表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四季の匂い  作者: ギアス
13/13

お前のいる匂い

 冬の匂いは、スンッと冷たくて、とても清らかな空気の匂いがする。

絢子、これはお前がいなくなった世界の匂いだよ。

この痛いほど澄んだ空気が肺を満たすたび、心臓が氷の手に鷲掴みにされたように軋む。どうしようもない後悔と、行き場のない怒りが、腹の底で黒い炎のように燃え上がった。

絢子のことを何もわかってやれなかった。

あいつがたった一人、見えない恐怖に怯えていた時、俺はくだらない嫉妬と自己憐憫に溺れていただけだった。守るべきたった一人を、一番近くにいながら、俺は自分のことしか考えていなかった。

無性に、腹が立った。どうしようもなく愚かで、身勝手だった自分自身に。

雪がしんしんと降り積もる日に行われた葬儀で、俺はついに絢子の遺影を見ることができなかった。あいつの、あの太陽みたいな笑顔を見る資格が、俺にはないと思ったからだ。ただ俯き、唇を噛み締め、凍える指先が感覚を失うまで、そこに立ち尽くしていた。

そして、世界は何もなかったかのように、無慈悲な「日常」を再開した。

季節は巡った。

桜が咲き、あの日の教室の窓から見えた景色が蘇る。じっとりとした夏の雨が降り、アスファルトの匂いが立ち上るたびに、バックヤードで交わしたキスを思い出す。甘い金木犀の香りが街を包めば、古びた応接室で初めて会った、強がりな瞳のあいつが脳裏をよぎる。

季節の変わり目の匂いがするたびに、胸はナイフで抉られるように痛んだ。心の蟠りは解けないまま、俺はただ、空っぽの時間を生きているだけだった。どうすればいいのか、何ひとつ分からなかった。

そして、あの日から一年が経とうとしていた、12月のある朝。

家を出て、深く息を吸い込んだ瞬間だった。

スンッ――。

あの、冬の匂い。全てを凍てつかせるような、清らかで、残酷な空気の匂い。

その瞬間、電流が背骨を駆け抜けた。

忘れていたはずの記憶が、堰を切ったように脳内で再生される。走馬灯のように、色鮮やかに、匂いと共に。

金木犀の甘い香りに包まれて、強さと脆さを瞳に宿したお前と出会った、秋。

舞い散る桜の花びらの匂いの中で、運命の悪戯に驚いた、春。

蒸し暑い夜風の匂いの中、互いの肌の温もりを確かめ合った、夏。

乾いた枯れ葉の匂いが、苦しい決別を告げた、晩秋。

そうだ。全部、全部、匂いと共にある。

絢子との記憶は、いつだって季節の香りの中にあった。

あいつは、いなくなったんじゃない。

消えてしまったわけじゃ、ない。

絢子は、四季の匂いの中にいる。

春の息吹に、夏の雨に、秋の風に、そして、この痛いほどの冬の空気に。俺が生きるこの世界の、香りそのものになって、ずっと、ずっとそばにいてくれたんだ。

その事実に気づいた途端ながれはじめた、俺の目から、とうに枯れ果てたと思っていた涙が、再び溢れ出した。

もう、どうでもよかった。

通勤する人々の怪訝な視線も、クラクションの音も、何もかも。俺は、まるで迷子になった子供のように、その道の真ん中にうずくまった。

「う…あぁ…あああああああああっ!」

アスファルトに額を擦り付け、声を上げて泣いた。謝罪と、後悔と、そして、どうしようもないほどの愛しさが、洪水となって体中から噴き出してくる。止まらない。止められない。

「絢子…! あやこぉっ…!」

しゃくりあげ、嗚咽を漏らし、ただ、あいつの名前を呼び続けた。

どれくらい、そうしていただろうか。

激しい嗚咽の合間、冷たい風が俺の頬を撫でた、その時だった。

『――私は、四季の匂いの中にいるよ、直樹くん』

それは、紛れもない、絢子の声だった。

太陽みたいに暖かくて、鈴が鳴るように澄んだ、世界で一番愛した声。

俺は、泣き濡れた顔を上げた。

空はどこまでも青く、冬の光が優しく街を照らしている。

もう幻聴は聞こえない。だが、確かな温もりが、凍てついた俺の心をゆっくりと溶かしていくのを感じた。

涙はまだ止まらない。きっと、この悲しみが完全に消えることはないだろう。

それでも、俺は生きていく。

春が来れば、お前の屈託のない笑顔を思い出すだろう。

夏が来れば、お前の肌の温もりを。

秋が来れば、お前の強さを。

そして、冬が来るたびに、お前の清らかな魂を、この胸に感じるだろう。

俺は、ゆっくりと立ち上がる。

頬を伝う涙はそのままに、スンと冷たい空気を、もう一度、深く、深く、吸い込んだ。

それは、お前がいなくなった世界の匂いじゃない。

お前が、今もここにいる匂いだ。


〜Fin〜


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ