうみたい。……もう疲れてるの、分かるよ。おやすみ、クラヤ」
「うん……あ、でも、もう一つだけ」
「何?」
「どうしてトークさんは、他のみなさんみたいに『クラヤ』って呼ばないで、『クラヤ』って……あ、ええと、なんで下の名前だけで呼ぶんですか?」
その質問に、トークは少し詰まった。ばつが悪そうに後頭部に手をやり、クラヤの真っ直ぐな瞳から目を逸らした。
「……そうだな。たぶん、俺がちょっと特別だから……いや、単純に面倒くさいから、かな。人の名前、フルネームで呼ぶの好きじゃないんだよ。だからクラヤって呼んでる」
言い訳めいていることはクラヤにも分かったが、まあ、呼び方の問題だし、本当に単なる習慣なのかもしれない。小さく頷いて、自分の部屋へと戻った。
ベッドに横になる感触は、なんとも不思議だった。これまで何度もベッドに横になってきたはずなのに、それでも——こんなに濃密な一日の末に、自分だけの小さな部屋でこうしていられることが、これ以上ないほど心地よかった。ふかふかの枕と厚い羽布団が、このまま永遠にここにいたいと思わせた。
それでも眠れなかった。頭の中はまだ動いていた。この世界のことを考え、城にいるみんなのことを考え、それから——魔族の他の人たちは、いったいどこにいるのだろうと思った。たぶん、このお城からそう遠くない場所だろうけれど。
「よし、決めた!」
クラヤは自分に言い聞かせた。明日、近くを歩いてみて、この辺りの住人に会ってみよう。みんな魔族とはいえ、トークたちのように人間に友好的とは限らない。トークの友人にだって、人間を嫌っている人がいるくらいだし。
それに、もう一つ気になることがあった。今日、トークが一度だけ違う名前で呼んだ。もう何という名前だったかは思い出せないけれど、少なくとも「クラヤ」ではなかったのは確かだ。そして、自分の素性を知っているにもかかわらず、その理由を隠していること。その二つが、どうも引っかかって仕方なかった。
考えても仕方ない。でも眠れない。じゃあ、何をしようか。
起き上がって時計を見ると、十二時半頃だった。このままじっと横になっていても眠れそうにない。本でも読もうか、とクラヤは思った。異世界に電子機器はない。スマホのない生活は、まだどこか落ち着かなかった。本棚を眺めて一冊選んでみると、取り出したのは『歴史』と書かれた本だった。
歴史というものに、なぜか興味が湧いた。しかも、この世界を知る手がかりにもなる。さっきトークに字を教えてもらったばかりだし、全部は読めなくても、大体の意味くらいは分かるかもしれない。
一ページ目を開いた。
『世界の起源』
『魔法の誕生』
……
……
『第一次魔人大戦』
『第二次魔人大戦』
少しめくってから、クラヤは諦めた。語彙が少なすぎて、目次くらいしか読めなかった。それでも、いくつか気づいたことがあった。
人間と魔族は、最初から争っていたわけではなさそうだ。はじめはある程度、共存していた時期があったのに、何かをきっかけに今のような関係になったらしい。そしてトークは、その関係を元に戻そうとしている。
もう一つ、「クラヤの石」についての記述もあった。ただ、やはり読めなかった。
「明日トークに字を習うとき、一緒に聞いてみよう」
そう決めて、クラヤは本を棚に戻した。頑張って読もうとしたせいか、さっきまでの興奮が嘘のように体が重くなって、ベッドに倒れ込んだ。そうしてほどなく、静かな寝息が聞こえてきた。
夜は美しい月明かりに彩られていた。窓から差し込むその光は、クラヤの上にそっと降り注いで——まるでクラヤ自身と寄り添うように、ひとつの静かな絵を描いていた。
——
「……!?」
まぶしい朝の光が、クラヤの魂を呼び起こした。とろとろとした目をこすり、陽光に照らされた書き物机をぼんやりと眺めながら、自分がよく眠れたことに少し驚いた。眠気はもうどこにもなく、月とともに山の向こうへ去っていったようだった。
「おはようございます……」
壁に手をつきながら階段を下りて、ホールで話していたトークとセリスに声をかけた。ふたりも返事をした。するとバリアが突然背後に現れて、「こんなに遅くまで寝てたの!?」と大声を上げ、クラヤの眠気を完全に吹き飛ばした。
朝食を終えたあと、クラヤはトークのところへ行って、外を少し見てきたいと伝えた。
「……まあいいけど。首のそれ、隠しておいてね」
「なぜですか?魔族の間にも、泥棒や強盗みたいな人がいるんですか?」
「魔族にそういう人間がいないと思う方がおかしいんじゃないかな。はい、これ」
差し出されたのは、茶色い厚手のマフラーだった。スト=ケール大陸は気温が低い——それは昨日の夕食のときから分かっていたことだ。マフラーをしていても、特に変には見えない。
「なんか、これの方がかえって可愛いな」
「……え!?そんなこと……でも、確かに暖かくて。茶色も、わりと好きかもしれないです」
「うんうん。——じゃあ、まずカカキ村に行ってみよっか。あそこは村の雰囲気がのどかだから」
「カカキ村……?」
「お年寄りと子どもが多い小さな村だよ。みんな魔力がほとんどないから、見た目が人間と少し違う以外は、実際にはそんなに差がない。毎日楽しそうにしてるし、あそこなら何も問題ないと思う」
トークは顎をさすり、窓の外へと目を向けた。
「なるほど。……いわゆる初心者向けの村ですね」
クラヤは思わずそんなことを考えた。村人が子どもを連れて川へ水汲みに行き、子どもたちが鬼ごっこをして、どこかに名剣と鍛冶屋がいる——そんな展開を想像しかけたが、ここは魔族の住む土地だ。そう単純なわけもないだろう。
「それじゃ、行こうか」
クラヤがはじめて城の大扉をくぐった。石畳の道はやがて踏み固められた土道に変わり、周りの木々も少しずつまばらになっていった。薄く凍った川面が陽光を反射してきらめき、遠くにはまだ溶けきっていない雪が残っていた。氷のような青さなのに、冷たさや寂しさはなく、むしろ静かで、どこか穏やかな美しさを感じさせた。
「でも、ここって本当に寒いですね。今って冬なんですか?」
「……正確には違う。スト=ケール大陸はもともとずっと寒いんだよ。以前はこのあたり一帯が凍土でね、俺が火系の魔法で少し温度を上げた。でも、もともとの生態系は変えられないから、せめて『あんまり寒くない』くらいにするので精いっぱいで」
「そうなんですね。じゃあ昔のスト=ケールの人たちは、あんな寒さの中でどうやって暮らしてたんですか?」
「ああ、昔はまだ人型化していなかったから、みんな生まれつきの防寒機能があったんだよ。今は人型になった魔族も多くて、耐寒能力が落ちちゃったから、こうして熱を外から補わないといけなくなった」
「へえ……人型になる前って、どんな姿だったのか、ちょっと気になるな」
その言葉を聞いて、トークは少し困ったような苦笑いを浮かべた。
「まあ、それが気になるのも自然だよね。ただ、俺は生まれつきこの姿だからさ。正確に言うと、魔族の人と魔物には違いがあって。魔物が人型化するとき、魔力が十分でないと角が出てしまう。だからもっと栄えたヘルミチに住めるのに、スト=ケールを離れない人もいる。差別意識が残ってるという理由もあるけど、多くは完全に人型になれないからだと思う」
「もしヘルミチで魔族だってバレたら……たとえば角が出てしまったりしたら、どうなりますか?」
「……なんとも言えない。ヘルミチ側は今、二派に分かれていて。どちらに見つかるかによって全然違う」
「そういえば、セリスさんも以前、人間の側には保魔派と人主派があるって言ってましたね。……ヘルミチって、もしかして内戦が起きたりしませんか?」
そう言ったとたん、クラヤは小さく身震いした。寒さのせいか、それとも心配のせいか。
「……そこまでにはならないと思う。国王や貴族は人主派だし、保魔派は規模こそそれなりだけど、ほとんどが平民で。革命には、それなりのきっかけが必要だから。ああ——着いたよ」
低い平屋が並び、その合間に二階建ての小さな建物がちらほらある。小さな宿屋は窓の傍の黒い木の壁に看板を掲げていて、中には千鳥足で酔いつぶれた男の姿もちらりと見えた。小川のそばには公園があり、四、五人の子どもたちがはしゃいでいた。遠くに黒い影がゆっくりと上下しているのが見えて、目を細めてよく見ると、畑を耕している農民だった。トークに言われなければ、クラヤはきっと普通の村だと思っていただろう。
「それじゃ——お邪魔します」




