お前のいる匂い
冬の匂いは、スンッと冷たくて、とても清らかな空気の匂いがする。
絢子、これはお前がいなくなった世界の匂いだよ。
この痛いほど澄んだ空気が肺を満たすたび、心臓が氷の手に鷲掴みにされたように軋む。どうしようもない後悔と、行き場のない怒りが、腹の底で黒い炎のように燃え上がった。
絢子のことを何もわかってやれなかった。
あいつがたった一人、見えない恐怖に怯えていた時、俺はくだらない嫉妬と自己憐憫に溺れていただけだった。守るべきたった一人を、一番近くにいながら、俺は自分のことしか考えていなかった。
無性に、腹が立った。どうしようもなく愚かで、身勝手だった自分自身に。
雪がしんしんと降り積もる日に行われた葬儀で、俺はついに絢子の遺影を見ることができなかった。あいつの、あの太陽みたいな笑顔を見る資格が、俺にはないと思ったからだ。ただ俯き、唇を噛み締め、凍える指先が感覚を失うまで、そこに立ち尽くしていた。
そして、世界は何もなかったかのように、無慈悲な「日常」を再開した。
季節は巡った。
桜が咲き、あの日の教室の窓から見えた景色が蘇る。じっとりとした夏の雨が降り、アスファルトの匂いが立ち上るたびに、バックヤードで交わしたキスを思い出す。甘い金木犀の香りが街を包めば、古びた応接室で初めて会った、強がりな瞳のあいつが脳裏をよぎる。
季節の変わり目の匂いがするたびに、胸はナイフで抉られるように痛んだ。心の蟠りは解けないまま、俺はただ、空っぽの時間を生きているだけだった。どうすればいいのか、何ひとつ分からなかった。
そして、あの日から一年が経とうとしていた、12月のある朝。
家を出て、深く息を吸い込んだ瞬間だった。
スンッ――。
あの、冬の匂い。全てを凍てつかせるような、清らかで、残酷な空気の匂い。
その瞬間、電流が背骨を駆け抜けた。
忘れていたはずの記憶が、堰を切ったように脳内で再生される。走馬灯のように、色鮮やかに、匂いと共に。
金木犀の甘い香りに包まれて、強さと脆さを瞳に宿したお前と出会った、秋。
舞い散る桜の花びらの匂いの中で、運命の悪戯に驚いた、春。
蒸し暑い夜風の匂いの中、互いの肌の温もりを確かめ合った、夏。
乾いた枯れ葉の匂いが、苦しい決別を告げた、晩秋。
そうだ。全部、全部、匂いと共にある。
絢子との記憶は、いつだって季節の香りの中にあった。
あいつは、いなくなったんじゃない。
消えてしまったわけじゃ、ない。
絢子は、四季の匂いの中にいる。
春の息吹に、夏の雨に、秋の風に、そして、この痛いほどの冬の空気に。俺が生きるこの世界の、香りそのものになって、ずっと、ずっとそばにいてくれたんだ。
その事実に気づいた途端ながれはじめた、俺の目から、とうに枯れ果てたと思っていた涙が、再び溢れ出した。
もう、どうでもよかった。
通勤する人々の怪訝な視線も、クラクションの音も、何もかも。俺は、まるで迷子になった子供のように、その道の真ん中にうずくまった。
「う…あぁ…あああああああああっ!」
アスファルトに額を擦り付け、声を上げて泣いた。謝罪と、後悔と、そして、どうしようもないほどの愛しさが、洪水となって体中から噴き出してくる。止まらない。止められない。
「絢子…! あやこぉっ…!」
しゃくりあげ、嗚咽を漏らし、ただ、あいつの名前を呼び続けた。
どれくらい、そうしていただろうか。
激しい嗚咽の合間、冷たい風が俺の頬を撫でた、その時だった。
『――私は、四季の匂いの中にいるよ、直樹くん』
それは、紛れもない、絢子の声だった。
太陽みたいに暖かくて、鈴が鳴るように澄んだ、世界で一番愛した声。
俺は、泣き濡れた顔を上げた。
空はどこまでも青く、冬の光が優しく街を照らしている。
もう幻聴は聞こえない。だが、確かな温もりが、凍てついた俺の心をゆっくりと溶かしていくのを感じた。
涙はまだ止まらない。きっと、この悲しみが完全に消えることはないだろう。
それでも、俺は生きていく。
春が来れば、お前の屈託のない笑顔を思い出すだろう。
夏が来れば、お前の肌の温もりを。
秋が来れば、お前の強さを。
そして、冬が来るたびに、お前の清らかな魂を、この胸に感じるだろう。
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
頬を伝う涙はそのままに、スンと冷たい空気を、もう一度、深く、深く、吸い込んだ。
それは、お前がいなくなった世界の匂いじゃない。
お前が、今もここにいる匂いだ。
〜Fin〜




