第41話 危機的状況
干からびた廃水路の底に、血痕が転々と続いている。ロングソードで滅多切りにされたオルゴが、命からがら逃げ惑った軌跡である。
黒髪の神官、ネロ・ヌボラが、その軌跡を辿っていく。血痕は一向に途絶えず、彼女はかなりの距離を歩かされた。
「再生能力が枯渇して傷口が塞がらねーのか? ほっときゃ勝手に死にそーだな。……いや、それとも」
ブツブツ呟きつつ、ネロはふいに立ち止まる。行き止まりに差し掛かっていた。
聳え立つ石の壁。広大な廃水路を端から端まで完全に塞いでいる。――十メートル以上はあろう、石材のうずたかく積み上げられた壁の上には隙間があり、禽獣の鳴き声や物音がそこから通じている。――現役の水路と廃水路とを分断する、そこは境目にあたる地点であった。
すなわち水辺である。空気は湿っぽく、水溜りが散見され、ネズミやハエなどの小型生物も数多く見られた。ネロは不愉快さから顔面をしかめつつ、右手に持ったロングソードを安易に振りかざさぬよう自制するので手一杯だった。無暗な殺生は聖職者に許されていないからである。
今、一匹のコウモリが、ネロの斜め後方より飛翔してくる。狙いは首元。矢のように急接近し大口を開く――が、振り向きざまの薙ぎ払いにあえなく両断され、屍肉となって打ち捨てられる。すかさずドブネズミが死体を漁りに駆けつける。
ネロは地面に散らばるコウモリの死骸を、何とはなしに睥睨する。死骸は落下して間もなく黒い砂埃となって霧散し、ドブネズミの取り分は欠片すら残らなかった。
普通のコウモリの死にざまではない。魔物のそれであった。
「………………」
ネロは左手にぶら下げていたものを無造作に放り投げ、ロングソードを右肩に担ぐ。
キ-キ-と甲高い鳴き声が閉鎖空間に響き渡り、顔を上げると、目測百匹程度のコウモリの群れが彼女めがけて、一直線に飛び掛かっている。先住民にとってもそのような状況はイレギュラーであったらしく、パニック状態に陥ったゴキブリやらネズミやらが、廃水路の底をせわしなく駆けずり回っていた。
「なんせ地下水路なんだ。コウモリの魔物が百匹や二百匹ぐらいタムロしてようが大しておかしくもねーけど、――吸血鬼を相手にしてる時なら、ヤク中みてーに勘繰っちまうよな」
ネロは左手を開いてコウモリの群れに突き出し、
「【灰燼と化す怪火】、八連」と唱える。
途端、手の平から弾けるように火炎が炸裂し、点火と消火を八回ずつ繰り返す。コウモリが逃げる方向に随時追従しつつ放ち、一匹残らず塵となり、煙の臭いだけが充満していた。
いつからそこに立っていたのだろうか。
彼女の眼前二十メートルほど先に、オルゴが仁王立ちである。顔面の左半分が血にまみれ、衣服もところどころ破れたままになっており、負傷が目立っていた。右手に持つ黒剣の剣先が、気だるげに地面に触れていた。
「あの手この手でアタシから吸血してアド取ろうって魂胆なら、まあ無駄なことだよ。ド雑魚の姑息戦法が通用する相手じゃねーし」
「たかがコウモリごときに攻撃魔法を八連発していたな。威張り散らしたその態度は小心者ゆえというわけか」
ネロはロングソードで右肩をトントン叩きつつ睨み、瞑目しながらわざとらしく溜め息をつく。
「皮肉のキレ悪すぎ。何でもいーから時間稼ぎしたがってんのがバレバレ。――大方、逃げるフリしてアタシを引きつけて、このドン詰まりスポットで駄弁りながら、姉様にコウモリだかなんだか差し向けて狩ろうって魂胆だろ」
無駄なことだぜ。
悪態しつつ、心底呆れた表情をオルゴに差し向ける。
「詠唱中は無防備に違いないってー凡百の発想は、あの偉大なる姉様を相手にするにあたって、いの一番に捨てるべきだったわけだよ。――只今の姉様がその全身に纏っておいでになる、神聖無比のオーラに当てられた日にゃ、聖人君子ですら己の不浄さに絶望して自害しちまうほどだぜ。邪の手先は近寄る間もなく霧散しちまうわな」
「誰がこの己の魂胆を見透かせようか。知った風な口を利くたびに恥を上塗りすることになるのだと心得よ。神官の格が下がるぞ」
ネロは反応という反応を示さない。ロングソードで右肩をトントンしつつ冷ややかな視線を送り、「大人げねーけど、魔物だもんな」と呟きながら、無防備にも背を向け、先ほど放り投げたものを持ってくる。オルゴの足元に打ち捨てる。
それは彼が最前まで杖代わりに突いていた、漆黒の傘であった。――ビアンコと会敵して程なく手放し、その場に放置していたはずのものが、ネロによって持ち去られていた。
「姉様のすぐ近くに置きっぱだったよなァ。――どーせ何かしらのギミックだったんだろ? まあどんな風に使うつもりだったかはサッパリだけどよ、回収しちまえば終いだもんな」
実際のところ、確かに彼はその畳まれた傘を、布石のつもりで設置していた。
血液から造り出した黒傘をBBに変形し、遠隔でビアンコに攻撃するであったり、溶かして血溜まりに戻しつつブラッドアクセスで奇襲するなどを目論んでいた。
オルゴは黒剣の剣先で、傘の柄の部分を突く。傘が収縮していくに伴って衣服の破れが修復していき、傘が完全に消滅する頃には幾分か傷口も塞がり、手甲で顔面に付いた血を拭っても新たに垂れてくることはなかった。
「流石は聖職者というわけか。正々堂々を標榜するだけあって、敵に塩を送ることが趣味らしい」
嘲笑するオルゴに対し、ネロはハッと侮蔑する。
「余裕綽々カスが。負け犬の遠吠えも延々聞かされてっとイライラすんだよ。身の振り方弁えろや」
しかし悪態する割には、彼女は特段、剣先をオルゴに向けるなどしない。語らせるだけ語らせている――どういうことか。
有り体に言って、彼女は当該戦局に対し、あまり興味を持てずにいた。――逃げ足だけは一丁前で、そのくせ斬りつけた傍から再生する吸血鬼を相手に、張り切って退治してやろうという意欲が失せており、半ば対戦を放棄していた。
その背後、ズルズルと忍び寄る血溜まりがある。幅一メートルに満たない程度の赤黒い楕円が、意思を持った生き物のように蠢いている。
オルゴが道中で垂らした血痕が、寄って集って一塊になったものである。――その瞬間まで勘付かれぬようにと息を殺しつつ、淡々と機を窺っていた。
「ダンマリ決め込んでんじゃねーよ、姑息カス」
暫し会話を切って血溜まりの操縦に勤しんでいたオルゴに痛罵する。寄ってくるハエを左手で払いつつ。
「インテリぶった皮肉屋のお前に凶報だけどよ、どーせ今この瞬間も何かしら企ててやがるってのはお見通しなんだよ。――アタシはお世辞にも頭が良い方じゃねえけど、馬鹿力と直感に関しては右に出る者がいねーんだって。インテリが頑張ってシコシコ工作しようが通用しねーの。分かる?」
あえて置き去りにした黒傘も、コウモリがオルゴの手先であったことも、彼女は実際、ほとんど直感だけで見抜いていた。――背後から忍び寄る血溜まりも、恐らくは時間の問題で。
意識を後方に向けさせてはならない。
「聞くまいか悩んでいたのだが、」
自らの唇の端に左手の人差し指を宛てがい、無愛想に問う。
「貴様ら姉妹は口角に縦の刀傷が入っているな。示し合わせたごとく左右対称に。なぜだ?」
ネロは右肩をロングソードで叩くのを止める。少なからず反応は示しているようであった。
「何かしらの作為がなければそのような一致は有り得んだろう。何者かに二人纏めて刻まれたか? あるいはいずれか片方が傷を負った時に、もう片方が慰めのためか何か知らんが自ら傷つけたか? だとしたら大した覚悟だ。――つい先日、己は腹を刺されて瀕死に陥った小娘に我が血を分けてやり、蘇らせてやったのだが、そういうことなら貴様らにもくれてやろうか? 涙ぐましい姉妹愛に敬意を表して」
ネロは右手に持ったロングソードを、左から右に横薙ぎに振るった。二十メートル先のオルゴの頭部が横一文字に両断され、切り離された上顎側が後方に吹き飛んだ。
「魔物風情が知った風な口を利くな」
顔を伏せ、後頭部を掻くネロの声色は、静かながらも確実に怒気を帯びていた。
「慈悲を騙るな。姉妹愛を語るな。……魔物風情が、真心を模倣するな。不愉快なんだよ」
地に落ちた頭部の上半分が塵と化し、それと同時に下半分の断面からモゾモゾと再生する。頭蓋骨、筋肉、脂肪、皮膚、頭髪と同時進行的に構成されていき、左右の眼球が別々に動作する。焦点を合わせあぐねる。
空間伝いに切り裂く斬撃。避ける間もなく両断された。――黒剣の柄を握る手の平に、僅かながら冷や汗が滲み出していた。相手の力量を完全に見誤っていた。
ネロはロングソードを斜め上に振りかぶる。あのような斬撃を連発されてはいよいよ無事では済むまいと判断し、オルゴは頭部が完全再生するや否や、左手を前方に突き出した。
「顕現!」
号令を聞きつけた筋骨隆々の赤黒い巨人が、ネロの背後の血溜まりから飛び上がりつつ姿を現す。勢いそのまま大木のごとく右腕を振り上げ、前のめりに距離を詰めつつネロを強襲する。顕現した地点がターゲットからやや離れていたため、攻撃まで若干のラグが生じてしまう。
ネロはすかさず振り向くが、その頃にはBBの拳が眼前まで迫っている。振り上げたままのロングソードを両手で握り直し、刀身で拳を受け止めるつもりで構える。半歩引いて重心を低くし、受けの体勢に転じる。
「やっぱり仕組んでやがったな、インテリカスが!」
ネロは怒声し、BBは怨嗟のごとく不気味な咆哮を上げる。そこへオルゴも黒剣片手に加わり、ネロの背後に急接近しつつBBとの挟撃を目論む。
その刹那、二つのことが同時に起きた。
まず、その場に居ないはずのビアンコが「厳冬」と囁くのが、それぞれの耳に聞こえた。
そして二つ目だが、BBは全身が、オルゴは両足が氷漬けになり、主従揃ってその場に固定されてしまった。
「【アッシュフレア】!」
オルゴは足元に向かって左手を突き出し、火の魔法を唱える。しかし手の平から表出するのは緑色の炎であり、熱を帯びておらず、氷の浸食を食い止められない。膝上まで氷漬けになり、徐々に身動きが取れなくなっていくのを、どうすることも出来なかった。
ネロは左耳に手をかざし、「祝詞が聞こえねー」と独り言する。最前まで遠巻きからうっすらと聞こえていたビアンコの賛歌は、いつの間にか止んでいた。
「『厳冬』って囁いてたのは姉様の声。氷漬けになったのは吸血鬼とその眷属で、アタシには何もナシ。――ってことは、一連のあーだこーだはシンプルに姉様の仕業ってことだろ。やっとこさ準備が完了したってわけだよ」なっ、と掛け声しつつ、氷漬けのBBを蹴り飛ばして仰向けに倒す。
ロングソードを逆手持ちし、顔面と胸部とを立て続けに突く。氷は砕け、肉体は黒い塵と化して宙に霧散した。
「主は申されました」
温度の感じられない透き通るような声が、遙か上空から降ってくる。一同の視線はそこへと差し向けられる。
聳え立つ石材の壁を背にしつつ、地上十メートルほどの座標にビアンコが浮遊していた。——金で装飾された儀式用の剣を胸の前で構え、天を突くようにし、空いた左手は悠々と背中に回し、——煌々と輝く二重丸状の光輪が、首の付け根あたりを中心に膝下まで広がっていた。
「『太陽のごとく遥か高みに立ち、死の冬に新緑をもたらしたまえ』と」
粛々と紡がれるその啓示の意味するところも、彼女がどのようにして出現し、浮遊し、後光を背負っているのかも、全てオルゴの理解の範疇を超えていた。
ただ、訳も分からないまま心臓が早鐘を打ち、急速に喉が渇いていくのを感じていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
◆ザンナ王国――オルゴとレベッカの母国
◆スヴァルカ王国――ザンナの南に位置する隣国
◆アンビエンテ――スヴァルガ国の辺境都市
◆ブジアの村――スヴァルガ国辺境の貧しい村
これまでのあらすじ。
〇オルゴの画策がことごとく打ち破られる。
〇ビアンコの祝詞が止む。
高貴なる吸血鬼オルゴ・デスタルータと、マイペースな少女レベッカ・レオナルディの凸凹コンビを、これからもよろしくお願いします!
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