聖女は追放されたけど、獣王に見初められてしまいました
大広間の空気は重苦しく張り詰めていた。
王城の床に膝をつかされたまま、リシェルは震える指先を必死に握りしめる。
「王太子殿下、何をおっしゃっているのですか……私は、そのようなこと――!」
必死の訴えは冷たい嘲笑で遮られた。
「見苦しい。お前が神殿騎士と密会していたのは皆が見ている。聖女の身でありながら不貞とは――許されぬ罪だ」
玉座の前に立つ王子アルヴァンは、氷のような声で告げた。
群衆のざわめきが広間を満たす。
「聖女様がそんな……」
「いや、殿下が仰るのだ、きっと真実に違いない」
リシェルの胸は絶望で締め付けられた。
あの日、彼女はただ孤児院へ薬草を届けに行っただけだ。同行したのは神殿騎士の青年。そこに偶然現れた王子が、嫉妬と権力欲に駆られて彼女を罪人に仕立て上げたのだ。
「陛下! 私は決して――!」
必死に国王へすがったが、老人の目は疲れ果てたように伏せられていた。
「……真偽を問う余地はない。聖女が疑われた以上、この国に置くことはできぬ」
「そんな……!」
貴族たちが冷笑を浮かべる。
「所詮は神託に選ばれただけの娘だ」
「聖女の座など代えはいくらでも効く」
リシェルは目の前が真っ暗になった。
裁きは一瞬だった。
「リシェル・フィオーレ。そなたを聖女の座より剥奪し、王国より追放する」
その言葉と同時に、兵士たちが腕をつかむ。
「やめて! 私は無実です!」
必死の叫びも虚しく、彼女は大広間から引きずり出された。
城門の外。集められた民衆が石を握りしめていた。
「不貞を働いた聖女め!」
「裏切り者を出せ!」
投げつけられた石が頬を裂く。血がにじんでも、兵士たちは助けようとしない。
リシェルは必死に両腕で頭を守りながら、ただ歩かされた。
かつて癒しの奇跡を施した民から、罵声と石を浴びる屈辱。
「……神よ、なぜですか」
誰も答えない。
追放の日から幾日か、リシェルは荒野をさまよった。
食糧も尽き、靴も破れ、薄衣では寒さを防ぎきれない。
涙も乾き、ただ歩くことしかできなかった。
やがて、山奥へ辿り着いた。
そこは人の気配のない深い森。枝々に雪が積もり、獣の咆哮が遠くに響く。
「ここなら……もう、誰も私を知らない」
木の根元に座り込み、意識が遠のこうとしたその時――。
大地が揺れた。
「……?」
森の奥から、巨大な影が現れる。
黒曜石のような毛並みを持つ、獅子にも狼にも似ぬ怪物。黄金の瞳がぎらりと光り、リシェルを射抜いた。
「きゃっ……!」
伝承に語られる“獣王”――人々が恐れ、決して近づかぬ存在。
彼が一歩踏み出すごとに、大地が震えた。
「人間か……この山に足を踏み入れるとは愚かだな」
低く響く声。人語を操る獣王に、リシェルは震え上がった。
「お……お助けください……私は……」
「助ける? 俺は人間を憎んでいる。爪一つでお前を葬れる」
鋭い牙が覗いた瞬間、リシェルは本能的に手を差し伸べた。
「……どうか、待って」
その掌から、柔らかな光があふれる。
癒しの奇跡。獣王の前足に走っていた古傷が、淡い光に包まれて癒えていく。
黄金の瞳が見開かれた。
「……ほう。これは……」
彼はゆっくりとリシェルを見下ろした。
「人間にしては珍しい。癒しの力か。なるほど、追放されてきた理由も察せる」
リシェルは息を切らしながら呟く。
「私は……無実なのです……信じては、もらえませんでしたが」
しばし沈黙があった。やがて獣王は鼻を鳴らした。
「気に入った。お前の力、俺に役立つかもしれん。しばらく俺の側に置いてやる」
「え……?」
「命が惜しければ従え。俺の住処は山の奥だ。人間ごときには決して踏み込めぬ領域……だが、お前ならばよい」
リシェルは理解した。これは捕虜のようなものだ。だが、命は保証された。
「……はい。従います」
こうして彼女は、恐怖の象徴と呼ばれる獣王の住処で暮らすことになった。
絶望の果てに、運命は新たな扉を開いたのだった。
獣王の住処は、山奥の巨大な岩窟にあった。黒曜石の牙のように突き出た岩肌に囲まれ、昼でも薄暗い。だが内部には清らかな泉が湧き、火を焚くための広間や寝床が整っていた。人間の城館には及ばないが、威圧的で不思議な安らぎを宿す場所だった。
リシェルは最初、恐怖で震えながら日々を過ごした。だが、獣王――その名をガルドという――は彼女に無闇に手を出すことはなく、ただ「余計なことをするな」と冷たく言い放つばかりだった。
それでもリシェルは、黙ってはいられなかった。泉で衣を洗い、洞窟に積もる埃を払う。拾った薬草を干して、保存食を作る。彼女にとってそれは“生きるための習慣”にすぎなかったが、ガルドは時折、鋭い瞳でその姿を観察していた。
ある夜、ガルドが狩りから戻った。巨体を覆う毛並みに返り血を浴び、肩には深い爪痕が刻まれていた。
「旦那様……ではなく、ガルド様! その傷……!」
「放っておけ。すぐに塞がる」
「ですが!」
リシェルは駆け寄り、掌を添えた。淡い光が広がり、裂けた傷口が閉じていく。ガルドは短く息をつき、黄金の瞳を細めた。
「……妙なものだな。人間に癒されるとは」
「私は、できることをしただけです」
「ふん」
その声には、わずかに柔らかさが混じっていた。リシェルはそれに気づき、胸が温かくなるのを覚えた。
ガルドは山の王だった。咆哮ひとつで猛獣を従え、瘴気に満ちた森を統べる。
ある時、リシェルは彼が洞窟の前で狼の群れに命を下す場面を目撃した。
「北の崖に魔獣が巣を作った。狩り立てろ」
狼たちは恭しく頭を垂れ、闇に消えていく。
「……皆、あなたに忠実なのですね」
「俺は力で従わせているだけだ」
「けれど、その力を無駄に振るうのではなく、山を守るために使っている。だから皆、あなたに従うのだと思います」
ガルドは答えず、ただ彼女を見つめた。冷たいはずの瞳に、ほんの僅かな揺らぎが宿っていた。
そんなある日。山の奥に迷い込んだ小さな影があった。
「……子供?」
痩せた体、泥だらけの顔。村から迷い込んだ少年だった。足に深い傷を負い、必死に泣きながら歩いている。
リシェルは急いで駆け寄った。
「大丈夫、怖がらないで。私は助けます」
掌を当て、癒しの光を流し込む。少年の傷は塞がり、痛みが和らいでいく。
その瞬間、背後に影が落ちた。
「……人間の子供か」
振り向けば、ガルドが立っていた。黄金の瞳が鋭く光る。
「リシェル。下がれ。そいつはすぐに追い出す」
「だめです! この子は怪我をして……!」
「人間は俺の敵だ。ここに踏み込む資格はない」
低く唸る声に、少年は震え上がった。リシェルは少年を庇い、必死に叫んだ。
「お願いです、命だけは助けて! せめて怪我が治るまで……!」
ガルドの牙が剥かれたが、すぐに閉じられた。しばし睨みつけたのち、彼は鼻を鳴らす。
「……お前の願いだから聞こう。だが人間に甘さを見せるのはこれきりだ」
「ありがとうございます……!」
少年は癒えた足で立ち上がり、泣きながら礼を言って走り去った。リシェルは胸を撫で下ろした。
ふと見上げると、ガルドの視線が彼女を捉えていた。
「人間は嫌いだ。だが……お前は別だ」
その一言は、雷に打たれたようにリシェルの心を揺さぶった。
夜。泉に映る月を見ながら、リシェルは両手を胸に当てた。
――この人は孤独だ。人間に裏切られ、獣にしか囲まれていない。
「……私が、この孤独を癒したい」
決意は静かに、しかし確かに芽生えていた。
リシェルが追放されてから、王国には目に見えるような変化が現れていた。
はじめは森に濃い靄がかかり、獣たちが暴れるようになった。やがてそれは“瘴気”と呼ばれ、街の人々をむしばみ始めた。病が流行し、癒しの奇跡が使えなくなった神官たちは狼狽えた。
「聖女がいなくなったせいだ」
「いや、殿下が本物を追い出したのでは……」
民の間に不安と不満が渦巻く。
王子アルヴァンは苛立ちを隠せなかった。
「聖女は俺の命令に背いた。だが、国を救えるのは彼女しかいない……!」
プライドと焦燥が絡まり合い、ついに彼は決断した。
「兵を出せ。あの女を探し出し、俺のもとに連れ戻せ!」
一方その頃。リシェルはガルドの庇護のもとで山奥の生活に慣れ始めていた。
彼は依然として冷淡な態度を崩さなかったが、時折見せる気遣い――寒さを防ぐために焚き火を増やす、彼女が好きな花を咲かせる――それらが心を温めていた。
だがある夜。洞窟の外から甲冑の音が響いた。
「……人間の兵か」
ガルドが低く唸る。黄金の瞳に怒りの光が宿る。
リシェルが駆け寄ると、兵士たちが松明を掲げ、洞窟を包囲していた。
「聖女リシェル! 王国の命により、お前を連れ戻す!」
「やめて……私は、もう聖女では……」
叫ぶ声をかき消すように、矢が放たれた。
「――愚か者どもが」
次の瞬間、ガルドの咆哮が轟き、衝撃波が兵を薙ぎ倒した。黒い巨体が矢をものともせず突進し、剣を持った兵士たちを容易く弾き飛ばす。
「うわああっ!」
「化け物だ!」
その光景は圧倒的だった。人間の軍勢が、一匹の獣に蹂躙されていく。
だが戦いのさなか、一本の槍がリシェルに迫った。
「リシェル!」
ガルドが身を翻すより早く、彼女は兵士を庇って倒れ込んだ。
「――あっ……!」
脇腹に熱い痛みが走る。血が溢れ、視界が霞んでいく。
「リシェル!」
怒声が響いた。ガルドが兵士を一瞬で吹き飛ばし、彼女のもとに駆け寄る。血に濡れた彼女の姿を見た瞬間、その瞳は狂気の炎に染まった。
「俺のものに……傷をつけるとは……許さぬ!」
獣王の咆哮が夜を裂く。兵士たちは恐怖で震え上がり、次々と逃げ出した。
「も、もう勝てぬ!」
「退け! 退けぇ!」
だが怒りに支配されたガルドは、なおも追撃しようとする。
「皆殺しにしてくれる……!」
リシェルは必死に手を伸ばした。
「ガルド様……だめ……! 人を殺さないで!」
「……っ!」
その声は、荒れ狂う彼の心を縛る鎖となった。
彼は歯を食いしばり、鋭い爪を地に突き立てる。
「……なぜ止める。お前は殺されかけたのだぞ」
「それでも……人を憎む心に呑まれてほしくない……。あなたは、そんな方ではないから」
黄金の瞳が揺れる。やがて彼は、深く息を吐いた。
「……お前には敵わぬ」
そして、血に濡れた彼女を抱き上げる。震える声で言った。
「リシェル……俺はもう、お前なしでは生きられない」
その言葉は、初めて彼が本心をさらけ出した瞬間だった。リシェルの頬に涙が伝う。
「……私も、あなたの傍にいたい」
戦いの余韻に包まれた山奥で、二人の絆は決定的なものとなった。
王国は崩壊寸前だった。
瘴気は街を覆い、人々は次々と病に倒れていった。畑は枯れ、家畜は息絶え、もはや祈りすら通じなかった。
国王は玉座でやつれきり、最後の決断を下した。
「……聖女リシェルを探せ。彼女なくして、この国は救えぬ」
その言葉に逆らう者はなかった。王子アルヴァンの顔は蒼ざめていた。
「父上、しかし彼女は……」
「黙れ。お前の言葉で聖女を追放した結果がこれだ!」
王子の罪はもはや隠しようがなかった。
王国の使者が山奥の住処を訪れたのは、それから間もなくのことだった。
リシェルは驚き、そして迷った。追放され、石を投げられた民を救うべきなのか――。
だが隣でガルドが低く言った。
「お前が行きたいなら行け。俺も共に行く」
その言葉に背を押され、彼女は頷いた。
王都に到着したとき、リシェルは息を呑んだ。
かつて華やかだった街は、瘴気に覆われて荒廃し、呻き声があちこちから聞こえる。
「……これほどまでに」
リシェルは両手を組み、祈りを捧げた。
「どうか、この地を清めたまえ」
淡い光が彼女の体から広がり、瘴気を少しずつ払っていく。だが、その力は彼女ひとりでは到底及ばなかった。
その時、後方から轟く咆哮が響く。
「俺の力を貸す」
ガルドの体から放たれた膨大な魔力が、彼女の癒しの力と交わった。光と闇が溶け合い、瘴気を押し返す。
「う……うわぁ!」
「空気が澄んでいく!」
人々は驚愕し、涙を流しながらひれ伏した。
やがて瘴気は完全に払われ、街には陽光が差し込んだ。病に苦しんでいた者たちも次々と目を開け、快方に向かっていく。
「聖女様だ! 本物の聖女様が戻ってくださった!」
「獣王様も……我らを救ってくださった!」
人々の恐怖は尊敬へと変わっていた。かつて石を投げた民までもが、涙ながらにひれ伏す。
「……ありがとう。ありがとう、聖女様……!」
リシェルの胸は熱く満ちた。追放された彼女を今、民は真の聖女として讃えている。
その場に、王子アルヴァンが引きずられるように現れた。
「ち、違う! あれは……聖女の自作自演だ!」
必死に叫ぶが、民はもう彼の言葉に耳を貸さない。
「殿下が聖女を陥れたせいで……」
「罪を償え!」
国王は冷たく言い放った。
「アルヴァン。お前の罪は重い。二度と玉座には近づけぬ」
王子は蒼ざめて崩れ落ちた。
人々の前に立ったガルドは、リシェルを強く抱き寄せた。黄金の瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。
「聞け、人間ども。俺はかつてお前たちを憎んでいた。だが、この女だけは違う。俺の氷を溶かし、孤独を癒した。これはもう取引でも興味でもない」
声が広場を震わせる。
「俺はこの女を、心から愛している!」
民衆は一瞬息を呑み、そして大歓声が広がった。
「おめでとうございます、聖女様!」
「獣王様万歳!」
リシェルの頬に涙が伝う。彼の腕の中は何よりも温かかった。
エピローグ
瘴気が払われてから数日後。
山奥の住処――いや、今は“二人の城”と呼ぶべき場所で、リシェルとガルドは向かい合っていた。
岩窟の食卓には、彼女が用意した温かな料理が並んでいる。
「味はどうかしら?」
「……悪くない。だが、これを作ったお前がもっと好きだ」
照れ隠しのように言いながら、彼は大きな手で彼女の頭を撫でる。
「俺は人間を嫌い続けるだろう。だが、お前だけは別だ。……いや、もう俺の半身だ」
「まあ……」
リシェルは頬を赤らめながら、そっと彼の手を握り返した。
外では雪が降り続いていたが、二人の心は揺るぎなく結ばれていた。
氷の獣王と追放された聖女の物語は、こうして“幸せな日常”へと続いていくのだった。