第39話 戦略的撤退
ベルンの嗅覚を頼りに、ひたすら人間のニオイがしない方へと逃亡し続けた末に、二人はレンガ造りの橋の下に行き着いた。雑多に樽や木箱などほったらかしにされた日陰をネズミが横切る。喧騒が遠くに聞こえていた。
オルゴは小脇に抱えていたベルンを地面に下ろす。ベルンはただ運ばれていただけではあるものの、膝に手を突き呼吸を荒くしていた。オルゴをここまで案内するのに幾度となく声を張り上げていたのと、横切る市民らのことごとくから殺意を向けられ続け、長らく緊張状態に晒され続けていたからであった。
「付近で最も近い人間との距離は?」
背を向けて立つオルゴに尋ねられ、ベルンはドレスの胸元のリボンを息苦しそうに握り締めつつ、スンスンと外気を嗅いでから答えた。
「500メートルはあるかと……ですが、どの人も動きが忙しないです。私たちを探すのに躍起になっている感じで……ここが見つかるのも、時間の問題かと」
「平時であれば貴様に問わずとも、吸血鬼の力で人間の居所や挙動など、容易に把握できるのだがな」
依然背を向けたまま、独り言のように呟く。「弱体化しておるのだ。日光を浴びすぎたばかりに」
ベルンは静かに瞠目する。ここへ来てようやく明かされるオルゴの正体。人ではないと思っていたが、吸血鬼だったとは――つまり、夜な夜なレベッカが彼の寝床に通っていたのは、血を献上するためだったのか――など、一人で合点していた。
「貴様をアンビエンテの教会に預けるという話だったが、あれは撤回する」
至極当然だな、というのがベルンの感想だった。
吸血鬼の仲間だと見なされ、殺してやるとまで言われ、この町で自分が平穏に暮らせるわけがない。――ひたすら命を狙われ続け、それを独力で迎撃し得る術も持たない自分は、彼にとって足手まといに他ならないのだ。
エプロンドレスの襟を引っ張り、首元を露わにする。
「デスタルータさんには、命を救っていただいた恩があります。……血が足りないということでしたから、余さず吸いつくしてくださって構いません」
私の命に代えてでも、どうかレオナルディさんを助けてあげてください――と、その表情は半分ほど恐怖に染まりつつも、琥珀色の瞳は決意に満ち満ちていた。
「殊勝な心掛けだが、不要だ。貴様にはまだ役目がある」
「……役目?」とベルンは怪訝な顔をする。食料としての役目以外に、今の自分が務まる仕事などあるのだろうか。
「この己から携帯食料を奪い去った愚か者を、貴様の嗅覚で探り当て殺すのだ。やってくれるな?」
オルゴはこの段になって、ようやく半身に振り向いた。
影の落ち、薄暗く染められた全身に、金色の双眸だけが煌々としていた。
爬虫類を思わせる、温度の感じられない瞳をしていた。――ベルンは両膝がにわかに震え出すのを感じながら、「……はい。喜んで助力させていただきます」と頷くほかなかった。
そうしていると、遠くで騒ぎのする声が、段々と近付いてきている。長話している場合ではないとオルゴはマントを翻しつつベルンに背を向け、
「ひとまず貴様はそこの樽なり木箱なりに隠れていろ。脱出経路が見つかりしだい召喚する」
と告げる。黒傘を生成し、展開しながら日向に踏み出した。駆ける素早さは常人のそれを圧倒的に凌ぎつつも、彼のフルパワーでは全然なかった。
「…………………………」
その後ろ姿を、橋の上から黙々と眺めている人物が一人。
ベルンが嗅ぎつけることが出来なかったのも無理はない。その人物はほぼ完全に風景に紛れていたのだ――姿も、体臭も、発する音も何もかも、他者から観測できないようになっていた。
「こっからじゃ追いつけねーな。――ま、ゆっくり狩りゃいいよな。どうせアンビエンテからは出られねーんだし」
黒髪の神官、ネロ・ヌボラは呟きつつ、橋から飛び降りる。石畳が巨躯に踏みつけられると同時に、相応の鈍い音がしたはずだが、何人もそれを観測し得なかった。
振り向くと、ベルンが木箱の山をせっせと物色しつつ、自分の体が収まるものを探していた。
「……ま、ほっときゃそのうち見つかって殺されンだろ。無視無視」
姿の見えない彼女は、鞘入りのロングソードで右肩をトントンと叩きつつ、緩慢な歩調でオルゴの後を追った。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
◆ザンナ王国――オルゴとレベッカの母国
◆スヴァルカ王国――ザンナの南に位置する隣国
◆アンビエンテ――スヴァルガ国の辺境都市
◆ブジアの村――スヴァルガ国辺境の貧しい村
これまでのあらすじ。
〇橋の下に逃げ込み、ベルンを隠す。
〇脱出経路を探すべく単身繰り出す。
〇ネロの手が迫る。
高貴なる吸血鬼オルゴ・デスタルータと、マイペースな少女レベッカ・レオナルディの凸凹コンビを、これからもよろしくお願いします!
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