4話
――父の調子が悪い。
高位の神と比べたら氏神の寿命は人と大して代わりはない。
時間がない。
籠原愛は焦っていた。
早く、資格を得て私が跡を継がないと。
この地域の加護がなくなる。
『水神のせいで厄介なもんだよ。早く終わらせて飯にしようぜ』
「あの子はまだ小さいからしょうがないでしょう」
狐の小言に文句言わないの、と言い含めて籠原愛は大きな岩に刻みを付けた。
キンと冷たい音が鳴り、刻みが光を放つ。これで終わりだ。父の加護が消えかけているのか、近頃は特に陣形が乱れやすい。籠原神社を囲う八方の陣はこうして定期的に手入れをしないと消えてしまうような状況だった。
『あいつらの機嫌ひとつでこっちの仕事が増えてんだよ! 抗議文の一つでも送ってやりなよ』
狐がピョンと跳ねて籠原愛の肩に乗った。吊りあがった瞳を一段と鋭くしている。確かに狐の言うことも一理ある。今日陣が壊れたのはおそらく近くにいる水神の子の仕業だった。
子でも、高位に位置する神の影響は大きい。彼らの機嫌一つで災害と言われるような現象が起きてしまう。雨を降らすことも、日照りを起こすことも、彼らにとってはそれこそ人があくびをするように簡単なことだ。
暗がりの中、獣道を抜けて山を下りると猫が小さく鳴いてこちらを見ていた。でっぷりと太ったキジトラだ。その顔に覚えがあった。
「三丁目の真崎さんとこの子だね。おいで、お母さんが心配してたよ」
しゃがみ込んで猫を呼ぶと大人しく籠原愛の胸元におさまった。真崎の妻が毎日のように参拝に来ては願っていたのだ。逃げてしまった飼い猫に帰ってきてほしい、と。
真崎の家はここから目と鼻の先だ。ずっと近くをうろついていたのだろう。
「お腹空いてるの? 早く帰ればよかったのに」
籠原愛に抱かれたまま、目をつぶってゴロゴロと喉を鳴らした。目ヤニをとってやると、手に鼻を擦り付けてくる。美味しいごはんのある家が恋しかっただろうに。好奇心には勝てなかったのか。
猫を撫でながら、真崎の家に向かう。まだ寝る時間には早く、明かりが灯っていた。高い塀に囲われた家を見上げてどうしたものか考えあぐねる。真崎と面識があるわけではないのだ。直接手渡すのは気が引けた。
籠原愛が門扉の前で立ち尽くしていると、猫は手をすり抜けて塀の上に飛び乗った。そのまま木に飛び移ると、開いていた二階の窓に滑り込む。
そんなに簡単に帰れるのなら、さっさと帰ればよかったのに。
「籠原?」
夜道の先から聞き覚えのある声がした。少ない外灯が逆光になってよく顔が見えなかったが、声だけですぐにわかった。中谷だ。
「ゼミも来ないで何してるんだ」
「父が具合悪くしてて、代わりに手伝ってるの」
「それなら連絡してくれればよかったのに……お父さん大丈夫?」
「しばらく休めば大丈夫だと思うけど……」
中谷は不思議な人だ。
父にはあまり人と関わらない方がいいと言われて育った。
自分たちは人のような身なりをしてても人ではない。氏神としてこの地を守る存在だから、と。
高校までは、素っ気なくしていれば近付く者は少なかった。気を使って輪に入れようとしてくれる者もいたが、しばらくすればそういう者だと誰も気にも留めなくなる。
大学に進むと、それはより顕著になり、自分は風景の一部のようだった。そこにいるのにそこにいない。
籠原愛に話し掛ける者などいなかった。
中谷は不思議だ。
いつものように素っ気なく応対しても、次の日には当たり前のように話し掛けてくる。
だからだろうか。家のことを話したのも中谷が初めてだった。
「あれからずっと会えなかったから……心配した」
あの日。遊園地で過ごしたあの日。
思えば人とふたりきりで一日過ごしたのは初めてではなかっただろうか。
中谷にとって、人にとっては、取り留めのないような、よくある休日のひとつだろう。それでも、籠原愛にとっては特別な一日だった。
きっと、もうあんな日はやってこない。
本物の氏神となったら、生涯をこの地に尽くす。それが当たり前のことだから。
人は勝手だ。仕事をしている者もいるが、休日は好きに過ごせる。好きな場所に住めて、誰かと寄り添える。そして、困ったときには神頼みだ。
氏神となったら、誰かに頼ることなど出来ない。この地に何かが起きたらすべて自分の責任だ。
「私のことなんて心配する必要ない」
人に心配されるような存在ではない。まだ資格がなくても氏神を継ぐ者だ。
目の前の中谷を見上げると、顔を歪ませていた。
「心配されんのもいやだって? もしかして俺、そんな嫌われてんの……?」
「嫌いも何も」
人に大して好きも嫌いも無い。この地に住む中谷は、籠原愛にとっては守護の対象でしかない。
「じゃあ何?」
「中谷くんは中谷くんでしょう」
「そういうんじゃなくてさ。……いいや、暗いし送ってくよ」
そう言うと、中谷は歩き出した。神社へ向かう方向だった。
「一人で帰れる」
「女の子一人じゃ危ないだろ?」
振り向いてこちらを見ている中谷に、開いた口が塞がらなかった。
氏神といえど、神の一種だ。条件を満たせているわけでなくとも、人のそれとは根本的に異なる。
張り直したばかりの陣の内側でそんな危険なことがあるわけがない。ましてや、守るべき存在である人に守られるなんて。
「自分の心配をした方が良い」
無性に腹が立ってしようがなかった。気付けば、中谷を振り切って走り出していた。しばらく闇雲に走っていると、慣れない運動で足が抜けてしまった。身体を丸めてしゃがみ込むと、乱れた息がうるさかった。
たんに、中谷は気を遣ってくれただけなのに。
大人気ない自分に嫌気がさした。
こんな自分が氏神になる、と?
とんだ笑いぐさだ。
目元が焼けるように熱かった。
中谷にはこれから先、選べる無数の選択肢がある。自分はそれをただ、見守ることしかできない。頬を水滴が伝っていく。胸からこみ上げてきた物が、涙として溢れているようだった。