第56話 相違
「…………なんで、よりにもよって錆びたノコギリなんか………………」
自らの首をゴリゴリと削り落とさんとするフィローネに、レベッカは困惑の眼差しを向ける。オルゴのマントを斜め後ろからキュッと摘まみ、拠り所としていた。
「可能な限り苦しんで死ぬことを以て、多大なる畏怖敬服の限りを示さんとしておるのだろう」
オルゴは眼下の惨状を無関心そうに眺めつつ答える。「だから何だという話ではあるがな」無慈悲の言を相手の頭上に浴びせかける。
そんな中、フィローネは激痛に喘ぎ悶えつつも、一心不乱に鋸挽きに没頭し続ける。欠け錆びたボロの鋸では上皮こそ破くことは出来ても、首周りの強靭な筋繊維に到達してからというもの一向に刃が進まず、ささやかな流血を伴いつつ申し訳程度に肉を抉るのみであった。
「本ッ当に情けない奴だよねお前は。心底から軽蔑せざるを得ないよ」
またも、彼にしか聞こえない声に冷罵される。フィローネは鋸挽きを中断し、斜め右下のあたりを向く。やはり何人もそこには存在していないのに、冷罵は淡々と紡がれる。
「さんざ威張り散らしながら啖呵切ってやがったくせに、いざ死地に追い込まれるとションボリしながら自害決め込むんだもんな。手に取った凶器を歯向かうために使ってやれだなんて、脳裏をよぎることもしないんだ。――お前からは意志めいたものを感じられないんだよ。野良畜生のごとく、その時に受けた刺激に対して衝動的に反応しているようにしか見えないのさ。――イラッとすることがあったからクーデターを起こし、勝てないと悟ったから自害を試みる。寝たいから寝て、食べたいから食べるだけの野良畜生と、何がどう違うのか教えてくれよ」
「うるさい」
声を低くして呟く。されど冷罵が止むことはない。「お前がどこから間違えていたか教えてやろうか?」依然見えざる声が、聞いてもいないことを滔々と述べる。
「高貴さを諦めてからだよ。さぞ耳が痛かろうな。――お前はデスタルータ伯爵家の令息として世に生を受けたにも拘わらず、高貴さとは何たるか理解することを拒絶し、自分ではどうしたって体現できない『高貴』というものに対して、あろうことか全面的に否定し続けた。親を兄を、斜に構えて内心見下し続けた。――その後はどうした? 高貴さとは別に、『斯くあるべき』という人生の指針を自ら模索したか? オルゴ・デスタルータが高貴さを追求する傍ら、吸血鬼的な上位存在を標榜していたように。――しなかったんだよな、お前は」
「知った風な口を利くな」
呟く声に熱を帯び始める。されど冷罵が止むことはない。淡々とした声色で詰られ続ける。
「お前は伯爵令息としての矜持を養うことを拒絶し、にも拘わらずたびたび城下に繰り出しては、高位なる身分を盾に領民らを罵倒して回っていた。お前は病床に伏せる母親を見舞いに行くことはしないのに、頻繁に従者を引き連れてはハンティング遊びに明け暮れていた。――家訓も家族愛もマトモに履行したがらないくせに、家柄に付帯した高位なる身分にかまけることには一切の躊躇がない。その矛盾を頭の片隅では承知しているくせに、お前はどちらか片方を選ぶことをついぞしなかった。伯爵令息としての責務を全うするとも、伯爵令息としての権利を完全に放棄するとも、お前は一向に決断しないままだった」
「……黙れと言ってるんだよ」
切に願うも、冷罵が止むことはない。
「どっちつかずの状況に甘んじているだけの日々。そんなんで意志決定力が鍛えられるわけがないよな。自明中の自明だよ。――結果、意志なきお前は衝動でしか行動を起こすことが出来ず、傍から見れば目も当てられない。なんと稚拙な奴なんだろうと呆れ果てられ、舐められ、そんなだから平民風情に片目を奪われてしまうし、ちょっと威圧されただけで生きる意志を失ってしまうし、――【脳縛の禁術】なんかに、いとも容易く食われちまうんだよな」
「うるさいんだよ!」
いよいよ辛抱の限界、フィローネは絶叫しつつノコギリを放り捨てる。斜め右下、声のする方に両手を突っ込み、刃物の山を手当たり次第にひっくり返す。それに際して両腕がズタズタに引き裂かれてしまうことなど歯牙にもかけない。
「偉そうに高説を垂れるな! 衝動的に生きて何が悪い! 知性だの品性だのを必死に守り抜こうとする方がよほど滑稽だとなぜ分からない! 体裁だけ取り繕った洞のごとく空虚な支配者を標榜するくらいなら、僕は野良畜生の道の方が数段マシだ! 僕は誰からの指導も受けない、誰からの教育にも左右されない! 何人たりとも絶対不干渉の精神的領域すなわち、本能こそが僕の中核であり、唯一にして無二の教典なのだ!――姿を現せ無礼者! 我が生き様にケチをつけるのは誰そ彼なるか!」
ヒタと、フィローネは何かひんやりとした柔らかい感触を手の平に感じる。およそ凶器のそれとは似ても似つかない。
これだと確信して、一息に抜き取る。手に握られているのは、人間時代のフィローネ・デスタルータの頭部の上半分であった。――脳髄の肥大化に伴って切り離し、もはや不要であると足元に捨て置いた物。両目とも零れ落ち、凄惨極まる。レベッカは口元を抑え絶句している。
フィローネはしばらくそれと向き合っていた。――が、何を思ったかもう片方の手で適当なナイフを手に取り、おもむろに触手状の脳髄袋を二本ほど根元から断ち切る。地に落ちた袋の口からは、薄ピンク色のゲル状の脳髄が流れ出す。
そして、触手を剪定したことにより空いたスペースに、頭部の上半分をググッと押し当てる。帽子でも被るように両手で。――依然としていくつかの触手は生え残っているため、それらの根元部分が邪魔して完全には閉じ切らず、落ちぬよう両手で押さえつけ続ける。
「こうすれば分かってくれるだろう。僕がお前の弟、フィローネ・デスタルータであることを」
フィローネは引き攣った笑みを口元に貼り付けながら、懸命に懇願し始めた。
「脳みその化け物なんかじゃないんだよ。お前に似た顔の、デスタルータ伯爵家の次男なんだ。……だからさ、こんなことをしでかしといて言えた台詞じゃあないんだけど、僕のことは見逃してくれないかな。二度とお前やレベッカ・レオナルディの前には現れないと約束するからさ。……僕もまた被害者なんだよ。僕みたいな何の資質も持ち合わせないただの凡夫が、神のいたずらか伯爵家の令息として生を受けてしまい、その歪みがこの惨状を招いたと言っても過言ではないんだ。……死ぬのが怖いわけじゃない。ただお前がここで僕を自殺に追い込んで、僕がその通りに従ったとして、でもお前はきっと後悔するはずなんだよ。心優しいお前は、僕なんかの死ですら心を痛めるに相違ないんだ。……だから」
「ふざけないでください」
堪らず口を挟み、レベッカはオルゴの前に出る。紅蓮色の双眸を引き締め、憤怒のまま睨みつける。
「彼から両親を奪い、地位を奪い、故郷を奪い、……何をこの期に及んで命乞いなどするのですか。……どこまで人を小馬鹿にすれぱ気が済むのですか」
「善人ぶってるんじゃないよレベッカ・レオナルディ。禁術破りの大罪人が」
開き直ったフィローネは、上擦った声で戯言を垂れる。
「お前もきっと、僕と同じ境遇に立たされていたら、これと似たようなことをしでかしたに違いないんだ。――だって、お前は人を殺せる人間なんだからね。僕に操られていたとはいえ、お前はイゾラを焼き殺すにあたって何らの躊躇もしなかったんだからね。お前も僕も同じ大分類の貉なんだよ。偉そうな口を利くものじゃあない。鼻につくんだよ」
「――――――――ッ!」
憤怒のあまり声も出ない。歯噛み、両目を見開きつつ、レベッカは右の手の平をフィローネに差し向ける。
「もう喋らないでください! あなたは私が殺します! この汚れた手で完膚なきまでに!」「下がれ」と。
制され、レベッカは振り向く。オルゴは両腕を組んだまま、依然としてフィローネにのみ冷徹な眼差しを向けていた。
「……なぜですか?」困惑の表情に、彼女は苛立ちめいたものさえ滲ませる。「同情したのですか? 在りし日の面影を見せられただけで? 申し訳程度に弱音を吐いてみせただけで?……オルゴさんは、優しさと甘さとを履き違えるような人間ではないと思っていました」
「答えは変わっておらん」
言うと、オルゴは左手の人差し指を口内に突っ込み、根元から噛み千切る。手の平に落とし、握り潰しつつ、床一面の凶器の山を踏みながら二歩前に進む。レベッカより前に出る。
「イゾラの死は貴様のせいではないし、奴は奴自身に始末させる。それ以上でも以下でもない。――が、確かに一理ある。此奴は腐っても我が愚弟であり、脳髄の化け物ではないという点に関してはだ」
血に濡れた左の手の平を、フィローネに向かって突き出す。怯えた声で「何を」と問われるのを全面的に無視しつつ、
「【邪化の禁術】」と吐き捨てるように唱える。びっしりと塗りたくられた赤黒い血液が手の平で渦巻くように蠢き、魔法陣みた模様を即座に形成する。鮮やかな赤色に発光する。
手の平から赤みを帯びた旋風が吹き荒れる。フィローネの全身を包み込み、悲鳴する声も風の中に閉じ込められる。
その最中、フィローネの足元にボトボトと脳髄袋が落ちる。絶たれた根元が溶けたみたくなっている。――旋風が止む。
現れ出でたのは、癖のないブラウンの頭髪をサイドパートにした、端正な面構えの貴公子。左の眼球は抜け落ちて洞になっている。
在りし日のフィローネ・デスタルータ。怪物と化す前の。――彼はポカンとした表情で自分の頭やら額やらをグルグルと撫で回し、次いで足元の適当なナイフを拾い上げる。刀身に映る自らの姿を目の当たりにし、狂ったように高らかに笑った。
「これだ! これが僕の本当の姿なんだ! こんなにも痛ましく、こんなにも可哀そうな有り様! この僕に自害せよと凄むなんて、どっちが悪魔か分かりやしない! なあ、お前もそう思うだろ――――」と。
見上げる視線の先、見下げ果てた侮蔑の眼差しとかち合う。およそ憐憫の情からは程遠い。一言も発さずに。
フィローネは知らずのうち、最前の錆びたノコギリを手にしている。自らの首の片側に押し当て、さあ挽いてしまえと本能が迫る。
「……なんでだよ」
呟きつつ、片方だけの瞳孔を震わせる。
「どうして同情の一つもしないんだ。眉一つ動かさないんだ。……大量殺戮者だろうがなんだろうが、お前の弟なんだぞ? 分かっているのか? 父君も母君も失い、お前にとって唯一の肉親なんだぞ? どれだけ憎かろうが生かしておくべきじゃないのか? それが人情というものではないのか?」
オルゴは何も話さない。内心、「それがお前の渇望する姿なのだな」と失望に暮れている。両目を揃えるでも何らかの異能を獲得するでもなく、同情を誘ってこの場を凌ぐことしか頭にない卑屈さ兼、浅はかさにである。「行くぞレベッカ。ここにもう用はない」と踵を返し、戸惑い足踏みする彼女を半ば置き去りにしつつ、彼は足早に壇上を去ろうとする。彼が通る先のバラはドミノ倒しみたく自ら頽れ、主君のために道を空けると同時に花弁を床一面に散りばめ、ブラックカーペットとなった。
「血も涙もない化け物風情が! 誰がお前なんかに好意を寄せてくれるんだろうな!」
フィローネは首筋に突き立てたノコギリの歯をゆっくり挽きつつ、去るオルゴの背中に必死の形相で喚き立てる。
「お前に寄り集ってくる人間は例外なく、お前のカリスマ性に惹かれているだけなんだ! 本心からお前を好いてくれる人間なんて後にも先にも一人たりとも現れないんだよ! ご自慢の高貴さで馬鹿な女ばかり囲ってハーレムでも気取ってやがれってんだ!」
なおもオルゴは無言を貫く。かつて壁やら大扉やらがあった方に向かって、淡々と歩を進める。
「レベッカ・レオナルディは中古品だぞ! 僕が犯してやったからな!」
「えっ」
オルゴの後を小走りで追っていたレベッカが、青ざめつつ足を止める。フィローネの方に振り向く。
「反応がないのが残念だったが、実にいい具合だったよ! 今までに一度も使われたことのない体だったからな! やっぱり犯すなら初物に限るってんだよなあ!――せいぜいお前は弟のお古を楽しんでいればいい! いつも逆だったんだからたまにはいいだろうが! ハーッハッハッハ………………」
気品の欠片もない下卑た笑声が、謁見の間に轟き渡る。
「え、私………………」レベッカは自分自身の体を抱きしめるようにしつつ、両の瞳を潤ませる。声を震わせる。――そのようなことをされた記憶はない。しかし、ただ覚えていないだけだったら、記憶を抜かれているだけだったら――――――「全て死体だな」、と。
不意に挟まれるのはオルゴの声。彼は立ち止まり、謁見の間の隅に折り重なって打ち捨てられている、裸に剥かれた女の死体の方に視線を向けつつ、淡々と呟く。
「例外なく全員が、頭部を潰されて絶命しておる。生きた人間は、生きたまま行為に及んだであろう対象は、一人たりとも見当たらぬ」
半身に振り向き、笑みの引いた壇上のフィローネを睥睨する。
「極度の死体性愛者と見て相違ないのでは? あえて訳を問い質す気にもなれんがな」
ひとしきり言い終えると、オルゴはフィローネの反応を待たずして彼に背を向け、バラの園を突き進む。レベッカも一拍の後、「そういうことか」と合点し、フィローネをキッと睨んでからオルゴの後に続く。不謹慎ではありつつ、我が身の潔白は証明されたのだと。
「……………………せ、」何やら言いかけつつ、フィローネは声に怒気を含ませる。それからボルテージを一気に上げ、唾を飛ばしつつ彼らの背中に捲し立てた。
「せめてその女だけでも置いていけよ! そいつは僕がハンマーで頭をぶん殴りながら嬲り殺す予定だったんだよ! お前の望み通りに自害してやるんだから最後の楽しみくらい許してくれたっていいだろうが! 高貴ぶってやがるくせにクソ貧乏性で目も当てられない! なんでお前が生きて僕が死なないといけないのか理解に苦しむ! 口惜しい、ああ口惜しい! さっさと犯してやればよかったんだ!……毎夜のごとく化けて出てやる! 安らぎの時は二度と訪れぬと思え!」
が、言葉として吐き出せるのはそこまでである。次第次第に蓄積し増していく激痛に悶え喘ぎ、声にならない絶叫を上げ続けるので手一杯の身になってしまったからである。
「……息絶えるまで見届けなくていいんですか?」
レベッカはオルゴの背中に語りかける。「オルゴさんが去ってしまったら、彼の死ななきゃっていう気持ちも薄れてしまうのではと…………」
「有り得ぬ」オルゴは即座に断言する。歩みを止めない。「己が自害せよと命じたのだから奴は必ず自害を果たす。後は苦しんで死ぬも楽に死ぬも好きにすればいい。それだけのことだ」
「ですが…………」
言いかけて、止める。二人して立ち止まる。
前方で横たわりつつ道を塞ぐ、巨大な馬の怪物ことヴィオラ。未だ昏睡の最中にあり目覚めず、呼吸のみ活動していた。
「完膚なきまでに改造され、もはや普通には生きられぬだろう。……ここで終わらせてやるのがせめてもの情けか」
全身に生やされた無数の人間の頭部。背中に生やされた巨人の腕。――異形すなわち魔物。ここで放そうと適当な冒険者にでも仕留められ、そうでなければ何らかの生物的破綻を来して苦しみ悶えながら死んでいくだけだろうと。
オルゴは鈍色のレイピアを生成、ヴィオラの横っ腹に突き立てる。全身がみるみる萎んでいく。
余さず血を吸い尽くし、縮み果て干からびた真っ白い搾りカスのみ後に残る。オルゴは左手で口元を抑え、ゴポッと水気を含んだ咳を出す。抑えきれず噴き出した血が、瞬く間に塵と化して消えた。
「許せ。時間をかけて丁寧に食してやる状況でもないのだ。文句なら己が死んだ後にでも聞かせよ」
オルゴはレイピアを左手に持ち替え、右手で十字を切る。
「あの」とその背中に向かって、レベッカはオズオズと言いにくそうに尋ねる。「父と兄と、イゾラさんの妹さんは…………」磔にされたままの三人をチラと見つつ。
「直々に救出してやりたいところではあるが、あいにく己と貴様とはお尋ね者である。禁術破りの大罪人にして脱獄囚なのだ」
オルゴは腰に手を当て、後方斜め上の十字架を振り向く。
「此度の騒乱はいずれ外部に知れ渡る。さすれば周辺領土や王都から派兵が遣わされることになろう。あるいは事態の鎮圧のため、あるいは領土侵略のためにな。――それらの者と我々とが鉢合わせた日にはどうなる? デスタルータの地を壊滅に導いた諸悪の根源として、破格の冤罪を被ることになるかも知れぬのだ。そうなればいよいよ身動きが取りづらくなろう。――要は、連中がここに押し寄せて来る前に、我々はさっさと城から去ってしまうべきだという話だ。こうして足を止めている時間すら惜しいとでも言おうか」
「……じゃあ、せめて拘束だけでも」
「まあそう案ずるな。捨て置くつもりなどでは毛頭ないのだ」
レベッカは眉を顰めつつ首を傾げる。ちょうどその頃合いだった。
「ウッゼェなあ! またバラかよ! 前ン時のバラ園が赤から黒に変わっただけじゃねえか! 鬱陶しい茨、茨、茨! 傍迷惑な演出ばっかしやがってあンのミスター高貴様がよォ!」
前方より怒鳴り声。二人してそちらを向く。
肩にかかる程度の、内向きにカールした黒髪。およそ聖職者と思しきモノトーンの制服。オルゴに匹敵するほどの長身が頭から爪先まで返り血まみれ。――右手にはどこかから拾ってきたであろう、特にこれといった変哲のない剣を握り、力任せに振り回していた。バラの園を切り開き進むべく。
「……誰ですか? 聖職者の方?」問う声色が怪訝を極める。彼女と神官ネロ・ヌボラとが相まみえるのは、此度の場が初であった。
「ようやっと来たか。アレが頼みの綱だ。――職業柄か個人的思想からか、とかく我ら禁術破りを目の敵にしておる者だが、奴くらいしか適役が存在せぬというのも事実だ」
オルゴはパチンと指鳴らし。彼とネロとの間に生えていたバラが一直線上に頽れ、道が出来る。
「あ?」とネロは訝しみつつ、伐採を中断しバラの道の先を目で追う。途中、ヴィオラが横たわっていた兼ね合いでバラの生え方がまばらのエリアがあり、その更に先にオルゴとレベッカとが横並びであるのを発見した。
「よくぞ生き延びたな。刃物の雨あられをどう凌いだ」の問いに対し、
「建物ン中に逃げ込めば楽勝だろ。つまんねーこと聞くなよ」と答える。右肩に剣を担ぎつつ、大股でバラのカーペットの上を進む。途中、絶叫しながらノコギリを挽いているフィローネを見上げ、「諸悪の根源が自害遊ばせてんじゃねーの。気でも狂ったのか?」と尋ねる。
「己が命じた。――放っておけばそのうち死ぬから、貴様が仕留めたりする必要はない」
その代わりにと言っては何だが――――とオルゴは、粗末な木材で組まれた十字架を顎先で示す。「貴様はあそこの三人衆を救助してやってくれ。我々は可及的速やかに去らねばならんのでな」
「簡単に言ってくれるよなぁ。磔刑っつったら極刑が常なわけで、安全に解放しようと思ったら骨が折れるんだよなぁ」ネロは溜め息交じりにぼやく。「……下ろすくらいはテメーの方でしてくれたっていいんじゃねえの? こちとらさんざ暴れ回ってクタクタだっつーのによ」落ちた肩やら弛んだ表情筋やら、随所から疲労困憊が滲み出していた。
「……見逃しては下さるのですか?」
オルゴの後ろに隠れつつ、レベッカは口を挟む。「私たち、その、……大罪人なのに」
ネロは彼らの前に立ち、レベッカを見下ろす。片目だけ残して身を引っ込める彼女に対し、「ケッ」と悪態しつつ、グルリと迂回しながら壇上へと歩を進める。
「ド勘違いしてんじゃねーよ巨乳チビ。テメーらとじゃ分が悪いから従ってやるだけだ。姉様の命も握られてることだしな。――さっさ去ねよ。そんで二度とアタシらの前に姿現すな」
「断る」とオルゴに即答され、ネロは思わずつんのめる。「あンでだよ。なんでもかんでも否定すりゃいいってもんじゃねえだろ」
「貴様らの教会堂にはベルン・シュバルツを預けておるのだ。――奴の今後について、近日中にでも話し合いに参るという意味だ。明日明後日のことではなかろうがな」
「ああ、そういうこと。……茶は出さねーから期待すんなよ」
「願い下げだ。今しがた貴様ら一派の生産物のせいで、散々な目に遭わされたばかりなのだからな」
ネロはもはやマトモに応対する気力もなく、「そうかよ」とだけ呟き、再び壇上に向かって歩き出す。
「行くぞ」とオルゴも真反対に向かって歩き出す。十歩もしないうちに「オルゴさん」と呼び止められ、「先を急ぐと言っておろうが」と半ば苛立ち気味に振り向く。「何をこれ以上話すことがあるのだ…………」
真正面からの抱擁。小さい体躯で、ほぼしがみつく形といったような。出せる力の限り。――甲冑の胴に顔を埋め、ハットが落ちるのも構わず、しきりにしゃくりあげる。
「……最前まで平気そうにしておったではないか。恐怖やら安堵やらをようやく自覚したか?」
オルゴは右の手でレベッカの狭い肩を掴み、「だが時と場合とは考えねばならぬ」と引きはがそうとする。「仮にも仇敵の前でそのような泣き姿など」
「ごめんなさい」
絞り出すように呟く弱弱しい声色に、引きはがそうとする手が止まる。謝罪? 何を謝罪することが?
「命がけで私を救い出そうとしてくれるあなたに火を放ち、恩を仇で返してしまい、……こんなどうしようもない私ですみません。携帯食料風情が、自力で洗脳から脱することも出来ず…………いっ、イゾラさんはそれをやってのけたのに、私の意志が弱いばかりに…………」
つっかえつつ、次第次第に声が震え、しまいには鼻水を啜りつつヒックとえづくのみになってしまう。
オルゴはハァと溜め息。「世話の焼ける携帯食料だ」とぼやきつつ、レベッカの胴回りを片手で掴み上げ、小動物でも扱うようにそのまま自らの右肩に乗せる。「喫緊の課題は此奴のメンタルケアか」など呟きながら踵を返す。
「ああそうだ! 悪いのは全部お前なんだよ!」
と、先ほどまでひたすら悲鳴に徹底していただけのフィローネが、ここぞとばかり大声を張り上げる。何ら戦略性の伴わない、ただ相手を精神的に追い詰めてやろうというだけの魂胆で、腹いせ式に捲し立てる。
「恩を仇で返したのも、身動きの取れない人間を生きたまま一方的に火炙りにしたのも、全部お前が実行犯なんだ! お前が手を下したんだ! 僕が命令したかどうかなんて関係ないんだ! 嫌な命令だったら拒否すればいいだけの話だったんだ! 現にイゾラは僕の命令を無視し、自分自身の信念を貫かんとしていたじゃないか! つまりお前のしでかしたことの全ては、お前自身の意志の弱さのせいなんだよ! 一生かけて後悔し続けやがれ、この被害者ぶった人殺しの気狂い女が……………………」
最後の最後で、彼の語勢は急速的に尻すぼみになる。
半身に振り向いたオルゴの、紅蓮色の双眸が睨まれたせいであった。――それだけで彼はもう、レベッカに対して声を荒げることが出来なくなり、首筋をノコギリで挽く手も止まる。筋繊維が幾分か断ち切れた程度までしか進んでいない刃を首筋から外し、――彼自身の意思とは無関係に体が動き、刃を頭頂部と側頭部の間あたりに突き立てる。
「嘘だろ?」フィローネは右目を見開きつつ、ゴリゴリと頭皮を削り始める。顔の左半分が、そこから噴き出し垂れた血で赤く染められていく。
絶叫。これまでの一部始終の中で、最もけたたましい――瞳がグリンと上に向き、白目を剥いて意識を失いそうになるのを、砕けるほど歯軋りしながら懇願する。
「いやだ! それだけはやめろ! 絶命するその瞬間まで僕から思考を奪うな! 脳を奪うな! この脳さえあればここからでもひっくり返せるんだ! 脳だけが取り柄なんだ! この脳に僕の功績の全てが詰まっているんだ! だから脳だけは」
「嫌なら抵抗すれば良いのでは?」
立ち止まりはする。振り返りはしない。――してやったりという顔をするでもなく、マントをはためかせながら遠ざかっていく。
フィローネの絶叫は数時間に及ぶ。ネロはその間に磔の三人衆を解放し、二頭の馬に分乗してデスタルータの領地から去り、――彼は誰から見届けられることもなく、切断した頭蓋骨から脳髄を撒き散らしながら息絶えた。
いつもご愛読いただきありがとうございます!
仇敵フィローネ・デスタルータを撃破し、次話のエピローグを以て第一部の締め括りとさせていただきます。もうしばらくお楽しみくださいませ。




