6章 知りたくなかった想い
太陽がアスファルトを照り返し、街全体が夏の熱気に包まれていた。
俺たちは、夏休みに入った。
「りんりん、ミハル~ン!」
ミハルと一ノ瀬がバイト終わりに駅へ向かっていると、後ろからよっしーが走ってきた。
「夏休みだし、みんなで遊園地行かね~?」
「よっしー、それ言いにわざわざ来たの?」
一ノ瀬が驚いてよっしーを見た。
「ちょうど二人が帰るとこ見えたからさ。俺も帰るとこだったし、一緒に駅まで行こうぜ」
ミハルはよっしーの後ろを確認した。
「武琉とみかりんはまだバイトっすか?」
「おう、あの二人はまだ入ってたな」
「そうっすか……」
三人は並んで駅へ向かった。
ミハルの胸が、なんとなくざわついた。
みかりんは武琉のタイプではないかもしれないけど、同じ高校ってこともあって、二人は妙に仲がいい。
みかりんは控えめで、笑顔が可愛い。
武琉は彼女を作りたいって言ってたし、あの二人が付き合うことも、あり得るかもしれない。
ミハルは二人のことを考えて、落ち込んだ。
「で、どう? 遊園地。行かね?」
「あ~、いいっすよ」
「私も予定が合えば」
「おっしゃ~。やっぱ夏休みは遊ばなきゃな!」
「じゃあ、メッセージのグループ作らね~? 連絡先教えて」
ミハルと一ノ瀬は、スマホを取り出して、よっしーに連絡先を教えた。
「よし、じゃあタケちゃんとみかりんも入れて……よし! これで連絡取り合えるな」
「はい」
「じゃあ、また連絡するよ」
「分かりました」
ミハルと一ノ瀬は駅でよっしーと別れた。
「よっしーって、行動力すごそう~」
一ノ瀬が笑いながら言った。
それから、やっとみんなの予定が合ったのは、夏休みが終わろうとしていた頃だった。
遊園地内は乗り物の走る音や「きゃーっ」という叫び声、音楽……いろんな音が入り混じって、うるさいほどだ。
夏休みも終わりに近いとはいえ、まだまだ人が多い。
五人は園内入り口付近の隅で、アトラクションの案内紙を見ながら、立っていた。
「ねぇ、りんりん、何に乗りたい?」
よっしーがデレデレしている。
よっしーはいつもテンションが高いが、一ノ瀬といる日はさらにテンションが高かった。
彼が一ノ瀬を気に入っているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「んー、みんなは?」
「こういうとこ、久しぶりで全然わかんね~」
武琉がそう言って、入口でもらった園内地図を広げる。
「とりあえず、ここは巨大迷路が有名だから、最後にこれ行かね?」
よっしーはそう言うと、園内地図を閉じた。
「よし! こうなったら片っ端から乗ろう!」
よっしーの声に、みんな園内地図を閉じて歩き始めた。
ミハルは武琉の行動を気にしていた。
――武琉は一ノ瀬か、みかりんのどちらかを好きになってたりするのだろうか……。
そんなミハルの視線に、武琉が気づいた。
「ミハル? どうした?」
「え? 何?」
「いや、なんか今日お前、ぼーっとしてね~?」
「そんなことね~よ」
「ならいいけど」
武琉はここ最近のミハルの様子を、おかしく感じていた。
ミハルが昔から、自分をよく見ているのは分かっていた。
でも、今までと違って、挙動不審というか、まるで小動物が怯えているかのようだった。
ミハルは平常心を保とうとする。
――やばい、ついつい武琉を見てしまう。これじゃあ好きなのがバレてしまう……。
「みかりん~!」
ミハルは武琉から逃げるように、みかりんに話しかけた。
武琉はやっぱり、ミハルが変だと感じた。
気づけば、楽しい時間はあっという間に過ぎ、夕暮れの気配が園内を包みはじめていた。
五人はそれぞれのアトラクションを楽しみ、最後に巨大迷路の前へとやって来た。
「チームを組んで、どっちが一番早く出られるか競争しようぜ! ……ということで、俺はりんりんとチームってことで」
よっしーが言った。
「それはダメでしょ。グッパーで決めようよ」
一ノ瀬が拳を顔の横で軽く振る。
「賛成~!」
武琉が手を上げた。
「え~」
よっしーは子どもみたいにごねた。
「グーとパーで別れましょっ!」
一ノ瀬が手を振りながら声をかける。
慌ててみんなが手を出した。
結局、ミハルと武琉がグーを出し、よっしーとみかりんと一ノ瀬はパーだった。
やった! 武琉と一緒だ! ミハルは嬉しかった。
「なんか、女子二人と一緒で悪いな」
よっしーがニヤニヤと笑って、武琉とミハルを見た。
「ずり~!」
武琉が抗議する。
ミハルも笑って一緒になっておちゃらけた。
「ずり~!」
「はいはい。でも、これも運だから」
よっしーはミハルと武琉に掌を見せて、諭すように言った。
「じゃ! お先に!」
よっしーは一ノ瀬とみかりんの手を取り、連れて行ってしまった。
あまりにも自然に手をつないだよっしーの姿に、ミハルも武琉も呆気に取られて、しばらくその背中を見送っていた。
ミハルが武琉を見た。
「さすが、大学生はすげ~な」
「だな……俺たちも行くか」
「おう!」
ミハルは嬉しそうに答えた。
――武琉と自然に手をつないで回れたら、どんなに嬉しいだろうと思った。
「あっ、そうだ。ちょうどいいから、これ」
ミハルは自分のボディバッグから小さな封筒を取り出して渡した。
「武琉、この前誕生日だったろ」
「え? 何? くれんの?」
「うん」
武琉が封筒を開けると、ハルジオンを押し花にして作った栞が入っていた。
「これ、ミハルが作ったの?」
「うん。大したものじゃないんだけど……誕生日おめでとう」
「うお~! すげ~嬉しい!」
そう言いながら、武琉はミハルの頬をぐりぐりと触った。
武琉は本当はミハルを引っ張って抱きしめたいくらい嬉しかった。
自分を想って作ってくれたかと思うと、それだけで、胸の奥があたたかくなって、そしてくすぐったくなった。
「お前、それやめろよ~!」
ミハルは顔を赤くした。
「ワハハハハッ! ありがとうな! 大切にするよ」
ミハルは嬉しそうに頷いた。
「さっ、俺らも行くか」
「おう!」
二人は笑い合いながら、迷路へと入っていった。
「あれ? ここ、さっき通ったよな」
ミハルと武琉は巨大迷路の中を、ぐるぐると彷徨っていた。
この巨大迷路は大人向けで、かなり難しいらしい。時々、親子連れとすれ違ったが、子どもがぐずって大変そうだった。
「俺、方向音痴なとこあるからさ。やっぱこういうの苦手だわ」
武琉がそう言うと、ミハルはクスッと笑った。
「そういえば昔、二人で道に迷ったことあったよな」
ミハルが思い出したように言う。
「あ~、あったあった。あれって小二くらいだったっけ?」
「うん、多分そのくらいかな」
ミハルと武琉は小学二年の頃、家から少し離れた広い公園まで行こうとして、道に迷ったことがあった。
武琉が「広い方の公園に行ってみようぜ」と誘ったのだった。
武琉はサッカーの練習をしたかったけれど、ミハルはサッカーには興味はなかった。それでも、武琉が行くところならどこへでもついて行った。
「あの公園って、まだあんのかな?」
ミハルが聞いた。
「あるよ。今行くとすげー近くてびっくりするよ、きっと」
「そうなんだ。でも、あの時はすっごく怖かった〜」
ミハルは思い出して笑顔を向けた。
「あの時、お前がすげー怖がるから、俺までビビったわ」
「え? ビビってたの?」
「いや、まぁ……俺までビビったらお前がもっと怖がると思って、平気なフリしてたけどな。ワハハハハッ」
「そうだったんだ」
昔の武琉を思い出し、じんわりと幸せな気持ちになった。
「まぁな……」
武琉は照れたように自分の頭をかいた。
「あの時はサッカーやりに行ったじゃん。今はもう、サッカーやってないの?」
ミハルは思い切って聞いた。
「それな!」
武琉はおどけたようにミハルを指さした。
「五年の時に事故ってできなくなってやめたんだ。まぁ遊びでやるくらいなら今でもできるけどな」
「え? 事故って……」
「トラックと自転車でさ。だから命があっただけマシってやつ。ワハハハハッ」
「え!? 知らなかった。お前がそんな大変なことになってたなんて……だから手紙も来なくなったのか?」
「ごめんな。書けばよかったんだけど」
「そんなのいいよ。武琉が生きててくれて、本当によかった」
ミハルが武琉に抱きついた。
「俺、武琉が死んでたりしてたら……」
夕暮れの日差しのせいか、切なさが余計身にしみた。
ミハルの瞳から、じんわりと涙がこぼれた。
抱き付いてきたミハルが震えていた。
その揺れが武琉に伝わり、心臓が飛び出そうなくらいドキドキした。
「な、なんだよ。お前、泣いてんのか?」
「だって、俺、何も知らなくて……あの時も、やっと会えたのに逃げたりして、本当にごめん!」
「そんなこと、いつまでも気にしてねーよ」
武琉はそう言って、ミハルの頭をポンポンと軽く叩いた。
「……わかったから。お前、すぐ飛びついてくんなよ」
武琉の顔が赤くなっていた。
ミハルはそっと離れて、涙を拭いた。
人がこっちに向かってくる足音が聞こえて、二人は恥ずかしくなって慌てた。
「行くか」
武琉が照れたように笑った。
「うん」
二人は歩き出した。
すぐ後ろから知らない人たちがやって来て、「すみません」と横を通り過ぎていった。
「まぁでも、もうすげー昔のことだし。それに正直、やめられてホッとしたんだよ。あの頃、俺、サッカーに限界感じてたし。だっせぇよな。ワハハハハッ」
武琉がおどけて言った。
「ダサくなんかないよ。俺は、そのままの武琉が知れて嬉しかった」
「……そうか」
「うん! 話してくれてありがとう!」
「おうっ……」
武琉はなんだか照れ臭かった。
自分の過去を笑わず聞いてくれて、そのままを受け取ってくれるミハルに胸が熱くなった。
「そういえばあの時、ぐずってた俺をおんぶして歩いてくれたよな」
「ワハハハハッ。だってお前が歩かないって泣くからさぁ」
「歩かない~」
ミハルはふざけて、あの頃のようにその場に座って言った。
それを見た武琉は笑った。
「ワハハハハッ」
ミハルは武琉を見上げた。
胸の奥がきゅっとなった。なんだか寂しくなって、武琉に飛びついた。
「おんぶしろ~」
「おわっ! 無理無理無理! お前、あの頃と違ってデカいから無理!」
確かに、あの頃のミハルは小さくて、武琉の肩下くらいの背丈しかなかった。
武琉は同年代より大きく、ミハルは小さい方だった。
一緒にいると同じ年齢には見えないくらいだった。
でも今は、武琉が五センチほど高いくらいだ。
「足、やばい?」
ミハルは足を地面に戻してから、抱きついたまま武琉の足を見た。
ミハルの吐息が、武琉の耳に触れた。
武琉の鼓動が早くなる。
武琉はその鼓動を抑えるように、平然を装って答えた。
「いや、もう足は全然大丈夫だけど」
「なら大丈夫だ。行けるって」
「行けるか~?」
武琉はそう言って、恥ずかしそうにミハルをおんぶした。
「すげー」
ミハルは笑って、武琉にくっついた。
――離れたくない。
ミハルはそう思った。
武琉は、ずっと心臓がおかしくなりそうだった。
自分の顔のすぐそばに、ミハルの顔がある。
なんでこんなにドキドキするのか、武琉は理解したくなかった。
「お前が女だったら良かったのにな!」
ミハルは男だ。しっかりしろ――武琉は自分に言い聞かせた。
「うるせー。男でもいいだろ」
ミハルは拗ねたようにして、武琉から離れた。
「あ~、あれスタンプじゃね~?」
「え? どこ?」
「ほら、あれ、あそこにあんじゃん!」
そう嘘をついて、武琉は走った。
「待ってよ~!」
「ワハハハハッ!」
ミハルは少し走って右を見ると、そこにスタンプがあった。
「おい! どこ行くんだよ。こっちにあるじゃん!」
武琉は立ち止まり、ミハルの方に戻ってきた。
二人でスタンプのある方へ向かう。
「おぉぅい~!」
武琉がスタンプを押した。
「おぉぅい~!」
ミハルもスタンプを押した。
二人は子どもの頃を思い出した。道に迷いながらも辿り着けた、あの公園のことを。
二人はハイタッチをして、笑顔を向け合った。
夕日が二人を照らし、ミハルが一層美しく見えた。武琉はそれを横目で見ていた。
「あと三つかぁ。行くぞ」
二人は再び歩き出した。
しばらく行くと、道が細くなっていた。
「これ、俺、通れるかな?」
「ん? 大丈夫だろ?」
ミハルから見れば、十分通れそうに見える。
武琉は自分の体を実際より大きく感じているのかもしれないと、ミハルは思った。確かに昔より少しふっくらしていたが、巨漢というほどではない。
「行ってみるか」
武琉が体を横にして、先に進んでいった。
「おっ、結構いけるな」
「だろ?」
ミハルも続く。
狭い道の中で、ミハルの手が武琉の手に触れた。
その一瞬、ミハルはそのまま繋いでしまいたくなった。
武琉の方も、胸の奥がざわついて、心臓がうるさい。少しで握れそうなその手をどうしても意識してしまった。
武琉は空気を変えたくて、驚かそうと立ち止まった。
「どうした?」
ミハルが覗き込むように尋ねた。
「……やばい。俺、これ以上行けないかも」
「マジで?」
ミハルが武琉の横から覗き込もうとすると、武琉が振り返った。
二人の顔が、息のかかるほどの距離にあった。
お互いの瞳が、相手の瞳を捉えて離さなかった。
迷路の壁の向こうから、子どもの笑い声が小さく聞こえた。
ミハルの頬が一瞬で赤く染まる。涙がにじみそうになる。
夕方のオレンジの光が、二人の顔の陰影をくっきりと映し出した。
「武琉……」
――好きだよ。
その想いが溢れ出そうになる。
武琉もまた、自分の顔が熱くなるのを感じていた。
「ミハル」
二人は見つめ合ったまま、息を潜める。
「……お前が女なら、キスしてるな」
ミハルの心臓が一瞬止まった。
「……いいよ。女だと思って、しても……」
ミハルは溢れてこようとする涙をこらえて笑った。
武琉は一瞬、何も言えなかった。
心臓がバクバクする。ミハルに吸い込まれそうになる。
でも、ほんのわずかな理性がそれを止めた。
「……バカ。そんなこと、簡単に言うんじゃねぇよ。俺のファーストキスなんだぞ」
「……俺だって」
「お前、宝の持ち腐れだな」
「なんだよ、それ」
ミハルが笑う。笑った瞬間、堰を切ったように涙がこぼれた。
武琉は動揺した。どうして泣き出すのか考えられなかった。
「泣くほど面白かったか? ワハハハハッ」
そう言ってから笑って誤魔化した。
その笑い声に、ミハルの胸が締め付けられた。
そして、自分の気持ちが溢れ出てしまった。
「……好きだよ。子どもの頃からずっと」
ミハルの頬を涙が伝った。
ミハルの顔はわずかに笑っていたが、瞳が震えて本気なのが分かった。
「……ミハル……」
綺麗だ、と武琉は思った。
白い肌が赤く染まり、西日に照らされて、濡れた瞳がきらきらしている。
心臓の脈がさらに速くなる。どんどん顔が熱くなっていく。
もう、どうしていいか分からず、武琉は顔をそらした。
――あの頃と同じだ。
ミハルが泊まりに来た夜に感じた、あの不思議な感覚。
愛おしさと、困惑と、罪悪感が一気に押し寄せてくるようだった。
あの時も、自分が何かを越えてしまいそうで怖かった。
「分かってるよ。お前は俺のファンだもんな。……ほら、俺を押せ。ここから出るぞ」
武琉は冗談で出られないと言って、ただ驚かせたかっただけだった。
けれど、それは逆に、変な空気を作ってしまった。
武琉は、自分の心臓がどうしようもなく高鳴る理由を、考えたくなかった。
ただ、ミハルが女じゃないことに、妙な苛立ちを覚えていた。
ミハルは悲しかった。伝えることさえ許されてない気がした……。
それでも黙って、武琉を押した。
二人は細道を抜け出した。
「あ~、出れた~! あ~良かった~!」
武琉は大袈裟に笑った。
その武琉態度にミハルの胸は引き裂かれたように痛かった。
そして、こう言うしかなかった。
「お前が『キス』とか言うから、おちょくっただけだからな」
「なんだよ、びびるじゃねぇか。ワハハハハッ。……お前が女なら良かったけどな」
「またそれかよ」
ミハルは唇を尖らせた。
――俺は俺なのに。
武琉にとって俺は、ただの幼馴染でしかない。
分かっていたはずなのに、胸の奥が締め付けられた。
女とか男とか、綺麗とか醜いとか。
人はいつも見た目で判断したがる。
仕方ないことだ。自分だって、そうだ。
でも――だからこそ越えられない壁があるのだと思うと、ミハルはただ、悲しくて仕方なかった。
「行くぞ」
もうこれ以上話したら泣きそうで、ミハルは先を急いだ。
「はえーよ」
武琉が慌てて追いかける。
ミハルは少しだけペースを落とした。
それから、武琉のどうでもいい話を聞きながら、二人は巨大迷路をゴールした。
出口では、よっしーたちがすでに待っていた。
「おっそーい!」
一ノ瀬が笑う。
みんなが笑って、空気が少しだけ軽くなった。
――あの日以来、ミハルと武琉の関係は少しずつぎこちなくなった。
武琉はミハルの目を見なくなり、ミハルは自然と距離を取るようになった。
『……好きだよ。子どもの頃からずっと』
その言葉が、武琉の頭から離れなかった。
あの後、ミハルが笑って誤魔化したとしても、それが冗談じゃないことくらい分かっていた。
もしミハルが女だったら――。
その先を考えたくなくて、武琉は思考を止めた。
夏休みが終わる頃、武琉はバイト仲間のみかりんと付き合い始めた。
「私とタケちゃんって、似てますよね」
休憩中、みかりんが言った。
「私はよっしーのことが好きだけど、望みがないし。タケちゃんも、りんりんとは望みなさそうだし」
「……じゃあ、俺ら付き合っちゃう?」
自分でも、冗談半分だった。
でも、その方が楽だと思った。
みかりんを好きになれれば、きっと自分の気持ちも正常に戻る。
ミハルのことも、忘れられる。そう信じたかった。
「いいですよ」
「え? マジで?」
「うん。よっしーとは望みないし」
「……じゃあ、よろしく」
「はい」
みかりんは笑っていた。
武琉はミハルにメッセージを送った。
『俺、みかりんと付き合うことにした』
返ってきたのは、『おめでとう。よかったな』の一文だけだった。
ミハルはショックだった。
でも、そんなのは分かっていた。武琉は女の子が好きで、男の俺に望みなんて無いってことくらい、分かっていた。分かっていたけど。こんなに辛い気持ちになるなんて思いもしなかった。
でも、武琉の側にいると言うことは、そう言うことも、見届けなくてはいけないと言うことだ。いつかは、武琉が女の子と付き合って、いずれは結婚していくことも、ミハルは分かっていたつもりだった。そう思っていたけれど、ミハルは、ずっと胸の奥が焼けるように痛くて、苦しかった。
自分の武琉への気持ちが、こんなにも大きくなっていたなんて思わなかった。
みかりんと並んで歩く武琉の姿を見かけるたびに、胸が締めつけられた。
ほんの少し笑い合うだけの姿にも、息が詰まるほどの痛みを覚えた。
それから、武琉の顔を見るのが辛くなり、花屋のバイトを辞めた。
逢わなければ、きっと忘れられる。
もうタイムカプセルもない。
何の約束もない今なら、きっと。
ミハルはそう信じるように、自分に言い聞かせた。
武琉はミハルがバイトを辞めたことを知らなかった。
けれども、武琉はミハルの気配すらしない花屋に違和感を覚えていた。
いつも隣にいたはずの姿が、ふとした瞬間に思い出へと変わっていく。
休憩室の椅子も、いつも飲んでいた缶コーヒーも――どこか、ミハルの気配を探してしまう。
けれど日々のバイトは続き、季節は容赦なく進んでいった。
夜には鈴虫が鳴いて、そして鳴かなくなっていた。
武琉が休憩室に行くと、一ノ瀬がいた。
「久しぶり~」
「あっ、タケちゃん。久しぶりだね。桜井くん辞めちゃったから、なかなか会う機会ないね~」
「……は? あいつ辞めたの?」
「知らなかったの? なんか資格取るから勉強したいらしいよ……」
「そうなんだ」
一ノ瀬は、武琉が怒っていることに気づいた。
「ごめん。知ってると思ってたから。桜井くんには私が言っちゃったの、内緒にしといて欲しいな~」
「言ったりしないよ。あいつも俺には会いたくないんだろう」
「なんかあったの?」
「……まぁ、あったと言えばあったし、なかったと言えばなかった」
「何それ」
一ノ瀬は笑った。
「俺も分かんね~」
一ノ瀬は自分の水筒の蓋を開けて、お茶を飲んだ。
「……タケちゃんって、なんでみかりんと付き合ったの?」
「え? なんでって、なんで?」
「いや……意外だったから」
「そうか? 学校も同じだし、恋に落ちることもあるよ。ワハハハハッ」
「ふ~ん。好きなんだ」
「お……おう、そうだよ」
「ふ~ん」
「なっ、何??」
「ううん。本当に意外だなぁって思って」
「りんりんはミハルのことが好きなんだろ?」
「あ~、うん、まぁそうだったんだけど、やめたの」
「なんで?」
「だって、敵わないから」
「どういうこと?」
「桜井くんには、ずっと想ってる人がいるんだよ。それが分かったから」
「お前、知ってんの?」
「ん? 何を?」
「いや、その~」
「桜井くんが誰を好きかってこと?」
武琉は微かに頷いた。
「聞いたわけじゃないけど、見てたら分かる。私、勘がいいんだ」
「へ~、そうなんだ」
「私、てっきり両想いだと思ってたから、ちょっと残念」
「そんなわけないだろ」
「え?」
「あっ、いや、違って、あの~」
「どうして? 男同士だから?」
「そりゃそうだろ。男同士なんて気持ちわり~じゃん」
「そうかな。好きになったんだから、仕方ないじゃん」
「じゃあ、りんりんだってミハルのこと好きなら、やめんなよ」
「ふ~ん。タケちゃん余裕だね」
「なんだよ。俺、友達としてミハルには幸せでいて欲しいから」
「ふ~ん。じゃあ、私が桜井くんと付き合ってもいいんだ」
「おう、行けよ。似合ってるよ、お前ら」
「ふ~ん。じゃあ、そうしようかな。今なら弱ってそうだし、聞いてくれるかもね」
「おう」
「付き合っても後悔しないでよね」
「するか」
一ノ瀬は武琉をじっと見た。
武琉も一ノ瀬から視線を外さないようにしたが、結局見てられずに逸らした。
「じゃあ、私、休憩終わりだから」
一ノ瀬はスマホと水筒を持って、休憩室を出た。
りんりん、怖え~。と武琉は思った。
りんりんは、どこまで分かっているんだろう……。
ミハルはやっぱり、俺のこと本気で好きだったんだろうか。
だから、何も言わずに辞めたんだろうか。
もう逢えないのかもしれないと思うと、何か大事なものを失ったような気がした。
もし一ノ瀬とミハルが付き合ったら、ミハルから連絡をくれるかもしれない。
そうすれば、また前のように、仲の良い幼馴染として会えるだろう……。
そうであってほしいと、武琉は思った。
――俺はミハルを守るヒーローにはなれても、隣にいる恋人にはなれないんだから。
武琉は、巨大迷路でのミハルとのことを思い出した。
あの時も、子どもの頃も、ミハルに対して変な気持ちを感じた。
それが何かは、薄々分かっていた。
でも、それだけは許されないことだと、自分に言い聞かせた。
そんなことを自分に許したら、母ちゃんや家族を裏切ることになる。
全然ダメダメな息子が、同性を好きになるなんて、そんなことあってはならない。
みかりんと付き合ったんだから、みかりんを大事にしよう――武琉はそう思った。
そう思いながらも、みかりんとは手をつなぐことすらできなかった。
そして、みかりんを好きだと感じることもなかった。
それでも武琉は、自分の気持ちを無視し続けていた。
形だけの恋人だった。
――心は、もうどこにもなかった。




