最後に立ちはだかる者は(4)
アンリが湾刀を引き抜く。
糸が切れた操り人形のようにアミティが前のめりに崩れ落ちる。
視界がまた急激に暗くなった。突っ伏したままピクリとも動かないアミティ。それ以外のすべてが見えなくなる。
駆け寄ってひざを突き、肩を揺すって声をかける。
「おい、しっかりしろ、アミティ! ……アミティ!」
「……も……もうダメですわ……」
返事はこの快活な少女のものとはとても思えないほど弱々しかった。体のどこにもまるで力が入っていない。上半身を起こすどころか、顔を上げる気配すらない。
呼びかけ続けるが、もう返事はない。
……気絶したのか? あの聖剣は致命傷は与えられないはずだ。でも心臓を刺し貫かれたらどうなるんだ? 応急処置をしなくてもいいのか? 仮に今死んでなかったとしても、胸を貫かれたまま、いつまでも死なないなんてことが本当にあるのか?
分からない。
確かなのはアミティがこうして倒れて動かないということだけ。
医者、神官……いや、大賢者のところに連れていくのが一番早い。世界最高峰の[大魔術師]である大賢者なら、きっとどうにかしてくれる。もし彼女に無理でも、どうにかできる人のところまで《瞬間転移》してくれるはずだ。
そこまで考えて、ようやく周囲に気を配ることができるようになった。
少女が俺たちを見下ろしている。アミティをこんな風にした張本人が。
「……そこをどけ! アンリ!」
喉が痛むくらいの声で叫んだ。
湾刀に付着した血液をハンカチで念入りに拭いていたアンリは目を丸くして、倒れたままのアミティへ人差し指を向けてくる。
「驚きでございます。ロートさまがそれにそんなに思い入れがあるなんて」
瞬間、頭が沸騰した。
このクソガキ、人を、駒みたいに――。
「それ? それだと? ……テメェ!!!」
怒りが全身を支配する。生涯、記憶にないほどの激しい怒り。それが俺を異常な行動に駆り立てた。
倒れたアミティの手を包む婚礼手袋。そこににじんだ彼女の血液に舌を這わせた。
途端、焼き切れるような激痛が舌を襲う。
どうしてこんなバカげたことをしたのか理解できなかったのだろう。アンリの困惑の声がする。
「【吸血】……? ロート様は丸一日の冷却間隔が必要なのでは?」
「そのはずだけどな!」
効果は出た。
勇者の血の浄化作用が終わると、いつものように腹の底から力が湧いてきた。依然継続している一度目の【吸血】の効果と合わせ、かつてないほどの力が全身に漲る。
なぜだか、こうなるのが分かっていた気がした。すなわち、冷却間隔を無視した【吸血】の二度掛けが可能であると。
石橋を蹴り、深く踏み込む。
カウンターの危険性も考えず、渾身の力をこめ、両手持ちで剣を振るう。
気迫に押されたわけでもなかろうが、攻撃をかわしながらアンリは下がった。俺が限界を超えた力を発揮したところで、相手の足元にも及ばない。そんなことは分かっている。
親指を切って、自分に《帰還》を掛ける。
今度の転移先は後ろではない。先ほどアンリの“全開”で吹っ飛ばされる前にいた位置、つまりは前方――今のアンリの背後へと俺は移動していた。
見えたのはアンリの無防備な背中。即座にそこへ向けて突きを放つ。
アンリは振り返りながら腕を上げた。その腕で滑った刃はワンピースの胸のあたりを切り裂き、その下の皮膚を微かに傷つけた。が、やはり《帰還》の効果は発動しない。
自身の胸元から流れ出た僅かな血液を見て、アンリが目を細める。
「いい剣でございますね。“全開”のアンリの肌に傷をつけるとは」
どうにかこいつに一瞬でも『負けた』と思わせなければならない。もっと、こいつの意表を突かなければならない。
アンリが殺気を放つ。
攻撃が来る。
その寸前、親指を切って再び自分に《帰還》を掛ける。
今度の転移先はアンリの右斜め後方。利き腕の関係からか、こいつは振り向くとき、これまですべて左からだった。だから、そこが最大の死角になる。
そのはずだった。
アンリは振り返りもせずに転移した先の俺へと湾刀を突き出した。
咄嗟に身をよじり急所は避けた。しかし湾刀の刃は肩を貫通した。
激痛が走る。両膝をつく。
「【天の瞳】には千里眼の効果もあるのをお忘れで?」
忘れているわけがない。が、千里眼で視えていようが、肉眼で見えない位置にそんな速さで反応されるとは思うわけがない。あるいはこれも二百五十年の戦闘経験がなせるわざなのか。
刺し貫かれた肩から流れ出た血が腕を濡らす。
意識が飛びかける。気つけ替わりに、叫ぶ。
「全然痛かねえよ!」
嘘である。死ぬほど痛い。死ぬほど痛いが、痛いだけなら我慢すればいい。
アミティが倒れたまま動かないのだ。痛みなんてどうでもいい。
湾刀の刃を両手で掴む。手の指が裂けるが、それも知ったことではない。筋力があまりに違うので、湾刀を抜くのは無理そうだ。代わりに体の方を引き抜こうとするが、上手くいかない。体を動かすたびに聖銀の刃で肉が裂け、痛みで意識が飛びそうになる。だが、怒りと意地が俺を動かし続けた。
アンリは陶酔した表情で俺の悪あがきを見ている。
「素晴らしい。本当に素晴らしいです、ロートさま。魂が肉体を完全に超越している。これほど強い魂の持ち主にはアンリも出会ったことがありません。……ならば」
アンリが湾刀を押し込んでくる。
肩に湾刀の根本、金属製の柄が触れる。
無意識に絶叫していた。目がチカチカとする。
湾刀をぐりぐりと動かしながら、アンリが俺の耳元に顔を近づける。俺が両ひざをついているから、本当にすぐそばだった。
そして少女が囁くように歌う。あの優しい子守歌を。
意識が揺らぐ。あれほど鮮烈だった怒りも、敵意も、湖に落ちた一滴の血のように薄まり、消失していく。
「もうお休みください、ロートさま。どうか、あとは、すべてアンリに任せて」
【呼び声】。先ほど成すすべもなく喰らった精神攻撃だ。今度はアミティに助けてもらうこともできない。
違う。アミティの助けなんて期待するな。俺がアミティを助けるんだ。
倒れ伏したままのアミティを見る。
煮えたぎるような熱い怒りが胸の奥で再点火するのが分かる。
血反吐を吐きながらアンリを睨みつけ、その胸倉をつかむ。
「負けられねえんだよ!!」
そうだ、負けられない。たとえ相手がこの国最強だろうと、本物の勇者だろうと、化け物だろうと、俺は絶対に負けられない。
血液を失いすぎたからか、五感のすべてが鈍くなっていく。
視界が暗くなり、石橋の下から届いていた波の音も聞こえなくなる。
代わりに、先ほどから続いている奇妙な感覚が研ぎ澄まされていく。
できると思ったことすらないことを、できて当然と信じ込む、あの感覚が。
静寂の闇の中。
俺の魂が見えた。
アンリの魂が見えた。
視覚ではない何かでそれを俺は見ていた。
二人の魂を細い糸が結んでいる。アンリの歌声だ。
糸はアンリの方から俺の方へ波打っている。
魂に干渉を受けているのだ。
できる。
やられていることを、やり返す。
干渉の波を逆流させ、アンリの魂に侵入を仕掛ける。
「そんな――まさか!」
聴覚は僅かに残っていたのだろう。アンリが俺の耳元で上げた狼狽の声が妙に小さく聞こえた。
そして膨大な量の記憶が俺の魂に流れ込んできた。
二百五十年の長きに渡ってこの国を守護してきた勇者たちの、途方もない量の記憶が。




