3章 再会と裏切り
校庭の緑がより一層濃くなっている。
太陽に照らされて、若葉がキラキラと輝いていた。
ミハルは土曜日だというのに、朝から学校にいた。
結局、俺は農業系の高校へと進んだ。
「はぁ~。これで全部か」
カーネーションの入った段ボール箱を車の荷台に入れる。
腕時計を見ると、正午をとっくに過ぎていた。
腹減った……。
やっぱり二年生って、やることが多い。
自分たちで育てたカーネーションを、誇らしげに眺めると、母の喜ぶ顔を思い出した。
早いけれど、昨日、母にこのカーネーションを渡した。
「わぁ、これ、ミハルたちが育てたの? 綺麗ね。ありがとう!」
母はそう言って喜んでいた。母に喜んでもらえるのは嬉しい。
――今も、昔も。
明日は地域ぐるみで母の日のイベントがある。
この学校は地域との交流を大切にしているせいか、いろいろとイベントへの参加も多い。
車のトランクの扉を閉めると、バタン! という音が、静かな校庭に響いた。
今日は天気が良い。心地いい風を感じて、息を吸った。
暦の上ではもう夏らしい。今日は一段と夏を思わせるほどの暑さだった。
ぼーっと空を見上げながら、腕まくりしていた制服の袖を戻し、長くなった髪を括り直した。
空を見るのは好きだ。どこに行っても、空だけは変わらない景色を見せてくれる。
変わらないそれを見ていると、俺は安心する。
同じ街にいるということは、武琉も今、この気持ちいい青空を眺めているかもしれない。
――逢いたいなぁ。今どうしているだろうか。
ゆっくりと流れていく雲を見ながら、武琉のことを思っていた。
「先生に言ってきたよ~。後は先生がやってくれるって」
同じ草花研究部の一ノ瀬が、綺麗な黒髪を揺らしながら俺の方へ走ってきた。
一ノ瀬は顔立ちも綺麗で、誰にでも分け隔てがない。だからか、男子たちに人気がある。
「ありがとう。みんなもう帰ったよ」
「そっか、桜井君もありがとう。あ~、お腹すいた~」
「俺も。こんなにかかるとは思ってなかったよ」
「私も~。どっかで食べて帰ろうかな。桜井君は今日バイト?」
「うん」
「お昼どうするの?」
「弁当持って来てるから、休憩室で食べるわ」
「桜井君のバイト先って、休憩室で食べられるんだ」
「うん。モール全体の休憩室だから、結構自由に使えるんだよ」
「え~。いいなぁ。桜井君のバイト先って、バイト募集してないの?」
一ノ瀬が目を輝かせて俺を見た。
「あー、どうだろう?」
「もし良かったら、募集してないか聞いてほしいな~」
「え? バイトしてなかったっけ?」
「やめたの」
「え? 良いところだって言ってなかったっけ?」
「それがさぁ、新しい店長がちょー嫌なやつでさぁ。花の扱いも雑だし。あんな花屋で、絶対花買わない!」
「そ、そっか。そんな酷かったんだ……」
「そ~なんだよ」
一ノ瀬はそう言いながら、花壇の横に置いてあった自分の鞄を手に取った。
「とりあえず帰ろっか」
「おう」
俺たちは駅に向かって歩き始めた。
「だから、もし桜井君のバイト先、募集してたら行きたいなぁ」
「でも、遠いよ」
「でも桜井君は、もっと遠いでしょ」
「まぁ、帰りは一時間くらいかかるかな」
「え! そんなに遠いの??」
「うん、だって学校までも三十分はかかってるからな」
「そんなに遠いのに、どうしてそこに行ってるの?」
「それは……」
あ~、聞かれたくない! 好きな人に逢いたいからとか言えるか!
「やっぱり待遇がいいとか?」
「あ~、そういうことなら、多分違うよ。まぁ店長は優しいけど」
「店長って男性?」
「女性。いい人だよ」
「そうなんだ! だからそこにしたの?」
「いやいや、ただ募集見て」
「そうなんだ。え? じゃあ、なんでそこだったの?」
あ~、こういうところが苦手なんだよなぁ。人には聞かれたくないこともあるというのに。
「逆に近場が苦手だから」
「そうなんだ。まぁ確かに、近いと知り合いに会っちゃうってのはあるよね~」
やっと納得してくれたらしい。
俺は少しほっとする。
「どうする? 聞いとく?」
「うん! お願い!」
「分かった。じゃあ聞いとく」
「ありがとう」
まぁ、あまり人と関わろうとしない俺にとっては、一ノ瀬みたいなタイプはありがたい存在だったりもするのだけど……。
駅に着き、定期を取り出して改札を通った。
「桜井君とバイトできたら楽しそうだなぁ」
「……うん、そうだね」
「あっ、もしかして嫌だった?」
「あっ、いや、そんなことね~よ。ただ、遠いからさ、本当にいいのかな? って思って」
「ん〜。でも私、急行停まるからそんなに遠くないかも」
「あっ。そっか。なら良かった」
あ~、なんだか、嫌な感じがする……。
一ノ瀬が降りる駅に着く。
「あっ、じゃあまた明日ね」
一ノ瀬は手を振りながら電車を降りた。
「おう。また明日」
電車はバイト先の駅へと出発した。
一ノ瀬は、バイトの募集があったら来るのだろうか。
――もし武琉と再会できたら……。
男子から人気のある一ノ瀬が、そこにいるのはなんとなく嫌な感じがした。
でも断る理由も特に見つからなかった。
どっちにしても、バイトを始めてほぼ一年、いまだに会えたことはない。
まぁ会えても気づいていないだけかもしれないけれど……。
いや、でも、多分会えたら、絶対に分かると思う。
――多分、きっと。
そんな思いを胸の奥にしまい込みながら、俺は今日もバイトへ向かった。
ショッピングモールの裏口を抜けると、いつもの人工的な匂いがした。
コーヒーと洗剤、そして少し花の香りが混ざったような空気が流れてくる。
更衣室の扉を押すと、金属のロッカーがずらりと並んでいた。
反射する蛍光灯の光が、今が昼なのか夜なのか分からなくなりそうなほど、無機質な空間を作り出している。
ロッカーの扉を開いて、鞄を入れ、弁当を手に取る。
そのまま休憩室へ行って、椅子に腰を下ろした。
弁当の蓋を開けると、ふわっと卵焼きの匂いが広がった。
チーズの入った卵焼き。いつもの母さんの味だ。
朝、慌ただしくキッチンに立っていた母の背中が思い浮かぶ。
どんなに忙しくても、いつも食事だけはきちんとしてくれる。
あまり会話はないけれど、言葉じゃないところで、ちゃんと繋がっている気がする。
弁当を食べ終え、空になった箱を包みながら思う。
明日は母の日だ。きっと今日も忙しくなる。頑張るか……。
ロッカーに戻り、制服に袖を通す。鏡に映る自分が、少し大人びて見えた。
そのままバイト先の花屋へと歩く。
バックヤードを抜け、店に着くと、案の定、店内は忙しそうだった。
いつも通り、店の前に来ると、花のいい香りがする。つい深呼吸をしたくなる。
俺はいつも通り、店長を探して挨拶をした。
「おはようございます!」
「桜井君、おはよう! 今日もよろしくね~」
挨拶を終えて店内に視線を向けると、仲の良さそうな兄妹が目に入ってきた。
俺と同じくらいの年齢の、少し小太りの兄と、可愛らしい目のクリっとした中学生くらいの妹だった。
そういえば、武琉にも妹がいたな。
今会えば、きっとあんな感じなのかもしれない……。
「桜井君、こっち手伝って~」
「はい」
店長に呼ばれ、配送の手続きに回る。
「こちらにご記入お願いします」
送り状の用紙を台の上に置く。客が記入している間、店内をぼーっと眺めていた。
さっきの兄妹の会話が耳に入ってくる。
「すげ~! この虹色のやつがよくね~?」
どうやら兄のほうは、派手な虹色の花束が欲しいようだったが、妹から反対されているらしい。
確かにあの花束は高校生には高すぎる。七千円もするものだった。
どうしてそこまでして、それを買うのか理解できなかった。
俺は思わず聞き耳を立てた。
「だって、母ちゃんの驚いた顔見たいじゃん」
どれだけ母親好きなんだよ、とつい笑いそうになる。
「兄ちゃんって、ずっとそれだよね」
「いいじゃん、いいじゃん、びっくりさせたいじゃ〜ん」
その韻を踏むような言い方が、武琉とかぶる。
え……? 武琉??
武琉も母親のことを「母ちゃん」って呼んでた……。
いやいや、いくら会いたいからって、全然見た目が違うのに。
ーー俺、やばいな。
武琉はサッカーをやってて、格好よかった。全然違う。
それなのに、武琉かも、なんて思ってしまうなんて……。
あ~、どれだけ逢いたいんだよ、俺。
配送希望の客が帰り、配送手続きの最終チェックをしていたとき。
「すみませーん」
「はーい」
振り向くとそこには、さっきの小太りの兄が立っていた。
「おっ、おねえさん、これください」
……ん? おねえさん?? 俺のこと?
思わず周囲を確認するが誰もいない。
久々に女に間違えられた……。
笑いそうになるのをこらえて、俺は言った。
「ありがとうございます。メッセージカードはお付けいたしますか?」
この場で書くということだったので、俺はメッセージカードとペンをその兄に渡した。
兄は妹にペンを差し出して言った。
「美咲が書いて」
ドキッとした。
え? 美咲?
武琉の妹と同じ名前だ。
見てはいけないと分かっていながらも、そのメッセージカードを見てしまった。
妹はペンを取り、カードに文字を書いた。
『かあちゃん、いつもありがとう! 武琉と美咲より』
え……? 武琉と美咲……。
漢字まで同じだ……。
俺は背筋がひんやりするのを感じた。
「あれ? おねえさん、桜井っていうの?」
兄が俺の名札を見て言う。
「はい」
「俺の幼馴染も桜井って言うんだ。しかも同じ漢字。なんか俺ら運命感じない?」
その兄はちょっと照れくさそうに言って片手のガッツポーズをした。
ん? なんだ?? こいつ、何を言ってるんだ??
え? 武琉……?
「もう、兄ちゃんやめなよ! すみません」
妹が驚いたように兄を止めて、怒っていた。
「あっ、いえ」
苦笑した顔を戻し、再び笑顔を作る。
「7150円です」
何が起きているのか考えることをやめて、ぼんやりと、ただただ業務をこなしていた。
「ありがとうございました」
作り笑顔をして、二人に花束の入った紙袋を渡した。
二人が店内から出ていくのを見送りながら、俺は呆然と立ち尽くす。
――まさか、武琉なわけないよな……。
「これ、お願いします!」
並んでいた客に声をかけられた。
「あっ、すみません。ありがとうございます。メッセージカードはお付けしますか?」
ダメだ。
ただでさえ忙しいのに、業務に集中しなくては……。
気がつけば、時計の針はもう何度も一周していた。
店内のざわめきが少し落ち着き、ようやく店長から休憩を取るように言われた。
休憩室の自動販売機で、缶コーヒーを買う。
「はぁ~。疲れた〜」
休憩室の椅子に、うなだれるように座った。
ホッとした途端、先ほどの兄妹のことを思い出す。
ま、まさかな。
あの二人が、たまたま同じ名前だっただけだろう。
武琉と美咲なんて、よくある名前だ。
この地域にどれだけの人が住んでると思ってんだよ!
自分の飛躍しすぎる発想に、思わず笑いそうになる。
缶コーヒーを開けると、香ばしい匂いに体が緩む。
一口飲むと、さらに体の緊張がほどけた。
「はぁ~」
桜井って幼馴染がいるって言ってたけど……そこまで同じなんてこと、あるだろうか。
しかも、あの漢字で『武琉』って……。
いや、考えたら『タケル』と読まないのかな……。
スマホで検索してみるが、タケルとしか読まなさそうだ。
背筋がゾワッとした。
いやいや、『桜井』って苗字もたくさんいるし……。
でも、もし再会したとき、あんなふうに太っていたら、俺はどう反応するんだろう?
武琉には逢いたい。
でも、本当に全然変わってしまっていたらどうしよう……。
そんなこと、考えたこともなかったけど、あり得る話だ……。
――俺のこと、女だと思っていたし……。
武琉と初めて会ったとき、武琉は俺のことを女の子だと思っていた。
でも、いくらなんでも子供の頃とは違う。
胸だってないのに、今の俺を見て女だと思うか?
確かに、髪を伸ばしてひとつに束ねてはいるけど……。
でもそれは、女に見られたいからじゃない。
癖毛だから、束ねてるほうが楽なだけだ。
スマホのカメラで自分の姿を見る。
女に見えるかな?
女に見られたいわけでも、女になりたいわけでもない。
ただ、俺が好きになった人が男だったってだけで……。
もし、武琉が女でも、多分俺は好きになってたと思う。
あ~!! もう!!
なんだか、やるせない気持ちになった。
気分を変えたくて、動画アプリをクリックして画面を見た。
ミハルはしばらく、音も立てずに動画をぼんやり眺めていた。
時間だけが、音もなく流れていった。
休憩室の扉が開き、武琉が中を覗いた。
「おー! 居た!」
武琉は思わず声が大きくなって、手で口元を押さえた。
ここの休憩室は意外と静かだ。
ミハルは、何かが自分に向かって真っ直ぐに近づいてくる気配を感じた。
「桜井さん!」
武琉は声を抑えて、小さく呼んだ。
「え??」
ミハルはびっくりして、目を見開いた。
武琉はさらに小声でミハルに話した。
「俺、ここのファーストフード店で働いてんの。やっぱり俺ら、運命じゃね?? ワハハハッ」
その笑い方が、ミハルの中で昔の武琉と重なった。
「タケ……いや、ちがっ……」
武琉のはずがない!! 何言ってんだ、俺!!
ミハルは慌ててコーヒーを飲むと、液体が勢いよく喉に直撃した。
「ゴホゴホゴホッ」
「大丈夫? 驚かせちゃった?」
「ゴホッ。いえ、あの……ゴホゴホッ」
「ここ座っていい?」
武琉は隣の席を指差した。
「あっ、うん。どうぞ」
武琉が座ると同時にミハルが席を立った。
「あっ、でも、俺もう行かなきゃ」
「おっ……お前、男?」
「あっ。うん。ごめん。黙ってて」
「いや、え? マジ? 女にしか見えね~」
「そうかな?」
ミハルは俯いた。
「うん」
武琉はミハルの態度に、本当にミハルなのか自信がなくなった。
直接聞く勇気もなく、昔の話で様子を探ることにした。
「そういえば昔、俺の隣に住んでた奴も、女みてぇでめっちゃ可愛かったんだよなぁ」
武琉は芝居でも打つように話した。
ミハルは無反応だった。
そして、勇気を出して、言った。
「もしかして、ミハルだったりしてな! ワハハハハッ」
ミハルはドキッとして、動けなくなった。
武琉はミハルの沈黙した態度に、やっぱり違うのかと思って誤魔化した。
「……いや、そんなわけないか~。……あいつは大阪に行ったしな」
ミハルは鼻のあたりがじーんとした。
もしかして、本当に武琉なのか!?
込み上げてくる訳の分からない感情に、どうしていいか分からず、慌ててコーヒーの缶を持った。
「じゃあ、俺、休憩終わりだから」
ミハルが去ろうとすると、武琉は思わずミハルの手首を掴んだ。
二人は見つめ合った。
ミハルの瞳が揺れていた。
――武琉なの? 泣き出しそうだ……。
「ミハル、だよな……?」
目の前の武琉が滲んでいく。
ミハルは慌てて、目を逸らした。
武琉はその態度にショックで何も考えられなくなった。
手から力が抜けた。
「ご、ごめん……」
ミハルは何も言えず、早々とその場を去った。
武琉はミハルが去っていく様子を呆然と眺めた。
しばらくして、静かに、そして、沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
は?? なんだよ! あの顔!! 絶対ミハルじゃん!!
なんで何も言わないわけ??
普通、違うとか、そうだとか、何か言うだろ!!
俺がこんなだからか!?
いつからこの辺にいたんだよ!
戻ってきてたなら、すぐに会いに来いよ!! あ~!! 腹が立つ!!
なんで俺、確かめに来たんだろう! なんでこんなこと、確認しに来たんだろう!
俺は、バカだ。何を期待してたんだろう……。
――もうあの頃の俺らじゃないんだ。
ミハルはきっと、俺がこんなでがっかりしたんだろう。
なんだか裏切られたような気持ちになって、心が痛んだ。
鼻のあたりがツーンとする。
涙が出る前にトイレに駆け込んだ。
八年も前のことだ。
俺は本当にバカだ……。俺だけが再会を楽しみにしてたんだ。
バカにされた気がして恥ずかしくなった。
人は変わる。俺も変わったように、ミハルも変わったんだ。
くそ! あいつなんて嫌いだ!!
もう二度と会いたくねぇ!!
――そう思っているのに。
また会えたらと思ってしまう。
そんな自分にむかついた。
思わずトイレの壁を拳で叩く。その拳が滲んで見えた。
武琉は何かが失われたような気になって、虚しくなった。
ミハルは休憩室の扉を開けて外に出た。
思い描いていた武琉が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
え? なんで? どうして? 本当に武琉??
受け入れられなかった。
あんなに逢いたかったはずなのに。
目尻からじんわり、何かが上がってくるのを感じた。
なんで? なんで? なんであんなに太ってんの?
サッカーはどうしたんだよ? あんなに好きだったのに。
あの武琉はどこに行ったんだよ!!
持っていた缶を、少し乱暴にゴミ箱に捨てた。
ガシャッと他の缶に当たる音が響く。
「あ~!! もう!!」
なんなんだよ! なんでこんなにショック受けてんだよ!
太ってたからか? それとも、俺の知ってる武琉じゃなくなってたからか?
――人を見た目で判断するなんて!
自分だって、そう見られるのがずっと嫌だったはずなのに。
見た目で判断する奴を、ずっと軽蔑してきたはずなのに!
ーー俺は、今、人を見た目で判断してる?
あ~! もう、泣きそうだ……。
なんなんだよ。どうしてだよ。あんなに会いたかったはずなのに!!
逃げてしまった。悔しくて、寂しかった。
武琉が悪いわけじゃない。そんなこと、分かってるのに。
あ~、なんなんだ……? 本当に、何にショックなんだ?
勝手に期待して、勝手に落ち込んでる自分が恥ずかしい。
なんで俺……最低だ。
武琉の顔が横切る。
武琉……。
あ~もう! しっかりしろ!! 俺はまだバイト中なんだ!
従業員出入口の扉の前で立ち止まり、息を整える。
頬をパンパンと手で叩いた。それから、ゆっくり深呼吸をした。
――よし! 今は考えるのをやめよう!
扉を開けると、客で賑わういつもの風景が広がっていた。
その光景に平常心を取り戻す。
俺はゆっくりと店の方へ向かった。
「休憩終わりました」
店に着き、店長に言う。
「どうしたの? 桜井君、顔色悪くない?」
「え? そうっすか?」
慌てて自分の顔を触る。
「大丈……」
「大丈夫です」
店長の言葉に被せるように言って、笑顔を向けた。
とにかく、バイトに集中!!
あ、そうだ。一ノ瀬のことも伝えなきゃ。
「店長、友達がバイト探してて、帰りにちょっと聞いていいっすか?」
「了解~」
少しでも考えると泣けてきそうな気持ちを抑えて、俺は業務に集中した。
ーーでも、胸の奥のどこかで、まだ武琉のあの声が響いていた。




