第12章 緋色の雪
病院の無機質な白い廊下を、俺は夢中で走った。消毒液のツンとした匂いが、鼻をつく。集中治療室のランプだけが、冷たく光っていた。
「絢子の親族の方ですか?」
「俺は…恋人、です」
初めて口にしたその言葉は、あまりにも虚しく響いた。
どれくらいの時間が経ったのか。手術室の扉が開き、疲労しきった表情の医師が出てきた。その顔を見ただけで、全てを悟ってしまった。
「…残念ですが…」
医師の言葉は、まるで遠い世界の音のように聞こえた。足元から、世界が崩れていく。俺は、その場に崩れ落ち、ただ、意味のない叫び声を上げた。
警察から聞かされた話で、全てを理解した。絢子がストーカー被害に遭っていたこと。そして、その日の帰り道、待ち伏せしていた男にナイフで…。
許可を得て、安置室で眠る絢子と対面した。血の気を失い、真っ白になった彼女の頬に触れる。氷のように冷たい。もう、あの太陽のような笑顔で、俺の名前を呼んでくれることはない。
「…ごめ、ん…絢子…ごめん…」
気づいてやれなくて、ごめん。守ってやれなくて、ごめん。お前が一人で苦しんでいる時、俺は自分の嫉妬心に溺れていただけだった。
「俺が、お前を殺したんだ…」
嗚咽が止まらない。後悔が、絶望が、俺の全身を内側から食い破っていく。
あぁ、覚えてる。この匂い。
金木犀の甘い香りに混じって、初めて会った日の、古びた応接室の匂い。
桜吹雪が舞った春の、教室の匂い。
二人で帳簿を眺めた夏の、湿った夜風の匂い。
そして、枯れ葉を踏みしめた秋の、別れの匂い。
四季の匂いは、いつだって絢子と共にあった。
そして今、俺の鼻腔を満たすのは、消毒液と、そして、拭いきれない鉄錆のような血の匂い。
俺の世界から、色が、音が、そして匂いが消えた。緋色に染まった雪が降りしきる、この寒い冬の夜。俺の時間は、永遠に止まってしまった。




