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7章 触れたくなる心と離れなきゃいけない明日

 季節はすっかり秋になっていた。もうすぐ文化祭の時期だ。

 

 結局、ミハルは武琉に連絡をすることはなかった。

 そして、一ノ瀬もミハルには何も言っていなかった。

 武琉もミハルからの連絡がないので、一ノ瀬とは付き合ったりしていないのだろうと思っていた。

 

 ミハルの学校の文化祭は「農高祭」と言って、地域の人たちも含めて盛大に行われる。

 そのためか準備には大忙しだ。おかげで、ミハルもその準備に集中できて、その間は武琉のことを考えなくて済んだ。


 けれど、ふとした瞬間に思い出す。玄関で一緒に笑った日のこと。机の前で、頬を触られた瞬間。ローテーブルでお茶を飲みながら、何でもない話をした時間――あの静けさだけが、まだ胸の奥に残っていた。

 

 そして、棚の上にあるハルジオンを見るたびに――胸が苦しくなった。


「家になんて、連れて来なきゃよかった……」

 そう思う日が増えていった。

 


 そして迎えた農高祭。

 ミハルは草花研究部の仲間たちと、フラワーアレンジメントを販売していた。


 そこへ――。


「桜井く~ん!」

 明るい声に振り向くと、一ノ瀬が手を振っていた。

 だが、その後ろに見えた顔に、ミハルは目を見開いた。


 武琉。みかりん。そしてよっしー。


「……なんで?」 


 ミハルは、忘れようとしていた心がまた疼くのを感じた。


「みんなが来たいって言うから」


 一ノ瀬は当然のように答える。


「農業高校って、面白いんだな」

 武琉は何事もなかったかのように言った。ミハルは少しだけ、安堵した。


「まぁ、普通の高校とはちょっと違うかもな」

 

 できる限り平然を装う。

 俺がバイトを辞めたこと、知ってるはずだよな……。

 そう思いながらも、普通に話しかけてくれた武琉の優しさに、ミハルは嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになった。


『資格の勉強のために時間が欲しいから』――それが、一ノ瀬に伝えた退職理由だった。

 きっと、みんなにもそう伝わっているのだろう。


「それにしても、りんりんもよくこんな遠くからバイトに来てるよな」

 よっしーが笑顔で言う。

「桜井くんが通ってたから、そんなに大変じゃないかなって思って。まぁ、慣れたらそんなに遠くないよ」

「ミハルンはなんでわざわざ遠くまで来てたの?」

「俺は……」


 見るつもりはなかったのに、視線が武琉とぶつかった。

 二人は慌てて、目をそらした。


「大型ショッピングモールで働いてみたかっただけだよ」

「へぇ~。ミハルンって案外ミーハーなんだな」

 よっしーが笑う。


「さぁさぁ、皆さん楽しんで行ってくださいな~!」


 一ノ瀬が、追い払うように明るく言った。

 武琉たちは手を振って去っていった。

 三人を見送ると、一ノ瀬が声を落として言った。


「ねぇ、タケちゃんとみかりんって、本当に付き合ってるのかな?」

「なんで?」

「いっつも、よっしーと一緒だなって思って」

「そうか? 俺、二人でいるとこ、よく見かけたよ。……まだバイトしてた頃だけど」

「そっか」

 一ノ瀬は少し間をおいてから、ぽつりと言った。


「もし、私たちが付き合ってるって言ったら、タケちゃん、どう思うかな?」

「え? 誰と誰が?」

「私と、桜井くん」

「は? いや、付き合ってねぇじゃん」

「そうだけど……桜井くん、タケちゃんのこと好きでしょ?」

「は? な、何言ってんの? 俺、男だし! アホなこと言ってねぇで、ほら仕事しようぜ」


 動揺が隠せなかった。

 気づかれてる……。いつから?

 心臓が波打つ。

 でも、だからってなんで付き合ったことにするんだよ? 嫉妬でもさせたいのか? 

 いや、そんな事しても意味ね〜よ……。

 胸の奥が張り裂けそうだった。


 一ノ瀬は気づいている? え? いつから?


「あっ、それお買い上げですか?」

 中年の女性が花を手にしているのを見つけ、ミハルは慌てて笑顔を作った。

「これ、素敵ね」

「ありがとうございます」


 一ノ瀬には気をつけよう――そう心の中でつぶやいた。


 校内はどんどん活気づいていた。

 在校生も卒業生も、これから入ってくる下級生たちや、ご近所さん、保護者などで通路は人の波が途切れない。

 風に焼きそばの匂いが流れ、軽音部の音楽が遠くから響いてくる。

 陽が少し傾きはじめた校庭には、柔らかな光が降り注いでいた。


 秋の空気は乾いているのに、人の話し声や笑い声で少しだけ熱を帯びている。

 ミハルも一ノ瀬も、それぞれの持ち場で接客をこなしながら、合間に友達のブースをのぞいたりして楽しんだ。

 時間はあっという間に過ぎ、午後の空が少し白っぽく霞んで見えたころ、祭りも終盤に差しかかっていた。


 ミハルが片付けをしていると、またあの三人が戻ってきた。

「楽しかったよ~!」

 三人は満足そうに笑っていた。


「誘ってくれてありがとうな。じゃあまたバイトで~」

 よっしーが手を振る。


 そのとき、一ノ瀬がミハルの腕を組んで言った。


「タケちゃん、私、桜井くんと付き合うことにしたんだ~」


「……そっか」


 武琉は驚く様子もなく、知っていたかのように答えた。

 

 マジかよ……。

 ミハルは心の中でつぶやいた。

 でも、一ノ瀬の言葉が自分をかばうための嘘のように思えて、そのまま乗ることにした。


「ね、ミハル?」

「う、うん……」


 突然『名前』で呼ばれて、ミハルは顔を赤らめた。

 それを見ていた武琉が、冷たい目を向けた。


「……そっか。よかったじゃん」

 

 そう言った武琉の声は、どこか苛立っていた。


「え~、なんで~? りんりん、俺は~?」

 よっしーが茶化す。

「よっしーは冗談ばっかだから」

 一ノ瀬は笑って答えた。

「え~、冗談じゃないのに~」


 そのやり取りの横で、ミハルは武琉の表情を気にしていた。

 でも、これでいい……。

 これでまた、普通の幼馴染に戻れるかもしれない。

 そう自分に言い聞かせた。


 

 けれども、武琉はなぜか、腹の底が煮えるように熱くなっていた。

 なんだ、あれ……デレデレしやがって。付き合ったなら、連絡ぐらいしろよ!

 唇の端を引きつらせながら、無理やり笑顔を作る。


「じゃあ、俺ら行くわ。みかりん、行こう」

 

 そう言って、武琉はみかりんの手を取った。

 ミハルはその瞬間を捉えて目が離せなかった。

 小さな痛みが胸に広がった。


「じゃ~な!」

「じゃっ!」

 よっしーも手を振る。

  

 三人の背中が人混みに消えていく。


 ミハルは静かに息を吐いた。

 あの二人、うまくいってるんだな……。

 武琉が幸せなら、それでいいや。


 ――そう思おうとしたのに、胸の中には、冷たい風が吹き抜けていくような痛みが残った。


 農高祭の片付けも終わり、俺と一ノ瀬は一緒に校門を出た。

 夕方の光は、昼間よりも少しだけ色を失っていた。

 風が頬をかすめ、遠くの空には秋の雲が薄く伸びていた。

 

 すれ違った女子達が、声をかけてきた。


「ちょっと、二人付き合ってんの? 見ちゃったよ~」

「あ~……見ちゃった」

 

 一ノ瀬が気まずそうにミハルを見てから、女子達の方を向いた。


「ちょっとしつこい人がいたから、桜井くんに嘘ついてもらっただけだよ」

「え? そうなの? じゃぁ、付き合ってないの」

「うん」

「なーんだ、つまんない」

「あのね~」


 一ノ瀬は呆れ顔で笑った。

 ミハルは居心地が悪く、なんとなく遠くを見ていた。


「でも、二人お似合いだったのに。本当に付き合ってないの?」

「うん」


 一ノ瀬がケロッとした顔で言った。

「私、他に好きな人いるから」

「そうなの?」

 女子達の驚いた声に、つられて俺も思わず口を挟んだ。


「あ、いや、俺が一ノ瀬を好きとかじゃなくて……その、誤解されたら悪かったかなって思って」

「あ~大丈夫。この学校の人じゃないから」

「そっか、それなら良かった」

 ミハルは少し安心した。


「じゃあ、帰ろっか」


 一ノ瀬が言い、ミハルたちは女子達に軽く手を振って、駅へと歩き出した。

 少し歩くと、笑い声が風に流れていった。

 さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かで、ミハルはようやく息をついた


「なんで嘘ついたの?」


 俺が聞くと、一ノ瀬は少し笑って、

「どの嘘?」と首を傾げた。


「付き合ってるってやつ」


「あ~……それね。私、タケちゃんも桜井くんのこと好きなんじゃないかなって思って」

「は? いや、それはないない」

 俺は顔の前で手を振った。

 やっぱり一ノ瀬は、俺を気にしてくれたんだなと思った。

「そうかなぁ? 私、初めてタケちゃんに会った時に思ったの。この二人の間には、誰も入れないなって」

「幼馴染だからだろ?」

「それもあるけど……タケちゃんはいっつも桜井くんを優しい目で見てるし、桜井くんもタケちゃんしか見えてない」

 

 一ノ瀬は、ミハルを見てクスッと笑った。ミハルは思わず黙った。

 そんなこと、他人に言われたくなかった。けど、図星だった。


「私、一年の頃から桜井くんのこと好きだったんだよ」

「え? そうなの?」

「うん。でも、タケちゃんを見てすぐ分かっちゃった。桜井くんは、タケちゃんが好きなんだなぁって」

「そんなに分かりやすかった?」

「うん。それはもう」

 一ノ瀬は揶揄(からか)ったように言って笑った。


「でも、今は違うよ。本当に好きな人ができたから、安心して」

「まさかよっしーとか?」

「まさか」

 一ノ瀬は呆れたように笑った。

「桜井くんが辞めた後に入ってきた大学生なんだけどね」


 そう言って、その人の話を嬉しそうにしていた。

 その様子を見て、ミハルは少しほっとした。

 やっぱり一ノ瀬は、優しいだけじゃなくて、自分のこともちゃんとしてる。


「じゃぁ俺が辞めて良かったな」

 

 ミハルは笑った。

 一ノ瀬は照れた様にへへっと笑った。


「……それとね」


 一ノ瀬が少し真面目な顔になった。


「タケちゃんとみかりんって、本当に好きで付き合ってるのかな?」

「どういう意味?」

「なんか、みかりん、いつもよっしーばっかり見てる気がする。さっきも、手を繋ぎながら、よっしーの顔見てた」

「そんなの、武琉に失礼だろ」

「でもタケちゃんも、桜井くんのこと、まだ見てると思う」

「ないよ、それは。武琉は女子が好きだから」

 ミハルは、はっきり言った。

「それに、武琉は俺の気持ちを知ってる。知った上で、みかりんを選んだんだ」

「……そっか」

「だから、それが答えなんだよ」


 一ノ瀬はしばらく黙って歩いた。


「でもね、タケちゃんは『男だからダメ』って思ってるだけかもしれないよ」

 

 一ノ瀬の言葉が、胸の奥にじわりと広がった。

 ミハルは何も言えず、視線を落とした。

 地面が滲んで見えた。


「やべ……」


 慌てて涙を拭うと、一ノ瀬が優しく笑った。


「桜井くん、本当に好きなんだね」

「やべぇよな、マジで」

「もう、私と付き合っちゃえば良いのに」

 

 そう言って笑いながら、ミハルの背中を喝を入れるように思いっきり叩いた。


「痛って〜」


 ミハルは思わず笑った。


「ありがとう、一ノ瀬」


 彼女は本当に、良いやつだと思った。

 武琉以外で、こんなに自然に話せる人は初めてだった。

 誰かに心のうちを話せたのも、初めてかもしれない。


「武琉に、ちゃんと連絡するよ」

「うん! 辛かったらいつでも言っておいで!」

「ありがとう!」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 帰り道、風が冷たく頬を撫でた。

 空は茜色に滲み、雲がゆっくりと形を変えて流れていく。

 ミハルは歩きながら、胸の奥に残る小さな熱を確かめた。


 ――きっとまた、笑って武琉と話せる日がくる。


 そう信じることで、ようやく前へ歩ける気がした。


 光の余韻をふみしめながら、ミハルは自宅のマンションへと歩いた。

 ふと顔を上げると、マンションの前に武琉が立っていた。

 その姿を見た瞬間、ミハルの胸がきゅっと縮んだ。

 

 武琉は、なぜここにいるのか自分でも分からなかった。

 けれど胸の奥で渦巻くものが、どうしても抑えきれなかった。

 怒りなのか、寂しさなのか。

 ただ、その正体を確かめたくて――気がつけばここに立っていた。


 ミハルは息を呑んだ。


「なんで? 帰ったんじゃ……」

「お前、付き合ったんなら言えよ!」


 その言葉がミハルの胸の奥に刺さった。


「……なんで、お前に言わなきゃいけねぇんだよ」

「あ〜、そうだな。バイトもそうだよな! 俺に言う必要なんかね〜か。心配して損した! じゃな!!」

「待って!」


 ミハルは思わず武琉の腕を掴んだ。

 その瞬間、掌に伝わる温もりが懐かしくて、息が詰まった。


 ――武琉は、心配してくれていた。


 そう思った途端、一ノ瀬とついた小さな嘘が、ずしりと重くのしかかってきた。


「……ごめん。家で話そう」

「話すことなんかねぇよ!」

「俺がある!」

「俺はねぇ!」

 武琉は手を振り払おうとしたが、ミハルは離さなかった。


「……頼むよ」


 声が震えていた。

 この手を離したら、もう二度と逢えなくなる気がした。

 武琉が短く息を吐く。

「分かったよ!」


 ミハルはその腕をそっと離した。

「ありがとう」


 二人は無言のままエレベーターに乗った。

 扉が閉まる直前、冷たい夜風が入り込み、二人の間を通り抜けていった。

 金属の上昇音だけが、静かな空間に響いていた。

 張りつめた沈黙。

 それでも、互いの気配だけは確かにあった。


「どうぞ」


 部屋の中は静まり返っていた。

 自動で玄関の明かりがついた。淡い光が壁を照らす。

 外より少しだけ暖かい空気が、二人を包んだ。


「お茶入れるね」

「ここでいいよ」

「ここじゃ暗いよ。入ってよ」

「……」

「……誰もいないから」


 ミハルは俯いたまま玄関を上がり、ゆっくりと歩いた。

 武琉も靴を脱ぎ、静かに後を追う。

 廊下には、二人の足音だけがかすかに響いた。



 ミハルはキッチンのテーブルにお茶を置く。

「座ってよ」


 重たい沈黙が、部屋の中に満ちた。

 武琉はお茶に手をつけず、ただミハルを見ていた。

 ミハルの育ってているハーブの香りがやわらかく漂い、それがほんの少しだけ、張りつめた空気をほぐそうとしていた。


 武琉は低く言い放った。

「話ってなんだよ」

「……ごめん。バイト辞めたの、武琉に言わなくて」

「連絡ぐらいしろよ」

「うん。でもなんて連絡したらいいか分からなくて」

「そんなの『バイト辞めた』だけでいいだろ」

「そうだけど、もう、俺と関わりたくないだろうなって思ってたからさぁ」

 ミハルは小さく笑った。

「は? なんでだよ」

「だって、武琉、嫌いだろ? 俺のこと」

「は? なんでそうなるんだよ」

「俺が好きって言っちゃったから。それから武琉、俺と目を合わさなくなった」


「それは……ごめん。つか、お前、冗談だったんじゃね~のかよ」

「……」

「お前こそ避けてたんじゃねぇの?」

 

 ミハルは俯いた。

 確かに避けていた。休憩室も、更衣室も、できるだけ行かないようにしていた。


「それは……」

「何……?」

 武琉の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。


「……だって……お前がみかりんといるの、見たくなかったから」


 武琉が大きなため息を吐いた。

「お前、本当に俺のこと好きなの? 馬鹿にしてるだけじゃねぇの?」

「なんだよ! それ」

「だって、今の俺、お前が好きになる要素なくねぇ?」

「何言ってんだよ。お前は今だって格好いいよ」

「は? どこがだよ。ちゃんと見ろよ! こんなに太って、サッカーもやめて、何もかも中途半端で……お前は俺の過去を見てるだけだよ。過去の俺を好きなだけなんだよ!」


 武琉は興奮して机を叩いた。

 その手が震えていた。

 その苦しみが、ミハルに痛みとなって伝わった。

 ミハルの視界が滲んでいく。


「勝手に決めんなよ。誰がサッカーやってないとダメって言ったのかよ! 太ってたらダメだって言ったかよ!? 俺は昔のお前も好きだけど、今のお前だって、好きなんだよ! なんでそんな悲しいこと言うんだよ!」


 ミハルの声が部屋中に広がった。

 その余韻が消えると、部屋はシーンと静まり返って、そして、静寂の中にミハルの啜り泣く声がそっと響いた。

 

 武琉は驚いた。熱を帯びたミハルの言葉が、胸のどこかをそっと揺らした。

 それは受け止めきれないほど強くて、でも確かに響いていた。


「お前はすげぇよ。やりたいこともちゃんとあってさ」

「お前だって、やりたいことあんじゃん。芸人になるんじゃないのかよ」

「あんなの、ただの口実だよ。サッカーできなくなった時に、同情されるのが嫌だっただけ。本当になりたいわけじゃねぇ」


 ミハルの胸が締めつけられた。

 彼の痛みが、まるで自分のもののように感じられた。


「別に、そうだとしても、俺の気持ちは変わらないよ。俺は何かが出来る武琉を好きになったわけじゃない。ただ、どうしても惹かれるんだよ。武琉のことが、好きで、好きでたまらないんだ」

 ミハルの声が震えた。

 ただ伝えたかった。心にずっと閉まってきたものを。


「バイト辞めたら忘れられるかと思ったけど、忘れられなかった。お前はどこに行っても、俺の中から消えてくれねぇんだよ」


 武琉は、何も言わなかった。

 ただそこに座って、じっとミハルの言葉を聞いていた。それが本当なのかを。


 窓の外では、秋の風がそっと揺れていた。

 落ち葉が風に飛ばされたようなかすかな音が遠くに聞こえた。

 

「お前、りんりんと付き合ってるんじゃねぇのかよ」

「それは……」

「だから、今は違うってことだろ」

「違う!」


 空気が、少し揺れた。

 言葉が続かず、二人の間に、浅い呼吸だけが残る。


「何がだよ」

「だから……」

 

「もういい。帰るわ」

 武琉が立ち上がる。床が小さく軋んだ。


「待って!」

 玄関へ向かう背中が揺れた。

「もういいよ。りんりんとうまくやれよ」

 その声は、冷たさよりも痛みの方が強かった。


「待って!」

 急いで、武琉の腕を掴んだ。

「あれは、嘘なんだよ!」


「は?」

「だから、一ノ瀬が俺に同情して言った、嘘」

「嘘?」


「うん。ごめん!」

 武琉の目がわずかに揺れた。


「じゃあ……付き合ってねぇの?」

「うん。付き合ってない」


 武琉は力が抜けたように、その場に座り込んだ。

 息を吐く音が、小さく漏れる。

 ミハルも隣に座った。胸の奥が怖さで震えている。


「ごめん」

 

 短い沈黙。

 そして、武琉が笑い出した。

 その瞳に涙を滲ませて。


「あ〜……ワハハハ……俺、怒ってバカみてぇ……あぁ……ダメだ。なんでそんなこと言うんだよ……今、すげぇ辛い……俺……」


 その声に、ミハルの胸がひやりとした。

「……武琉?」

 

 武琉は両手で頭を抱えた。

 息が乱れ、喉の奥が詰まる。


「どうしたらいいか分かんねぇ……この気持ち、認めたら俺……」

「どうしたの?」

 ミハルはどうしたらいいの分からないまま呆然と武琉をみていた。


「でも……俺、お前が好きだ」


 空気が止まった。

 世界が一瞬、静止したようだった。

 ミハルの表情が徐々に驚きへと変わり、そして止まった。

 胸の奥にじんわりと熱いものが広がった。


「え……武琉、俺のこと、好きなの?」


 問いかけは震えていた。

 武琉は涙の中で、ゆっくりと頷いた。


「え? じゃあ、みかりんは?」

 

 間を置いて、武琉は息を吸った。


「……嘘みたいなもんだ。みかりんには好きなやつがいるし、俺も……お前以外の人を好きになれると思いたかっただけ」

「だから付き合ったの?」

 武琉は短く頷いた。

「でも、ダメだった」

 武琉は乾いた笑いをこぼした。


「お前、俺のこと避けてたんじゃねぇの?」

「避けたかったよ。避けたかった……だって、この気持ち認めたら、俺……」


 言葉がそこで途切れた。

 顔を伏せ、武琉の肩が波打つように上下している。


 外から、遠くの笑い声がした。

 それが現実を思い出させるように、冷たく響いた。

 武琉の中に母親の笑顔が見えた。家族の笑い声が響いた。

 

 突然武琉は、ミハルの胸ぐらを掴む。


「あぁ……なんでお前、女じゃねぇんだよ!」

 

 それから、ミハルを抱き寄せた。


「これじゃ……辛いだけだ」


 ミハルは混乱していた。

 武琉に抱きしめられ、小刻みに揺れている。

 少しの間、二人は震えながら、ただ涙を流した。


「なんで? ……ぅっ……なんでそんなに女じゃないとダメなんだよ」

 ミハルが消えそうな声で涙と共に呟いた。


「そりゃダメだろ」

「なんでだよ」


 武琉は目を閉じた。

 記憶の奥に、小学校の夏の光がちらついた。


「お前、昔、俺に好きだって言ってて、気持ち悪いって言われたの覚えてる?」

「……覚えてるよ。お前、俺のヒーローだって言ってくれたじゃん」

「でも、お前は、あれから好きって言わなくなったよな」

「それは……」


 武琉は息を少しはいて音を選ぶように伝えた。


「それが答えなんだよ」

「え?」


 武琉は笑おうとしたが、喉の奥で言葉が詰まった。

 静かな間が落ちる。


「……だから、おかしいんだよ、男同士なんだから。俺たち」

 天井を見上げた武琉の頬を涙が伝った。


「おかしくなんかねぇよ。人を好きになるのに、なんで、男とか女とか、関係あるんだよ。俺は、男とか、女じゃなくて、武琉が好きなんだよ」


 ミハルの声は震えていた。

 その瞳の涙に光が滲んでいた。


「……でも、普通はそうじゃないんだ」

「普通ってなんだよ」

「世間に胸張って言えることだよ」


 武琉はそっと、ミハルの頬に触れた。

 その指先がわずかに震えている。


「俺はお前のこと好きだって、他のやつに言えねぇよ……お前は、言えるのか?」

「そんなの、言わなくてもいいだろ。俺たちが分かってたら、それで」

「俺は……家族に言えないことはできねぇ。その嘘を抱えて生きる勇気がねぇんだ」


 ミハルの唇が、何度も開いては閉じた。

 その度に、胸の奥が沈んでいくのを感じた。


「……あぁ、こんなに辛いなら、気づきたくなかった。お前を好きだなんて」


「……こんなの、誰にも相談できね〜よ……」


 その叫びは声にならず、喉の奥で渦を巻いた。

 言ったところで、誰も分かってくれない気がした。

 家族にも言えない。友達にも言えない。笑われるか、引かれるか、それが怖くて……。

 ずっと一人で抱えて誤魔化してきた。

 その孤独が胸の奥で軋んで、息をするのも苦しかった。


 ミハルはその言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

 武琉の孤独と自分の孤独が重なって、細い痛みが滲んだ。

 

「そんなこと言うなよ……俺は武琉が好きだ。一緒にいたい。それだけじゃ、どうしてダメなんだよ」


 武琉は俯いたまま、小さく息を吐いた。

「ミハル……ごめん」


 その一言が、部屋の空気を止めた。

 ミハルの胸に重く沈み、広がっていった。


「やっぱり好きって言わなきゃ良かった。そしたら、こんな気持ち知らずに済んだのに」

 

 ミハルの声は掠れていた。

 震える肩を、武琉は見つめることができなかった。


「ごめん」


「好きだって分かったのに」


 武琉は言葉を探していた。


「ごめん。でも、俺、どうしたらいいのか分かんねぇ。俺、お前といると、頭がおかしくなる」


 吐き出すたびに、息が苦しかった。


「俺は一緒にいたいよ。武琉は本当はどうしたいの?」

「分かんね〜」

「好きってなんだよ。お前こそ、意味分かんねぇよ」

「ごめん。そうだよな……だから、もう、お互い苦しめ合うの、やめよう――」


 武琉は立ち上がった。

 その背中が消えて行きそうでミハルの心がざわめいた。


「待って! 帰んなよ!」


 腕を掴み引き戻そうと必死になった。

 武琉は、それでも前を向こうとした。


「もう逢えない」


 ミハルの体が反射的に動いた。

 次の瞬間、武琉の胸にしがみついていた。


「いやだ! 嫌だよ!」


 その声が喉の奥で掠れた。

 武琉は両腕でミハルの肩を押さえ、ゆっくりと顔を上げさせた。

 震える瞳が、真っ直ぐに自分を映していた。

 本当は、触れたかった。 抱きしめたかった。

 けれど、伸ばせばすべてが壊れてしまう気がした。


「ミハル……俺たち、もう、忘れよう」


 ミハルの瞳から、涙がこぼれ落ちた。


「やだよ! やだ! そんなこと言うなよ!!」

「ミハル。ごめんな」


 小さく、苦しく、それだけを言った。

 ミハルは震える手で、武琉の胸ぐらを掴んだ。


「じゃあなんだよ。あの時、俺が好きって言い続けてたら良かったのかよ! なんで好きだって分かったのに、忘れなきゃいけねぇんだよ!」

「ごめん、ミハル」


 その言葉が、夜の静けさに溶けた。

 ミハルはもう立っていられず、武琉の胸に顔を埋めた。

 全身が、悲鳴をあげるように震えている。


「ごめんじゃねぇよ! どうしたらいいんだよ……どうしたら、一緒にいれんだよ! 武琉といれるなら、俺、なんでもするよ……武琉がいない人生なんて嫌だよ。お願いだから、どこにも行かないでよ!!」


 言葉が涙に崩れ、息に変わった。

 武琉は、ただその場に立ち尽くした。

 何もできなかった。

 けれど、その沈黙の中で、体の奥が焼けるように痛んだ。


 外では、車が一台、遠くを走り抜けていった。

 その音が、やけに遠くに感じた。


「……ごめん」


 武琉の声は刃のように静かだった。

 その音が胸を裂く。

 『これ以上踏み込むな』と告げるような響きだった。


「嫌だ! 嫌だよ〜!!」


 ――好きなのに、なんでだよ。


 ミハルの中で、何かが崩れた。差し出せるものは全部差し出した。惨めでも構わなかった。

 ただ、武琉がいない世界を、想像したくなかった。


 それでも、彼の表情がすべてを拒んでいた。


 武琉を苦しめたい訳じゃない。

 それでも、この手を離せなかった。

 声にならない叫びが、喉の奥から溢れた。


「――うあああ……!」


 その叫びが部屋を震わせた。

 ミハルは泣きながら、必死に言葉をぶつけた。


「好きだよ。好きなんだよ……どうしてダメなんだよ……好きなら、一緒にいればいいじゃないか!」


 武琉は何も言わなかった。

 ただ、震える肩を抱きしめた。

 ミハルの震えが、からだに響く。そのたびに、胸が痛んだ。


「……好きだから、だから、一緒にいられねぇんだよ」


「……なら、もう……好きじゃなくていいよ」


 ミハルの声が、息のように消えていった。


 武琉は目を閉じた。

 涙の熱が頬を伝う。

 ミハルの涙を見るたび、胸が締めつけられた。

 受け止めたい。でも、それをしたら、自分が壊れる気がした。


 ――普通でいたい。


 そう思った瞬間、心のどこかが崩れていった。

 男を好きになること。

 それを認めたら、もう戻れない。

 それなのに、ミハルを失いたくない。

 その矛盾に、息が詰まりそうになる。

 でも離れるしかない。それが唯一の逃げ道だから。

 でも、離れたら、もう二度と立ち上がれないかもしれない。


「ごめん。……ミハル、ごめんな」


 その言葉に、すべての力が抜けた。

 二人は声を上げて泣いた。

 その泣き声が、互いの胸をさらに引き裂いた。


 ――『ごめん』。

 武琉のその言葉が、息を奪っていく。

 どうしたらいいのか、もう分からなかった。

 好きで、同じ気持ちなのに、どうしてこんなにも遠ざかっていくのだろう。

 男になんて生まれてこなければよかった。

 そんな思いが、ひとすじの絶望のように胸を過っ(よぎ  )た。


 ――結局、武琉は俺をそこまで好きじゃないんだろう。

 そう思うしかなかった。


 ミハルの中に、諦めにも似た静けさが広がっていった。

 それでも、最後のかすかな希望を抱くように、小さく息を吸い込んだ。


「……武琉は、俺と逢えなくなっても、平気なんだな」


 ミハルがそう言って離れた瞬間、武琉の胸の奥で何かが音を立てた。

 抑えていたものが、ぷつりと切れる。

 気づけば、ミハルの胸ぐらを掴んでいた。


 体が熱い。息が荒い。心が痛い。

 理性が、遠くに霞んでいく。


「平気なわけないだろ……俺だって、好きなんだよ! お前のこと!」


 そのまま、壁際まで押しやって、唇をぶつかるように重ねた。

 その瞬間、ミハルの身体から力が抜けて、床に倒れ込んだ。

 武琉はミハルを包むように身を寄せ、息の触れる距離で囁いた。


「分かってくれよ……好きだから、辛いんだ……」


 武琉の掠れた声が空気に溶けていった。

 ミハルはその顔を見つめながら、小さく笑った。


「……うん……ごめん」


 涙がこめかみを伝い、流れ落ちた。

 武琉はその涙を指で拭い、息を呑むように笑った。


「……俺も、ごめん」


 背を向けた武琉の肩が、かすかに震えていた。

 その距離が、あまりにも遠く見えて、ミハルは思わずその背中を引っ張った。


 背中が揺れ、武琉はミハルの横に倒れ込んだ。

「痛ってぇ」

 武琉が笑い、ミハルもつられて笑った。

 その笑いはどこか脆く(もろ  )、静かな音を立てて消えた。


 二人は見つめ合い、何かを言いかけて、やめた。

 どんな言葉も、すでに遅すぎる気がした。

 だから、何も言わずに抱きしめ合った。

 服越しの温もりが、心地よく胸の奥に広がっていく。

 そのまま、眠るように意識が遠のいていった。


 外では、夜がゆっくりと降りていた。

 遠くで誰かの足音がして、世界はまた沈黙に戻った。


 玄関までの廊下はひんやりとしていて、さっきまでの熱をそっと奪っていく。

 部屋の中には、もう光の名残もなかった。


 ――その静けさが、ふたりの心に少し似ていた。


 


 ーーピンロン! と短くスマホが鳴った。

 

 その音で、二人ははっと目を覚ました。


「……やべ、寝てた」

 

 武琉が低く呟き、二人は慌てて身を起こした。

 ミハルのスマホには、母からの『これから帰ります』の文字。

 画面の光が、ぼんやりとミハルの顔を淡く照らしていた。


 武琉はミハルの髪をそっと整え、小さく言った。

「……ごめんな」


 ミハルは言葉を探したが、見つからなかった。

 ただ、胸の奥の痛みを押し殺すように、そっと抱きついた。


「……忘れようとか、言うなよ」

「……うん……」


 それでも、武琉の瞳には迷いが残っていた。

 武琉の漂わせる空気が、ミハルの胸をざわつかせる。

 武琉は言葉を探すようにミハルを見つめ、そして、優しく唇が触れた。


「……おばさん、帰ってくる前に行くな」

「……うん」

 

 武琉がゆっくりと靴を履く。

 その後ろ姿に、ミハルの不安は隠しきれなくなった。


「武琉!」

 

 ミハルの声が背中に届いた。

 振り返らないその肩が、かすかに揺れる。


「好きだよ!」


 一瞬、空気が止まった。

 武琉は、ゆっくりと小さく頷くと、そのまま外へ出ていった。


 ――扉が閉まる音だけが、玄関に残った。


 ミハルは自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 鼻の奥がつんと痛み、視界がぼやける。

 涙が静かに頬を伝い、枕に吸い込まれていった。


 ――もう、逢えないかもしれない。 


 その思いが胸の奥で波紋のように広がり、やがて静かな痛みへと変わっていった。

 どこかで風が吹き、遠くの世界だけが、何事もなかったように続いていた。



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