2話
――氏神とは。
地域を守ってくれる神様として信仰されてます。地域に住む人々にとって、心のよりどころとなる存在。氏神神社に参拝することで、地域の安全や繁栄を願うことができます。
あの後、インターネットで検索した文言が頭に浮かんだ。
土曜日の朝。最寄りの寂れた駅前で光輝は立ち尽くしていた。
あれから二日が経った。あの夜以降、籠原愛の姿は見かけても、特に言葉を交わすことはなかった。
土曜日に待ち合わせる約束をしたが、約束の十時を回っても一向に籠原愛は現れない。
やはり、夢だったのだろうか。
白蛇や狐が喋ることも。氏神になると言った籠原愛も。
端末をつけると、十時五分と表示された。その時一瞬、周囲が暗くなって顔を上げると女が目の前に立っていた。
黒髪の三つ編みをふたつに分けた、いわゆるお下げの髪型。化粧気もなく、素朴だが目鼻立ちのはっきりした顔が、なんの感情もないような無表情さで光輝を見つめている。
眼鏡も掛けていない。いつもと様子が異なり過ぎて、認識するまで数秒かかった。
――籠原愛だ。
「行きましょう」
無愛想にそう言うなりツカツカと音を立てて、改札をひとりで抜けていった。遅れてきたくせになんとも図太い性格をしている。
文句のひとつでも言ってやろうかと、口を開いたがすぐに閉ざして頭を掻いた。暖簾に袖押し――なんとは無しに、そんな言葉が頭に浮かんだ。
「……遅かったな」
「時刻表で十時以降の電車が十分になっていたから、早く来ても待つだけだし」
籠原愛は、天井からぶら下がっている電光掲示板に目配せした。
約束の時間は《十時》だ。なんとも、籠原愛は合理主義らしい。
そんなことよりも、普段と様子の違う身なりが気になっていた。服装はそう変わらないが、黒縁の眼鏡がないだけで随分よく表情が見える。
年相応なのかもしれないが、いつもよりあどけなさを感じた。今まで気にして見てきた訳でもなかったが、正直言ってかなり可愛い。
「今日、眼鏡はどうしたの?」
「動くから邪魔だし、今日は本読まないから」
話している内に電車が来た。そこまで視力が悪くないなら普段から外していればいいのに。
けれど。大学で籠原愛の素顔を知っているのは自分だけかもしれない。
馬鹿みたいな考えだが、優越感にも似た気分だった。
「――じゃ、まずはジェットコースター乗るか!」
地方の遊園地といえど、休日はそこそこ混んでいた。ここには大学に入ってすぐの頃、友達と来て以来だ。
入口の前の広場で、地図を確認する。籠原愛はどういう乗り物が好きなのだろうか。籠原愛は端から端まで記憶するように、目を見張って地図を眺めていた。
「絶叫系、苦手?」
「こういうところ初めて来たから。よくわからない」
「はじめて?!」
声を荒げた光輝に、籠原愛は首を傾けてみせた。地元だと言っていた。もしかするとここには何度も来ていて飽きているかもしれない、なんて杞憂していたが。
遊園地に来たことがない大学生とは、なかなかの絶滅危惧種だ。
どんな家庭で育ったのだろう。ふと、頭の片隅に過るものの、家業は氏神と言っていたことを思い出した。親は神様とでも言うのだろうか。あまり、触れない方が良い気がする。
そんな馬鹿げた話ある訳ない。
籠原愛は、誰がどう見たって人間である。
「高いところは大丈夫?」
「うん」
「なら、試しに乗ってみる?」
問い掛けには答えずに地図を見ると、籠原愛は歩き始めていた。ジェットコースターのある方向だ。本人が乗りたがっているなら物は試しだ。
ジェットコースターの乗り場に着くと、数組の列が出来ていた。
最後尾に並ぶと、上の方から叫び声が聞こえてくる。籠原愛も、滑り落ちていくコースターを目で追っていた。なんだか小さな子供のようだ。
前に並ぶカップルがいちゃいちゃと手を握り合っているのが目に入った。そのまま周りを見ると、列の大半がカップルとファミリーだということに気付く。自分たちもカップルに見られているのだろうか。
そんなことを考えている内、ふと我に返った。
蛇に脅されるがまま、籠原愛と出掛けるだけだなんて安易に考えていた。喜怒哀楽がどうのこうの言っていた気がするが、そんなことは最早関係ない。
これはデートじゃないか。
自慢じゃないが、生まれてからこの方、色恋沙汰など一度もないのだ。自慢じゃないが。
今、自分は籠原愛とデートをしている。
「籠原、今日は楽しもうな!」
喜怒哀楽がなんだ。人生初のデート。楽しんで帰ってもらわないと男として廃る。
籠原愛の笑顔のひとつくらい、咲かせてやろうじゃないか。
籠原愛の様子を見ている内に、案内のスタッフに中へ誘導され、言われるがまま席に座ると、安全バーが下ろされる。
ピーと笛のような音が流れた後、がたごとと音を立てながらコースターが動き始めた。
横を見ると、安全バーをぎゅっと握り締めたまま籠原愛が頷いた。なぜか、少し不安そうな表情に見えた。
◆ ◆ ◆
「いやー楽しかったなー!」
すっかり籠原愛に目もくれず、楽しんでしまった。叫び過ぎて少し喉が掠れてしまった。
一周を終えて、乗降口にゆっくりと戻るコースターの中で籠原愛に目を向けると、安全バーを握りしめたまま俯いていた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
自分の小さな手を見つめている。とても大丈夫そうではない。
スタッフに安全バーを外されて、降りるように促された。籠原愛は座ったまま動かない。声を掛けると、ゆっくりと顔を上げて光輝を見つめてきた。見たことがないほど、真っ青な顔をしていた。
「立てない」
慌てて肩を貸して、籠原愛をなんとか降ろす。周りのカップル達から冷たい目を向けられた気がした。そんなに暑くもないのに汗が滴ってくる。無理に付き合わせたわけじゃないんですと必死に弁明したい気持ちだった。
少し休ませてもらい、下へ降りて近くのベンチに座らせる。籠原愛はずっと下を向いて口元を押さえたままだった。
「ごめんなさい」
自販機で買った水を渡すと、籠原愛は小さく頭を下げた。まさかここまで駄目だと思わなかった。
俯いたままの籠原愛を見ると良心が痛む。楽しんでもらいたかったのに申し訳ないことをした。
「いや、俺も付き合わせちゃってごめんな。落ち着くまでゆっくりしようぜ」
「すごく良い経験になった」
「それならいいんだけど……」
籠原愛は勢い良く立って、勢いよく水を飲んだ。その様を唖然と見つめていると、目の前を指差して口を開いた。
「次、あれ乗りたい」
「平気なの? もう少し休んでも……」
「大丈夫」
人の心配をよそにすたすたと指差した方へと歩いていく。籠原愛はなかなか図太い神経をしている。
次はコーヒーカップに乗るようだ。
ほとんど列もなく、すぐに可愛らしいカップに乗せられた。籠原愛は中央の丸いハンドルを見て不思議そうな表情を浮かべている。
「動き始めたら、これで回せるんだよ」
言ってる傍から、軽やかな音楽が流れ初めてカップが動き出した。手本のようにハンドルを回してみせると、籠原愛も同じように回し始めた。
次第に熱が入ったのか物凄い勢いでカップが回り始める。ハンドルを握る手に筋が浮かんでいる。周りの子供たちが緩やかに回すカップの中央で、光輝たちが乗るカップだけが何倍もの速さで回転していた。
「ごめん俺、三半規管弱くて……」
今度は自分が口元を押さえる番だった。籠原愛が熱心に回していたハンドルから手を離してこちらを見つめた。あのまま回り続けていたら、危うく口から何かが飛び出していたかもしれない。
少しすると、緩やかにまたハンドルを回し始めた。気に入ったのか、楽しいのか。籠原愛は音楽に合わせるかのように、ハンドルから手を離さず回し続けていた。
楽しいのか。
籠原愛はいつもと変わらず、無表情だ。
けれど、楽しくもないのにこんなにも熱心にコーヒーカップを回すだろうか。
喜怒哀楽を感じたことがない。いい年してそんな人間がいるものか。
籠原愛だって、表情に出ないだけで感情はある。
氏神になるための条件が満たせてない。それが仮に本当ならば、たんに分量の問題ではないだろうか。
もっと楽しければクリアできる。そんな風に思えた。
そもそもの話があまりにふざけた話だが。
スピードを緩めてみたり、少し早くしてみたりと、ハンドルを思うがままに回す籠原愛を見ていると自然と笑みが零れてしまう。
まったく、子供みたいだ。つい先程まで青ざめた顔を浮かべていた人物とは思えない。
「楽しいな、籠原」
「うん」
ハンドルを握り締めたまま顔を上げた。やっぱり、いつもの無表情だ。
勝手な思い込みかもしれない。それでも、いつもより楽しんでいるようだ。