闇の中で見た夢(前編)
ユングヴァルト大坑道――今では“黒の隧道”と呼ばれるその場所は、難攻不落の迷宮として大陸中の冒険者から恐れられている。
しかし意外と言うべきか、成立経緯を考えれば当然と言うべきか、入り口付近はごく普通の坑道の姿をしていた。
いや、普通というと、さすがに語弊がある。天井は見上げなければ確認できないほど高いし、横幅もアランダシルの大通り並みに広い。地面に敷設されているトロッコ用のレールなんて八列もある。こんな大規模な坑道は、大陸全土を見渡してもそうはないだろう。
そういう意味ではまったく普通ではない。だが、よく整備されていて歩きやすいという点は俺たちには都合がよかった。
《発光》の魔術が壁面にかけられているため見渡しはよく、《空気循環》の魔術も効いているため、息苦しさもない。
登りや下りの坂道が多いのは参るが、そこを差し引いても、これまで踏破してきた森林やら荒地やらよりはよほど楽な道だった。
アミティと二人、しばらくの間、せっせと足を動かして奥へと急ぐ。
『第四坑道』だの『ファヴリナ縦坑』だのと書かれた標識は、しばしば壁面に見つかる。しかしなぜか地図はない。
別に目指すポイントがあるわけでもない。道が分岐しても深くは考えず、適当に選んで先へ進む。運悪く行き止まりに当たれば引き返し、別の道を行く。
堂々巡りだけはしないように気を付けて、とにかく南へ。
そんな風に進むこと、半刻ほど。
足を止めて振り返り、耳を澄ます。
あのカチャカチャという耳障りな骨の音はもう聞こえない。どうやら骨戦士の群れからはだいぶ距離を取れたようだ。
ここまで何も聞かずについてきたアミティが、小首をかしげて俺の袖を引く。
「ねぇロートくん、山脈の向こうまで続いているんですわよね、これ」
「歴史の授業で習ったのがホントならな」
「もしそうだとすると、山脈の規模から考えて、向こう側に出るまで丸一日以上は優にかかりますわよね?」
「かかるな」
「ロートくん、向こう側へ出るまでの道順、ご存知ですの?」
「いや、知らねぇ」
「ですわよねぇ」
そりゃそうだといった感じで肩をすくめて、アミティも後方へ目を向けた。
かなりの数の分岐を経たことで、坑道は当初と比べてかなり細くなっている。と言っても、まだ数人が並んで歩くのに充分な幅があるし、地面の金属レールも二列ある。
「ユングヴァルトの街の側には、わたくしたちが先ほど使ったの以外にも出入り口はありますわよね? それを探して出るおつもり?」
「いや、そんな単純な手じゃ裏はかけねぇ。相手にゃ[精霊使い]がいるからな」
「ですわよねぇ」
予定調和のように、アミティはまた肩をすくめた。この辺の問答は歩いている間に頭の中で想定していたのだろう。
「恐らくですけれど。ガスチーニは今頃、ニルダと合流して入口すべてを精霊に監視させているはずですわ。と、すると、戻るのは下策。山脈を抜けるにも道順が分からない。……じゃあロートくんが言ってた“策”というのは?」
「あんま期待すんなよ。アイツらからは逃げ切れるけど、時間はかなりロスする策だ。……あ、そういや」
そもそも、この手が成功するための前提条件なのだが。
「あいつら、ここまで追ってくると思うか?」
「ええ、必ず。入口だけ封鎖してそれで終わりということはありえませんわ。ガスチーニは気が乗らないようですけど、執事長の命である以上、形だけでも追いかけてはくるはず」
「だよな。『出会ったからには』って、あの筋肉バカも言ってたし」
ならば、残る懸念は一つ。“策”が使えるようになるまで時間を稼げるかどうかだけだ。
まだ強行軍を続けなければならない現状に辟易しつつ、目頭の辺りを軽く揉む。もちろん酷い眠気はそんなことではまるで治まらない。
「ロートくん、顔色めちゃ悪ですわよ? 大丈夫ですの?」
「全然大丈夫じゃねーけど、ここで休むわけにもいかねえだろ。いつ後ろからアイツらが来るかも分かんねえんだし」
愚痴り、歩みを再開しようと前を向く。
ほんの僅かだが、立ち止まったおかげで体力が回復した――と、思ったのだが、足を踏み出した瞬間に強烈な眩暈がした。
なんとか踏ん張り、坑道の壁面に背中を預ける。
過労のせいかもしれないし、貧血かもしれない。外はもう夜だ。前に大休止を取ったのが何日も前に思える。昨日の昼に聖母リースの洞穴で寝てから、もう丸一日以上経っている。
瞼をつむり、眩暈の余韻が消えるのを待つ。
深い呼吸を五回か、六回。
それから、瞼をゆっくりと開ける。
ぎょっとした。
すぐ目の前にアミティがいた。右手で聖銀の短刀を振りかざし、今にも俺に突き立てそうな格好で。
「ま、待て、おい!」
とっさに顔を両手で庇い、目を閉じる。
『グサリッ!』と分かりやすい音がした。
痛みはない。音の出どころは俺の耳元。
恐る恐る目を開ける。
アミティが狙ったのは、俺の顔のすぐ横だった。
坑道の壁面、そこを這っていた多足類の節足動物が、短刀で貫かれて苦し気にうねうねと悶えている。普通のムカデと姿かたちは同じだが、サイズは大型犬くらいある。身の毛がよだつような気色悪さだ。
アミティはこの手のグロは苦手ではないらしい。平然とした様子で短刀をムカデから抜くと、胸の谷間から高価そうなハンカチを取り出して、緑色の体液で汚れた刃をぬぐった。
「擬態オオムカデですわ。低レベル危険種ですけど、噛まれると神経毒を喰らうから要注意ですわ」
「……サンキュー、アミティ。助かった」
ホッと息を吐き、坑道の壁面から離れる。
地面に落ちたムカデはもうピクリとも動かない。こいつは元々ここに生息していたやつだろうか。それとも“穢れ”の影響で発生した危険種か。
目を凝らして奥を見るが、似たようなのはいない。その名のとおり、この坑道に適した土気色に擬態しているので自信はないが。
「この迷宮、奥の方に行くと手練れの冒険者でも手を焼く危険種もウジャウジャ出るらしいな。上位魔神とか単眼巨人とか」
「そんなのが出てきたら、うちの執事たちでも厳しいですわね」
「俺たちなら、なおさらな。そういうやべーのが出るところまではさすがに行けねえが、とりあえず明日の夜明けまでは奥に進むぞ」
「夜明けまで? ……ははぁ、ロート君の“策”がどんなのか分かった気がしますわ。そもそもなぜ使わないのか、疑問だったんですの。使わないのではなく、使えなかったのですわね。あの――」
と、話の途中で、アミティの声がふいに遠のいた。
頭がぐらりと揺れ、視界がまっくらになる。
まずい。完全に限界が来た。
足の力が抜ける。
支えを失った体が前に倒れこむ。
極度の疲労で受け身すら取れない。
が、地面に激突はしなかった。代わりに柔らかい何かが俺の体を受け止め、支えてくれた。
耳元でアミティが俺を何度も呼ぶのが聞こえる。
しかし、その声さえ少しずつ遠のいていく。
最後の力を振り絞り、瞼をほんの僅かだけ開けた。
心配そうな顔をしたアミティが何事かを語りかけながら、俺の顔を覗き込んでいるのが見えた。
ホント、顔だけはいいんだよな、コイツ。
そんなことを思ったのが最後。丸一日以上無理をし続けてきた俺の意識は、ついに完全に途切れた。
☆
深い、深い眠りの中で――。
夢を見た。
夜空が赤く燃え上がる夢だ。
その頃の俺は今よりずっと背が低かった。
喧騒と混乱。恐怖と絶望。そのただ中で、俺は懸命に足を動かしていた。
手を引いてくれているのは悲嘆に暮れる若い侍女。周囲には街を離れる難民の群れ。数えきれない老若男女が着の身着のまま逃げていた。
振り返れば、燃え上がる故郷が見えた。
南部五領、その一角である城塞都市フリートラント。
俺が生まれた街。俺が育った街。
そして今から十年前、黒の国の第六次大侵攻で、最初に敵の襲来を受けた街。
街のいたるところから上がった火の手は城壁の高さを悠々と越え、漆黒の夜空を煌々と照らし出していた。
まるで空が燃えてるみたいだと幼心に思ったのを、今でもよく覚えている。
まだ街からは出たばかり。黒の国の軍勢とフリートラント辺境騎士団の戦の音は俺のところまでハッキリと届いた。その中に父や母、屋敷に仕えていた者たちの声があるのではと耳を澄ましたが、さすがにそこまでは分からなかった。
これは俺の心の原風景。
俺が最後に見た故郷の姿。すべてを失った日の記憶。
今まで幾度も幾度も見てきた、ぬぐい難い悪夢――。
突如として夢の情景を砂嵐が覆い、場面が切り替わる。
今度は俺たちがいたのとよく似た坑道の中が舞台だった。制服姿のエルフと牧師服姿の巨漢が並んで歩きながら話している。追っ手の二人、ニルダとガスチーニだ。骨戦士の群れがその前後を護っている。
「酷いんですよ! もー、ローくんったら本当に酷いんです!」
ぷんすかと頭から湯気でも出しそうな勢いで怒っているのはもちろんニルダだった。地団太を踏みながら、師であるガスチーニに訴えかけている。
「本当に! ちょっとカッコイイと思ってたのに! なのにあんな不意打ちするなんて! わたしの純情を踏みにじったんですよ! 酷いと思いませんか!?」
「なるほど、それはよろしくないですな」
「下着姿で街道にほっぽりだされて! たまたま近くに誰もいなかったからよかったけど! わたしが[精霊使い]だから着替えもなんとか調達できたけど! 酷いと思いませんか!?」
「なるほど、それはよろしくないですな」
「ですよね! さすが、お師匠様! 分かってくれると思ってました!」
ガスチーニは腕組みをしながら『うん、うん』と頷いているが、絶対ろくに聞いてない。
ニルダはそれには気づかなかったようだ。拳法の構えを取って、すぐそばの壁面に正拳突きをする。『ドカン!』とアホみたいな破壊音がする。
「とりあえず次に会ったら、一発顔面ぶん殴ってもいいですよね?」
「はっは、腹にしておきなさい、腹に。それと殺さない程度に加減はお願いしますぞ、一応」
ニルダが殴った壁は巨人が殴ったかのように陥没している。
一応ではなくちゃんと命令してほしい。師弟なのだから。
「あ、見つけたみたいです」
ニルダは僅かばかし溜飲を下げた様子で息を整えた後、急に真面目な顔に戻った。いつの間にか、さっき破壊した壁面のあたりに土精霊の群体が一つ現れている。
ニルダは内緒話でも聞くみたいに、その土精霊に耳を近づける。俺には何も聞こえないが、ニルダはしきりに頷いている。
「ふんふん、土精霊ちゃんたちによると、あっちに少し行ったところにいるみたいです」
「ほほう、案外遠くまでは行ってませんでしたな」
「あー、なんだか休憩してるらしいです。そういえば、わたしと会った時もけっこう疲れた顔してたかな、アミティちゃんたち。……って、……ええ!?」
坑道の奥の方を指さしたニルダが、顔をゆでだこのように上気させる。
「ア、ア、アミティちゃんとローくんが一緒に寝てるそうです! 同じ外套に包まって!」
「ほほう、【同衾加護】ですな」
「で、でで、でも【同衾加護】って、たしか……?」
「意中の相手でないと効果が発動しないそうですな。今回の騒動、お嬢様の行動に違和感があったのですが、なるほど、そういうことだったのですな」
「ええー!!」
「ところで、お嬢様がお眠りになられているということは」
あたふたとするニルダを放置して、ガスチーニがこちらを見上げる。つまり、今俺が見ているこの視点を。
「見られていますな」
「あ、ホントだ」
真顔に戻ったニルダも同じように見上げてくる。二人とも手練れの魔力行使者だ。この手の覗き見は感知できるのが当たり前なのだろう。
「お嬢様、これからお迎えに行きますので、その場でお待ちくだされ。奥へ行ってはなりませぬぞ」
「アミティちゃん、ローくんに伝えて! これから一発ぶん殴りに行くって!」
二人とも俺が見ているとは気づいていないらしい。
ガスチーニが聖書を開いて何やら呪文を唱えると、夢にノイズが走り、輪郭がぼやけた。
《防諜》の魔術に近い何かを使ったのだろう。
――脳が覚醒する。