1話
籠原愛は少し変わった子だ。
ゼミで一緒にならなければ、話すことはおろか、名前を知ることもなかっただろう。
彼女について知っていることは少ない。
構内でたまに見かけても、いつも一人で俯いて本を読んでいること。
腰まである黒い髪をおろしていて、化粧っ気もなく、黒縁の眼鏡をかけていること。
服装もその辺の量販店であり合わせで繕ったように、なんとも地味なこと。
話しかけてみると、意外とハキハキと喋ること。
何を話しても、いつも不愛想なこと。
「籠原は就職すんの?」
今日は偶々、籠原愛と二人きりでデータ解析をしていた。
共通点といえば、お互い同じゼミの学部生ということくらいだ。無言の時間が続き、中谷光輝は気まずさから絞り出した進路の話題を口にしていた。
「私は家業を継がないといけないから」
こちらを見もせずに、モニターと手元の資料を見比べる作業を続けている。どうやら気まずいと思っていたのは自分だけのようだ。籠原愛は黙々と仕事をこなしていた。
「家業? ここ地元なんだっけ」
「そう。うち神社なの」
「へえ、神社継ぐんだ。あんまり詳しくないけど……神主ってやつ? いや、巫女?」
家業があるとは予想外の答えだった。まだ何も先が見えず、とりあえずで院に進もうと考えていた光輝には、なんだか籠原愛に羨ましい気持ちもあったがどこか窮屈そうにも感じる。
けれど、神社の娘なら地味な身なりも納得できた。
「神主は田中さんのとこがやってくれてるから。私は、氏神を継ぐの」
「……え?」
「籠原神社の」
その日、初めて目が合った。至極真面目な目をしている。
やっぱり、籠原愛は変わっていた。というよりも、いわゆる不思議ちゃんってやつかもしれない。
今まで同じゼミの子、以上でも以下でもない感情しかなかったが少し距離を置いた方がよさそうだ。
「そっか。大変そうだね……籠原神社ってすぐそこの、山の上の神社?」
頷いたきり籠原愛は黙った。こちらとしても深入りする勇気もなく、残っていたデータ入力を手早く終わらせてバイトへ向かった。
バイト先の厨房でひたすらに洗い物を回している内に、籠原愛の不思議発言のとこなどすっかり忘れていた。
外灯の少ない帰り道。光輝は借りているアパートへの帰路の途中、ふと足を止める。
籠原神社。
それは、大学とアパートのちょうど中間辺りにあった。そして、今目の前に伸びた急勾配の石階段を登った先にある。
外灯が石階段の下にひとつ灯っていた。周囲は暗闇に包まれて、風に揺られた木影がかさかさと音を鳴らしている。
なんとも、夜の神社とは趣がある。
ここが籠原愛の実家なのだろうか。あの時、目が合ったときのまるで何も嘘などないと言わんばかりの瞳が頭にこびりついていた。
氏神を継ぐ、なんて。いま思えば、籠原愛なりの冗談だったのかもしれない。
あっさりと流してしまって悪いことをした。
石階段を見上げると、ずっと先に月明かりにぼんやりと照らされた鳥居が見えた。
――少しだけ見て帰ろうか。こんな時間だ、きっと誰もいない。
自分でも不思議なことに、怖さより少しの好奇心が勝っていた。端末の明かりで足元を照らしながら上り始める。虫の鳴く音。葉擦れの音。きっと子供の頃なら一人で夜の神社になど向かえなかっただろう。恐怖とは違う、何かが胸をざわめかせていた。
籠原愛への興味、だろうか。
何段目かわからないほど上り詰めると、ようやく鳥居が目の前に見えてきた。何か、人の声のようなものが聞こえた気がして咄嗟に鳥居の影に身を隠す。静かにのぞき込むと小さな神社の横に灯りが灯っていた。
『だから、試験だけ受かってもダメだって言ったじゃん!』
「そんなこと言われても……」
『愛は頭でっかちなんだから! もっと人間のトモダチ作りなっていったでしょ!』
「どうしよう……もう時間もないのに」
白いシャツに長い黒髪。ぼんやりと照らされた人影は、今日ゼミで見掛けた籠原愛の後ろ姿に見えた。
人影はその籠原愛一人だけに見える。けれど、籠原愛以外の声が聞こえていた。他にもいるのだろうか。少し身を動かして、暗い中目を凝らしていると、足元の小石に足をすくわれて音を立ててしまった。
「誰かいるの? ……中谷くん?」
まずいと思ったときには、籠原愛がこちらを見ていた。目が合った気がしたが、眼鏡の反射で表情はよく窺えない。
「や、やあ」
『なんだ、トモダチいるんじゃん!』
籠原愛の方から白い蛇がヌルヌルと地を滑ってきて、思わず階段を踏み外しそうになる。爬虫類は苦手だ。慌てて目の前の鳥居にしがみつくと、白蛇
蛇は少し手前で止まると赤い目で光輝を見据えて、細長い舌をうごめかしている。なんだか馬鹿にされているような気がした。
「こんな時間にどうしたの?」
「いや、ちょっと通ったからお参りしてこうかと……」
『神社が二十四時間営業だなんて思っちゃダメだよ! もううちの氏神様は寝てるんだから!』
蛇の後ろから今度は白い犬が駆け寄ってくる。だが、犬にしては細い。狐だろうか。
なんにせよ、それが口を開いて人間のような言葉を発していた。
「なんか、こいつら喋ってない?」
「この子たちはうちの眷属だから喋るわよ」
「けんぞく……?」
『なぁ愛! コイツ、トモダチなの?』
「同じ学校の中谷くんだよ」
『コイツに手伝ってもらえばいいじゃん!』
「え……でも」
狐がいい考えだと言わんばかりに大きく飛び跳ねる。その隣で遠慮がちに籠原愛がこちらを見た。一体何を見せられているんだ。
『どっちみち条件満たせなきゃ氏神になんてなれないんだよ! コイツでどうにかしなよ!』
「コイツ、コイツって何……」
「ごめんね。ちょっと口が悪くて」
「よくわかんないけど……氏神の話って本当なのか?」
「なんでそんな嘘吐かないといけないの?」
「さあ……?」
こちらが教えてほしいものだ。
きっと、妙な夢をみているのだろう。蛇と狐が喋って氏神がどうのと籠原愛と喋っている。そうだ。多分、夢なんだ。
試しに頬をつねってみたが普通に痛い。どうにも妙である。
『ナカタニ、ちょっと愛に協力してくれよ!』
白蛇が光輝の足元に寄ってきた。後ずさりするも、また鋭い舌をちらちらと見せつけて滑るように距離を詰められる。
「なにを協力しろっていうんだ。あんまり近付かないでくれよ……」
『簡単だよ! 愛に喜怒哀楽を教えてやってくれ!』
「喜怒哀楽ぅ?」
白蛇が言うには、氏神になるためには筆記試験と人間らしい喜怒哀楽を知っていることが条件だそうだ。
籠原愛は筆記試験には合格した。けれど、まだ条件を満たせてないという。理由は単純なものだ。もうひとつの条件が満たせていないからである。
その話をしている間、ずっと籠原愛は俯いて黙っていた。
確かに籠原愛の笑ったところなど見たことはない。
『協力できねえっていうなら仕方ねぇ。お前に巻き付いて祟ってやってもいいんだぞ』
白蛇が威嚇しながら曰う。気付いたら境内に生えた大木を背に追い詰められていた。
協力といわれたところで何をしたらいいんだ。
楽しいこと、ムカつくこと、嬉しいこと、悲しいこと。二十年生きてきて、そんな感情持ちえないやつがいるものか。
籠原愛に目を向ける。薄暗みの中、俯いたままの表情は影になってよくみえない。ただ、光輝にはいつも籠原愛が張り付けている無表情な顔がくっきりと見えた気がした。
「籠原、遊園地でも行くか?」
何の考えもなしに言葉を発していた。
その瞬間、籠原愛は顔を上げる。月明かりが白い顔を浮かび上がらせた。
眼鏡の奥の瞳がいつになく大きく開かれていることに気付いたとき、光輝の胸がなぜだかトクンと跳ねていた。