1章 あの日の約束
幼い頃、二人でタイムカプセルを埋めた。
いつものように大きな口で笑って、あいつは言った。
「一人で来れるようになったら、いつでも来いよ! ワハハハハッ」
あの時の声が、まだ耳の奥に残っている。
もうそんなこと、忘れてしまっているだろうけど……。
カタン、コトンと電車の音が、静かな車内に響いていた。
俺はその揺れに身を預け、出入り口のそばに立っていた。
ぼんやりと外を眺めていると、窓ガラスに自分の姿が映った。少しだけ眉をしかめる。
また跳ねてる……。
頭を撫でてみるが、どうにも直らない。
ハァ~。本当に嫌になる。
癖のある髪のせいで、光の加減によって茶色く見える。
しかも色白で猫目だからか、小学生の頃はよく女の子に間違えられた。
もう中三になろうというのに、まだどこか女っぽさが残っていて、正直うんざりする。
それでも、去年までは小さかった背も、今はもう母の目線を越えた。
そのせいか、最近はもう「女の子みたい」と言われることも減った。
あと少しすれば、完全に言われなくなる。そう思うと、少しだけ嬉しかった。
車内はしんと静まり返り、スマホの光が人々の顔を淡く照らしていた。
時々、話し声が聞こえても、気にはならない。
だからだろうか――意識が、あの頃の思い出へと静かに引き戻されていく。
目の前を、見覚えのある街並みが通り過ぎていく。
なんとなく、あんな電気屋があった気がする……。
あの頃の記憶が、少しずつ形を取り戻していく。
まさか、またこの街に戻ってくるなんて。
六年ぶりの空気は、懐かしさと少しの緊張、そしてわずかな不安が混ざっていた。
けれど、それ以上に胸の奥が熱くなる。
『一人で来れるようになったら、いつでも来いよ』
ドクン、と胸が弾む。
幼馴染の武琉は、あの時そう言った。
『一人で来れる』って、すげぇアバウトだよな。小学生らしい……。
思わず笑ってしまい、慌てて真顔に戻す。
浮かれてる。自分でも分かっている。
けれど、それでいい。ずっとこの日を待っていたのだから。
この街に戻ると聞かされたあの日から、ずっと。
父の転勤で、俺たちは何度も引っ越しをしてきた。
ダンボールを開けるたび、部屋の景色が変わっていく。
でも、これが最後だと思いたい。
来年は高校生になる。もう親についていく必要もないだろう。
そう思うと、胸の奥がふっと軽くなった。
たくさんの街を離れてきたけれど、この場所を去った日のことだけは、今でも鮮明に覚えている。
あれは小学二年の、寒い二月のこと。
両親が言った。「大阪に引っ越すんだ」と。
新幹線でたった三時間。それなのに、もう二度と戻れない気がした。
「嫌だ!!!」
ショックで家を飛び出し、隣の武琉の家へ駆け込んだ。
「ミハル君、どうしたの?」
玄関を開けた武琉の母親が、驚いた顔をした。
「ぼっ、ぼっ、僕、おっおっ、大阪に、ふぇーん!!」
パジャマのまま飛び出してきたせいで、寒さと悲しさで全身が震えていた。
武琉の母親はしゃがんで、俺の顔を見つめ、やわらかく微笑んだ。
「そっか、そっか。大阪に引っ越すって聞いたんだね」
その優しいけれど芯のある声に、少しだけ心が落ち着いた。
長くて細い指が、泣いている俺の頭を優しく撫でてくれる。
ちょうどその時、お風呂上がりの武琉と妹の美咲ちゃんが出てきた。
武琉は同級生で、スポーツ刈りの頭にタオルを乗せ、大きな目をさらに大きくして走ってくる。
「ミハル? 何かあったの?」
「……ぅっ、う……」
涙をこらえようと体に力を入れる。
「ミハル君、大阪に引っ越すんだって」
「えー!? マジか!? 大阪!? なんで、大阪なの?」
武琉の声を聞いた瞬間、また涙がこみ上げた。
「うえぇん……」
「お父さんのお仕事なんだって」
「……そうなんだ」
一瞬、武琉が悲しそうな顔をしたが、すぐにパッと明るく笑った。
「おっ、お前、めっちゃええやーん! 大阪ってあれやん、芸人いっぱいおるんちゃうの? 俺も大阪行きたいわ~! ワハハハハッ!」
変な関西弁に、思わず笑ってしまう。
その笑い声が響くたび、胸の奥がキュッとなった。
武琉はいつもおちゃらけているけれど、それが優しさだと知っていた。
寂しさと面白さがごっちゃになって、泣いているのか笑っているのか分からなかった。
けれどやっぱり、少しだけ寂しかった。
――俺と別れることを、寂しがっていないように見えて。
「ミハルとお泊まり会する!」
美咲ちゃんが突然言い出した。
「ダメよ。いつも言ってるでしょ。お隣なんだから、ダメ!」
「やだ! やだ! やだ! ミハル泣いてる! かわいそう!」
美咲ちゃんが母親の腕を引っ張る。
「俺も、ミハルとお泊まりしたい! 母ちゃん、お願いします!」
武琉まで土下座を始めた。
「まぁ……最後だし……。とりあえず、ミハル君のお母さんに聞いてみるわね」
「やった~!!」
「でも、ミハル君のお母さんがダメって言ったらダメだからね」
「分かった~!」
二人が嬉しそうにはしゃぐ姿を、俺はぼんやりと眺めていた。
嬉しいはずなのに、「最後だし」という言葉が胸に刺さる。
しばらくして武琉の母親が戻ってきた。
「……ミハル君のお母さんが良いって」
「やった~!!」
二人が跳ねるように喜んだ。
その日、俺は初めて武琉の家に泊まった。最初で最後のお泊まり会だった。
武琉の父ちゃんが布団を運んできて、三人で敷いた。
けれど武琉がはしゃいで邪魔をするから、全然終わらない。
「兄ちゃん邪魔!!」
美咲ちゃんに怒られても、武琉はまったくこたえない。
「美咲、ミハルの隣で寝る!!」
「僕も!」
結局、俺は二人に挟まれて寝ることになった。
どちらを見ることもできず、ただ天井を見上げていた。
武琉が隣にいると思うと、なかなか眠れない。
しばらくして、美咲ちゃんの寝息が聞こえ、次に武琉の寝息も聞こえてきた。
隣にある呼吸の優しさに安心して、いつの間にか眠っていた。
夜中にふと目が覚めると、武琉の顔が目の前にあった。
急に寂しさがこみ上げて、静かに泣いた。
二人を起こさないようにしていたのに、武琉がゆっくりと近づいてきて、俺を抱きしめてくれた。
そして、美咲ちゃんをあやすように、背中をトントンと叩いた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
武琉は静かに囁いた。
俺は武琉の胸に顔をうずめ、しばらく泣いた。
部屋は真っ暗で、シーンとして静かで、武琉の吐息の音がした。
寒いのに、布団の中は暖かかった。武琉の体から伝わってくる体温。背中に伝わってくる、武琉の手の感触。
武琉のパジャマから漂ってくる洗剤の香り。その全てにドキドキした。
しばらくすると、武琉が反対側を向いて寝てしまった。
武琉は妹をあやすのと同じような感覚だったんだろうけど、俺は恥ずかしくて、なんとも言えない気持ちになった。
ーー武琉はいつも優しい。
結局朝まで全然眠れなかった。
朝、武琉はいつも通りだった。俺だけがドキドキさせられた。
「武琉はずるい」
なぜか、そんな気持ちになった。
――武琉と別れる日が来るとは思ってもいなかった。
俺が幼稚園の時に、隣に越して来たあの日から、ずっと武琉のことが好きだった。
ずっとこのまま一緒にいれると思っていたから、本当に悲しかった。
引っ越しの日は、春休みに入ってすぐだった。
前日、武琉と遊んでいると、武琉が言った。
「一緒にタイムカプセルを埋めようぜ。そしたら、また会えるじゃん」
「タイムカプセル?」
俺はその頃、まだタイムカプセルというものを知らなかった。
「じゃ~ん!」
武琉は、海苔が入っていたであろう缶を、まるでトロフィーのように掲げて見せた。
「海苔の缶じゃん」
「そう。これに宝物を入れて、俺ん家の庭に埋めておくんだよ。そんで大人になったら、一緒にこれ開けようぜ!」
俺は嬉しかった。大人になったらまた会える!
「分かった!」
「じゃあ、今から宝物持ってこいよ!」
「あ、でも、もう荷物詰めちゃったから……」
「あ、そっか。じゃあ……手紙! 手紙にしようぜ! 今から大人になった自分に手紙を書くんだよ。いいじゃん! 俺天才ジャーン!」
そう言って、武琉は紙と鉛筆を持ってきた。
そして、俺たちは大人の自分宛てに手紙を書いて、缶の中に入れた。
二人で武琉の家の庭に出て、隅のほうに埋めた。
「よし! 俺が絶対無くならないように見張っといてやるからな! 大人になったら会いに来いよ!」
「うん! じゃあ二十歳になったら来るね!」
「大人って言ったら十八だろ?」
「……そっか。じゃあ十八歳になったら来る!」
「……やっぱさ、一人で来れるようになったら、いつでも来いよ! ワハハハハッ」
武琉はいつものように大きな口を開けて笑った。
その笑顔が、まるで写真のように、いつまでも俺の心の中を占領した……。
――そして、次の日、俺は大阪へ引っ越した。
『一人で来れるようになったら……』
それって、今すぐにでも行けるってことになっちゃうんだよなぁ……。
そう思った瞬間、顔や首のあたりがチクチクし始めた。
なんとも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。
とりあえず今は考えるのをやめよう。
十八歳とも言ってたし……。せめて高校生になってからにしよう!
「ミハル! 着いたよ!」
気がつくと、すぐそばに座っていたはずの母が、反対側の扉付近から俺を見ていた。
それに気づいた途端、さっきの静けさとは違って、ホームのベルや、人の行き交うざわめきが聞こえた。
「あっ」
「もう! ぼーっとして~」
母はそう言うと、呆れながら先に電車から降りていった。
母の着ていた緑色のきれいなワンピースが、風に靡いている。
俺も慌てて母の後を追いかけるようにして、電車から降りた。
ホームに降りると、少し風が吹いた。それは春の匂いがした。
――武琉はまだ覚えているだろうか。
会いに行ってもいいのだろうか。
いや、怖い。もしも武琉が忘れていたら……。
初めはやりとりしていた手紙も、そのうち来なくなった。
きっと忘れているだろう……。
電車が去っていくと同時に、強い風が舞い上がり、俺の中を通り抜けていった。
――考えるのは、やめよう……
ぼんやりとした記憶が、春のやわらかな光の中に溶けていく。
そして――引っ越しも終わり、新しい生活が始まろうとしていた。
転校初日は、いつだって緊張する。
「今、担任が来るから、ここで待っててね」
事務員らしき女性に案内され、校長室へと通された。
そこには誰もおらず、暗くて静かだった。部屋の中はひんやりしていた。
春になったとは言え、まだ寒い。俺は出入り口付近に立ったまま、ぼんやりと、室内を見ていた。
歴代の校長先生らしき写真。学校の校章が書かれた旗。何かの大会のトロフィー。
なんの思い入れもなく、何も感じない、それらをただ眺めていた。
廊下の方から聞こえてくる、生徒たちの声が別の世界の様に感じた。
これで五回目か……。
六年のうちに、五回も転校していた。
自分でも驚く。
おかげで、友達という友達はいなかった。
どこへ行っても、疎外感だけがついて回った。
どうやって人と親しくなればいいのかも、もう分からなかった。
――どうせまた引っ越す。
そう思うと、その場しのぎでやり過ごす方が楽だった。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
孤独は誰の中にもある。孤独だからといって、悪いわけでもない。
どんなものにも、光と影がある。
どこを見て、どう受け取るかは、自分次第なのだと思う。
「あ〜。お待たせしました。桜井ミハル君かな?」
丸顔でどこか可愛らしい女性が、慌ただしく入ってきた。
「はい」
「おはようございます」
「おはようございます」
「遅くなってごめんなさいね〜。担任の佐藤です。じゃ、行きましょうか」
柔らかい声だった。
佐藤先生は、見た瞬間に優しい人だと分かる雰囲気を持っていた。
少しだけホッとする。厳しすぎる先生は苦手だ。
このくらいの距離感の方が緊張しすぎずに済む。
先生の後ろをついて歩き始めた時、授業開始のベルが鳴った。
「おはようございます。今日は転入生が来てくれました。桜井ミハル君です」
教壇に立つと、クラス全員の好奇心の目に晒される。
どこに行っても変わらない光景だ。
それでもやっぱり、緊張して、心臓が飛び出そうになる。
慣れたはずなのに、慣れない。
けれど、俺はそれを見抜かれないように、平然を装った。
誰とも目が合わないように、視線を遠くに逃がす。
「よろしくお願いします」
「じゃぁ桜井君、あそこの空いてる席に座ってね」
佐藤先生が、後ろの席を指した。
「はい」
席に向かう途中、生徒たちのざわめきが耳に届く。
「めっちゃイケメンじゃん」
「え? かっこいいんだけど!」
「女みてぇじゃね??」
こういう反応には、もう慣れていた。
大阪にいたときは、話し方まで女っぽいとからかわれた。
さて、この学校ではどうだろう。
胸の奥が、静かに沈んだ。
『人は見た目じゃない』
でも、それは綺麗事で、人は見た目で判断する生き物だ。
だからこそ、見た目ではないところで誰かと繋がりたいと願うのかもしれない。
けれど結局、『綺麗』も『醜い』も、見た目で判断されるという点では同じなのかもしれない。
席に着くと、先生が声を張った。
「はーい、じゃぁHR始めるよー!」
教室のざわめきが少しずつ静まっていく。
先生の話し声と、遠くの方を電車が通り過ぎていく小さな音が聞こえた。
窓の外では、うるさいほど蝉が鳴いている。
白いレースのカーテンの向こうは、強い日差しで、相変わらずの暑さを感じさせた。
一日中クーラーが手放せない。外に出るのも面倒になる。
俺は勉強机に頭を伏せて、問題集を眺めていた。
新しい学校にも、少しは慣れてきた。
でも、だからといって夏休みに遊ぶ友人はいない。
まぁ、別に俺も誰かと遊びたいわけでもないし、やらなきゃいけない事も山程あるから良いのだけど。
問題集に目を向けるけれど、まったく集中できない。
高校の進路のことも考えなければいけない。
机の上に置かれた学校紹介のパンフレットに、何気なく視線を落とした。
こんな時期に引っ越しなんてありえないけど、父親の仕事の都合だから仕方がない。
父はほとんど家にいない。
――最後に顔を見たのは、いつだったっけ。
もしかすると、俺のことを避けているのかもしれない。
俺の『女っぽい』ところを、どう受け止めていいのか分からないらしい。
俺だって、そうなりたいわけじゃない。
でも、どう話せばいいのかも分からなかった。
「そんなに家にいないなら、単身赴任でもすれば良いのに」
そう言ったことがある。
けれど母は笑って言った。
「家にいなくても、ミハルの成長を、そばでちゃんと見届けたいんだよ」
どうやら、嫌われているわけではないらしい。
母は今日も部屋で仕事をしている。
お客さんの相談をオンラインで受けているらしい。
時々、話し声やカードを切るような『シャカシャカ』『トントン』という音がする。
母が仕事をしている間、俺はいつも別の部屋で静かに過ごした。
小さい頃から、それが当たり前だった。
だから、一人で過ごすのは得意になった。
本棚から、植物図鑑を一冊取り出す。
この植物図鑑を眺めるのは好きだ。
小さい頃から、母の仕事中にはいつもこれを見ていた。
昔から俺は、道端や河原で咲く花を摘むのが好きだった。
「ミハルは植物を見ている時が一番嬉しそうだね」
そう、母に言われたことがある。
確かに、俺は植物が好きだ。
植物を見ていると、言葉ではない何かでやりとりしているような、不思議な感覚になる。
言葉を交わさなくても、ただそこにいていいんだと思える。
最近は家の中で観葉植物や、キッチンで使うハーブ、雑草も少し育てている。
もう少しセンス良く飾りたいけれど、なかなか難しい。
――武琉ともよく花束を作ったなぁ。
幼稚園から帰ると、いつも家の前にある河原で遊んだ。
武琉はヒーローごっこに夢中で、俺はその横で花を摘んでいた。
タンポポ、シロツメクサ、名も知らない小さな花たち。
武琉は「俺もやる」と言って、自分の背丈ほどもある雑草を引っこ抜いていた。
そんな姿に俺はいつも驚かされた。
「すごい! 武琉。本物のヒーローみたいだ!」
武琉は力も強くて、格好良かった。
武琉の照れた笑顔を思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。
二人で作った花束をお互いの母親にあげた。
武琉の母親がすごく喜んで、武琉は嬉しそうだった。
俺の母も、いつもカラフルで綺麗なガラスの小瓶に飾ってくれた。
あげた時にはクタッとしていた草花が、次の日にはピンと元気になっていた。
花たちは、ちゃんと生きているんだと思って嬉しくなった。
「元気になってる〜!」
「お水いっぱい飲んだからかな? 良かったね」
母はいつも優しく微笑んでくれた。
母が入れてくれたガラスの小瓶も、キラキラして綺麗だった。
そういえば、武琉はいつからか、ヒーローの真似よりもサッカーに夢中になった。
「俺、将来サッカー選手になる!」
武琉はそう言っていた。
時々見せてくれた、武琉のサッカーをしている姿は、とても格好良かった。
――今でもきっと頑張っているだろう。
大きくなった武琉がサッカーをしている姿は、きっと格好良いだろうなあ。
そう思った瞬間、胸のあたりがキュンとして、顔が熱くなる。
――やべー。浸ってる場合じゃない。勉強、勉強。
そう言い聞かせ、再び問題集を開いた。
高校かぁ。
そういえば、武琉は八月が誕生日だった。
もうすぐだ。
俺より少し早く誕生日を迎え、大人びていく姿が、昔は眩しく見えた。
武琉はどこの高校に行くんだろう。
「そうだ!」
思いついて、スマホを開く。
『サッカー 強い……』
少し入力しただけで、指先が冷たくなった。
――どこに行くんだろう。
どうせ分かるわけないのに。
そう思いながら、画面をスクロールしていく。
やがてスマホを伏せて、ベッドに寝転んだ。
やっぱり、会いに行ってみようかな。
そう思った瞬間、頭の奥で声が響いた。
『お前のことなんて、とっくに忘れてるよ。手紙だって来なくなったじゃないか』
確かに。もう子供の頃の話だ。
俺にとって武琉は特別な存在だったけど、武琉にとって俺は、ただの幼馴染くらいのものだろう。
しかも小学三年生になるまでのことなんて、覚えていない人の方が多い。
実際、俺だって四六時中、武琉のことを思っていたわけじゃない。
引っ越しも多く、生活に慣れることに必死で、思い出さない時もあった。
武琉を好きだと思っている自分でさえそうなのに、ただの幼馴染としか思っていない武琉が、再会なんて覚えているはずもなかった。
――バカみたいだ。
一人で期待して、一人で傷ついて。
胸の奥が、針で刺されたように痛む。
ベッドの上で、ぼんやりと天井を見上げた。
でも、やっぱり逢いたい。
六年間ずっと、武琉への想いが消えなかった。
武琉はずっと、俺の心の中にいる。
――ただの執着なのだろうか。
それでも、やっぱり俺は、武琉のことを忘れるなんて出来ない。
あ〜、泣けてくる。
武琉を考えるだけで、切なくて、苦しくて、涙が出そうになる。
逢いたいのに、勇気が出ない。
そんな自分が情けない。
結局、何もできないまま中学生活を終えた。
けれど、心のどこかで武琉を想う日々は続いていた。
――そして、季節がいくつか巡った。
桜が咲き、散って、また桜が咲いた……。
そのたびに、あの頃の光が、胸の奥で静かに揺れていた。
――あの日の約束を、あいつは覚えているだろうか。




