3話
フードコートで昼食を済ませると、外に大きな看板が立っていた。フィッシングエリア。魚が飛び跳ねるコミカルな絵が描かれている。
そうだ、ここには釣り堀が併設されてるんだ。
前に友達と来たときも、結構盛り上がった記憶がある。
突然看板の前で足を止めた光輝を不審げに見る籠原愛と目が合った。釣りなんて、女性を誘って喜ばれるのだろうか。
「釣りとか、してみる?」
「うん」
何のためらいもなく、看板の矢印に向かって歩き始めている。
意外とこういうものがツボにハマって、爆笑する姿なんて見られるかもしれない。想像はできないが。
「釣りも初めて?」
「子供の頃にやった」
釣り堀は無駄にだだっ広いわりに、人は少なかった。レンタルセットを借りて、人のいない区画を陣取る。立ったままの籠原愛をよそに釣具やバケツを並べて準備を始めた。
しゃがみ込んで生餌を針の先に引っ掛けていると、籠原愛は光輝の手元を興味深そうに見つめてきた。餌が付けられないのだろうか。
「そっちも餌つけようか?」
「中谷くん、こういうの慣れてるんだね」
「うちの実家もここと変わらないくらい田舎だからね。川釣りしかしたことないけど……」
生餌の入った容器を手渡すと、籠原愛は小エビを一匹つまみとって自分の針に引っ掛けた。あまり抵抗はないようだ。
「神様でも殺生するんだな」
ふと、頭に浮かんだ言葉がそのまま口から飛び出た。籠原愛はいつもの無表情さで、光輝をじっと見ている。
「まだ私は人間だから」
やっぱり、籠原愛は人間だそうだ。
その後は尋常じゃないくらい、入れ食いだった。自分ではなく、籠原愛の話だ。隣りで糸を垂らしているのに籠原愛だけ異常なくらい入れ食いだった。
次々に掛かる獲物をリールを回して引っ張り上げると、不思議なことに、それまでびちびち勢いよく跳ねていた魚は、籠原愛が触れた途端死んだように固まった。
けれど、バケツに放り込まれると息を吹き返したようにまた大きく跳ねる。一匹だけでなく、籠原愛が釣り上げる魚たちは皆そんな様子だった。
リリースしないといけないのに死んでいたらどうしようと気が気じゃなかった。続々と魚を捕らえてバケツに投げ込む籠原愛をただ横で見守ることしかできなかった。
時間いっぱい楽しんだ後はまた子供向けの乗り物に向かった。豆汽車にゴーカート、回転木馬にも乗りたいというので付き合った。
目に見えてはしゃぎはしないものの、子供のようにどれもこれもと関心を向ける籠原愛を眺めているだけであっという間に時間が過ぎていた。
ずっと無表情かと思えば時折目を丸くして遊具を凝視したり、戸惑いを浮かべる様が微笑ましかった。
朝からふたりきりで、気付けば夕陽が園内を赤く照らす時間となった。最後にこれだけ乗って帰ろうと、観覧車の列に並ぶと見事にカップルだらけの列が出来ていた。
自分たちはただのゼミ仲間だ。普段からそこまで話すこともない。
籠原愛は一体どう思っているのだろう。男とふたりきりで遊園地に来ることを。それに、男と丸一日過ごすことも。
籠原愛は、そんな疑問などお構いなしに、ゆっくりと回る色とりどりのゴンドラをじっと見上げていた。
光輝のことなど特に何も考えていないのだろう。別に期待などしてない。けれど、俺だって何とも思われてないんじゃ寂しいわけだが。
それでも今日は籠原愛の可愛らしい一面が覗けただけで十分役得だった。可愛い女の子とデートした。感謝することはあっても、恨むことなどない。
ありがとう、籠原愛。
「これは、中で座ったまま回って終わりなの?」
「え。まあ、そうだね」
なんだ。つまらなそうとでも言うのか。
俺とふたりきりで観覧車に乗っても、つまらなそうとでも言うつもりなのか、籠原愛。
「これで、終わりか」
それだけ呟くと口を閉ざしてしまった。
一体何を考えているのだ、籠原愛。
まさかとは思うが、早く解放されたいとでも考えているんじゃないか?
嫌な汗が首元を伝う。周りのカップルが楽しげに会話に花を咲かせる中、籠原愛との間には沈黙の時が流れている。
気まずさから、籠原愛と同じようにゴンドラを見上げた。赤、黄色、水色。塗装は塗り直されているようだが、浮かんだ錆からどうにも年季を感じる。風が吹く度、小さく揺れているように見える。突然落っこちてこないだろうか。ほんのり不安が過る観覧車だ。
そのまま、ゴンドラに案内されるまで無言のままだった。
中へ乗り込んで対面に座ったものの、気まずさから目を合わせられない。
スタッフがにこやかに「行ってらっしゃーい」と鍵をかけて、籠原愛と密室に閉じ込められた。額から汗が噴き出してくる。
今日一番、緊張していた。
「……初めての遊園地は楽しめたか?」
「うん」
ゆっくりと動く外の景色に向けられていた眼差しが光輝を見た。違和感のあった素顔の籠原愛の姿は、今日だけですっかり見慣れていたが真正面でただ見つめあうのは気恥ずかしい。緊張しているのを悟られるのが恥ずかしくて、汗ばんだ自分の手を強く握り締めていた。
ゴンドラの中には明かりがなく、外から差し込む夕陽だけが籠原愛を照らしている。
くりっとした黒い瞳に日差しが反射して、ほんのり赤みを帯びていた。
「何が一番楽しかった?」
「一番? どれだろう……」
籠原愛は珍しく言い淀むと、少しだけ考える素振りを見せて顔を上げた。
「コーヒーカップかな」
「ああ、めちゃくちゃ回してたよな」
思い出すとおかしくて、つい吹き出してしまうと、籠原愛は瞬きを繰り返して俯いてしまった。恥ずかしいとでも思ってるのだろうか。あんなにはしゃいでいたくせに。
「中原くんは?」
「俺? うーん、どれも楽しかったからなぁ」
強いて言えばどれだろうか。けど確かに、籠原愛がコーヒーカップを夢中で回している所が一番面白かったかもしれない。今日一日の籠原愛の様々な姿が頭の中を駆け巡った。どれも甲乙つけがたい。
「中原くんも楽しかった?」
「そりゃもう」
「……そっか」
少しの沈黙の後、俯いたままの籠原愛が着ているシャツの下から浮き上がるかのように胸元がぼんやりと光った。
籠原愛がシャツの下から、ネックレスを引っ張り出す。チェーンについた飾りが淡く微かに点滅している。
その飾りは勾玉のような形をしていた。
「なんだそれ」
「光ってる……」
目を大きく瞬かせて、その勾玉を両手で包んだ。淡い光は点滅を繰り返すと、やがて光が消えて透明なガラス玉のようになった。
「これ、氏神になる条件が揃ったら光って色が変わるの」
「色? 今は透明みたいだけど」
「これはまだ変わってない。まだ条件が満たせてないから……」
「じゃあなんで光ったんだ?」
籠原愛と目が合う。瞬きもせず、ただ見つめ合っていた。
問い掛けへの返事はなく、籠原愛は外に目を向けてしまう。勾玉のネックレスは元通りシャツの下に隠してしまった。
籠原愛につられて外に目を向けると、いつの間にか頂上まで来ていたようだ。
この観覧車は園内でも高いところにあり、小さい割に見晴らしが良かった。どこまでも続くような青い山脈が続く。山あいの麓にはぎっしりとジオラマのような小さな町が詰め込まれていた。
「筆記試験に合格した後も一度光ってた」
外に目を向けたまま籠原愛は呟く。氏神になるための筆記試験。そんな話をしていたことを思い出す。
「私、主席だったの」
「主席?」
なぜか誇らしげにこちらを見ていた。そもそもどんな試験なのかもよくわからないが。
「何人くらいが受けるの? その試験」
「今回は千人くらいだったかな。地域ごとにやってるから、この辺りは三百人くらい」
「そんなにいるの……?」
「全国の主席だったの」
「へぇ……すごいね……」
よくわからないが、名誉な事らしいことはわかった。
勿論、そんな試験が本当にあるならの話だが。
「みんな氏神になるの?」
「そのための試験だから」
人間が氏神になる。なんとも、馬鹿げた話だ。
それでも、籠原愛は心から信じているようだ。
「なれるといいね、氏神様」
「……うん」
籠原愛を見て、息を呑んだ。
いつもの無表情さを知らない人がみたら、きっと何も気付かないだろう。その程度の変化だった。
口元をほんのり上げて、微笑んでいた。随分優しい顔をして笑うものだ。
――籠原愛の笑みを知ってる者は、自分以外にいるのだろうか?
籠原愛が変わった子だと言うのなら。俺も結構、大概だ。
その日以降、籠原愛の姿は忽然と、静かに消えた。