最後に立ちはだかる者は(1)
ガスチーニに投げ飛ばされた俺の体はあっという間にニルダの作った土壁を越えた。ついでに王城を囲う高い城壁さえ軽々と越える。やがて投げられた勢いと重力が釣り合い、上昇は止まる。が、西へと向かう勢いは止まらない。
真上ではなく放物線を描いているのは幸か不幸か。ともかく即死が充分考えられる高さと勢いなのは間違いない。
王城の西の城壁の向こうには海に面した断崖絶壁があり、そこと城壁の間の小さなスペースに雑木林がある。
落下地点はそこだった。
俺の体はバキバキと樹木のぶっとい枝をいくつもへし折ってから、背中から地面にたたきつけられた。
本日何度目かの激痛。肺が潰れて、口から空気が漏れる。
死んではいない。少なくとも即死はしてない。
「じ、人体の強度って……すげえな」
血反吐と共に口から感嘆の言葉が漏れた。しかしたぶん肉体の強度はあまり関係ない。落下途中でぶち折った木の枝がブレーキになったのと、頭を打たなかったのが大きいのだろう。
そう冷静に分析しながら、仰向けのまま苦しい呼吸を繰り返していると、怪我は【吸血】の効果でゆっくりとだが再生していった。
その内、全身の痛みは痺れに変わり、やがて何も感じなくなる。
体の具合を確かめながら、たっぷり時間をかけて立ち上がる。まだ完治したわけではないが、動けはする。
あの筋肉執事に文句を言うべきか、それともお礼を言うべきか。ともかくこれで最大の難関は抜けた。ここはもう城壁の外であり、人っ子一人いない。
痛めた体を片手で抱きながら、ヨロヨロと歩を進める。大海原に続く断崖絶壁、その向こうに先ほど先端だけ見えた象牙色の塔があった。
“梟の塔”。
俺の旅の目的地だ。ようやく、ようやくここまで来た。
……なんだか頭に靄がかかったような感じがする。血を流しすぎたせいだろうか。頭は打っていないはずだが。
「長かったな」
少し気が早いが、もうすべてを達成したかのような感慨が湧いてきていた。
……大事な何かを忘れている気がする。が、それを思い出そうとする気にはなれなかった。これも頭にかかった靄のせいだろうか。
やがて断崖絶壁から海の上の“梟の塔”へと伸びる石造りの橋が見えてきた。この国に幾本か存在する“大賢者の石橋”、その中で最も有名なものである。
見た目は俺たちが前に渡ったダーリエン大渓谷のものによく似ている。しかしこちらの方が幅が広いし、距離も長い。
どうにか、その石橋のたもとまでたどり着く。
――と。
打ち寄せる大西海の波浪が岸壁にぶつかり砕ける音に混じり、何者かの声が遠くから届いていることに気が付いた。
幻聴ではない。微かにだが、少女の歌声が聞こえる。どこか物悲しい、しかし安心感を覚える子守歌をどこかで少女が歌っている。
耳を澄ます。歌声は宵闇に沈む石橋の奥から届いていた。
目を凝らす。橋の中ほどに、白い何かが立っている。
それは清楚な白いワンピースを着た小柄な少女だった。年の頃は中等学校に上がるか上がらないかといったところ。肩口で切りそろえた黒髪が潮風でなびいているのが印象的である。
もうすぐ日付も変わろうかというこの夜更けに、こんな場所に一人でいるのはあまりにも不自然。
まさか幽霊だろうかと体が強張ったが、すぐに弛緩していく。
少女は瞼を閉じ、一心不乱に歌い続けている。
その歌声に導かれるようにふらふらと、夢遊病患者のような足取りで石橋を進む。
俺がそばまでたどり着くと、少女は歌うのをやめて瞼を開けた。澄んだ碧の双眸である。
……誰かに似ている。そんな気がした。
「――ごきげんよう、ロートさま」
少女は目を弓なりに細めると、どこまでも優しい聖母のような響きで俺の名を呼んで手招きをした。
篝火に吸い寄せられる夜の蛾のように、少女へさらに近づく。
そうだ、俺はここへたどり着くためにこれまで頑張ってきたのだ。この五日間の旅のことだけではない。故郷を失ってからの十年間で味わった艱難辛苦、そのすべてもこの時のためだったのだ。
優しく微笑み、両手を広げて俺を待ってくれている少女を見て、そう確信した。
「数多の苦難を乗り越え、よくここまでたどり着きました、ロートさま。でも、わたくしには分かります。家や血、使命や夢――本当はそういったあらゆる重荷を投げ出して、自由に生きたいのでしょう? よいのです。もうすべてを忘れて、お眠りください。――この×××の胸の中で」
なぜか名前と思しき箇所は聞き取れなかった。
石橋に両ひざを突き、少女の胸にもたれかかる。
少女は俺の頭を抱き、小さく暖かい手で髪を丁寧に撫でてくれる。
成長途上の少女の胸からゆったりとした鼓動が聞こえる。かつてないほどの安らぎが俺を包んだ。淡い記憶の底の底、赤子の頃、母の手の中で眠っていた時は、きっとこんな安心感を抱いていたのではないか。そんな気さえした。
なんだろう。……本当に大事なことを忘れている気がする。
しかし今はすべてがどうでもいいことのように思え、何も考えられなくなっていく。
思考、記憶、魂。すべてを覗かれているような感覚がする。だが今はそれすらも安心感につながっていく。覗かれているのではなく、見守られているのだと、そう感じる。
やがて俺の思考は深い睡魔に沈んでいった。【吸血】の効果により昂っていた精神も沈静化していく――。
吸血?
そうだ。俺はいったい誰の血を吸った? 俺は誰とここまで来た?
なぜ忘れていたのだろう。これは俺だけの旅じゃない。
遠くで誰かが俺を呼ぶ声がする。
あのエキセントリックなお姫様の顔が脳裏をよぎる。
そこでようやく俺は正気に戻った。
「そぉい!」
いつもの馬鹿みたいな掛け声が石橋のたもとから聞こえた。ほぼ同時に、俺は少女を突き飛ばすようにしてその手の内から逃れた。
地面を転がって距離を取る。俺の頭上をぶっとい丸太がぐるぐると横回転しながら飛んでいく。
進路にいた白ワンピースの少女は微笑んだまま、蚊でも払うように手を振るった。その手に簡単にはじかれて、丸太は石橋の下へと落ちていく。
海面まではかなりの距離があるのだろう。ややあってから、ドボンと丸太が海中へ落ちる音がした。
駆け寄ってきたアミティが、座り込んだままの俺の肩をぐらぐらと揺さぶる。
「ロートくん、気をしっかり持ってくださいまし!」
「お、おう。……大丈夫だ。ちゃんと思い出した」
アミティを手で制して立ち上がる。
何が自分の身に起きたのか、理解はできていた。しかし、にわかには受け入れがたい。
やや離れたところで俺たちを微笑みながら見守っている白ワンピースの少女を見て、身震いする 。
そう、俺はついさっき聞いていた。
あの少女――“執事長”、黒髪のアンリのことを。
☆
僅かに時をさかのぼり、地下隧道を歩いている最中のこと。アミティは花嫁衣裳の胸元から一枚の擬似投影紙を取り出して俺に見せ、最後の敵の説明を始めた。
「わたくしの家の執事長――アンリのフルネームは、アンリエッタ・マナオラスタと言いますわ」
擬似投影紙に写っていたのは、まだ十代に入っていくらかと言った感じの少女である。執事長という肩書にはそぐわないその容姿に、もちろん驚きはした。当然のように中年か初老の男性をイメージしていた。が、そんなことよりその名の方に俺は驚かされていた。
「マナオラスタって王族じゃねーか! お前の親戚かよ!」
「ええ。ちょうど先ほど話に出ましたけど、分家で生まれた“マギー姉さまに代わる才能”というのが、この子ですわ」
「……マジかよ」
唖然としながら、擬似投影紙へと視線を戻す。白いワンピースを着た黒髪の少女はアミティの腕に抱き着いて、満面の笑みを浮かべている。一方アミティの方はしかめっつらをしていた。親戚の娘に抱き着かれて浮かべる表情ではない。
「お前の家の分家ってこたぁコイツも勇者か? マルガレーテ黒王女みてーな黒い髪の勇者はかなり珍しいって聞いてたけどな」
「それはその通りですわ。アンリも生まれた時は普通の勇者のように白銀でしたの。それが二歳の頃――十年前のモリト会戦でマギー姉さまが亡くなった直後に黒髪へ変化しましたの」
「は? なんで? 勇者は後天的に髪の色が変わったりするもんなのか?」
「いいえ、他に似た事例は聞いたことがありませんわ。これもアンリの特異性の一つが関わっているのですけど」
アミティはふいに両目に力を込めた。ここから先の話こそが肝要であると強調するように。
「執事長――“黒髪のアンリ”をこの国最強の一角たらしめているのは三つの勇者特権。【回魂】、【天の瞳】、【呼び声】――この三つ。アンリの髪が変色したのは一つ目の【回魂】の力ですわ」
アミティはまず指を一本立てた。
「さきほどマギー姉さまは“この国の守護者”だったとお話ししたでしょう? あれは比喩ではなく、実際にそういう称号があるのですわ」
「……どういうことだ?」
「建国王――聖母リースが臨終の際に発動させた極めて特殊な勇者特権、【回魂】。それを継承した者をその称号で呼ぶのですわ。継承者が亡くなるたびに、この国の勇者、つまりリースの血脈の中から一人が選ばれて、リースや過去の継承者たちの記憶と意思を受け継ぐ……そういう能力ですの」
「はぁ? なんか魔王化現象みてえだな、それ」
「似てはいますわね。でもアレみたいに強制的に人格を塗りつぶされたりはしませんわよ。……ただ継承時に少なからず精神や肉体に作用はするようで、アンリの髪が黒くなったのも前継承者であるマギー姉様の影響だと言われていますわ」
「……現王が執事長の言いなりなのはそれが理由か」
「そう。アンリの髪が変色したのを知ったとき、お父様は『マルガレーテの魂が宿ったのだ』と狂喜しましてね。それ以来、アンリにどっぷりと依存しているわけですわ」
俺は思わず顔をしかめた。聖母リースの人となりは知らないし、リース自身狙ってその能力を発動させたのかも分からない。だが“この国の守護者”とかいう大層な役目を押し付けられた歴代勇者の中には、いい迷惑だと思った者もいただろう。
「二百五十年にも及ぶ歴代継承者たちの記憶。それによってあの子は歳に見合わぬ異常な包容力と母性を身に着けていますわ。そして同時に引き継いだ膨大な戦闘経験値によって、十代前半にして化け物じみた強さにまで到達している。もちろん生まれ持った高い基礎能力と相まってのことですけれどね。……で、恐ろしい点、二つ目」
アミティは立てていた人差し指に中指を足す。
「【天の瞳】。広範囲の千里眼に連鎖予知の効果を併せ持つ感知系最高峰の勇者特権ですわ」
「千里眼は分かる。さっきから”領域”がどうのとか言ってたしな。連鎖予知ってのはなんだ?」
「わたくしの【天啓夢】は自分に利する”現在”の映像を視るものだと説明しましたわよね? 高位の勇者であれば”未来”の映像を視ることも可能であると。連鎖予知はそのさらに上位互換。理想の未来とそこへ至るための必要場面を幻視できる能力ですの」
「……分かりづらい。競馬で例えてくれ」
「まず”理想の未来”として馬券が当たって喜んでいる自分の姿を幻視したとしましょう。次に、ある日のあるレースである馬券を買っている自分の姿や、ある席でそのレースを観戦している自分の姿を幻視する。そして実際に自ら動いてそれらの場面を再現すると、最初に見た理想の未来が実現する……と言った具合らしいですわ。幻視は突然視えるもので能動的には使えないらしいですけど、効果自体は極めて強力ですわね。アンリを陰謀家たらしめているのはこの能力ですわ」
「未来予知と天啓の複合みてーな能力か。たしかに厄介だな。…………ん?」
その時、俺の頭の中に、それこそ天啓のような閃きが降ってきた。
が、アミティはそんな俺の様子には気づかず薬指を立てて、説明を先に進める。
「【呼び声】。精神操作系の勇者特権ですわ。声を媒介にして相手の精神に潜り込み、強烈な暗示を掛けたり、記憶を覗いたりしますわ。わたくしは精神攻撃耐性がありますから効きませんけど、ロートくんは喰らったら一発アウトですわね」
「声が媒介ってんなら耳をふさげばいいんじゃねえの?」
「それが無理なんですの。アンリの【呼び声】は相手の魂に直接干渉する強度なので、肉体が実際に声を聴いているかどうかは関係ありませんの。一番の対策は心を強く持つことですわね。ロートくんの剣の能力と同じように、心構えさえしておけば能力が通る確率は激減しますから。あとは……そうですわね、わたくしがそばにいればロートくんに精神操作が及んだ瞬間に頬をはたいて気つけして差し上げますわよ」
「……力加減を誤るなよ? お前の怪力だと頬をはたかれただけで首の骨が折れかねねえからな」
「気を付けますわ」
「本当に気をつけろよ?」
そんな会話をしたのが、ほんの少し前。
そのすべてを、俺は今の今まで忘却していた。
☆
「あらかじめ聞いてはいたけどよ。いつ掛かったのかすら分からねぇ。【呼び声】……恐ろしい勇者特権だな」
石橋の先で微笑みながらたたずんでいる黒髪の少女を見て、俺は独り言ちた。
先ほどガスチーニに投げ飛ばされて地面に落ちた頃までは、この先に執事長が待ち構えていることも頭にしっかり入っていたのだ。だが、あの子守歌が耳に届いた瞬間、いや正確には何かに惹かれるように石橋へ向かって歩き出した瞬間、あの少女に関するすべてとアミティのことを忘れてしまっていた。
「あの執事どもがビビるわけだぜ」
思考、記憶、魂。そのすべてを覗かれているような、あの感覚。執事たちはやたらと執事長のお仕置きを恐れていたが、あれがそうなのだろう。たしかに十歳そこらのガキに過去の失態やらトラウマやらを覗かれるのは嫌に決まっている。
アミティが感心した様子で、横目で見てくる。
「ロートくん、よく自力で解きましたわね」
「どっかのお姫様の声がしたからな。頬はたかれるのも嫌だし」
あるいは【吸血】の効果で精神攻撃耐性が向上していたためかもしれない。
ともかく、初手で敗北するという最悪の事態は避けられた。
橋の先で俺たちを見守っていた少女が、白ワンピースをつまんで丁寧に頭を下げる。
「ごきげんよう、お姉さま。アランダシルからの客旅はいかがだったでしょうか」
「ごきげんよう、アンリ。おかげ様でとっても楽しい旅路でしたわよ。……ところで邪魔だから、そこ退いてくれます?」
アンリは首を横に振り、にっこりと微笑む。そう要求されるのはお見通しであったとでもいうように。
その所作には十二歳の少女らしいあどげなさがある。しかし”それ”が見た目どおりの存在でないことを俺はすでに理解していた。
背筋がぞくりとする。
この旅の最後に立ちはだかる者。
ここ――この石橋こそが、この旅の本当の、最大の難関なのだろう。




