8章 声よ、越えていけ!
布団から出るのが億劫な季節になってきた。
ミハルは羽毛布団にくるまりながら、スマホの画面を見つめていた。
今日も、武琉からの連絡はない。
あの農高祭の夜を境に、何の連絡も来なくなった。
いや、違うか。その少し前から、俺たちはもう連絡を取ってなかったんだった……。
武琉は、本当にもう逢わないつもりなのだろうか。
どうしたら良いのだろう。好きなだけじゃ、どうしてダメなんだろう。お互いを好きだって分かったのに、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
普通の男女だったら、今頃付き合えていたのかな……。
どうして俺は、男として生まれてきたんだろう。
今まで、男であることをこんなにも悔やんだことはなかった。
俺が好きにならなければ、武琉はあんなふうに苦しまなくて済んだのかな。
こんなふうになるなら、好きなんて言わなきゃ良かった。
今さらそんなこと思っても遅いのに、どうすれば良かったのかを探してしまう。
あれから一ヶ月が経った。それなのに、俺はまだウジウジと考えてしまう……。
女々しい自分が嫌になる。でも、それでも考えてしまう。どうしても、止まらない。
少し前に、サザンカの花が綺麗だったので、写真に撮って送った。
最初の頃は「元気?」とか「会いたいな」とか送っていた。でもそれも、なんかうざい奴だと思ってやめた。
それでも、何か一つでも繋がっていたくて、花を撮って送るようになった。
サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ」だった。
ミハルは誕生日に母からもらった『花言葉』の本で知った。
ハルジオンは「追想の愛」。
思わず、小さく笑ってしまった。
武琉はこの花を見ると「俺を思い出す」と言ってくれた。
嬉しかった。
でもそれは、そんな花言葉があるとは知らなかったからこそ、素直に言えた言葉なのかもしれない。
武琉はきっと、花言葉なんて知らない。
それでも、ミハルはその花言葉に想いを託したかった。
昨日見かけた黄色い水仙には、「もう一度愛してほしい」とあった。
少し恥ずかしいけれど、今日はこれを送ろうと思っていた。
まだ朝は早い。
武琉が登校する時間を思い浮かべながら、ミハルはスマホを握りしめて、布団から出た。
部屋の植物を見る。
「おはよう」
いつものように植物たちに何気なく挨拶をしてから、洗面所へと向かった。
「おはよう!」
母は朝から元気そうだ。
いつものようにキッチンで、慌ただしく朝の準備をしていた。
「おはよう」
ミハルは平然を装いながら返事をした。
洗面台の前で立ち止まり、蛇口をひねる。
冷たい。
一気に目が覚める。
ミハルは顔をそっと洗った。
「ふ〜っ」
大きく息を吐き、タオルで顔を拭く。
鏡に映る自分の顔をじっと見た。
この歳になっても、髭剃りというものをしたことがない。
もし俺が女装したら、武琉は付き合ってくれるのだろうか……。
馬鹿なことを考えてる自分に、笑ってしまう。
そういうことじゃないよな。
そんなことまで考えてしまう自分が嫌になる。
少し前までは、そのままの自分を受け入れてもらいたかったはずなのに。
そう思った瞬間、ミハルの鼻が赤くなってジーンとした。
「あ〜もう!!」
ミハルはもう一度蛇口をひねった。
泣きたくないのに、涙が出てくる。
本当に嫌になる。
ミハルは水の音に紛れるように、泣いた。
いつまでこんなことをしてるんだろう。
心底、嫌になる。
洗面所から出てリビングを通ると、母に話しかけられた。
「そういえば、結局進路相談どうなった?」
「あ〜、やっぱり大学行こうかと思ってるけど、いい?」
「もちろん」
「なんか……九州の方にも造園関連の大学があるらしいんだけど……」
「え〜、遠いじゃない。どうしたの? 突然」
「いや、色々見てたら、そういうところでも良いのかなって」
「……ん〜」
母親はじっとミハルを見た。
「な、なに?」
「……それは、そこでしか学べない『何か』があるからよね?」
「……いや、まぁ、まだ決めたわけじゃなくて、そういうところもありかなって思っただけで。ほら、そうなったら一人暮らしとかになるし……一応、それでも良いか聞いとこうと思って……」
ミハルは焦りながら答えた。
母は少しだけ笑った。
「まぁでも、どっちにしても一人暮らしの確率のほうが高いでしょ? この辺にミハルが行きたそうな大学、ないし」
「まぁ、そっか」
「ミハルの好きにしなさいよ。ミハルがちゃんと選ぶなら、母さんは何も言わないよ」
「ありがとう」
「……それと、手を貸して欲しいことがあったら言いなさいよ。母さんは、いつだってミハルの味方だからね」
その母の優しさが沁みて、ミハルはちょっと泣きそうになった。
「……うん。ありがとう」
「ご飯出来てるよ」
「うん。着替えてくる」
ミハルはそれに気付かれないように、自分の部屋へと急いだ。
母は気付いているのだろう。
ここ最近、俺の元気がない理由を……。
このまま武琉に逢えないなら、いっそ遠くの大学に行った方が楽かもしれない。
ミハルはそう思っていた。
武琉は、このままずっと連絡をくれないままなのかな……。
そう思っていた頃、武琉もまた、布団の中から出られずにいた。
武琉は今日も、中々布団の中から出られずにいた。
あれから一ヶ月……。何もしたくない……。何もやる気になれない……。
「兄ちゃん! 良い加減起きなよ!! 遅刻するよ!」
「あ~。うん」
美咲が部屋に入って来て、布団を剥ぐ。
「やめろよ~」
「もう! 今日も朝ごはん食べないの?」
「ダイエットだよ。ダイエット」
「あんまり痩せすぎないでよ!」
「そこまで痩せてね~し」
「そうだけど、このまま食べないとそうなるよ」
「食べてるし」
「嘘つけ! 最近兄ちゃん変だよ。何かあったの?」
「別に。寒いし、進路考えないといけないし、高校生は色々大変なんだよ~」
「ふ~ん。それなら良いけど、母ちゃんも心配してるよ」
「うん……今日は食べて行くよ」
「そうしなさい!」
美咲はバタバタとリビングへと戻っていった。
武琉はゆっくりと起き上がって、部屋を出た。
洗面所に行って、お湯を出し、ぼんやりと顔を洗う。
武琉は、父からの誕生日プレゼントで貰った、電動髭剃りを取り出した。
ぐい~んと言う電子音に、じょりじょりと髭が剃られていく音が響く。
ぼーっとしながら髭を剃る。
ミハルは髭生えてんのかな……。
ミハルの綺麗な顔を思い出す。
まだなさそうだなぁ……。
武琉はふっと笑った。
自分から会わないつもりでいるのに、まだ、ちょっとした事でミハルを思い出す。
「兄ちゃん、まだ髭剃ってんの? ちょっと退いてよ~」
美咲が歯を磨こうと武琉を押し除ける。
武琉を起こしに来てから、もう朝ごはんを食べ終えたらしかった。
そんなに時間経ったっけ……?
武琉は美咲に押されるがままに、髭を剃りながら横にずれた。
美咲が歯を磨き終わり、武琉は髭剃りの掃除をしてから、顎にクリームを塗った。
全てにやる気が出なかった。
武琉は部屋で制服に着替えてから、カバンを取り、リビングに行った。
「おはよう!」
母親が、にこりと武琉に笑顔を向けた。
「おはよう!」
武琉は元気を装った。
朝ごはんが用意されている。
「一口だけでも良いから、食べていきなさいよ!」
「うん」
一口だけ、ご飯を食べて、味噌汁を飲んだ。
ミハルと会わなくなってから、食べ物の味がしない。
食べようとしても、口に入れるだけで、喉の奥が詰まりそうになる。
「行ってきま~す!!」
美咲がバタバタと、武琉の背後を通り抜け、玄関へと走っていった。
「行ってらっしゃ~い!」
母親の声が、美咲の後を追う様にして、やがて消えた。
母親は武琉を、じっと見つめた。
「今日から期末試験でしょ。ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「……おう、余裕っしょ。ごめん、遅刻するから、もう行くわ」
「自転車気を付けてよ!」
「ありがとう。行って来ます」
玄関の扉を開けると、冷たい風が中に入って来た。
「さむっ」
武琉は自転車に跨り、ヘルメットを被った。
ピンロン!とスマホが鳴った。
ミハルからだ。武琉の顔がふっとほころぶ。
初めは、様子を伺って来るようなメッセージに、どうする事も出来ずに、イラついたけど、最近時々送ってくれる、花の写真は楽しみになっている。
『黄色い水仙が咲いてたよ』と言うメッセージと『黄色い花の写真』だった。
武琉はスマホをポケットに戻すと、学校へ向かった。
この前は、サザンカだったな……。
ミハルのお陰で、学校にサザンカが咲いていたのを見かけた。
もう二年近く通っていると言うのに、学校にサザンカが咲いていたなんて全然知らなかった。
ミハルと同じ物を見ている様で嬉しかった。
武琉は、ミハルのメッセージを、楽しみにはしているけれど、自分からは、返信さえも一切送らなかった。
送ると会わずにはいられなくなりそうで、怖かった。
寒い。冷たい風が頬に当たる。
ミハルに会いたい。でも会ったらもう、後には引けない気がした……。
学校に着いて、自転車置き場に自転車を置いた。
「先輩、おはよう!」
振り向くとみかりんが立っていた。
「おはよう」
武琉とみかりんは、農高祭の後すぐに別れたが、今でもみかりんは、こうして声を掛けてくれる。
「先輩、私、よっしーと期間限定で付き合う事にしたの」
「へ??」
「先輩がバイト辞めてから、休憩がよく一緒になったので、思い切って、聞いてみたんですよ。そしたら、期間限定なら良いよって言われたんです。どう思います?」
みかりんは浮かれている心を、抑えるような顔で話した。
「期間限定って、なんかズルくね~?」
「そうですか? お試しですよ。とりあえず一ヶ月付き合ってから決めてるっていう」
「そっか、まぁ続くといいな」
「はい! 先輩はどうなんですか? りんりんじゃなくても他にいますよ!」
武琉がバイトを辞める頃、一ノ瀬は、花屋の新しいバイト仲間と、付き合い始めていた。
みかりんは、武琉がそれを知って、バイトを辞めたのだと思っている様だった。
「今はそれどころじゃないよ。来年は受験で忙しいし」
「先輩、元気出して下さいね!」
「えっ? 俺、そんなに元気なさそう?」
「まぁ……。でもこの時期はみんな、元気なさそうですけど……」
「そうだな」
武琉はふっと笑った。
「みか~! おはよう!」
みかりんの友達が近づいて来た。
「じゃぁ先輩また!」
「おう!」
武琉はみかりんに手を振った。
それから、カバンを取って、教室へと向かった。
みかりんは可愛い。
みかりんとそのまま付き合って、好きになれていたら、こんな想いしなくて良かったのだろうか……。
人を好きになるって何なんだろう。みかりんの事を、好きだと言えば好きだ。
でもそれは、ミハルに対して感じる好きとは、違っていた。
ミハルは、俺を好きだと言ってくれた。
何かが出来る俺じゃなくても良いと言った。ミハルは子供の頃からずっとそうだった。
いつも近くで、ただ笑って、俺を見てる。
もっと一緒にいたい。もっと俺だけを見て欲しいと思ってしまう……。
俺がもし、期間限定で付き合ってって言ったら、ミハルは何て言うだろう……。
そんなのずるいよな……。
でも、今のまま、何も出来ない俺は、もっと酷いだよな……。
『クリスマスローズが咲いてたよ』
ミハルは今朝、クリスマスローズの花の写真を武琉に送った。
クリスマスローズの花言葉は『私を忘れないで』だった。
武琉に送ると、すぐに『既読』がつく。
返信がなくても、それを見るだけで嬉しくなる。
花言葉の意味が、武琉に届く日は、来ないかもしれない。
それでも、何かを送り続けずにはいられなかった。
「桜井く~ん! おはよう!」
ミハルが改札を通ると、後ろから一ノ瀬の声がした。
「あっ、一ノ瀬、おはよう」
「ハァ~、やっと、今日で試験最終日だね~」
「そうだな」
「これでやっと、解放される~」
一ノ瀬は伸びをする様に、手を上に上げた。
嬉しそうな一ノ瀬の姿を見て、ミハルは静かに微笑んだ。
「試験どう?」
「あ~、まぁまぁかな。一ノ瀬は?」
「う~ん。まぁまぁかな」
ミハルと一ノ瀬は小さく笑った。
「りん! おはよう!」
一ノ瀬の友達がやって来た。
「じゃぁ桜井君、またね!」
一ノ瀬は友達と前を歩いて行った。
ミハルもその後を、距離を置いてのんびりと歩いた。
「あっ」
雪がチラチラと降り始めた。
どうりで寒いはずだとミハルは思った。
ミハルは写真に撮ろうとしたけど、上手く撮れなかった。
武琉もこの雪を見てるだろうか……。
武琉に会いたい。武琉に触れたい。武琉を感じていたい。
武琉事を考えて頭がいっぱいになる。
ただ武琉を見てるだけで幸せだったはずなのに……。
何で好きと言ってしまったのだろう……。
もう会う事さえ出来なくなってしまった。
武琉も俺を好きだと言ってくれたのに、こんなの全然嬉しくない……。
ミハルはまた泣きそうになった。
あ~何やってんだ! 今日は期末試験の最終日だ。しっかりしないと……。
ミハルは今日の試験内容を頭の中で確認して気を逸らした。
今日は朝から、雪が降ったり止んだりを繰り返している。
期末試験の答案用紙を見つめる。
武琉は公立図書館の片隅に座り、間違えた箇所をノートに書き写していた。
図書館は静かで好きだ。
学校の図書室は、どこか落ち着かない。
ここは少し遠いけど、広くて、綺麗で、気に入っていた。
「あ~なんでこんな凡ミスしてんだよ」
小さく呟いて、ため息をつく。点数は悪くはない。
まぁこれなら母ちゃんも何も言わないか……。
それでも何か引っかかる気がした。
武琉はぼんやりと窓の外を眺めた。
また雪がチラついていた。
朝届いた、ミハルからのメッセージを思い出す。
ーークリスマスローズが咲いてたよ。
その写真の俯く花の姿が、ミハルの横顔の様に見えた。
武琉は何かを思いったったように、席を立った。
園芸コーナーの本を眺める。何冊か手にとり、パラパラとめくる。
ミハルはこう言う本を読んでいるのだろうか……。
……はぁ、こんなことしてる場合ではない。
席に戻ろうとした時、視界の端に「花言葉」と書かれた本が入った。
花言葉? ……なんだ、それ。
武琉はその本を手に取り、表紙をめくった。
花の写真と、小さな文字が整然と並んでいる。
「クリスマスローズ……」
その下に書かれていたのは――『追憶』『私を忘れないで』。
武琉の喉の奥が詰まった。
鼻の奥が熱くなり、思わず手で押さえた。
――ミハルは、知っていて送ったのか? それとも偶然か?
武琉は本を棚に戻すと、急いで荷物をまとめ、図書館を出た。
雪がさっきよりも激しく降っていた。
武琉は急いで自転車に乗った。
冷たい雪が顔を目掛けて向かってくる。
武琉は自転車を漕ぎながら、目から溢れてくる涙を、時々腕で拭った。
雪のおかげで、目が赤くなっていても、誰にも気付かれない。それが少しだけ、ありがたかった。
「ただいま~。さみ~!」
「おかえり~」
母ちゃんの声が聞こえた。
武琉はバタバタと家の中に入って行き、洗面所に向かった。
タオルを取り、顔を埋める。大声で泣き叫びたい衝動を抑えながら、そのまま自分の部屋で濡れた制服を着替え、布団を頭まで被って泣いた。
『私を忘れないで』
その言葉が、頭から離れなかった。
スマホを手に取って、これまでミハルが送ってきた花を、ひとつずつ検索していく。
黄色い水仙ーー『私のもとへ帰って』『もう一度愛してほしい』。
サザンカーー『困難に打ち勝つ』『ひたむきさ』。
ひとつ、ひとつ、胸に刺さっていく。
全部、意味があったんだ。
ミハルはずっと、言葉の代わりに、花で呼びかけていたんだ。
ミハルに会いたい。
武琉は胸の痛みを感じながら、しばらく泣いた。
ずっと見ないようにしていた気持ちが溢れ出て、どうしようもなく痛くて、苦しかった。
しばらくしてから、またミハルからメッセージが来た。
今度は白いサザンカだった。
花言葉は『愛嬌』『あなたは私の愛を退ける』だった。
武琉は思わず笑った。
「参ったよ……」
まるで、全部見透かされてるみたいだ。
どうしてもお前には敵わないや……。




