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2章 約束と記憶

 街に緑が濃くなり、日差しの中に夏の予感を感じるほど暑い

 ――そんな五月の日だった。


 その日、俺は妹の美咲と「母の日の花」を買いに行く約束をしていた。

 最近は、ショッピングモール内のファーストフード店でバイトしている。

「兄ちゃん、今日バイト終わるの二時だから、二時十五分くらいに自転車置き場で待ち合わせしようぜ」

「分かった!」

 美咲は可愛い。まだ小学生みたいなあどけなさが残っている。

 普段は部活で忙しいけれど、今週は珍しく休みらしい。

 せっかくだから、一緒に母の日の花を買いに行くことにした。


 バイトが終わると、レジにいた先輩のよっしーに声をかけた。

「今日、妹と後で来るんで、よろしくっす」

「マジで!? タケちゃん妹いるの? いくつ?」


 バイト仲間はみんなあだ名で呼び合っていて、仲が良い。


「今、十三歳っす」

「へ~。仲良いな」

「そうっすね」

「俺の妹なんて、その頃は全然口聞いてくれなかったぜ」

「マジっすか!?」

「タケちゃんも気をつけな。嫌がられないうちにな」

「やなこと言わないでくださいよ」

 よっしーがニヤリと笑う。

 俺はその視線から逃げるように笑い、手を振った。

「じゃ、また後で。お疲れっす!」

「うぃー、お疲れ!」


 ――あー、なんか嫌なこと聞いたな。


 更衣室で私服に着替えると、胸の奥が少しざわついた。

 美咲はまだ大丈夫だろう。

 そう思いながら、自転車置き場へ向かう。


「兄ちゃん!」


 遠くで美咲が手を振り、満面の笑顔でこっちを見ていた。

 美咲は可愛い。俺の大切な妹だ。

「おっ、来たか」

 俺も手を大きく振る。

「無事に着いてて良かった」

「心配性かよ」

 笑う顔がまだあどけない。

「だって、ついこの間まで小学生だったじゃん」

「もう中一だよ。それに兄ちゃんよりしっかりしてるし」

「……それもそうだな。ワハハハハッ。行くか!」


 二人は並んでモールの中へ入った。

 自動ドアを抜けると、人のざわめきが迎えてくれる。


「とりあえず、お茶しようぜ。疲れたし、腹へった……」

「兄ちゃんの奢りでしょ?」

「もちろん! バイト先に行こうぜ」

「え~、恥ずかしくないの?」

「何が?」

「普通、家族連れてくとかさ~」

「え~? むしろ連れて行きたいだろ!」

「ふふっ。兄ちゃんってやっぱ面白い」

「だろ?」


 面白いと言われるのは悪くない。

 そういう時、みんな良い顔をしている。

 

 バイト先のファーストフード店は、モールの一階にあるレストラン街の一角だ。

 外からも出入りできるせいか、いつも客が絶えない。

 近づくと、ガシャガシャとフライヤーの音、ピロピロとタイマーの音。

 そしてあの独特なハンバーガーの匂いが漂ってくる。

 店内はピークを過ぎ、少し落ち着きを取り戻していた。


「ちぃ~っす!」


 レジに立つと、大学生で先輩のよっしーがすぐに気づいた。

「お、来たね~。妹ちゃん?」

「妹の美咲っす!」


 俺は得意げに紹介する。

 美咲は少し照れながら、ぺこっと頭を下げた。


「こんにちは」

「こんにちは。可愛いね~」

「兄がいつもお世話になってます」


 落ち着いた口調に、やっぱり美咲の方が大人だなと思う。


「いえいえ、こちらこそ。で、何頼む?」

「あっ、俺はこのセットで、コーラで」

「私は、アイスティーとアップルパイで」

「オッケー」


 よっしーが手際よくオーダーを打つ。


「これからどっか行くの?」

「母の日の花を買いに行くんす」

「へぇ~、仲いいなぁ」


 笑うよっしーに軽く手を振り、二人で窓際の席に座った。


「お兄ちゃん、バイト先の人達と仲良いんだね」

「だろ。特にあの先輩は優しいし、みんなから好かれてる」

「確かに、いい人そう」

「……だけど、美咲、好きになったらダメだぞ」

「何でそうなるのよ」

「ワハハハハッ。お前、好きな奴とかいるのか?」


 俺はストローの袋を開け、カップに刺して一口飲んだ。


「いないし、いても絶対に言わない」

「何でだよ! 俺がどんな奴か、ちゃんと見てやるから、言えって」

「絶対言わない! 兄ちゃんに言ったら、あっという間に広まる」

「んなことねぇ~わ」


 美咲は呆れながらも笑っている。

 その笑顔に、ふと安心した。

 こいつ、まだ反抗期には遠いな。


「それにしても今年は、花屋で買おうなんて、珍しいね」

「だって、俺の初バイト代だからさ」

「だから、花買おうって言ったんだ」

「まぁな。やっぱり初めて稼いだお金は、母ちゃんと美咲に使いたいじゃん」

「……兄ちゃん、キモい」

「えっ……」

 うっ、ちょっと傷つく……。

 よっしーの「嫌がられんなよ」が頭をよぎる。


「そんなキモいか?」

「兄ちゃん、どうしたの?」

「美咲が『キモい』なんて、兄ちゃん悲しいよ」

「もう、大げさだよ~」


 美咲が笑って、ストローをくるくる回す。


「嘘だよ。良い兄ちゃんだと思ってるよ」

「本当かよ」

「ところでさぁ、バイト代、いくら入ったの?」

 美咲の目が輝く。


「まぁ、ん万円」

「え?」

「ん万円よ」

「もう、いくらよ~」

「秘密!」

「え~??」


 俺はハンバーガーを頬張りながら笑った。


 ――一万円とか言えねぇ。

 

 平常心を装いながら、ソースのついた指を拭った。


「明日って、いつもみたいにカレーも作る?」

「そうだな。作るか」

「小さい頃はさ、家の前で花摘んでたよね」

「そうだったな」

「覚えてる? 家の前でたんぽぽとか摘んで、お母さんにあげてたよね」

「覚えてるよ」


 花を摘み出したのは、ミハルの影響だった。

 ミハルのことを思い出すと、自然とあの春の日の光景が浮かぶ。


「武琉~」


 母ちゃんから呼ばれて、俺は玄関へ出た。


「お隣に引っ越して来られたの。武琉と同じ歳なんだって」


 そこには色が白くて、少し釣り上がった大きな目をした可愛らしい女の子がいた。

 俺は、そこから目が離せなくなった。


「武琉君? この子はミハル。明日から、幼稚園同じだから、よろしくね」

 とミハルの母ちゃんから言われた。

「うん! わかった!」


 嬉しかった。

 同じ歳の可愛い子が引っ越して来たんだと思った。

 でも翌日の入園式。ミハルが男の子の制服を着ていて、俺は言葉を失った。


 まさか、男だったなんて……。


 それでも不思議と、嫌な気持ちはしなかった。

 むしろ目が離せなくなった。


 園では、俺達男の子が、ヒーローごっこで走り回っている横で、ミハルはいつも女の子達と、花を摘んだり、ママゴトをして遊んでいた。

 家に帰ってから二人で遊ぶ時も、俺はずっと、ヒーローの真似をして遊んでいたけれど、ミハルはその横で俺を見て笑ったり、花を摘んだりしていた。

 俺も時々、一緒に花を摘んで、母ちゃんにあげた。母ちゃんは凄く喜んでくれて、それが嬉しかった。

 ミハルが摘もうとした花が中々抜けなくて、俺が引っこ抜いてやったりすると、ミハルは目を輝かせて、俺に言った。


 「武琉は僕のヒーローだね!」


 あの言葉を聞いた瞬間、胸の中が温かくなった。

 ミハルは元気だろうか。


 二人は食べ終わったトレイを重ね、立ち上がった。


「じゃぁ行くか」


 軽く伸びをすると、美咲も立ち上がる。

 トレイを返却口に戻し、よっしーに軽く会釈して店を出た。


 モール内の花屋に着き、店頭の花の前で立ち止まると、甘い花の香りがした。

 思わず深呼吸をする。


「兄ちゃん、この花可愛くない? しかも安いよ!」


 美咲が、店頭に並ぶピンクのカーネーションの花束を指差した。

 そこには猫のマスコットが付いていた。


「んー。確かに可愛いけど、ありきたりだな」

「ありきたりでもいいじゃん……」


 俺は他にいいのがないかと、店内を見回した。


「おっ、あれは?」


 店の奥に、カラフルな花が目に入った。

 俺は美咲を連れてそこまで行く。


「すげ~! ほら! この虹色のやつ、いいんじゃね?」

「え~?? それ? ちょっと派手すぎない?」

「だから、いいんじゃん」

「でも、兄ちゃん、これ七千円もするよ!」


 値札には「7150円」と書かれていた。

 マジか……。バイト代が消える……。

 一瞬たじろぎかけたが、今さら後に引けず、俺は言った。


「高いけど、それだけの価値はある! これにしよう!」

「さっきの可愛い方で十分だよー」


 美咲の言う通り、店頭の方でも十分だった。しかも三千円。

 でも、母ちゃんにはやっぱり良いものをあげたい。

 初めて稼いだバイト代だし、ちょっと格好つけたい。


「なんで、そこまでしてそれ買うの?」

「だって、母ちゃんの驚いた顔見たいじゃん」

「兄ちゃんって、ずっとそれだよね」

「いいじゃん、いいじゃん、びっくりさせたいんじゃ〜ん」


 俺は花束を持ち上げ、ノリノリでレジに向かった。

 レジに行くと、店員が後ろを向いて何か作業していた。


「すみませーん」

「はーい」

 振り向いた店員は、とても綺麗な人だった。


 タイプだ! やばい、緊張してきた。


「おっ、お姉さん、これください」


 店員から「メッセージカードは必要ですか」と聞かれ、その場で書くことになった。

 緊張で、書ける気がしない。


「美咲、書いて」

 美咲がペンを受け取り、カードに書き始めた。


 ふと店員の名札を見ると『桜井』とあった。

 ミハルと同じ苗字だ。


「あれ? お姉さん、桜井っていうの?」

「はい」

「俺の幼馴染も桜井って言うんだ」


 これはチャンスかもしれない!


「しかも同じ漢字、なんか俺ら運命感じない?」


 俺はちょっと格好つけて片手でガッツポーズをした。

 笑わせたかったけど、上手くはいかなかった。


「もう、兄ちゃんやめなよ! すみません」

「あっ、いえ、7150円です」


 店員は失笑していた。まぁ、そんなもんだ……。

 でも、まだチャンスはある。

 なんたって俺は、同じモールでバイトしてるんだもんね〜。


「ありがとうございました」

 笑顔で紙袋を手渡される。


 ――可愛い。

 

 こんな風に心が動くなんて、初めてかもしれない。

 ドキドキしながら、それを受け取った。

 浮かれながら、美咲と自転車置き場まで歩いていると、美咲が言った。


「兄ちゃん、多分、さっきの人、男の人だよ!」


 俺は一瞬立ち止まった。


「え?? マジで!?」

「だって、喉仏あったじゃん。それに胸もないし。どう見ても男の人だよ」

「え?? マジかよ!!」


 俺の初恋だと思ったのに……がっかりだ。


「やだ、兄ちゃん、一目惚れしちゃったの?」

 美咲は大笑いし始めた。

「んなことあるか!」

「残念だったね~」

「マジかぁ~」


 美咲がずっと笑っている。

 まあ、面白ければいいか。


 自転車に跨り、自宅へ向けて漕ぎ出す。

 ふと、ミハルの顔を思い出した。


「美咲、お前、ミハルのこと覚えてるか?」

「ミハル?」

「うん。隣にいた」

「隣って、服部さんのところ?」

「そうそう、あそこ。前は違う家族が住んでたんだ」

「あ~、なんとなく覚えてる。女の子みたいな子?」

「そうそう、あいつ、桜井って言ったんだよな~」

「ふ~ん、そうなんだ。その人だったりして?」

「そうなんだよ。なんか、俺、あの人ミハルな気がしてきた」

「近くに引っ越してたの?」

「いや、大阪に」

「大阪!? じゃぁ絶対違うじゃ~ん」

 

 そう言うと、美咲は大笑いした。


「いや、でも、その後二回くらい引っ越してるんだよ」

「どれだけ引っ越してるの? その人……」

「分かんねぇけど……だから、戻ってきててもおかしくないだろ?」

「まぁ……兄ちゃん、そんなにその人に会いたいの?」

「いや、会いたいっていうか……もしそうだったら、やっぱ会いたくね~? 普通、昔の友達だったら会いたいって思うじゃん」

「まぁ、そうかもしれないけど、なんか兄ちゃんの言い方、初恋の人に再会したみたい。ハハハッ、笑える~ハハハッ」

「初恋なわけないだろ! 友達だよ! 男なんだから!」


 ――初恋。


 美咲が言ったその言葉が妙に胸に引っかかった。

 まあ、さっき男に一目惚れしかけたけど……。

 家に着いてからも、俺はミハルのことを考えていた。

 ベッドに横たわると、ミハルと遊んでいたあの日の光景が蘇る。

 そういえば、俺は初め、ミハルが男だとは信じられなかった。


「ミハルちゃん」

 そう呼ぶと、必ずミハルは言った。

「ミハル! ミハル! ちゃんじゃない!」


 初めは何を言ってるのか分からなかったけど、俺は「ミハル」と呼び捨てにするようになった。


「じゃぁ、僕も武琉!」


 そう言って、呼び捨てで呼び合うようになった。


 母ちゃんもその様子を見て、その日から『ミハルちゃん』ではなく『ミハル君』と呼ぶようになった。

 ミハルは、自分が男だと言いたかったのだろう。


 ――でも俺は、ずっとミハルは女の子なんじゃないかと思っていた。


 それから美咲が生まれ、妹ができた。

 女の子には『あれ』がなかった。不思議だった。

 ミハルはどうなんだろうと思った。

 ミハルは裸ではしゃぐようなタイプではなかったから、分からなかった。

 ちゃんと『付いている』と分かったら、俺ははっきり男だと認識したのだろうか。

 まぁ今さらそんなこと考えても意味ないか……。


 でも一度、ミハルと一緒にいて、変な気持ちになったことがある。

 ミハルが女の子なら恋みたいなものだったんだろうけど、男だから、そんなはずはない。


 あれは小学二年生の寒い日だった。


 美咲と一緒にお風呂から上がると、ミハルが号泣していた。

 俺は驚いて駆け寄った。

「ミハル? 何かあったの?」

 母ちゃんが俺に言った。

「ミハル君、大阪に引っ越すんだって」

「えー!? マジか!? 大阪!? なんで大阪なの?」

「……うえぇん」

「お父さんのお仕事なんだって」

「…そうなんだ」


 悲しくて泣きたくなった。

 でも俺はヒーローだから、ミハルを励まさなきゃと思った。


「おっお前、めっちゃええやーん! 大阪って言ったら芸人いっぱいおるやん? 俺も大阪行きたいわ~!」


 関西弁っぽく言って、ミハルを笑わせた。

 ミハルは笑ってくれた。

 その笑顔を見て、少し安心した。

 でも、なぜか俺の心は静かに沈んでいった。


 その夜、美咲がミハルと泊まりたいと言い出して、俺もそうしたくて、必死に頼んだ。

 普段は許可してくれない母ちゃんも、この日だけは特別に許してくれた。

 そして、最初で最後のお泊まり会をした。


 でもミハルは夜中に泣いていた。

 俺は寝ぼけたまま、ミハルを抱き、美咲をあやすみたいに背中をトントンした。

 でも俺も泣きそうになり、そのままミハルをぎゅっと抱きしめた。

 抱きしめたミハルは俺より小さくて、本当に女の子みたいだった。

 なぜかドキドキして、顔が熱くなった。


 それが心地悪く、まるで悪いことをしたような気持ちになった。

 俺は気づかれないように、ゆっくり反対を向いて眠った。


 ――このまま会えなくなるのは嫌だった。何かで繋がっていたかった。


 だから、タイムカプセルを埋めようと提案した。

 

 あの頃の俺は、何でも出来る気がしていた。

 ヒーロー気取りだった。

 サッカーチームでも期待されていたし、絶対にサッカー選手になる予定だった。

 でも小学五年の時、事故に遭って、サッカーをやめた。

 それ以来、俺から手紙を出さなくなった。


 タイムカプセルのことなんて、もうとっくに忘れているのかもしれない。

 一人で来れるようになったら取りに来る――そう言っていたのに。

 未だに来ない。ミハルも、もう忘れてしまっているんだろう。


 ――あれから八年かぁ。忘れられていてもおかしくない。


 だから、さっきの人がミハルである可能性はゼロではない!

 いや、いくらなんでもそんな偶然あるか?

 桜井なんて、どこにでもいそうな名前だし。

 いや、でも考えたら……桜井って苗字の人、そんなに会ったことない気もする。

 いやいやいや、でも……。

 

 ――やっぱり確かめたい。


 あ〜! もう!

 居ても立ってもいられず、俺は部屋を飛び出した。


「ちょっと出掛けてくる〜!」


 もう一度、花屋に行こう。

 自転車にまたがり、ペダルを踏み込むと、あの日のことが、風の中で甦った。


 サッカーができなくなった、あの日のこと。


 曇った空の下、グラウンドへ向かって走っていた。

 曲がり角の向こうに、トラックの白い車体が見えた――。

 その先の記憶は、曖昧だ。

 気づいた時には、病室の天井を見上げていた。


 外から、母ちゃんの声が聞こえた。

 どうやら誰かと話しているようだった。


「しばらく辛いと思うので、サッカーを思い出すようなことは……」

「そうですね。今日はもう帰ります」


 たぶん、コーチが見舞いに来てくれていたんだろう。

 でも母ちゃんは、俺には会わせなかった。

 きっと、気を遣ってくれたんだと思う。

 朝の診察で先生に言われた言葉が、ずっと母ちゃんの中に引っ掛かっていたんだろう。

 

 ――「サッカーはもう出来ないかな」と。


 その言葉を聞いた時、不思議と涙は出なかった。

 悲しいというより、ほっとした。

 自分でもびっくりした。


 俺がサッカーを始めたのは、幼稚園の頃だ。

 母ちゃんが嬉しそうに、練習の話を父ちゃんにしていた。


「みんなが、うちの子、才能あるって言ってたのよ〜」


 その笑顔が見たくて、頑張った。

 母ちゃんに喜んでほしかった。

 妹の美咲の格好いい兄ちゃんでもいたかった。

 だからサッカーを続けた。


 でも五年生の頃、プロにはなれないと悟った。

 周りが追い越していくのを見て、自分だけ取り残されるような気がした。

 それでも続けたのは、やめる理由がなかったからだ。

 だから先生に「もう出来ない」と言われた時、どこかでほっとした。

 その時、ようやく自分を許せた気がした。


 退院してから、みんなが俺に気を遣った。

 まるで壊れものに触るみたいに。

 その空気が息苦しくて、俺は部屋にこもるようになった。


 しばらくして、母ちゃんが俺の部屋でDVDを観られるようにしてくれた。

 お笑いコント集だった。


 最初はなんとなく流していたけど、いつの間にか声を出して笑っていた。

 その笑い声を聞いて、美咲が部屋に入ってきた。

 父ちゃんも母ちゃんも、気づけば一緒に笑っていた。


 家の中に、少しずつ明るさが戻っていくのが分かった。


 ――笑うって、こんなに気持ちよかったんだ。


 芸人になれたら、また母ちゃんが「すごいね」って言ってくれるかもしれない。

 もういい加減、「可哀そうな奴」って見られるのは終わりにしたかった。

 あの頃、ミハルがそばにいたら、どんな顔をしていただろう。


 呆れて笑ったかもしれない。

 でも、きっとこう言ってくれた気がする。


「それでも、武琉は僕のヒーローだよ」


 ――あいつの声が、胸の奥でかすかに響いた。

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