公爵様、一夜でいいので私と結婚してください!
「イレーネ・フォン・リューベルト。お前との婚約を破棄する!」
きらびやかな王宮の広間。
王太子ハンスのよく通る声に、夜会の会場は水を打ったように静まりかえった。
金髪碧眼の美貌の王太子の隣にぴったりと寄り添っているのは、最近噂となっているリリアナ・フォン・グレイモア伯爵令嬢。ピンクブロンドの彼女が身につけている青のドレスは、おそらくハンスが選んだものだろう。
イレーネは新緑の瞳を静かにハンスに向ける。イレーネがどんな反応を示すのか周囲が固唾を呑んで見守る中、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
その顔は、先ほど婚約破棄を言い渡されたとは思えないほど冷静だろう。
感情を顔に出さない。これも妃教育で受けたことの一つ。今日ほど役立ったと思う日はない。
「他に何か言うことはないのか?」
わずかに苛立ちのこもった声でハンスが問いかける。イレーネはゆっくりと首を振った。
「特に何もありません。殿下の仰せのままに。それでは失礼いたします」
くるりときびすを返すと、イレーネはまっすぐに出口へと向かう。
その堂々とした姿に誰も声をかけることはできない。きゅっと唇を引き結んだその表情はあふれでる何かを押さえつけているようにも見えたはずだ。
そんなイレーネの内心は――。
(やった! これで私は自由よ!)
飛び跳ねたいほどの歓喜に満ちていた。
* * *
「やっぱり全然落ち込んでなかったわね」
三日後。わざわざ嫁ぎ先から実家まで様子を見に来てくれたイレーネの姉が、若干呆れた顔で言った。
「私はこれからの希望にとても満ちてるわ。お姉様」
イレーネはにっこりと笑う。心なしか肌つやも良くなっている。
なにせ、五年間の忍耐の日々から解放されたのだ!
ハンスは茶髪に緑色の瞳というイレーネの外見が地味で気に食わなかったようで、最初からけんか腰だった。そんな相手にイレーネだって心を開けるわけがない。
ともあれ、婚約破棄! これでもう、ハンスの代わりに礼状を書いたり、書類に目を通したり、資料を作成したりしなくて済むのだ。夜会で放置されることもないし、彼の容姿と地位に目がくらんだ女に睨まれることもない!
「正直ね。イレーネ。でも、新しい婚約者……といっても正式発表はまだだけれど、グレイモア伯爵令嬢だったかしら。彼女、あまりよい評判を聞かないわよね?」
「それは否定しないわ」
「そのグレイモア伯爵令嬢がまともに妃教育をこなせると思う?」
「……」
姉の鋭い指摘にうっとイレーネは言葉に詰まった。
「この国の王太子は遅くとも二十二までに結婚するでしょう? ということは、彼女はあと二年で妃教育を終わらせなくちゃいけないのよ」
イレーネが十三の年に婚約してから五年。ようやく終わりが見えてきたところだった。いや、イレーネの場合、ハンスのサボった仕事の尻拭いに時間の大半を割く羽目になっていたことも大きい。特にここ二年は、ハンスの仕事の九割はイレーネがこなしていた。
「無理、でしょうね」
「でしょう? 下手したらあなたとよりを戻そうと考えるんじゃないかしら」
姉は大きくうなずくと、ぞっとするようなことを言った。
十分あり得る。自分でいうのもアレだが、ハンスの仕事が回っていたのはイレーネのおかげだ。
(だって、あの方、本当に顔しか取り柄がないもの)
八歳の弟マルクス殿下の方がまだ素直なだけ将来性がある。
(私が便利に使えるってことに気づいてしまったら……)
よりを戻す――婚約を結び直すのならまだましだ。下手したら側妃になれ、と言ってくるんじゃなかろうか。そして、ハンスとリリアナに都合良くこき使われる……なんだかあり得そうな気がしてきた。
冗談じゃない!
これ以上、あの王太子に関わって搾取されるのはまっぴらだ。
貴族失格と言われるかもしれないが、ハンスに無償で五年もの日々を捧げたのだ。もう十分なはず。
「まあ、さすがにあの王太子もそこまではやらないと思うけれど」
そう付け加えた姉の言葉は、当然、イレーネの耳には入っていなかった。
どうすればいいんだろう。どうすれば。
(そうよ。結婚すればいいのよ!)
ぽん、とイレーネは手を叩いた。
大変くだらない制度だと思うのだが、王家には初婚の純潔の令嬢しか嫁げないことになっている。血の正当性を守るためらしい。
それを逆手に取るのだ。
そして適当なタイミングで離婚してしまえばいい。
まあ、イレーネの経歴が傷つくことになるけれど、王太子に搾取されるよりは断然ましだ。むしろ離婚歴を盾に自由に生きるのもありだろう。隣国では女性の社会進出が著しいと聞くし。
「まあ、さすがにあの王太子でもそこまでは……ってイレーネ、お願いだからよく考えてから行動しなさいね」
姉が諫めてくれたけれど、イレーネの耳には全然入ってこなかった。
頭の中は先ほどの思いつきでいっぱいだ。
結婚すれば、もうハンスに振り回されなくて済む。
とてもよいアイデアに思えた。
けれど、残念なことに結婚は一人で出来るものじゃない。相手がいるのだ。
――イレーネの脳裏に一人思い浮かんだ人物がいた。
「ヴァルトハイム公爵様、一夜でいいので私と結婚してください!」
「――は?」
勢いよく頭を下げたイレーネに、向かい側に座った青年は目を点にした。
王都にあるヴァルトハイム公爵邸。思い立ったら吉日で即日行動したイレーネだが、こうして実際訪問するまでに三日もかかってしまった。貴族の礼儀は面倒くさい。
だから気が急いてしまい、相手の顔を見るなり説明も何も無しに単刀直入にお願いしてしまったのだけれど……少し失敗したかもしれない。
イレーネの目の前で驚いた顔をしている黒髪紫目の美丈夫は、アドリアン・フォン・ヴァルトハイム。若干二十三歳の彼は宰相補佐の地位にあり、次期宰相候補とも言われる青年だ。
このアドリアンこそ、イレーネが結婚相手にと白羽の矢を立てた人物だった。
若き公爵であるアドリアンだが、実のところ離婚歴が二回ある。妻要因のものだ。そこにもう一回、人助けと思って離婚歴を加えていただきたい。
「リューベルト侯爵令嬢。あなたは何を言っているんだ?」
アドリアンが至極もっともな疑問を口にする。
イレーネは仕方なく自分が結婚を思いついた理由をアドリアンに説明した。
話は早かった。
彼とは、ハンスの仕事を通じて面識があった。つまり、イレーネがハンスの仕事の肩代わりをしていたことを知っている。
イレーネの話に、アドリアンが小さく息をついた。
「まあ、確かに殿下が再びあなたを必要とする可能性は極めて高いだろうね。正式な婚約を前に、グレイモア伯爵令嬢の妃教育が早速始まっているけれど、あまり評判がよくないから」
まだ婚約破棄を言い渡されて一週間も経っていない。なのに既に評判がよくないというのはどういうことなのだろう。
「一昨日、講師が厳しいって泣きわめいたんだよ。グレイモア伯爵令嬢」
「――え?」
頭が真っ白になった。――泣きわめいた? 十八の貴族令嬢が?
「そして昨日は逃げた」
「え?」
ちょっとまって。イレーネは頭痛がしてきた。
本格的にハンスがイレーネの復帰を狙ってきそうな気配が濃いではないか。
リリアナには、もう少しくらい根性を見せてほしかった。人から婚約者を奪い取るその根性はどうした。
「二度目の婚約破棄は無理だから王家も慎重になっている。ある程度彼女の見極めがつくまで、婚約発表はないだろう」
というか、様子を聞くだけで婚約発表は無理では? という疑問が浮かぶ。
「もっとも、グレイモア伯爵令嬢が普通の令嬢だったとしても……あなたの代わりを務めるのは無理ではないかな。側妃じゃなくて正妃だとしても、あなたはハンス殿下の婚約者に戻るつもりはないのか?」
「ありません」
アドリアンの問いかけに、きっぱりとイレーネは言い切った。
「政略的な婚約です。当初は、愛情が生まれなくとも信頼関係で結ばれればそれでいいと思っていました。ですが、殿下は最初から私の地味だという理由で、歩み寄りを拒否しました。殿下は根本的に私の存在が気に入らないのでしょう。私が正妃に戻ったとしても、きっと同じことの繰り返しです。私では殿下をお支えできません」
国のために犠牲になれという考えもあるのかもしれない。
でも。――イレーネにだって心はあるのだ。
五年間。ひたすら心を殺してきた。ようやくそこから解放されたというのに。
そうか、とアドリアンが短く呟く。
二人の間にしんと沈黙が落ちた。アドリアンは難しい顔をしている。
(やっぱり難しいわよね……)
勢いで申し込んでしまったものの、暴走しすぎてしまった気がする。
離婚歴が二回も三回も同じ、などイレーネの都合しか考えない失礼な話だった。
国外逃亡に舵を切った方がいいかもしれない。
アドリアンのおかげで、今の状況がうっすら知れたわけだし。
「公爵様、申し訳ありません。変なことを……」
謝罪して仕切り直そう。そう思ったイレーネの言葉はアドリアンに遮られる。
「あなたは何故僕を選んだんだ?」
「――え?」
「この結婚――契約結婚だ。僕に離婚歴があるからか?」
まっすぐな紫色のまなざしがイレーネを捉える。思わずドキリとしてしまったのは、アドリアンの表情は思いの外真剣だったから。そう思いたい。
「それもありますが……一番は、公爵様が信頼出来る方だからです」
イレーネは自分で答えてそれがしっくりくるような気がした。
『いつも大変だな。リューベルト侯爵令嬢』
彼は、ハンスの代わりに仕上げた書類を持っていくと、いつもいたわりの言葉をくれた。『もらい物だが僕は食べないから』と甘い物をもらったこともある。
そんな一つ一つの心遣いが、当時のイレーネにはとても嬉しかったのだ。
結婚には懲りたと女性を寄せ付けない彼だけれど、それは迫ってくる令嬢に対してだ。彼に悪印象を抱いたことは一度もない。
「いくら離婚歴があったとしても、こんなこと、誰にでも頼めるわけではありません」
「そうか」
ほんの少し、アドリアンの口元が緩む。
その表情の意味がわからずイレーネが戸惑っていると、アドリアンが言った。
「――わかった。あなたの申し出を引き受けよう」
「え?」
イレーネはぱちぱちと瞬きをした。
「何そんなに驚いているんだ? 持ちかけたのはあなたの方だろう?」
不思議そうに首をかしげるアドリアンに、イレーネは慌てて首を振った。
「いえ。そのありがたいのですが、本当によろしいのですか?」
「もちろんだ。ただし、さすがに一夜では離婚しない。いかにも偽装結婚のように思えるからな。あと、僕たちがいきなり結婚する説得力もほしい」
「説得力」
「ああ。――簡単だ。僕たちが熱烈な恋に落ちたことにすればいい」
美しい笑みを浮かべるアドリアンに、イレーネは言葉を失った。
(怒濤だったわ……)
この一週間、アドリアンの段取りは見事としか言いようがなかった。
実家への挨拶。婚姻の手続き。
どういう手を使ったのか、アドリアンはイレーネの父親をも簡単に説得してしまった。
もっとも、父はイレーネを利用してばかりのハンスを好きではなかったし、あの公衆の面前での婚約破棄に怒り心頭だったので、アドリアンの話は渡りに船だったのかもしれない。
離婚歴があるとは言え、アドリアンは将来有望な若き公爵。結婚相手には十分だ。
アドリアンは、父に許可を取ると婚姻の手続きも最速で行った。婚約をすっ飛ばしての婚姻は、最近徐々に増え始めているとはいえ、高位貴族としては異例だ。
貴族の婚姻は国王陛下の許可がいる。ハンスと婚約破棄したばかりのイレーネの婚姻に国王夫妻は驚いたが、アドリアンが熱心に頼み込んだらしい。
『殿下がもたらしてくれたこの最大のチャンスを僕は逃したくないのです。お二人の関係は完全に解消されたと聞きます』
そんなこんなで、あっという間にイレーネはヴァルトハイム公爵夫人になってしまっていた。今日から、ヴァルトハイム公爵邸で暮らすことになり、イレーネは公爵夫人のための部屋にいる。
前の妻を思い起こされる部屋は嫌だろうということで、新たな公爵夫人用の部屋が作られることになった。そろえられた家具はどれも上品で高価そうなものばかり。
イレーネはベッドに一人腰掛け、なんだか落ち着かない気持ちでいた。
(いや、私の望んだ通りの結果ではあるんだけど。ヴァルトハイム公爵様、手際が良すぎでしょう)
仕事の出来る男であることは知っていたが、これほどまでとは。
婚姻届にサインをしたので、イレーネは既にイレーネ・ヴァルトハイムなのだけれど、怒濤過ぎていまいち実感がない。
書類にサインをして教会に届けて、そしてそのまままっすぐ屋敷にやってきただけ。
両親には、結婚式は落ち着いてから、と説明してあるが、その式が行われることはない。
書類上だけの結婚。
使用人にはおそらくうまく説明してあるのだろう。その証拠として、一応新婚初夜だというのに用意されていた寝間着はこれでもかというほど分厚いものだった。
(ただ、これで殿下と結婚する道はなくなった)
そう考えるだけで心が軽くなる。
アドリアンには感謝しかない。
どれくらいこの結婚生活が続くかわからないけれど、名目だけでも妻のうちはできるだけのことをしよう。
そう決めたイレーネがベッドに横たわろうとしたとき、こんこんとノックが鳴った。既に侍女は休んでいる。イレーネは立ち上がった。
「イレーネ。ちょっといいか?」
耳に心地の良い声が響く。ドアの向こうに立っていたのは今日から夫になったアドリアンだった。
「公爵……アドリアン様」
名前で呼ぶようにと馬車の中でくどいほど念を押されたのは今日のこと。慌てて名前を言い直すと、アドリアンは満足そうに笑みを浮かべた。
少し迷って、イレーネはアドリアンを部屋に招き入れる。一応名目上だけでも夫なのだ。夜の訪れを拒む方がおかしい。
ベッドに並んで腰掛ける。寝る前のラフな格好のイレーネと違って、アドリアンは今からでも外出出来そうなかっちりとした格好だった。
「アドリアン様。どうしたんですか?」
「これからのことを少し話そうかと思ったんだ」
「なるほど」
イレーネが居住まいを正すとアドリアンが苦笑した。
「そんなに固くならなくても大丈夫だ。……あなたは一夜でいいからと言っていたけれど、さすがに一夜で離婚するつもりはない。それはいいか?」
「もちろんです」
「グレイモア伯爵令嬢は相変わらずのようだ。王宮内では前の婚約者は良かった、という雰囲気が流れていて、それでますます彼女が意固地になる。悪循環だな」
その話を聞いてイレーネの頭がすっと冷える。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ。ハンス殿下にもプライドというものはある。それに――書類上、既にあなたは僕の妻だ。王族に嫁ぐ資格はなくなった」
「はい」
「僕とあなたとの結婚話だが、偽装結婚だと疑われないとも限らない。夜会には二人で積極的に出ようと思う。早速だが――」
『僕たちが熱烈な恋に落ちたことにすればいい』
結婚話を持ちかけたとき、アドリアンが言った言葉。彼は本当に実行するつもりのようだ。
アドリアンはこれからの予定をざっと教えてくれる。とりあえず公爵家と近しい貴族の夜会から出かける予定になっている。
この一週間、結婚準備に時間が割かれて、二人で出かけるようなことはなかった。毎日顔を合わせてはいたけれど、それはどちらかの屋敷での話。
いわばこれからが、この結婚に説得力を持たせるための本番なのだろう。
「私、がんばりますね」
力を込めるイレーネにアドリアンが苦笑する。
「そんなに力まなくて大丈夫だ。全部僕に任せてくれればいい」
「ですが……」
「僕の方が場数を踏んでいる。そうだろ?」
そう言われたらイレーネは反論もできない。なにせ、社交では放っておかれっぱなしでいつも壁の花だったのだ。
わかりました、と答えるしかなかった。
「ですが、私も妻として全力で協力しますので!」
「ああ。期待している」
くすりと笑うとアドリアンが立ち上がった。夜も更けている。自室へと戻るのだろう。
イレーネも見送るために立ち上がった。
扉の前でぴたりとアドリアンが立ち止まる。彼がこちらを向いた。
「離れがたいな」
(――え?)
アドリアンの端正な顔が近づいてくる。反射的に目をつむると、額に柔らかな感触を受けた。
思わず目を開いて口をパクパクさせるイレーネを見て、アドリアンが楽しそうに笑う。その顔はひどくきれいだった。
「おやすみ」
ぱたり、とドアが閉まる。
「……っ」
ハンスとは五年間婚約していた。けれど、彼との仲は最悪だったから、こんな甘やかなふれあいなどもちろんしたことがない。
(契約結婚なのに……)
イレーネは真っ赤な顔のままふらふらとベッドに突っ伏した。
案の定、アドリアンとイレーネの電撃結婚は社交界を賑わわせた。
片や二十代で既に離婚歴が二回ある公爵、片や先日王太子に婚約破棄されたばかりの侯爵令嬢。耳目を集める組み合わせだ。
それは覚悟していたからいいのだけれど。
(甘い。アドリアン様が甘すぎる)
イレーネはアドリアンの隣で内心そんな悲鳴を上げていた。
アドリアンの知り合いが主催する夜会。ここ数回出た格式張ったものと違い、今日はアドリアンと同年代の仲間たちが集まっている。
そこでもやはり、アドリアンとイレーネは注目の的だった。あっという間にアドリアンの学生時代の同級生だという三人に囲まれてしまう。勢いにおされてしまい、イレーネは微笑みを浮かべるので精一杯だ。
「まさか、お前がリューベルト侯爵令嬢をかっさらうとはなあ。いつから目を付けていたんだ?」
もともと親しい人間が多いのだろう。向こうの言葉も遠慮がない。
アドリアンはどこか妖艶に微笑む。
「内緒だ。ただ、僕は世間に恥ずべき行いだけはしていない。それは宣言しておこう」
「それにしては、婚姻まで異例の速さだったじゃないか」
「諦めかけていた令嬢の隣に立つ権利を思いもかけず手に入れることができたんだ。誰だって必死になるのは当然だろう? 変な横やりが入らないように死に物狂いだったんだよ」
(本当にこの人は……っ)
イレーネは隣に立つ夫の演技力の高さに絶句するしかない。
夜会では、万事、アドリアンはこんな調子だ。とにかく、臆面もなくのろける。
普段のアドリアンからは考えられないのだろう。皆、一様に驚いている。もちろんイレーネも含めてだ。
事情を知っているイレーネですら、本当にアドリアンが昔からイレーネを好きだったように錯覚してしまいそうになるのだ。説得力がありすぎる。
「おーおー。言うねえ」
「イレーネの手を離してくれて、殿下には感謝しかないよ」
アドリアンは愛おしそうに紫の瞳をイレーネに向けて笑いかける。
やれやれとでも言いたげに友人たちが肩をすくめた。
「まさか、お前がこんな風に女性を前に臆面もなくデレデレになる日がくるとは思わなかったよ」
「奇跡が起こったようなものだからな。絶対離さないと決めているんだ」
「言うねえ。まさか、お前がそんな叶わぬ恋に身を焦がしていたとはな。そりゃあ、必死になって囲い込むはずだわ」
「当たり前だろ。僕はチャンスは逃さない」
話している間も、アドリアンの手はしっかりとイレーネの腰に回されている。
「前の最低だった二人とは大違いだな。アドリアン」
「トビアス」
「おっと悪い。余計なことを言ってしまったか」
低い声でアドリアンに名前を呼ばれ、トビアスと呼ばれた男が顔色を悪くする。
いくらアドリアンの離婚歴が知られているといっても、今の妻を前に過去の妻の話はいささか無神経だと気づいたのだろう。
はあ、とアドリアンがこれ見よがしにため息をついた。
「お気を悪くさせたなら申し訳ない。奥方殿。私が無神経だった。ただ、こんな風に女性に熱のこもった視線を向けるアドリアンを見たことがなかったのは本当なんだよ」
前の二人は完全なる政略結婚だったからな、とトビアスが必死に言い募る。友人たちはそれを裏付けるようにこくこくとうなずいた。
イレーネはにっこりと微笑む。
「お気になさらないでください。私は、アドリアン様を信じておりますので」
「ありがとう」
友人たちがあからさまにほっとした顔をした。
アドリアンの過去の妻について触れられるのはこれが初めてじゃない。イレーネもすっかり対応に慣れてしまった。
二人きりになると、アドリアンがそっと囁いてくる。
「すまないな。イレーネ。さっきの話」
離婚歴の話のことだろう。
「いえ。本当の話ですから。二回とも、アドリアン様に非はなかったんですし」
申し訳なさそうにするアドリアンに笑いかけると、彼がほっとしたような顔をした。
「今となっては、親の勧めとはいえ言われるがままに結婚するんじゃなかったと思うよ。もう少し真剣に考えるべきだった」
苦笑を浮かべる。その言葉が彼の本音に聞こえて、イレーネは小さく目を見開いた。
何故、そんな話を? そう思ったとき、また別の貴族が声をかけてくる。
公爵であるアドリアン、しかも社交界で今話題の二人だ、放っておかれるはずがない。
イレーネもアドリアンの隣でにっこりと微笑んだ。疑問は言葉にすることができないまま。
先ほどと同じようにアドリアンは遠慮なく皆の前でのろける。相手が誰でもお構いなしだ。
ひたすらに甘い言葉と甘い視線を投げかけられて。
(本当に心臓が持たない……)
ぴたりと新婚の妻の側に貼り付き、甲斐甲斐しく面倒を見るアドリアンの姿は、噂好きの貴族たちの目にも焼き付いているようだ。
そのせいもあってか、当初密かに裏があるのではという電撃結婚の噂も、だんだん「密かにイレーネに思いを寄せていたアドリアンがここぞとばかりに婚約破棄されたイレーネの傷心につけ込んだ」というものに塗り替えられていた。
結婚して半年が過ぎた。
アドリアンの婚姻期間の記録は更新し、イレーネはすっかり公爵邸に馴染んでいた。
少しでもヴァルトハイム公爵家の役に立ちたいと、アドリアンに頼み込み家の手伝いを始めたのは結婚して一月もたたないときのこと。
そこから、急速に屋敷に溶け込めた気がする。
今日もイレーネは、書斎でヴァルトハイム公爵領の報告書に目を通している。
もともとハンスの仕事を押しつけられていたこともあって、書類仕事はお手の物だ。
だんだん非常に重要な仕事まで任されるようになってしまって、まるで自分が本当にアドリアンの妻になったような気分になってしまう。
(私たちが唇同士のキスすらしたことない、なんて思う人はいないでしょうね……)
そう。夜会では仲睦まじいヴァルトハイム公爵夫妻だけれど、屋敷の中では節度を持った距離で接している。夜、アドリアンが部屋を訪ねてきたのも、籍を入れた日一度きり。健全すぎる清い関係だ。
イレーネが結婚を急いだ原因であるハンスはというと、最近あまりよい評判を聞かない。
曰く、仕事をしない。曰く、公費を使って遊び呆けている。曰く、よくない人間と付き合っている
リリアナの妃教育は少しずつ進んでいるようだけれど、婚約発表ができるレベルまでは達していないようだ。
――だから、まだアドリアンと一緒にいることが出来る。
最近、そんなことを思う自分がいることに、イレーネは気づいていた。
一夜でもいい。婚姻歴を付けるためだけの結婚のはずだったのに。もう目的は果たしていると言ってもいいのに。
――アドリアンはどう考えているんだろう。
少し前に、あまりのアドリアンの甘さに耐えられなくて、のろけは十分じゃないですか? と彼に言ったことがある。でも、アドリアンはどこ吹く風だった。
イレーネものろけるアドリアンが楽しそうなのでそれ以上は何も言えなかった。
アドリアンが愛妻家というイメージが出来てしまったら、離婚は難しいのではないだろうか。そもそもこの結婚にはイレーネにしかメリットがなかったというのに。
でも、この結婚を続ける理由を見つければ見つけるほど、最近のイレーネは喜びを感じてしまうのだ。
「本当にイレーネのような素晴らしい女性を娶れて幸せです」
アドリアンが満面の笑みでのろけるのは、この国の宰相閣下――つまりアドリアンの上司だ。イレーネも王太子の婚約者時代に面識がある。
「まあ、それは同感だ」
宰相閣下は苦笑しながら答える。
今日は夜会ではなく、宰相閣下の家への個人的な招待だ。以前からお祝いをしたいと言われていたのだが、いろいろ忙しく半年後になってしまった。
屋敷の応接室。
宰相閣下には、ハンスの婚約者だった頃にイレーネもお世話になっている。イレーネが仕事を押しつけられているのを知り、何度かハンスのことを諫めてくれた人だ。もちろん、ハンスは聞く耳を持たなかったけれど。
「結婚してからアドリアンの仕事の効率も上がっている。本当にイレーネ様々だよ」
宰相閣下の言葉に驚いたイレーネが、反射的に隣に座るアドリアンの方を見ると、彼はわずかに頬を赤くしていた。いつもののろけとはちょっと違う。強いて言うなら、彼の素のような表情。
「お。恥ずかしがっているな。貴重な姿だ」
「絶対楽しんでますよね?」
「ああ」
気の置けない二人のやりとりに思わずイレーネはくすりと笑ってしまう。いい関係を築いているようだ。
「いや、ほんとお前たちがうまく言ってよかった。あのままイレーネ殿が殿下と結婚していたらこいつは……」
アドリアンが大きく咳払いをする。。
「それは別にいいでしょう?」
宰相閣下は目を丸くするとにやりと笑った。
「貸し一つな」
「なんで貸しになるのかまったく納得いきませんが」
はあ、とアドリアンがため息をついた。
「まあまあ。お前のために一個とびきりの情報を教えてやろう」
「なんですか?」
すっと宰相閣下の雰囲気が変わった。
「――最近、廃嫡とまではいかないが、王太子をマルクス殿下にするべきでは? という話が貴族たちの間から生まれている」
イレーネは小さく息を呑んだ。しかし、隣のアドリアンは平然としている。
「……遅かったくらいだと思いますが」
「辛辣だな」
「当然でしょう? イレーネがいなくなった殿下は、本当に何もしていませんでしたからね。できなかった、の方が正しいか。体調が悪いだのなんだの言い訳を重ねていましたが、それを鵜呑みにした人間なんて皆無でしょう? イレーネの存在でなんとか隠せていたメッキがはがれているだけですよ。まだ幼いマルクス殿下の方が成長が見込めるだけマシだと考える人間がいるのも当然です。十分聡明ですし」
宰相が苦笑している。
「少し私怨が混じっている気もするが……概ねその通りだ。なかなか二人目に恵まれなかったこともあって、周囲が甘やかしすぎたな」
だからこそ、イレーネのようなしっかりした令嬢が婚約者に選ばれたのだ、と宰相は続ける。
が、その婚約は破棄されてしまった。
「ハンス殿下もまるきりの馬鹿じゃない。周囲からだんだんそっぽを向かれ始めていることに気づき始めている」
「――焦って何かを起こすかもしれないと?」
「イレーネ殿さえそばにいれば、今まで通り王太子としてちやほやされると考えてもおかしくっはないだろう?」
「まったく。イレーネが殿下の代わりに仕事をしてくれていたおかげで、評判がギリギリ保てていたのに、何を思って婚約破棄なんてしたんでしょうね」
「イレーネ殿のおかげだってことを理解していなかったんだろう。何せ、全部殿下の手柄になっていたからな」
「失って気づくありがたみ、というわけですか」
アドリアンの声は非常に冷ややかだ。
「その通りだ。イレーネ殿が側にさえいれば、と考えておかしくないだろう?」
「ですが、私は既婚者で……」
イレーネが口を挟むと宰相がこちらを見た。
「別に妃じゃなくても他にいくらでも側に置く口実はある」
「……」
イレーネはひゅっと息を呑む。
その発想はなかった。
でも、確かにその通りだった。
イレーネの顔から血の気が引いていく。
それに気づいたのか、アドリアンがぎゅっとイレーネの手を握ってくれた。それだけで少しほっとする。大丈夫。アドリアンがそばにいる。
「まあ、手を焼いているこちらとしては、そろそろ決定的にやらかしてくれると助かるんだがな」
「閣下」
「お前もそう思うだろう? アドリアン」
たしなめるアドリアンに逆に宰相閣下は同意を求める。アドリアンは大きく息を吐き出した。
「否定はしませんよ。殿下は僕には近づこうとしませんから、こうして動向を教えていただけただけで感謝です」
「まあ、お前に近づいて計画が漏れたらパーだってことをわかってるんだろう。お前怖いもんなあ」
「当然です。殿下にイレーネを渡すわけがないでしょう?」
アドリアンがきっぱりと言い切る。イレーネの心臓がとくんと高鳴った。
「まあ、その通りだ。しばらくは殿下に気をつけろ」
「承知しました」
――その後は、和気藹々と会は進んでいった。
そして帰りの馬車。
「ごめんなさい。私が浅はかでした」
単調な馬車に揺られながら、イレーネは隣のアドリアンに頭を下げた。
「イレーネ?」
「殿下のこと。結婚すれば殿下から逃れられると思っていたんです。でも、それ以外の方法までは考えていませんでした」
王妃の侍女あたりが無難だろうか。別に妃じゃなくても、適当な名目で呼び寄せて、仕事をさせればいいのだ。そのことに全く気づいていなかった。
「わざわざアドリアン様に結婚していただいたのに」
「かまわない。結婚すると決めたのは僕だ」
アドリアンがまっすぐにイレーネの瞳を見た。その表情はとても真剣だ。
「でも……」
「僕は、あなたを妻に出来て幸せだ」
「アドリアン、様」
今は馬車という狭い空間でアドリアンと二人きり。のろけを聞かせる相手はいないのに。
ふいに抱き寄せられる。馬車に並んで座ったままだから、密着というほどではなかったけれど、それでもイレーネの心臓は高鳴った。ほのかに感じられる温もり。
(どうして……)
こんなことをされたのは初めてだった。
いつも夜会ではそれなりにくっついているけれど、それとは全然違う。
一体、アドリアンはどういうつもりなのだろう。
「どんなかたちであろうと、絶対にあなたを殿下には渡さない」
アドリアンの声が決意に満ちた声が降ってくる。
それは本心ですか? イレーネは問いかけたい。でもきけない。
その代わりにアドリアンに身を任せる。
馬車が屋敷に着くまで、二人はそのままでいた。
本当にハンスを王太子の座から引きずり下ろそうという動きがあるらしい。父もその話を知っており、イレーネに忠告してきた。まあ、アドリアンがいれば大丈夫だろう、とも言っていたけれど。
もともとハンスが出そうな夜会は避けていたのだが、念のために他の夜会も断って、イレーネはできる限り公爵邸に閉じこもっていた。
けれど、どうしても避けられない行事というものはある。
それが今日の王国の建国記念舞踏会だった。
高位貴族は参加必須といわれるこの夜会を欠席するわけにはいかない。アドリアンは心配そうな顔をしていたけれど、イレーネは押し切ることにしたのだ。
ハンスももちろん参加するけれど、国王陛下の目があるところで滅多なことはしないだろう。
王宮の大広間。イレーネが婚約解消された場所でもある。あのとき以上に多くの着飾った人々がいる。あとは王族の入場を待つばかりという状態だ。
「大丈夫ですよ。アドリアン様」
浮かない顔のアドリアンにイレーネは笑いかける。
「アドリアン様が守ってくれるのでしょう?」
「あ、ああ。そうだな」
ようやくアドリアンに笑顔が浮かぶ。
今日のドレスの色は紫。アドリアンの瞳の色だ。アドリアンはアドリアンで、イレーネの瞳の色である緑の上着を着ている。新婚なのでこれくらいは許されるだろう。
王族の入場。
ハンスはリリアナをエスコートしていた。
未だに二人の婚約は発表されていない。リリアナが求められるレベルに達していないのか、他にまだ理由があるのか。婚約破棄を告げれらた夜会では呆れるくらいにべったりしていたのに、今はそれなりに節度を保った距離だ。
それが、単純に妃教育の結果なのか判断はつきかねる。
国王夫妻が続いて入場する。
国王陛下の短い演説を聴き、あとは交流の時間だ。
爵位の高いものから国王夫妻への挨拶へと向かう。ヴァルトハイム公爵家は八つしかない公爵家の一つ。もちろん挨拶の順番も早い。
イレーネが陛下と会話を交わすのは、婚約破棄以降初めてのことだった。
「本当に二人は仲睦まじいな。何の片鱗もなかったヴァルトハイム公爵が婚姻許可申請を提出したときは驚いたものだが」
「ええ。イレーネを妻にすることができてとても幸せです」
「まあ、ヴァルトハイム公爵がそんなふうにおっしゃるとは」
陛下の隣に座る王妃がほほほと笑う。
ハンスとリリアナは同年代の貴族たちのところへ行っており席を外している。そばにいられたら流石に気まずかったのでとても助かった。
「イレーネ――ヴァルトハイム公爵夫人も幸せそうでよかったよ。――息子がすまなかったな」
まさか陛下に謝られるとは思わなかったので、イレーネは目を丸くした。
「よかれと思って結んだ婚約だったのだが……息子には次はないと言い聞かせている」
「いえ。お気になさらないでください。私は今とても幸せですし、殿下の婚約者だったときに学んだことも非常に役立っております」
イレーネはゆっくりと首を振った。
たった一言かもしれないけれど、今まで頑張ってきた自分が報われた。そんな気持ちになる。
「私はイレーネに娘になってほしかったわ」
イレーネのことを買ってくれいてた王妃がぽろっとこぼす。
「王妃陛下」
アドリアンが発する強い冷気に、王妃がどこか引きつった笑みを浮かべる。
「ヴァルトハイム公爵。わかっているわ。冗談よ」
「わかっていただけたようで何よりです」
と、そんなこともあったものの、挨拶自体はつつがなく終わった。
アドリアンはあっという間に挨拶を求める貴族たちに囲まれる。イレーネもできる限り隣でにこにこしながら必要であれば口を開いた。
一体、何人の貴族と挨拶をしただろうか。ようやく挨拶の波が途切れる。
「少し休憩しようか。イレーネ」
「そうですね」
ハンスのことで気をはっているのもあるのだろう。非常に疲れた。
「飲み物は……あっちか」
軽食と飲み物のコーナーがあり、給仕がグラスを配っている姿が見えた。
アドリアンと二人でそちらへと向かう。
その途中。
イレーネの身体に衝撃が走った。令嬢がイレーネにぶつかってしまったらしい。ぱしゃり、と彼女が持っていたグラスがイレーネにかかる。
「申し訳ありません!」
「大丈夫よ。気にしないで」
ひたすら頭を下げる令嬢にイレーネはにっこりと笑った。
「本当に申し訳ありませんでした!」
令嬢は何度も頭を下げると去って行く。
(さて。問題はドレス、よね)
令嬢のグラスには赤ワインがはいっており、スカートの部分に大きくかかってしまっている。せめて、その部分を拭いて目立たないようにしておきたい。
もう少し後の時間だったら絶好の帰るいいわけになったのだけれど。
アドリアンが心配そうに顔を覗き込んできた。
「イレーネ。大丈夫か?」
「大丈夫です。少し化粧室に行ってきますね。取れないか確認してみます」
「僕も……」
そのときだった。
「ヴァルトハイム公爵!」
アドリアンに若い貴族から声がかかる。
イレーネはアドリアンに目配せをした。
アドリアンは気が進まなそうだったが、イレーネは貴族の社交の大事さを知っている。そっとアドリアンの背中を押した。
「大丈夫です。アドリアン様。すぐ戻りますので」
心配そうに何度もこちらを振り返るアドリアンを笑顔で見送ると、イレーネは自分も化粧室へと急いだ。
赤ワインのシミは完全にはなくならなかった。これは王宮に頼んで着替えを用意してもらった方がいいのかもしれない。こういったときのためにドレスが用意されているはずだ。
仕方なくイレーネは使用人に声をかける。こういった事態は初めてではないのだろう。すぐに侍女が現れて、イレーネを王宮の部屋の一つに案内してくれる。
ドレスを探してくると侍女が部屋を出て行った。
イレーネはほっと息を吐き出すと、スカートについたシミを見つめた。お気に入りのドレスなので、なんとかしみ抜きができるといいのだけれど。
そんなことを考えていると、扉が開く音がした。
「久しぶりだな。イレーネ。婚約破棄以来か?」
一番聞きたくなかった声が耳に飛び込んできて、イレーネははっと顔を上げる。
部屋に入ってきたのは、元婚約者――ハンスだったのだ。
「ハンス殿下……」
相変わらずキラキラとしていて容姿だけは立派な王子様だ。彼の隣にリリアナはいない。
「グレイモア伯爵令嬢はどうしたんですか?」
「リリアナなら会場にいるんじゃないか」
ずいぶんぞんざいな言い方だ。あれだけぴったりと寄り添っていたのに。
やはり今日の適度な距離は、節度ではなく単に二人の間に溝が入ったということかもしれない。
「こうして私にかまっている場合ではないと思いますが? お二人は婚約されるのでしょう?」
探りを入れると、はん、とハンスが鼻で笑った。
「残念ながら、リリアナに王太子妃の仕事は重すぎる。イレーネのやれることが自分に出来ないわけがないと大口を叩いていたわりに、全然だめだからな。リリアナの容姿で中身はお前だったらよかったんだが……」
ちらりとハンスがイレーネを見る。
「まあ、現実そんなことは無理だ。だからいいことを思いついたんだ。リリアナの代わりに仕事をやる人間を用意すればいい。お前が未婚のままだったら側妃にしてやったんだが……残念ながら結婚してしまったからな。侍女あたりが妥当か」
ハンスがさもいい思いつきのように述べるのは、イレーネが何よりも恐れていた事態だった。
「貴族たる者、国に尽くすのは当然だろう?」
「お断りいたします。私を都合のいいように使おうと思っても無駄です。国ではなく殿下に尽くす……いえ搾取されることになるのでしょう? 絶対に嫌です」
イレーネはハンスの目を見てきっぱり言い切った。
ハンスからふっと口元に嫌な笑みを浮かべる。
「ほう。いいのか?」
ぞくりと背筋が震えた。なんだかとても嫌な予感がする。
「あんまり気は進まなかったが……仕方ない」
ハンスがイレーネに近づいてくる。
そうだ。今、イレーネとハンスは密室に二人きりなのだ。イレーネはそのことに今更気づいた。これはまずいかも知れない。
イレーネは後ずさるが、あっという間に壁際に追い詰められてしまった。
「何をするつもりですか?」
「ヴァルトハイム公爵はお前をずいぶん大事にしているそうじゃないか。あの男の趣味は全然理解できないが、だが、お前が他の男に足を開いたとなったらどうするかな?」
つまり、強引に肉体関係を結び、それを脅しの種にしようと考えているのだろう。
冗談じゃない。
しかも、アドリアンのイレーネは白い結婚……つまりイレーネはまだ純潔のままなのだ。王太子の婚約者だったときは、仕方ないかと諦め半分で受け入れるつもりだった行為だけれど、その関係が完全に解消された今、ハンスに触れられるなんて冗談じゃない。
ハンスがぐっとイレーネの顎を掴んだ。
「あれだけアドリアンがのろけているのだから、ずいぶん女っぽくなったんじゃないかと思ったが……あまり変わらないな。まあいい」
(嫌!)
まだアドリアンとキスだってしたことがないのに。
イレーネは妃教育で習った護身術をぼんやりと思い出す。
絶対にハンスの思い通りになんかならない!
近づく顔に嫌悪感を覚えながら、イレーネは目の前の男の股間に向けて大きく足を上げた。
そのとき。
「イレーネ!」
「うっ」
ばたんと扉が開く音と同時に、イレーネを呼ぶ声と、股間を蹴られたハンスのうめきが重なる。反射的に急所を押さえるハンスとイレーネの間に隙間が出来た。
部屋の扉の近くに軽く息を弾ませたアドリアンがいる。
「アドリアン様!」
うずくまるハンスを尻目に、イレーネは迷わずアドリアンの胸に飛び込んだ。
「イレーネ!」
ぎゅっとアドリアンに抱きしめられる。
――与えられる温もりに強く安堵を感じる。
やっぱりアドリアンの胸の中は安心できる。
イレーネはそっと目を閉じようとして……。
「お、お前。王太子になんということを。暴行罪で……」
背後から苦痛にまみれたハンスの声が聞こえてきてイレーネは我に返った。まだ終わってはいない。
ふう、とアドリアンはため息をつくと、イレーネを拘束する力を緩める。
「――殿下。正当防衛という言葉をご存じですか?」
アドリアンは冷ややかにハンスに告げた。イレーネがハンスの方を見ると、かなりの衝撃だったのか、まだ顔色が弱い。もっとも、かわいそうとは全く思わないが。
「はあ? お前、何を偉そうに……」
「次はない、と陛下は殿下におっしゃっていたと聞きますが」
アドリアンがたたみかけると、ハンスがうっと言葉に詰まった。
「わ、わかった。じゃあ、お前の妻の暴行罪をチャラにするのはどうだ?」
「妻の行為は正当防衛です」
アドリアンは取りつく島もない。
「ふざけたことを言っていないで、さっさと諦めてください。言い訳は私ではなく陛下にどうぞ」
アドリアンがパンパンと手を叩くと宰相と騎士が二人部屋に入ってきた。
騎士はあっという間にハンスを拘束してしまう。ハンスは「王太子に何を無礼な!」などとわめいていたが、拘束が緩む気配はなかった。
騎士はともかく、宰相閣下もいるとは思わなくて、イレーネは目を見開く。
「お疲れ。アドリアン。あとは私に任せろ。お前は夫人と気遣ってやれ」
「ありがとうございます」
宰相はアドリアンに向かってうなずくと、それから騎士二人に拘束されているハンスに冷ややかな視線を向けた。その場にいるだけのイレーネも凍り付きそうな迫力だった。
「殿下。さて、お話をきかせてもらいましょうか」
ハンスのもともと青ざめていた顔がさらに青くなっていく。
「……」
「イレーネ。行こう」
アドリアンに肩を軽く叩かれる。イレーネはこくりとうなずいた。
どうやらアドリアンはイレーネにこっそり護衛をつけていたらしい。イレーネの危機を知らせたのもその護衛だ。そしてその護衛の手配には宰相もかんでいた。
イレーネにワインをかけた令嬢も部屋に連れて行った侍女もハンスの手の者だったということで、あらかじめ人気のない部屋にイレーネと連れ込み暴行し脅す計画だったのだろう。
ハンスは廃嫡された。辺境軍に入れられることが決定したらしい。厳しい環境で性根をたたき直される予定だ。
暴行未遂事件はきっかけに過ぎない。様々な悪事が明るみに出たのだ。どうやらイレーネと婚約していた頃から手を染めていたらしいが、全く気づかなかった。
それだけイレーネもハンスに感心がなかったということだろう。
ハンスの行状を知らなかったらしいリリアナは伯爵家に帰された。正式発表前だったとはいえ、ハンスの実質婚約者だった彼女。両親が新たな縁談を探しているが、ハンスとのつながりはマイナス、さらにあまりよい評判がなかったということで、まともな嫁ぎ先はほぼないだろうということだ。
――そして。
――今日こそは言わなければならない。
イレーネは決意に満ちた表情でアドリアンの書斎をノックした。
あれから一月。ハンスの廃嫡はアドリアンの仕事にも大きく関わり、最近の彼は忙しそうだった。
けれどその波が落ち着いたらしく、珍しく早く帰ってきたのだ。
「アドリアン様」
「イレーネか。どうした?」
マホガニーの机に向かっていたアドリアンが顔を上げる。
「――その、アドリアン様。どうか離縁してください!」
イレーネは決意に満ちた表情で言い切った。
ずっと言わなければと思っていたのだ。
もともとイレーネがハンスに利用されたくがないがために提案した結婚だ。
そのハンスが廃嫡された今、彼がイレーネと一緒にいる理由がない。
それに。これ以上一緒にいたらきっとイレーネは彼と本当の夫婦になることを願ってしまう。それは彼の望んだことではないだろう。
「何故?」
アドリアンの紫の双眸がこちらにまっすぐ向けられていた。
「それは……その、当初の目的が果たせましたので。ハンス殿下が廃嫡された今、もう結婚の理由はないのではないですか?」
「嫌だ、と言ったら?」
「え?」
イレーネは思わずアドリアンを見つめてしまった。
アドリアンはとても真剣な表情をしている。
(どうして?)
アドリアンが椅子から立ち上がった。ゆっくりイレーネに近づいてくる。
「あなたは、そんなに僕との結婚生活が嫌か?」
「いえ。そんなことはありません!」
「だったら、離婚する必要などないだろう。公爵家の皆も君の存在には助けられている」
「ですが……」
イレーネの前でアドリアンが立ち止まった。
紫色の瞳が切なげに潤んでいる。
「あなたを愛しているんだ。イレーネ」
「――え?」
「あなたが殿下の婚約者だったときからずっと。凜としたあなたに好意を持ったのがきっかけだった。一度は諦めたつもりだったが、婚約が破棄されて、あなたが僕に結婚を求めてきた。このチャンスは逃してはならないと思った」
「う……そ」
突然の告白にイレーネはかすれた声しか出せない。
アドリアンの言っていることが信じられなかった。
「嘘じゃない。どんな理由でもいい。あなたが僕を求めてくれたことが嬉しかった。しょうもない離婚歴だけれど、あなたがそれで僕を選んでくれたのならば、神に感謝したいと思ったくらいだ」
「だったらどうして最初から言ってくれなかったんですか?」
「いきなり僕に好きだと言われても困るだろう? あなたにその気はなかったんだから」
それはたしかにそうだ。
あの時点でアドリアンに気持ちを告白されていたら、少なからず警戒してしまった気がする。
「だから、結婚生活をしていくうちに少しずつあなたを口説くつもりだった。もちろん、夜会で言っていたことは全部本心だ。あなたの父上にも僕の思いは最初から伝えている。でも、肝心のあなたに伝えることがなかなかできなかった。一夜でいいと言っていたくらいだ。きっと僕の気持ちを知ったら離れてしまうのではないか、と。でも、やっぱりもうあなたを手放すことは考えられない」
(アドリアン様が私を好き?)
夜会でのあの甘さも全部本心だった?
「――お願いだ。僕にチャンスをくれないか?」
アドリアンの必死な表情でイレーネを見つめていた。彼のそんな表情を見るのは初めてで、イレーネの胸はぎゅっと締め付けられる。
(私は……)
イレーネが返す答えはただひとつ。
「私も、アドリアン様が好きです」
アドリアンが紫色の目を丸くした。
「本当か?」
「本当です。たぶん、私も無意識下でアドリアン様に好意があったんだと思います。だからこそ結婚を申し込んだ。これ以上一緒にいたらあなたの本当の妻になることを期待してしまいそうで怖くて、だから離れたいって思ったんです。でも、あなたが私のことを好きだと言ってくれるのならば――」
言葉は最後まで言えなかった。なぜならアドリアンの唇に唇を塞がれてしまったから。 ――初めてのキス。
痛いくらいにぎゅっと抱き寄せられる。
「――あなたを愛している。イレーネ」
耳元でかすれた声で囁かれる。
「はい。私もあなたを愛しています」
再び重なる唇。
――その日、二人は本当の夫婦になった。
* * *
「さすが公爵邸ね。素晴らしいお庭だわ」
公爵邸の庭先にあるテーブルセット。向かいに座った姉が紅茶のカップを持ちながら微笑む。
結婚後、初めて姉を公爵家に招待した。今まではいつ離縁するかわからない、ということで家に招くことは避けていたけれど、アドリアンの本当の妻になった今、その遠慮はいらない。
「あなたがヴァルトハイム公爵と結婚したって聞いたとき、てっきり殿下から逃れるためにてっとり早く結婚相手を見つけたいだけかと思ったのよね」
ぎくり、とした。さすが姉、妹の行動をよく見ている。
「でも、今日二人を見て、本当に幸せそうでよかったわ」
「イレーネを妻にできたのは、僕にとって人生最大の幸運ですから」
イレーネの隣でにっこりと微笑むのは最愛の夫アドリアン。
本当の夫婦になっても、彼ののろけは健在だった。むしろ最近強化されている気がする。
まあ、と姉はわざとらしく驚いてみせる。
「イレーネをよろしくお願いしますね。ヴァルトハイム公爵」
「もちろんです」
アドリアンが力強くうなずく。
「イレーネ。幸せな花嫁姿、期待しているわ」
「ええ。楽しみにしていてください」
姉の言葉にイレーネは満面の笑みで請け負う。
挙げることはないと思っていた結婚式は、三ヶ月後に行われる予定だ。
準備でいろいろバタバタしているけれど、それすらも楽しい。
あのとき、結婚を申し込んだ相手がアドリアンで本当によかった。
イレーネは今とても幸せなのだから。