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5章 気づきたくない気持ちと気づかれたくない気持ち

 こんなことになるなら、わざわざ手紙を取り出して入れ替えなくてもよかったな……。

 思わず笑ってしまう。


 俺は、バイトに向かう自転車を漕ぎながら、タイムカプセルを掘り出した日のことを思い出していた。


 ミハルと一緒に掘り出した手紙は、結局ほとんど読めなかった。

 俺は五年生のとき、こっそり自分の手紙を入れ替えた。

 あの頃の俺はサッカーのことしか頭になくて、「プロになる!」なんて書いた。

 その手紙をミハルに見られるのが恥ずかしくて仕方なかった。


 ――でも、そんなことする必要なんてなかったんだ。

 

 今となっては、あの頃の自分も、あの手紙も、全部まるごと笑える。

 俺は小さく笑った。

 結局、手紙はくっついて取れなかった。


「……くっついていたいんだよ。その手紙は」


 ミハルの言葉が耳の奥に残る。

 やっぱり、あいつ、女子みたいだよな。くすぐったい気持ちになった。

 ミハルが女だったら、絶対に好きになってた。

 そんなことを考えて、顔がニヤける。


 ――アホらしい。


 再会したときも、思わず「初恋かも」なんて思ってしまった。

 昔、ミハルが泊まりに来た夜も、変な気持ちになったっけ。


 ……俺、やばいな。やっべ~……。


 あいつが女みたいなのが悪い。男を好きになるとか、ありえねぇ。気持ちわりぃ。

 そうだ、あいつは男だ。男ーー。

 しっかりしろ、俺。


 けど、ミハルはきっとモテるだろう。

 身長も伸びて、もう俺とほとんど変わらなかった。

 彼女がいたこともあるだろう。

 どんな奴が好きなんだろう。……今度、聞いてみるか。

 

 いや、聞きたくない。なんでだ?

 

 自分でツッコミを入れる。

 

 もし彼女がいたら、俺は惨めに感じるのか? 

 ミハルを羨ましいと思ってる?

 それともただ、友達として独り占めしたいだけなのか。

 どっちにしろ、自分の幼稚さが情けなくなった。

 

 俺、ミハルと再会してから、ずっとおかしい。

 しっかりしなくては……。


 バイト先に着くと、更衣室ではちょうどミハルが着替えを終えていた。

「おっ、ミハル!」

「武琉!」

 嬉しそうに笑うその顔は、昔と何も変わっていない。

 男なのに、可愛いと思ってしまう。

 ややこしくて、少し腹が立った。


 ミハルの笑顔が目に焼きつく。

 タイムカプセルを開けたのは、あの日の手紙じゃなく、

 

 ――多分、俺の中に眠ってた『なにか』の方だった。


「お、お前さぁ、彼女とかいね~の?」

「なんだよ。突然」

「もしかして、いるの?」

「……いね~けど」

「嘘だろ? そんな顔して? 今までは? いたことくらいあんじゃね~の?」

「いね~よ。お前は? ……この前おばさんも言ってたけど、本当に付き合ったこと、ね~のか?」

 ミハルが消えそうな声で言った。

「そうなんだよな。母ちゃん余計なこと、言ってたけどさぁ、まぁ、いい奴がいたら、紹介してくれても良いぞ。ワハハハハッ」

「なんだよそれ……お前、俺と再会した時、運命だとか言ってたくせに」

 

 ミハルが、なんだか拗ねたように言う。

 可愛い……。いや、違う!


「そう言えば、そんなこと、言ったっけなぁ。ワハハハハッ」

「あんな風にいろんな奴に言ったら良いんじゃね~の? 自分でナンパでもしろ!」

「いや~あの時は、なんか口走ったっつ~か。お前、めっちゃ可愛い女子だと思ったからさぁ。あんなこと、普段言わね~よ」


 ミハルは少し俯いて、顔を赤くしていた。

 その態度にちょっと焦った。


「まぁでも男だったけどな」

「……悪かったな。男で」

「あ~マジお前が女だったらなぁ~」

「じゃぁ、武琉は、俺みたいな顔の、女がタイプってことなんだな」

「そうだな。お前みたいな顔の女だったら……タイプだな」

「じゃぁ似てる女子、いたら紹介してやるよ」

「本当に!? そんな奴いんの?」

「お前……見た目だけかよ!」

「そんなことね~けど、タイプなんだから仕方ね~じゃん」

「……じゃ俺でも良いんじゃね~?」


 突然言われたその言葉にびっくりして、鼓動が早くなった。


「だっ、だから、お前は男だろ、男同士なんてありえね~だろ」

「冗談だよ! バカヤロ~。紹介出来そうなやつ探しとくよ! じゃぁな!」

 

 ミハルは怒ったように言って、去っていった。

「おっおう……」


 少しの間、去っていくミハルの背中を見送った。

 なんか怒ってる? 女扱いしたからかな……。

 昔も「ちゃん」付けで呼んで怒られたっけ。

 成長しても、女みて~で、ややこしいんだよ。


 ロッカーの扉を開けて着替える。

 雨は降ってないけど、梅雨入りしたらしい。

 更衣室が、いつもよりもカビ臭いような気がした。




 ……あ~もう! 何なんだよ!! 武琉のばかやろー!!


 俺は、勢いよく更衣室を飛び出した。

 バックヤードの廊下で立ち止まり、すぐにゆっくりと歩き出す。


「いい奴がいたら紹介してくれてもいいぞ」だと!? 

 

 腹立つ!

 ――まあ、あいつにとって俺は幼馴染でしかないんよな。

 

 武琉は昔から、俺を女扱いする。そのくせ、俺を男だと言って突き放す。

 分かっていたはずなのに、一人で怒って……ほんと、バカみたいだ。

 

 胸の奥がぐちゃぐちゃになる。


 子どもの頃の記憶だけど、武琉はモテた。

 今まで彼女が出来たこと、本当にないのかな……。

 確かに太ったってのはあるかもしれないけど、頭もいいし、優しいし、武琉を好きになる子がいてもおかしくない。

 

 ……武琉、そういうの鈍感そうだもんな。

 

 あいつは女の子が好きで、俺は男だし。


 ふと、昔のことを思い出す。

 あれは小学校一年生になったばかりの頃だった。


「武琉大好き!」

 

 いつものように俺がそう言うと、クラスの男子が言った。


「お前、気持ちわり~」

「なんで?」

「だってお前、男じゃん! 男が男に『大好き』とか気持ちわり~じゃん」

「そうなの?」


 すると武琉が格好つけて言った。

「男が男を好きなわけないだろ! ミハルは俺のファンなんだよ。俺はミハルのヒーローだから!」

 武琉はヒーローの決めポーズみたいに、片腕を胸の前にパッと置いた。


「は? なんだそれ」

「お前、ヒーロー分かんねーの?」

「分かるよ。俺だってテレビで観てるもん」

「だろ、それだよ! 俺は戦隊ジャーレッドだ! トォッ! 俺はミハルを守るんだ!」


 その子は笑った。

「じゃあ俺、ブルーやる~!」

「俺、イエロー~!」

「学校の秩序を守るんだ!」

「お~!!」


 そうやって何人かの男子が集まって、運動場へ走っていった。

 去り際に武琉は俺を見て、にこりと笑った。

 その笑顔が格好良くて本当のヒーローのように見えた。

 武琉は優しくて、賢くて、面白くて、みんなから好かれていた。

 でも、俺はその日以来、武琉に「大好き」と言うのをやめた。


 あの頃の俺は、男女の区別なんてよく分かっていなかったし、好きの種類なんてなおさら考えたこともなかった。

 でも、最後に武琉の家に泊まった夜、はっきり分かった。

 武琉への「好き」は、他の誰にも向けたことのないものだって。


 だけど武琉は、そんなこと思ってもいないだろう。

 もし俺の気持ちを知ったら、なんて言うんだろう。


 ――お前、男だろ。そんなこと言うならもう会わねー。


 頭の中でそんな声が響いて、胸の奥がひんやりとした。

 今までは本人がいなかったからバレなかったけど、これからは気をつけよう。

 態度で気づかれてしまうかもしれない。


 さっきも「俺でも良いんじゃね~?」とか言っちゃったし……。はぁ~。

 うなだれて下を見る。バックヤードのコンクリートの壁が、いつもより冷たく感じた。


 気をつけよう。嫌われたら、絶対に嫌だ!!


 それなら、誰かを紹介した方がまだマシだ。

 そう思いながらも、どうしようもなく悲しくなった。


「桜井くん、遅~い!!」

 店に着いた途端、一ノ瀬が声をかけてきた。

 少し前から一ノ瀬はここでバイトをしていて、同じ時間帯のときは学校帰りに一緒に来ている。


「え? まだ始業時間前だし」

「そうだけど……。何かあった?」


 鋭い。女子って感覚が鋭い人が多いけど、一ノ瀬は特に鋭いタイプだ。

 まあ、そういうところが気の合うところでもあり、ちょっと苦手なところでもある。


「いや、別に」

「ふ~ん。ならいいけど」

 一ノ瀬は「絶対なんかあったでしょ」って顔で俺を見てきた。


「いやっ、ちょっと……更衣室に、ムカつく奴がいただけ」

「え~、どんな奴? 桜井くん、目立ちそうだもんね~」

「一ノ瀬もな」

 そう言って笑った。

 一ノ瀬も笑っていた。


「ほら、挨拶行くぞ」

 俺たちはいつものように、店長のところへ挨拶に向かった。


 ――武琉、一ノ瀬とか好きそうだよな……。

 

 あ〜、もう! 絶対、会わせたくね〜。

 一ノ瀬といるところを、武琉に見られないようにしよう。そう、固く誓った。




 湿気でうねる髪を括り直しながら、俺は駅への道を歩き出す。

 夜の湿った風が頬をかすめ、街灯に照らされたアスファルトがかすかに光っていた。

 一ノ瀬は楽しそうに隣を歩いている。


 二人の影が並んで伸びていくのを見ながら、ふと思う。


 ――周りから見たら、付き合ってるように見えるのだろうか。


 そんな他愛もないことを考えていると、一ノ瀬が声を上げた。


「あっ、ロッカーにポロシャツ忘れてきちゃった! ごめん、取ってくるね! 先に帰ってて」

「別にいいよ。ここで待ってる」

「ほんと? ありがと!」


 そう言って、一ノ瀬は駅前の明かりの中を駆けていった。

 俺はロータリーのベンチに腰を下ろす。

 行き交う人たちの足音と、バスのブレーキ音が混じり合って響いていた。


 少しして、向こうの通りを自転車で走る武琉の姿が見えた。


 ――武琉も今、帰りか。


 一緒に帰れたら、どんなに嬉しいだろう。

 そんなことをぼんやり思いながら、曇った夜空を見上げた。


 ――梅雨入りしたらしい。

 

 雨はまだ降ってはいなかった。けれども空気はもうしっかり梅雨の気配を漂わせていた。


「ミハル!」


 背中の方から武琉の声がした。

 驚いて振り返ると、武琉が自転車を押して立っていた。


「あれ? 今、帰っていかなかった?」

「おう。ミハルの姿が見えたから、戻ってきた」

「そうなんだ」


 俺は嬉しかった。

 でも同時に、一ノ瀬のことを思い出し、胸の奥がざわついた。


「何? なんかあった?」

 俺は武琉に何か言われる前に、先に口を開いた。

「いや、ただ見えたから来ただけ。お前こそ、ここで何してんの? バスでどっか行くのか?」

「いや……ちょっと友達待ってるだけだよ」

「そっか。じゃあ一緒に待ってやるよ」

「えっ? いいよいいよ。用がないなら、早く帰れよ」

「大丈夫だよ。一人じゃ暇だろ?」

「そんなことねーよ。大丈夫だから、早く帰れよ。おばさん心配するぞ」

「え? 何、お前、俺に早く帰ってほしいの? 怪しいなあ~。友達じゃなくて、本当は彼女だったりして~」

「そういうんじゃねーから! 早く帰れよ、遅いし!」


 そんなことを言っていると、一ノ瀬が戻ってくるのが見えた。


「いや、俺んちなんてすぐだし、お前の方が遠いじゃん」

 武琉はのん気に話を続けている。


 あ~もう、だから早く帰ってほしかったのに!!!


「友達来たから、じゃあな!」

 

 武琉にそう伝えると、一ノ瀬が駅のロータリーに着く前に、俺は一ノ瀬のもとへ猛ダッシュした。

 一ノ瀬は勢いよく走ってきた俺に、驚いたように言った。


「どうしたの?」

「はぁ、はぁ、はぁ……いや、ちょっと、はぁ……変な奴がいたから、こっちから、改札に行こう。はぁ、はぁ」


 俺は一ノ瀬を、さっきいたロータリーとは反対側へ誘導した。

 武琉を横目で確認しながら、急ぐように歩く。

 武琉はしばらく不思議そうに俺を見ていたが、何かに気づいたようで、自転車に乗って帰っていった。

 ホッとした――そう思ったのも束の間。


「ミハル~」


 武琉の声だった。俺は愕然とした。

「お前、慌てすぎだぞ」

 そう言って、武琉が何やら袋を差し出した。

 それは、俺のバイトの制服が入った袋だった。

 俺のばか!!

「武琉~……」

 俺は縋る(すが  )ように武琉を見た。

「お前って、抜けてるなっ」

「ん~……」

 なんとも言えない気持ちで、その袋を受け取った。

「ありがとう」

「彼女なのか?」

 

 武琉がニヤニヤしながら、俺に耳打ちした。

 その瞬間、吐息が耳に掛かってゾワっとして、鼓動が早くなった。

 耳が赤くなるのが自分でも分かる。


「あっ、違っ……友達」


 胸の奥で何かがうごめくのを感じながら、観念して、二人を紹介した。


「同じ学校でバイト仲間の一ノ瀬さん。こいつは俺の幼馴染の渡瀬」


「渡瀬武琉です! よろしく~!」

 武琉が指を二本伸ばし、顔の横でシュッと振った。


 一ノ瀬は少し笑って、会釈した。

 俺は二人の間に割って入り、急ぐように言った。


「じゃあ、俺ら電車の時間があるから! 一ノ瀬、行こう!」

 

 武琉にそう言って、足早にその場を離れた。

 一ノ瀬が武琉にペコッと頭を下げ、俺の少し後からついてくる。

 二人で駆けるように、駅の改札口へと向かった。


 ホームに着くと、ちょうど電車が来たので、そのまま乗り込んだ。

 車内のもわっとした空気が全身に絡みつく。

 車内の座席はすべて埋まっていて、立っている人も多いが、混雑というほどではなかった。

 俺たちは扉のそばに立った。するとすぐ、一ノ瀬が面白そうに話し始めた。


「桜井くん。変な奴って、もしかしてさっきの人のこと言ってたの?」

「えっ、あっ、いや~……」

「あんなに焦ってる桜井くん、初めて見た」


 そう言われて、俺は無表情を決めた。


「別に焦ってないよ」

「だいぶ焦ってたよ」

「そうかな」

「あの渡瀬くんって人と、何かあったの?」

「いや……別に……あいつ、女の子紹介してほしいってうるさいからさ」

「そうだったんだ」

「それに、ただでさえ遅いし、あそこで話してたら一ノ瀬にも悪いだろ」

 俺は、もっともらしい理由をつけた。


「……気にしてくれて、ありがとう」

 なんとなく嫌味に聞こえる。

「……うん。やっぱり女の子なんだから、あんまり遅いのもね。ただでさえバイト遠いしさ」

 さらに正当化するように言った。

「うん、そうだね。でも本当、バイト紹介してくれてありがとう。あそこのお店の人たち、すっごくいい人たちばかりで働きやす~い!」

「それなら良かった」

 話題が変わり、ほっとして一ノ瀬に笑顔を向けた。


 武琉はどう思っただろう?

 帰ったら、なんとなくメッセージでも入れとこうかな――。

 そんなことをぼんやりと考えていた。


 家に着いて夕食を食べたあと、勉強机に向かい、スマホの画面を見つめる。


 ……武琉になんて送ろう。


 しばらくして、画面に文字を打ち込む。


『さっきはゆっくり話せなくてごめん。俺ら遠いから、すまん。ちなみに本当に彼女とかじゃないから』


 そう打ってから、「ちなみに彼女とかじゃないから」の部分を消す。

 ん~……なんか、わざわざ送るのも変か。


 そもそも、武琉は別にゆっくり話したかったわけじゃないだろうし……。

 スマホの画面を見つめながら、さっき打った文章をすべて消した。

 スマホを机の上に置き、その上に項垂れる。


 ――武琉は一ノ瀬のこと、どう思ったんだろう?


 もし武琉に「俺の彼女なんだ」って言っておいたら、好きになったりはしないかな……。

 そんなこと考えても、俺を好きになってくれるわけじゃないのに。

 もし武琉が一ノ瀬を気に入って、一ノ瀬も武琉を気に入って、二人が付き合ったら……。

 望みなんてなくても、やっぱりそんな姿は見たくない。

 でも、武琉と幼馴染で居続けるということは、いずれ誰かと付き合って、結婚していく姿も見届けるということだ。

 

 ……やだな。

 

 武琉が子どもを抱いて、「パパ」なんて呼ばれて、「ミハルおじさん」とか言われたりしたら。


 ――はぁ、どこまで考えてんだよ……。


 すぐに変な妄想をしてしまう痛い自分が嫌になる。

 

 馬鹿なこと考えてないで、風呂でも入ろう。

 立ち上がって、寝巻きをクローゼットの引き出しから取った。

 

 パラパラと雨の音が聞こえてくる。

 

 外はどうやら、雨が降り始めたらしい。

 カーテンを少し開け、隙間から外を覗く。

 やっぱり、雨が降っていた。


 ――梅雨入りしたらしい。


 着替えを手に取り、風呂場へ向かう。


 その日から数日間、天気はずっとぐずついていた。

 しとしとと降り続ける雨の合間に、二人の日々は静かに形を変えていく。


 でも、この日は明け方に雨が上がり、おかげで、太陽に照らされた雨粒が街並みをキラキラと輝かせていた。

 六月も終わりに近づいた、まだ梅雨真っ只中の日だった。


 この日、武琉は初めてミハルのうちへ遊びにいく事になっていた。

 電車の窓から見える外の輝かしい景色が武琉の心をさらに浮き立たせた。

 ミハルに会えることが待ち遠しくて、胸の鼓動が弾む。つい顔が緩む。

 


 やっと駅に着くと、改札の向こうにミハルが立っているのが見えた。


「ミハル~!」


 ミハルに向けて手を振った。


「武琉〜」


 相変わらず、俺に向かって嬉しそうに近づいてくるその姿に、少し恥ずかしくなる。


「やっと着いた~。お前、いつもこの距離、帰ってんの、すげ~な」

「まぁ、もう慣れた」

 ミハルはクスッと笑った。

「ここから、十分くらい歩くぞ」

「え? まだ十分も歩くのかよ?」

「十分なんてすぐだよ、すぐ」

「お〜」


 ミハルの家まで歩く間、ミハルはずっと楽しそうだった。

 そんな姿を見ていると、俺は嬉しくなる。なぜだか分からないけど、ただ隣にいるだけでいいんだと思える。昔から、そんな気持ちにさせてくれる気がする。



「ここだよ」

 ミハルの家は、十五階建てのマンションの五階にあった。

 エレベータで五階まで上がり、ミハルのうちの玄関を開けると、ハーブのようないい香りがした。

「お邪魔しま~す」

 

 靴を脱いで、廊下を通り、リビングへ入ると、部屋には観葉植物やハーブが溢れていた。

 そして、光がやさしく葉を透かしていた。


「すげ~!!」


 たくさんの観葉植物、キッチンの窓際には、ハーブらしき物、それから、天井からも植物達が吊り下げられていた。そして、部屋の中はいい香りがした。


「あ、これ」

 俺は紙袋をミハルに差し出した。

 中には、母ちゃんに持って行けと言われた菓子折りが入っている。


「誰もいないし、気を遣うなって言ったのに」

「いや、母ちゃんがどうしてもって」


 なんとなく恥ずかしくなって笑うと、ミハルもつられて笑った。

 以前、ミハルがうちに来た時もそうだった。

 こういう『ちゃんとしたやり取り』が、なんだかくすぐったく感じる。


 ミハルは自分の部屋へ案内してくた。その部屋も同じように植物で溢れていた。

「お前の部屋も植物、すげ~な」

 ミハルは少し照れて笑った。

「今、お茶持ってくる」

「おう、ありがとう」


 部屋を見渡す。

 そういえば、子供の頃もミハルの家で遊んだ事は、数えるほどしかなかった。

 ミハルの母ちゃんは家で仕事をしてることが多くて、いつも会うのは俺の家か、河原か、公園だった。

 こんな家に住んでるなんて、ちょっと意外だ――いや、意外でもないか。

 ミハルらしい。

 植物が多いせいか、空気がやけに澄んでいて、思いきり深呼吸をした。

 気持ちいい。


 ミハルが戻ってきて、ローテーブルにお茶を置いた。

「お前、昔から花とか好きそうだったけど、マジびっくりしたわ。これ全部お前が育ててんの?」

「うん」

「あの用水路のとこでよく遊んだよな」

「俺、あの頃の河原みたいな庭を作りたいんだよな」

「用水路な」


 二人でクスクス笑った。


「いいんだよ。俺の中では河原だから」

 

 そう言って笑うミハルの顔が、子どもの頃のままだった。

 光に照らされた笑顔に、あの頃の可愛い面影が重なる。

 不意に胸がざわつき、視線をそらした。


「こ、これ、この花。よく取ったよな」

 俺は、背丈四十センチくらいの、淡いピンクの花を指差した。


「分かる? これ、ハルジオンって言うんだよ。武琉がよく引っこ抜いてたやつ」

「覚えてる。これ見るたびに、お前のこと思い出してた」

「えっ……お、俺も!」

 

 目が合って、胸の奥がくすぐったくなる。

 笑うしかなかった。ミハルも笑ってる。


 ――なんでこんなに可愛いんだろう。

 

 男なのに、そんなこと思う自分がまたおかしくて、変な笑いが出そうになった。


 ミハルも照れたように、俯いた。


「でもさ、これ外来種で嫌われ者なんだ」

「へぇ、こんなに綺麗なのに?」

「うん。俺、この花、好きなんだ」


 『好き』って言葉に、なぜか心臓が跳ねた。

 自分に言われたわけでもないのに。

 あ〜、マジでなんなんだ、俺……。

 俺はそんな自分をかき消すように話題を変えた。


「そういえばさ、お前、あの子、ほら、駅のロータリーで会った……」

「ああ、一ノ瀬?」

「そう、それ。付き合ったりしねぇの?」

「だから違うって。バイトと、部活が一緒なだけ」

「へぇ~。お前、部活入ってんの?」

「うん。『草花研究部』ってやつ。週二回くらいだけど」

「何すんの?」

「ん〜、学校の花壇の手入れとか、地域のイベントの手伝いとか」

「ふ~ん。あの子とも一緒に?」


 ニヤニヤしてみせると、ミハルが慌てた。


「だから違うって。他にも部員いるし!」

「お前の好きな子なんだろ?」

「は!? なんで!?」

「お前、あの時、なんか変だったからさ。あの子、美人だったし。ライバル増えたら困るのかな~って思って」

「なんだそれ。武琉が気になるなら紹介するぞ?」

「本当にいいの? お前、好きじゃないの?」

「だから違うって!」

「まぁ、本当に違うなら紹介してよ」

 

 ミハルが一瞬、寂しそうな顔をした気がして、焦った。

 本当のところどうなのだろう……。

 八年もの空白で、ミハルが何を考えているのかいまいち分からない。

 

「まぁでも、紹介されたって付き合えるわけじゃねーけどな。ハハハ」

「でも武琉、モテんじゃん」

「それ、昔の話な。今の俺見てそう思うか?」

「思うよ。見た目だけじゃないだろ。人を好きになるのって」

「……なんか、お前が言うと皮肉っぽいな」

「なんだよそれ。武琉は分かってねーな」

「分かんねーよ」


 どうしてだろう。

 急にミハルが愛おしくなって、どうしたらいいのか分からなかった。

 その気持ちを誤魔化すみたいに、ミハルの頬を両手で引っ張った。


「やっ、やめろよ! ボケ!」


 顔を真っ赤にして、俺の手を払いのける。

 そんなミハルを見て、心臓が、知らないリズムで小さく震えた。


「ボケ!? ボケだって、可愛すぎかよ。ワハハハハッ」

 

 抱きしめたくなりそうな衝動を感じながら、また頬をグリグリした。


「もう! お前嫌い!」

 

 ――あ、やべ。やりすぎた。


「嘘だって、そんな怒るなよ」

 そう言いながら、ミハルの頭を撫でた。


 ミハルは顔を赤くして、ローテーブルの前に座って、お茶をぐびぐび飲んでいる。

 その姿がまた可愛くて、もっといじめたくなる。


 ――俺、ガキか。


 自分に呆れて、苦笑した。


「俺にもくれ」

 ミハルの横に座って、お茶をせがむと、ミハルはグラスを渡してくれた。

 にっこり笑って受け取って、ひと口飲んだ。


 やばっ。俺、ほんっとにおかしい。マジでややこしんだよなぁ。顔がめっちゃタイプで嫌になる。

 

 こいつは男だ! 男! 本気でしっかりしくては……。

 俺は肝に銘じた。


 ミハルと出会い直した日々は、少しずつ新しい形を作り始めていた。


 その日から少しして、ミハルは武琉に一ノ瀬を紹介した。

 まだまだ、雨の日は続いていた。

 その日も外は雨が降っていて、バックヤードもジメジメしていた。

 俺は花屋のバイトが終わり、一ノ瀬と一緒に着替えのために更衣室へ向かっていた。


「この前の渡瀬とお茶するけど、一緒にどう?」


 バイト終わりに一ノ瀬を誘った。


「あ〜、紹介してくれってやつ?」

「ん〜。ただの友達紹介みたいな感じで」

「いいよ。別にこの後、何もないし」

「ありがとう。じゃあ着替えたら、休憩室で待ってて」

「了解!」


 一ノ瀬は、手を振りながら、女子更衣室へと入っていった。

 俺が、男子更衣室に入ると、武琉が嬉しそうに聞いてきた。


「一ノ瀬さん、いいって?」

 

 その嬉しそうな顔に、胸が疼く。


「おっ、うん。休憩室で待ち合わせした」

「そっか。じゃあ俺、先に行ってるわ」

「おう、俺もすぐ行く!」


 先に二人きりにさせたくなくて、俺は慌てて着替えた。

 でも、休憩室に行くと、武琉と一ノ瀬が並んで俺に手を振った。

 なんで、もう打ち解けてるんだよ……。


「一ノ瀬、早ぇ~」

「そうかな。桜井君がのんびりしてるんだよ」

 一ノ瀬は揶揄う(からか  )ように笑った。

「そうなのかな」

「だって、いっつも私の方が店に入るの早いじゃん」

「……そうだな」


 一ノ瀬はクスッと笑った。

 

 


 それから、バイトが早く終わる日は、三人で休憩室に集まって少しだけ話すようになった。


 ただ、武琉から見ると、一ノ瀬はミハルのことが好きそうだった。

 でもミハルはそんな風には見えなかった。

 むしろ自分に向けられる視線の方が気になったけど、ミハルは昔からそうだった。

 いつも嬉しそうに俺を見ている。でも、この歳になってもまだそんな風に見られると、胸の奥がざわついて、ムカついた。武琉はそんな意味のわからない自分の気持ちを考えないようにして過ごしていた。

 

 そうやって過ごすうちに、梅雨もそろそろ明ける頃になっていた。

 じめッとした休憩室で過ごす日々も終わりそうだった。


 武琉は、三人で話す時間も楽しかったし、特に誰かと付き合いたいわけでもなかった。

 たぶん、ミハルと『男友達っぽい』会話をしてみたかっただけなのかもしれない。本気で女子を紹介してほしかったわけでもなかった。

 けれど、三人だとなんとなく居心地が悪くて、バイト仲間を紹介することにした。


 そうやって、どんどん、二人の交流関係は広がっていった。


「こちら、大学生の吉田さんの、よっしーと、同じ学校の後輩、高橋で、みかりん」

「どうも」

 ミハルと一ノ瀬は頭を下げた。


「いやいや、硬い硬い。一ノ瀬は下の名前なんつ~の?」

 よっしーが一ノ瀬に向かって言った。

「凛です」

「じゃあ、りんりんだな」

「え??」

「俺らあだ名で呼び合ってるから、二人のこともあだ名で呼ぶわ」

「りんりん……」

「あ、ダメだった?」

「あ、いや……まぁ別にいいですけど」

 一ノ瀬は愛想笑いを浮かべた。

「じゃあ、ミハルンとりんりんでよろしく~」

 ミハルはなんとなく笑って頷いた。


 ――『ミハルン』なんて初めて言われた。


 なんだか、防犯カメラの名前みたいでイヤだなとミハルは思った。

 よっしーは茶髪で、いかにもチャラそうな大学生だったが、不思議と悪い印象はなかった。

 みかりんは最近バイトを始めたばかりの、大人しそうな色白の、少しぽっちゃりした可愛らしい子だった。


 

 もうすぐ夏休みが来る。

 日差しも、風の匂いも、どこか夏の煌めきを帯びはじめていた。

 この夏がどんなものになるのかーーまだ、誰も知らない。


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