Not just a friend
俺は最低な男だ。
雪の降りしきる横断歩道で、『忘れられない奴』と十年振りに擦れ違った。先に帰宅する様に言い残し、俺は妻と未だ幼い子供を残して駆け出した。
暫く走った所で、俺は漸くあいつに追い着く事が出来た。恐る恐るあいつの肩に手を掛けると、ゆっくりとあいつが此方を振り返った。
あいつとは高校時代に付き合っていた。男同士の恋愛なんて否定されるかも知れないが、少なくとも俺は本気だった。あいつは……どうだったのだろうか。
あいつとの始まりは、俺の両親の離婚が切っ掛けだった。両親から離婚の話を聞かされ、自暴自棄になっていた俺を、あいつは何も言わずに慰めてくれた。身体から始まった関係ではあったが、愛情に飢えていた俺に、あいつは惜しみない愛情を与えてくれたのだ。あいつはいつも、誰にでも優しかった。あいつなら、こんな俺でも受け止めてくれるだろうという、打算的な心理が働いたのかも知れない。
だが、そんなあいつを俺は傷付けてしまった。只の『友達』なんて思った事は一度も無かったのに、つい女友達にそう紹介してしまった。怖かったのだ。俺はあいつを恋愛感情を持って見ていたけれど、優しいあいつの事だから、俺に同情していただけだったのかも知れない。……俺は、あいつの口からそれを聞くのが、死ぬ程恐ろしかったのだ。
ゆっくりと振り返ったあいつは、十年前と同じ美しい笑顔で俺を見詰めた。
「驚いた。どうしたの?」
咄嗟に追い掛けて来はしたものの、十年間分の想いが絡まり合って、伝えたい言葉が上手く出て来ない。
「あの……そ、その……。お、俺は……十年前からずっと、お前に言いたい事が有ったんだ。あの時は……本当にごめん。お前の事を只の『友達』なんて思った事は、一度だって無かった。ずっと好きだった……ずっと愛していた。十年経った今でも、ずっと愛している。」
抱き続けた想いを、俺は必死にあいつに伝えた。でも、あいつが俺に向ける笑顔は何処か乾いており、俺の愛情を幾ら与えた所で、決して潤いはしない、永遠の不毛の大地の様であった。
「……そう。ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。」
「待てよ……!俺はこの十年、一日だってお前の事を想わない日は無かった。お前だって……!」
あいつは俺に背を向けると、外套のポケットに両手を入れた。
「……僕は、『久々に』君の事を思い出したよ。それじゃ、ご家族に宜しく。お幸せにね……。」
それだけ言うと、彼は雪の舞う暗闇の中へ消えて行った。
普段は酒を呑む事は無かったが、その日は夜遅くまで居酒屋を梯子して廻った。かなりの量の酒を呑んだ筈だが、その日に限って一向に酔えなかった。俺が帰宅したのは、新聞配達の単車の音が響く時間だった。
薄暗いリビングに入ると、其処にはワイングラスを傾ける妻の姿が在った。傍らでは、幼い我が子が寝息を立ててスヤスヤと眠っている。
「寝て……いなかったのか?」
「うん。貴方の失恋の慰労会をしようと思って。待ち切れなくて、先に呑み始めちゃった。」
妻は全てを見通すかの様な目で、静かに俺に視線を向けた。
「何……で……。」
「先に帰れって言われたけれど、気になって貴方の後を付けたの。話は全部聴いたわ。貴方がずっと想い続けていた『忘れられない人』って、彼の事だったのね。」
「知って……いたのか……?」
淡々と語る彼女に、何処まで真実を知っているのか、俺は不安になった。
「半信半疑……だったけれどね。貴方と結婚して三年、ずっと貴方に愛されている気がしなかった。……いいえ、きっと両親に貴方を紹介された時から、私は気付いていたのね。貴方と結婚しても、一生、貴方に愛される事は無いと……。」
「お……俺は……!」
俺がそう言い掛けた時、テーブルの上に置いてあったオードブルを、彼女が皿毎俺に投げ付けた。それは、乾いた音を立てて辺りに散らばり、綺麗に掃除されたフローリングの床を汚した。
「嘘吐き!一度だって……私の事を見てくれた事なんて……無いじゃない!」
妻が……今まで一度も聞いた事の無い感情的な声で、俺に怒鳴り付けた。その声に反応し、寝ていた筈の幼い我が子が、突然に激しく泣き出した。
「離婚……しましょう。」
彼女は泣き喚く子供を抱き抱え、慣れた様子であやしながら、感情の無い乾いた声で語り掛けて来た。
「でも、それは私達二人の間での事よ。この子には関係無い。この先どんな事が有っても、貴方はこの子の父親で居てあげて。」
そう言ってリビングを出て寝室に向かいながら、彼女は少しだけ此方を振り返った。
「今まで、ありがとう……。」
翌日に仕事から帰宅すると、妻の欄と届出日の日付けが記入された離婚届が、ダイニングテーブルの上に置かれていた。最初、何故妻がその日付けを書き入れたのか、俺には皆目見当が付かなかった。……暫くして、俺は愕然とした。
「最低だ、俺は……。」
それは、愛しい我が子が生まれた日だった。