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10章 別れへのカウントダウン

 ミハルと武琉は高校三年生になった。


 今年も桜は見事に咲いていた。


 始業式の日、二人はいつものようにミハルの部屋で向かい合っていた。


「武琉って、塾行かねーの?」

「行かねー」

「でも普通、進学校だと行くんじゃね?」

「そうでもないよ。多分。俺は行かねー」

「どうして?」

「……ミハルと一緒にいたいから、つってね~」


 ミハルは吹き出した。

「なんだそれ。お前、あの私立大受けるんだろ? 大丈夫なのか?」

「お前な、舐めてもらっちゃ困る。俺、余裕だから。だからあそこにしてんの」

「なんだよそれ、ムカつくな」

「それより、お前こそ行かなくていいのかよ?」

「それだよな。俺もそろそろ行った方がいい気がして……」

「……やめとけよ」

「え?」

「俺が教えてやるから」

「そんなことして、お前が落ちたら困るじゃん」

「お前な、俺を誰だと思ってんだ」

 武琉がミハルの額を軽く突いた。


「でも……」

「お前、そんなヤバいの?」

「いや、そうでもねーけど」

「分かった。じゃあ俺がどのくらいできるか見てやろう」

 武琉はミハルの本棚から参考書を取り出し、ページを開いた。

「ほら、ここ。やってみろ」

「うっ、うん……」


 ミハルは言われるままに問題を解き始めた。

 けれど、横で武琉が見つめているせいで、どうにも集中できない。


「見られたらできねー」

 

 武琉はニヤリと笑った。


「じゃあ、できたら言えよ」

 

 そう言って、ミハルの頭を軽くポンと叩いた。

 その仕草に胸がくすぐったくなり、ますます筆が止まる。


「……できた」

「おう」


 武琉は問題を覗き込み、眉を上げた。


「大丈夫じゃん……いや、ここはちょっと違うな」

「え? 間違ってた?」

「ここがこう。ほら」


 武琉はスラスラと解き方を示した。

 その手の動きがあまりに自然で、ミハルは思わず笑って抱きついた。


「ど、どうした?」

「昔、一緒に宿題やったよな」

「ああ、そういえばやってたな」

「武琉はいつもスラスラ解いて、あっという間に終わってた」

「ミハルはいつもぼーっとしてたよな」

「……だって、武琉が格好良かったから」

「え? そう思って見てたの?」


 ミハルはニコッと笑って頷いた。


「ワハハハハッ。分かんなくて困ってるんだと思ってた」

「俺、あの頃からお前のこと好きだったんだぞ」

「うん。俺も。自覚はなかったけど」


 武琉は嬉しそうにミハルの頬をつねった。


「で、理解したのか?」

「う、うん。理解した」

「俺が教えられるって分かっただろ?」

「うん。分かった」

「まあ、ヤバくなったらその時塾行きゃいいじゃん」

「うん……ありがとう」


 武琉はミハルを離したくなかった。

 少しでも長く一緒にいたかった。

 強引だと分かっていても、抑えられなかった。


 ーーいや、違う。

 

 本当は、ただ抱きしめたかった。

 武琉はミハルを抱きしめた。


「……ごめんな」

「どうしたの?」

「ミハルが塾、行きたかったら行って」

「うん。ちゃんと自分で決めるから大丈夫だよ」

「……ありがとう」


 ミハルは武琉に言われるがままに返事をしていたつもりはなかったけれど、そう見られたようで恥ずかしくなった。

 でも正直、武琉がそう言うなら、それでいいと思っていた自分が怖い。

 好きになればなるほど、自分がどこかへ消えていく――。

 その感覚が、言葉にならないほど怖かった。


 二人の唇が何かを埋めるように静かに触れた。

 

 ミハルは視線を落とし、小さくつぶやいた。


「ごめん。俺、やばいよな……」

 

 武琉は小さく首を振る。


「大丈夫。俺も同じだよ」


 その笑顔はいつもと変わらないのに、どこか切なかった。

 好きになればなるほど、相手を失う予感が強くなる。

 それでも――手を離せない。


 ――本当は、怖い。


 武琉も同じだった。

 ミハルの全部を抱きしめたくなる。

 刻みつけたい。離れても消えないように、どこかに痕を残したい。

 そんな風に思う自分が嫌になりそうだった。


 二人は笑い合った。

 けれど、その笑いの奥には、言葉にできない痛みがあった。


 来年の今頃は、もう別れているのだろうか――。

 分かっていながらも、考えずにはいられなかった。

 好きになればなるほど、自分の側から離れないでほしいと思う。

 そんな風に、ミハルの自由を奪いたくないのに……。



 春の日差しが差し込む窓際で、武琉のペンの音だけが響いていた。


 結局、ミハルと武琉は、お互いの家の中間くらいにある図書館で勉強することにした。

 武琉が勉強している姿を見るのが、今もミハルは大好きだった。

 ペンがスラスラと問題を解いていく姿は格好いい。

 ミハルがそれに見惚れていると、ふと武琉と目が合うことがあった。

 そのたびに、武琉はいつも優しく笑った。


「なんか分からないところでも、あったか?」

「あっ、いや、大丈夫」

「あんま見惚れんなよ」

「うっ、うるせ~」

 

 ミハルは照れて下を向き、問題集を見た。

 武琉はいつも優しかった。


 武琉はミハルが、時々ぼんやりと自分を見ているのに気づいていた。

 そんなミハルのことを可愛いと思った。

 見られることはものすごく嬉しかったけど、気づいていないふりをして格好をつけていた。


 結局ミハルは、近場の農業系の大学を受験することにした。

 もう逢えないなら、いっそ遠くの大学に行ってもいいと思っていたけれど、武琉と付き合うことができた今、遠くを選ぶ必要はなくなった。

 別れると言ってはいるけれど、もしかしたら別れずに済むかもしれない。

 そんな淡い期待を、ミハルはどうしても手放せなかった。

 武琉を中心に考えてしまう自分が嫌になるけれど、そうせずにはいられなかった。


 そして武琉も、近場の難関私立大学を受験するつもりでいた。

 何をしたいのか、まだはっきり分からなかった。芸人になりたい気持ちがまったくないわけじゃない。けれど、それで生きていけるほど現実は甘くない。

 両親からも「そろそろ現実を見なさい」と言われていた。

 武琉は、自分が何をしたいのか分からない、そんな情けない自分が嫌いだった。


 親に褒められることが嬉しくて、サッカーもお笑いも好きだった。

 でもミハルはただ、植物が好きなだけで迷わず農業系の大学を選んだ。その真っすぐさが、武琉には眩しかった。

 いつか胸を張って、ミハルの隣に立てるようになりたいと思った。



 ミーン、ミーン、ミーンと、今年も蝉が鳴いている。

 太陽は照り付け、植物たちが光を求め、ぐんぐんと背を伸ばしていた。


 朝顔の蔦が絡み合うように、ミハルと武琉もどんどん離れがたくなっていた。


 今日も二人は、いつものように図書館で勉強したあと、駅まで歩いていた。


「武琉、誕生日おめでとう!」


 ミハルは小さな箱に入ったプレゼントを武琉に渡した。


「うぉ! ミハル~、ありがとう! 分かってたんだ」

「もちろん」

「去年のもちゃんと使ってるぜ。ありがとな」

「うん、知ってる。ありがとう」


 武琉がまだ参考書に挟んでいるのを、ミハルは見ていた。

 武琉が箱を開けると、中には革のキーホルダーが入っていた。


「すげ~、これ、名前入ってんじゃん!」

「うん。嫌だったら使わなくてもいいから」

「いやなわけね~じゃん!! すげ~嬉しい!!」

「本当に?」

「うん、もちろん!」

「お揃いにしちゃった……」


 そう言って、ミハルは自分のキーホルダーを武琉に見せた。


「引いた?」

「なんだよ! それ! やべ~」


 武琉はミハルの耳元で囁いた。


「今、ミハルをめっちゃ抱きしめたい!」

「俺はいいんだけどな……」

「ばかやろ~、外だぞ」

「喜んでもらえて良かった。引くかと思った」

「そんなわけね~じゃん。ずっと大切にする!」

「うん。ありがとう」

「俺の方こそ、ありがとう!」


 ミハルは、ずっと持っていられるものを贈りたかった。

 もし別れたとしても、家に入るたびに思い出してもらいたかった。

 そしてミハル自身も、この楽しい日々を忘れたくなかった。

 ハルジオンのように、二人にとって大切なものがまたひとつ増えた。


「なぁ、もうすぐ夏休み終わるし、どっか行かね~?」

「え?? お前、余裕だよな」

「え? 夏休みなのに、どこも行かね~まま終わる気なの?」

「え? つか、行こうとしてる訳??」

「いいだろ、少しくらい。どっか遠出しようぜ」

「はぁ? そんな余裕あるかよ!」

「え~。どっか行こうぜ」

「どこ行きたいんだよ」

「大阪とか」

「は!? 何言ってんの? 旅行じゃんそれ」

「じゃあ旅行しようぜ」

「無理、無理、無理」

「ミハルがどんな所にいたのか、行ってみて~な~」


 ミハルは目を見開いて武琉を見て、そして嬉しそうに微笑んだ。

 そんな風に自分に興味を持ってくれてると思っていなかった。

 じんわりとした幸せが、胸いっぱいに広がっていった。


「じゃあ……日帰りなら……」

「マジ!?」

「うん。あっ、でも俺、大阪はあんまりいなかったから、分かんないよ」

「そうなの?」

「うん。一年くらいかな」

「じゃあどこに長くいたの?」

「ん~、滋賀かな?」

「滋賀県、琵琶湖かぁ。泳ぎに行くか?」

「いやいや、日帰りで無理だろ」

「まぁどこでもいいよ。ミハルがいた所ならどこでも」


 ミハルは照れて笑った。

 武琉のストレートな言葉に、時々どうしたらいいのか分からなくなる。

 でも、これも卒業までだと思うと、少し胸がちくっとした。



 結局、ミハルが長く住んでいた滋賀県に行くことにした。

 夏休みの終わり頃、ミハルと武琉は新幹線の始発に乗り込んだ。

 席に座ると、ミハルは問題集を出した。


「え~、お前、今日も勉強する気なの?」

「そりゃそうでしょ。新幹線二時間もあんだぞ。十分勉強できるじゃん」

「……お前は、俺との時間を楽しむ気がね~のか?」

「そんなわけないじゃん。でも、俺は不安なの。お前みたいに頭よくね~し」


 武琉はミハルを見て、ふっと笑った。


「今日くらい勉強しなくても変わんねーよ。楽しむ時は楽しめ」


 武琉はミハルの頬をつねった。


「痛てぇ~よ」

「まぁでも、お前と一緒にすることなら、勉強でもいいけど」


 そう言って、ミハルの頬を撫でた。


「どっちだよ」


 武琉がミハルを愛おしそうに見て笑った。

 ミハルはまた照れた。最近の武琉にはドキドキさせられっぱなしだ。

 それに、武琉はもう「お前が女だったら良かったのに」とは言わなくなっていた。それも嬉しかった。


 結局ミハルは、武琉に少し勉強を教えてもらったけれど、やっぱり楽しみたくてやめた。

 他の人には分からないように手を繋いで、外を眺めたり、こそこそ話をしたりした。

 気がつくと、ミハルはウトウト眠りに落ちそうになっていた。それを武琉は、少し眺めていた。

「……少し寝ろよ。起こしてやっから」


 武琉は、ミハルがずっと勉強を頑張っていることを知っていた。

 いつも遅くまで勉強しているんだろう――そう思いながら、ミハルの寝顔を見つめていた。



 京都に着いた。

『キョートー、キョートです』駅のアナウンスが流れる。


 構内は人の行き交うざわめきで溢れていた。

 夏休みだからか観光客も多く、外国人の姿も目立つ。

 新幹線から在来線に乗り換え、ミハルが住んでいた最寄り駅に着くと、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだった。


「懐かしい?」


 武琉が尋ねた。


「うん。住んだのは二年くらいだったけど、やっぱり懐かしいな」

「とりあえず飯でも食うか?」

「そうだね。何食べたい?」

「ミハルは? 昔よく行ってた場所とかないの?」

「うーん……確か、あっちにデパートがあるんだよ。そこ行ってみる?」

「いいね、行こう!」


 二人はデパートに入った。

「あ〜涼しい〜」

 思わず声が漏れる。

 店内のクーラーが心地よく二人を迎えてくれた。


「あれ? こんなんだったっけ? なんか綺麗になってる気がする」

「そうなんだ」

「何食べる?」


 しばらく出入口の案内を見ていると、向かい側から制服姿の男子が声をかけてきた。


「おっ! お前、ミハルちゃうん?」

「あー! 浩介?」

「おー! お前、引っ越したんちゃうんけ?」

「引っ越したけど、遊びに来たんだ。友達と」


 ミハルは武琉を見た。

 武琉と浩介は、軽く会釈を交わした。


「てかお前! 関西弁教えたったのに、戻っとるやないか~い!」

「あっ、まぁそうだね」

「ミハル、今どこにおんの?」


 武琉は、少し居心地が悪かった。

 でも、もしかしたらミハルは、いつもこんな思いをしてきたのかもしれない――そう思った。


 ミハルは少し話したあと、「じゃあ」と言って、浩介と別れた。


「ごめんね」

「大丈夫。友達?」

「うん。同じマンションに住んでて、よくしてもらったんだ」

「ふーん」


 武琉はミハルの肩を抱き、顔を覗き込んだ。


「どうよくしてもらったんだよ」

「別に。普通に仲良くしてくれただけ。その後は、連絡も取ってないし」


 ミハルは武琉の手を払いのけた。


「ワハハハハッ。冗談だよ。いろんなとこに友達がいていいな」


 武琉は優しく笑った。

 ふたりはレストラン街へとぷらぷらと歩き始めた。


「……そうだな。そう考えると、いろんなとこに行ったのも悪くなかったかもな」

「そうそう。で、それでも、ずっと俺を好きでいてくれたんだもんな」


 武琉がどんどん自分の気持ちをそのまま伝えてくる。

 ミハルは嬉しいはずなのに、その度に、少し怖くなる。


「でも呼び捨ては、俺だけにしてほしいよな。前にりんりんが『ミハル』って呼んだ時も、すげー嫌だった」

「なっ、なんだよ。お前、なんか最近……」

「ん? 最近なんだ?」

「……返事に困る……」

「なんだそれ。ワハハハハッ」


 昼食を終えると、ミハルが通っていた小学校へ向かった。

 夏休みなのもあって、運動場は静かだった。

 そばにある大きな道路を行き交う車の音だけがしていた。


「俺らが行ってた学校より、運動場が広いな」

「そうかもな」

「ここにミハル、通ってたんだな」


 武琉は、巨大迷路でミハルに言われた言葉を思い出していた。

『俺は、そのままの武琉が知れて嬉しかった』

 その意味が、少しわかる気がした。

 ミハルが育った街を、自分の足で歩けることが、なぜだかとても嬉しかった。


「通ってたのは二年だけだけどな」

「何年生の時?」

「五、六年の時」

「そっか。俺が事故った頃か……」


 その一言で、胸の奥が静かに沈んだ。

 あの頃、武琉は痛みの中にいて、自分は新しい土地で笑っていた。

 ミハルは、その記憶の落差に居たたまれなくなった。


「ミハル。大丈夫だよ。一緒に沈まなくても」

「……ごめん。そんなつもりじゃなかった」


 武琉の言葉に、ほんの少し距離を感じた。

 まるで『お前には関係ない』と言われたようで、ミハルは小さく息をのんだ。


「お前は? この学校は楽しかったのか?」

「まぁ、普通だよ」

「そっか。嫌な思い出じゃなくてよかった」

「うん……」

「……で、どこに住んでたの?」

「あのマンション」


 ミハルは大きな道路の向こうを指さした。


「すげぇ近かったんだな」

「うん」

「行ってみようぜ」


 武琉がそう言って、ふたりはマンションの前まで歩いた。


「良さそうなマンションだな」

「うん」

「あのさ、さっきのやつもここに住んでたの?」

「……うん」

「じゃ、また会う前に戻るか」

「うん」


 武琉はミハルの肩を軽く抱き寄せた。


 嫉妬ではなかった。

 ただ、自分の知らないミハルを誰かが知っているという事実が、胸の奥でかすかな痛みに変わっていた。

 武琉は、ミハルの過去の中に自分の知らない笑顔があったことが、少し怖かった。

 確かに、こんな気持ちで、再会したのに太ってたら、ショックを受けたミハルの気持ちがちょっと分かる気もした。あの頃の面影を自分に取り戻してやりたくなった。


 けれどそれ以上に、ミハルが何かを抱えたままのように見えることが、武琉には気に入らなかった。

 ちゃんと信じられていない気がした。

 最近のミハルは、自分の顔色ばかり伺っている気がして、そうさせている自分を情けなく思った。


 ミハルもまた、武琉がわからなかった。

 怒っているようには見えない。けれど何かが届かない。言葉にできない距離がある。

 自分の中が武琉だけになっていくのが怖い。それでも武琉のことを考えずにはいられない。

 自分という輪郭が、少しずつ武琉の中に溶けていくようだった。


 ふたりは駅へ戻り、京都行きの電車に乗った。

 窓の外を流れる景色の中で、二人は交わす言葉を忘れたようだった。


 京都駅を出て、ミハルは武琉をデパートの屋上へ連れて行った。人はほとんどいなかった。

 空が近い。大きな入道雲と青空のコントラストが綺麗だった。

 そして、京都の街が一望できた。


「お~、すげぇな」

「本当は京都タワーでも良いんだろうけど、ここなら無料だから」

 

 ふたりは思わず笑った。

 重たかった空気が、少しだけ軽くなる。


「ごめん。武琉、怒ってた?」

「お前こそ」

「俺?」

「そう」

「俺は……武琉のこと、もっと知りたいって思ってただけだよ」

「それだけ?」

「うん。武琉は怒ってたの?」

「怒ってねぇよ」

「本当に?」

「うん。たださ……ミハルが言いたいこと、言えてねぇのかなって」

「言えてるよ。ちゃんと言えてる。ただ……」

「ただ?」

「ただ、好きになりすぎて、武琉に嫌われそうで怖いんだ」


 武琉は思わずミハルを抱きしめた。


「嫌いになるわけねぇだろ」

「……分からないよ、そんなの」

「分かるよ。どうやったって、ミハルを嫌いにはなれない」


「……でも、来年の今頃は、俺たち……」


 その言葉を遮るように、武琉が唇を塞いだ。


「っ……」


 ミハルは驚き、少しふらついた。

 武琉の腕がしっかりと支える。

 唇が離れた瞬間、ミハルの目に涙が滲んでいた。


「……酷いよ、外なのに」

「誰も見ちゃいねぇよ」

「……いるかもしれないじゃん」

「大丈夫」


 武琉はミハルの涙をそっと拭った。


「ミハル。好きだよ」

「……うん」

「……ごめんな」

「怒ってないんだよね?」

「怒ってない」


 白く眩しい夏の光が、二人の輪郭をゆらめかせていた。


 蝉の声に包まれながら、心の距離が静かに溶け合っていった。


 そして、帰りの新幹線に乗った。

 乗り込んだときはまだ明るかった窓の外が、次第に柔らかな夕日に染まっていく。


「綺麗……」


 ミハルが窓の向こうを見つめる。頬を照らす橙の光が、まるで彼を包むようだった。

 武琉はその横顔から目を離せなかった。夕日よりもずっと眩しく思えた。


 やがて景色はゆっくりと闇に沈み、窓ガラスに二人の顔だけが映り込む。

 ミハルの胸には、言葉にならない痛みが広がっていた。

 幸せであるほど、別れが近づいてくる――その予感が静かに心を締めつける。

 武琉はそんなミハルを、ただ抱きしめていたかった。

 けれど、その想いを形にできないことが、どうしようもなく歯がゆかった。


 楽しかった時間は、もう終わりに近づいている。

 夏が終わり、そして――二人の季節もまた、少しずつ形を変えていく。


「帰りたくないな」


 ミハルがぽつりと呟いた。


「俺も」


 武琉も静かに笑う。

 二人はそっと視線を交わし、武琉は誰にも気づかれないようにミハルの手をそっと握った。

 そのぬくもりが、言葉よりも確かなもののように思えた。


 夏の終わりの雨が続いたあと、朝の空気に秋の気配が混じったのを感じた。

 季節は確かに巡っている。


 今年も農高祭の季節がやってきた。

 武琉は美咲ちゃんを連れて遊びに来てくれた。

 去年は苦しくて仕方なかったこの日が、今は少し、懐かしく、優しい思い出に変わっていた。


 ――あの日、本音をぶつけ合えたからこそ、今がある。


 ミハルはふと笑った。

 そう思うと、一ノ瀬にも、あの夏にも、感謝だな。


 

 そして、すぐに十一月がやってきた。

 ミハルの誕生日だった。


 学校が終わってから、武琉が家に来てくれた。

 ミハルの部屋で、武琉が紙袋からそっとプレゼントを取り出す。


「ミハル、誕生日おめでとう」


 差し出されたのは、真っ赤な薔薇の花束だった。

 あまりのことに、ミハルは言葉を失った。


「あれ? 俺、滑った?」

「ううん……びっくりしただけ」

 

 ミハルの鼻が赤くなり、目が潤んでいた。


「ワハハハハッ! 大成功だな!」

「こんなの、もらったの初めてだよ」

「ミハルは花が好きだろ」

「うん。ありがとう」


 薔薇の花束が、涙で滲んで見えた。

 武琉が、ミハルごと花束をそっと抱きしめる。薔薇の香りがふわっと漂った。


「嬉しい?」

「うん、めちゃくちゃ嬉しい!」


 その笑顔があまりにも愛おしくて、武琉はミハルの頬にそっと口づけた。

 ミハルは照れて、ふふっと笑いながら花束を見つめる。


「これ……もしかして、十八本ある?」

「そう。十八歳だろ」

「うん……ありがとう」


 花束を片手に、ミハルは武琉を強く抱きしめた。

 子供の頃、武琉が『大人になるのは十八歳から』と言っていたのを思い出す。


「大人になったんだな、俺」

「大人は二十歳からだよ」


 二人は顔を見合わせて、クスクスと笑った。


 武琉が花屋でこの花を選び、手にしていた姿を想像すると、胸が熱くなった。

 花が好きな自分でさえ、恥ずかしくて買えなかっただろう真っ赤な薔薇を。


 ――武琉と結婚できる人は、きっと幸せだろう。


 それが自分ではないことが、切なかった。

 花束には小さなカードが添えられていた。


 ――『花言葉通り。武琉』


 ミハルはその意味を知っていた。


「お前ってさぁ……」

「ん? どうした?」

「いや、なんつーか……」

「ん?」

「ずるい……」

「は? なんだよそれ」

「花瓶に入れてくる……」


 武琉はずるい。

 別れが近いことを分かっていながら、こんなふうに記憶に残ることをするなんて。


 ――俺、絶対に忘れられないよ。


 赤い薔薇の花言葉は、「あなたを愛しています」。


 

 光が濃くなると、影もまた濃くなる。


 付き合ってからの武琉は、どんどん素直になっていった。

 そのストレートな想いに、ミハルは嬉しさと同時に、恐れも感じていた。

 喜びが増えるほど、別れの痛みも深くなるようで――。


 そして、また季節は流れた。

 遠くの方で、ボ〜ンという鐘の音が鳴り響いていた。

 新しい年が始まる。


『来年は受験だし、学業の神様のとこ行こうぜ』


 去年、武琉がそう言ったように、二人は初詣に出かけた。

 人の波は去年より穏やかで、手をつなぐこともなかった。

 二人は同じお守りを買って、交換した。


「武琉からお守りもらうと、絶対大丈夫な気がする」

「絶対大丈夫だよ。ミハル、ちゃんと頑張ってるし」

「うん。ありがとう」


 ミハルは照れくさそうに笑った。


 年が明け、残された時間の短さが、二人の胸に静かにのしかかる。

 去年は『一年も付き合えるなんて幸せだ』と思っていたけれど、あっという間の一年だった。


 二人はもう、別れる日のことなんて、考えたくなかった――。




 冬休みが終わり、共通テストの時期が近づいていた。

 図書館を出ると、雪が音もなく降りはじめていた。

   


「あっ、雪だ」 


 ミハルは掌を上に向け、落ちてくる雪を受け止めようとした。

 武琉はその仕草を、ただ愛おしそうに見つめていた。


 ──去年の雪の日のことを思い出す。


 ミハルの『花言葉』に気づいたあの日、俺は自転車を漕ぎながら一人で泣いた。

 もう二度と笑えないと思っていたのに。

 今はこうしてミハルと並んでいる。それだけで胸が満たされていた。


 それなのに──また、俺は一人になろうとしている。

 あぁ、駄目だ。考えないようにしていたのに。


 ミハルも武琉も、卒業という言葉を無意識に避けていた。

 それでも武琉は、その言葉を口にした。


「なぁ、卒業旅行、一緒に行かね~?」


 ミハルは一瞬、息をのんで顔を上げた。

 その表情には、かすかな寂しさが滲んでいた。


「うん! 行く!」


 即座に答えたミハルに、武琉は小さく笑って頷いた。

 だがその笑みにも、どこか影が落ちていた。

 ミハルはその横顔に、はっきりと別れの気配を感じ取った。


「どこ行く?」


 ミハルの声が、かすかに震えた。

 胸が締めつけられる。武琉は思わずミハルの手を握った。


「ごめん」


 そう言って、武琉はミハルの腕を掴み、図書館の裏へと引っ張った。


「武琉?」

 

 人の気配はなく、雪だけが、舞い続けていた。

 武琉はミハルを抱きしめた。

 白い息が、二人の間でふわりと揺れた。


「ごめん。俺、我慢出来なかった」

「うん……俺も、こうしたかった」

 

 ミハルも腕を回し、そっと抱き返した。


「しばらく逢えなくなるな」

「うん。そうだな」

「ごめんな、ミハル。俺、勝手だよな」

「いいよ。俺も、同じ気持ちだから」


 二人は見つめ合い、そっと顔を近づけた。

 抱えきれない想いが唇にかわった。

 そして、少し照れて笑い合った。


 帰り道、武琉がぽつりと言った。


「お互い頑張ろうな」

「うん」

「旅行、行きたいところある?」

「知らない場所がいいな」

「じゃぁ九州とか? 行ったことある?」

「ない!」

「じゃぁ決まり。調べとくよ」

「でも、武琉の方が試験遅くね~? 俺、終わったら、調べとくよ」

「大丈夫。息抜きにもなるし。お前の方が受ける数、多いじゃん」

「うっ……まぁそうなんだけど」

「大丈夫。俺のほうが得意だと思うから」

「まぁそうかもな……。じゃぁお願いします」

「ワハハハハッ。敬語になった」

 



 その夜から、二人は一ヶ月のあいだ、逢えない日々を過ごした。


 そして、やっと武琉の最後の試験が終わった。

 試験会場を出ると、まっすぐにミハルのもとへ向かった。


 ――ピンポーン。


 呼び鈴の音が響く。ミハルはインターフォンのモニターを覗き込んだ。


「ミハル~! 開けてくれ~!」


 その声に、ミハルは目を瞬かせた。

 武琉? カメラは手で隠され、顔が見えない。

 とりあえずミハルはオートロックを解除し、エレベーターホールへと駆けていった。


 やがて、エレベーターの扉が開き、そこから武琉が現れた。

 その姿は、すっかり痩せていて――まるで昔の武琉がそこに戻ってきたようだった。


「武琉!! どうしたんだよ。お前……」

「びっくりしたろ! ダイエットした」

「え? なんで?」

「びっくりさせたかったから」

「ハァ~!? それだけ??」

「おう」

「え~??」

「昔の俺みたいだろ」

「うん。ちゃんと面影あった」


 二人は思わず吹き出し、笑い合った。

 けれど、ミハルはそんな武琉を見つめながら、なぜか胸の奥がざわついた。


「なんで、突然ダイエットしたんだよ」

「お前の驚く顔見たかっただけ」

「は!?」 それだけ?? 試験もあったのに??」

「そう。俺は驚かすのが好きだからな。俄然やる気出たわ。ワハハハハッ」

「え? 試験は? 大丈夫だったのか?」

「お前、試験とダイエットは全然違う分野なんだよ」

「ん? だから?」

「だから、関係ね~の。ダイエットに時間なんてそんな使わね~から」

 

 ――本当は、最後くらい格好よくいたかった。


 ミハルの隣に並んでも、恥ずかしくない自分でありたかった。

 ミハルの部屋に入ると、二人は逢えなかった時間を埋めるように抱きしめ合った。


「武琉、逢いたかった~」

「うん。俺も」

「試験どうだった?」

「もちろん大丈夫に決まってんじゃん。お前は?」

「分かんね~。多分どれかは受かってるはず」

「ワハハハハッ。あんなに頑張ってたんだから、絶対大丈夫だよ」

「ありがとう。武琉そう言われたら、大丈夫な気がして来たよ」

「まぁ一つくらい受かってるだろ。ワハハハハッ」

「何だよそれ」


 ミハルもつられて笑った。


「なんか、コーヒーでも入れるわ」

「ありがとう」

 

 少しして、ミハルが二つのカップを持って部屋に戻ってきた。


「はい」

 

 ミハルがローテーブルの上にコーヒーを置く。

 二人は静かにその湯気を見つめ、ゆっくりと口をつけた。


「あっちっ」

 ミハルがコーヒーを置いて、舌を少し出した。

「火傷した~」

 武琉がそれを見て苦笑した。

「気を付けろよ」


 武琉はミハルの頬にそっと触れ、何かを感じ取ったように手を戻した。


「お前、受かったら、一人暮らしするの?」

「そうだな。多分。武琉も?」

「多分そうなると思う。だからさ、お互い忙しくなるし、この旅行が最後かもしれないなって思ってさ」

「……」

「なし崩しで終わりたくないし、決めておいた方がいいと思うんだ」

「……そっか。もう、そういう時期になったんだな」

「うん……。ありがとな。付き合ってくれて」

「……うん」

「最後だし、楽しい旅行にしようぜ」


 ミハルは無言で頷いた。

 

 武琉がスラスラと話す、その姿を見て、悲しくなった。

 武琉は、決めていたことを、変えるつもりはないらしい。

 そんなにあっさり割り切れるなんて……。

 きっと、武琉は女みたいな俺の容姿を好きだっただけなんだ。

 これ以上、深い関係にはなりたくないんだ。 


 ちゃんと戻れるだろうか。ただの幼馴染に――。

 ミハルは自信がなかった。


「じゃぁ明後日、遅れるなよ」 


 そう言い残して、武琉は帰っていった。

 

 テーブルの上には、最後まで飲まれなかったコーヒーが、まだ湯気を立てていた。

 ミハルはそれを見つめ、しばらく膝を抱えて泣いた。


 武琉はマンションを出ると、堪えていた涙が頬を伝った。


 ――こんなにまでして、俺は何を守ろうとしているんだろう。


 本当に、これが最善なのだろうか。

 一年前の自分ほど、ミハルと一緒にいることを、怖がっている自分はいなかった。


 でも、両親はきっと許さないだろう。だから、俺は、決めなければならない。

 あのとき、そう決めたはずだ。

 いずれ誰かと結婚するつもりなら、ずるずるとミハルを縛りつけるわけにはいかない。

 だから――別れないと。


 武琉は自分に言い聞かせるようにして、帰りの電車へと乗り込んだ。




 次の日。その日は旅行の前日の夜だった。

 武琉の母親が部屋の扉をノックした。


「武琉?」

「母ちゃん? どうかした?」

「明日の準備、終わったの?」

「おう、バッチリ!」


 母親は部屋に入って、扉を閉めた。


「……武琉、ミハル君と行くんだよね」

「おう、言ったじゃん」

「うん、ちょっと気になることがあってね」

「え? 何だよ」


 武琉の表情に、不安が走った。


「武琉、ミハル君のこと、女の子みたいに思ってるでしょ」

「は? どういうこと?」

「子供の頃から、ミハル君のこと、女の子扱いしてる気がして」

「そうかな? ちゃんと男だと思ってるよ」

「そう? でもミハル君は男の子だからね。……だから、結婚とか、できないのよ」

「何だよ、急に」

「今はまだ若気の至りで済むけど、世間は認めてないってことなんだよ」

「母ちゃん、何言ってんの? 俺ら本当、ただの友達だし、そんな気持ちねーよ。どうしたの?」

「じゃあ、私の勘違いってことでいいのね」

「おう、そうだよ。やだな~、何勘違いしてんだよ」

「武琉のこと、信じてるからね」

「……分かったから。俺、明日早いから寝る」

「がっかりさせないでね」

「分かってるよ」


 武琉は母親を部屋の外に押し出した。


「おやすみ」

「信頼してるからね」

 

 ドアを静かに閉めた。

 

 武琉は布団に潜り込み、拳を握り締める。

 雪の日のミハルの笑顔が浮かんでは、消えた。


 ……ごめんな、ミハル。


 明日が来なければいいと、ほんの少しだけ思った。



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