その種族、怒らせるべからず(後編)
“エルフ”。
見目麗しいこの亜人種は、一説には第一文明期に人類原種を改良して産み出されたと言われている。その辺の真偽は定かではないが、身体能力が人類原種の倍ほどあるのは確かだ。
前にアランダシルの冒険者ギルドで、エルフが指で硬貨をへし曲げるのを見たことがある。筋肉自慢の巨漢の仕業とかではない。ごく普通の体形のエルフのお姉さんが酔っぱらってやったのだ。
あれ以来俺は、エルフだけは怒らせまいと心に決めていた。
殴られた腹を押さえて、立ち上がる。
が、激痛のあまり足がもつれて転倒する。
アミティが再び憐れみの目で俺を見下ろす。
「ロートくん、お腹大丈夫ですの?」
「ぜんぜん大丈夫じゃない」
「……お吸いになります? 血」
制服の右肩の辺りをズラして、アミティが首筋を見せてくる。煽情的――というか、シンプルにエロい。
なめらかな白い肌に噛みつきたい衝動が湧いてきて、思わず喉を鳴らす。
実際、【吸血】を行えば、これくらいの傷はすぐに完治するだろう。
だが、首は横に振る。こちらにも事情があるのだ。
「いや、いい。お前の血ぃ飲むのは、それはそれで死ぬほど痛いからな」
「背に腹は代えられないでしょうに」
嘆息しながらアミティが制服を元に戻す。
腹をさすりながら、再び足に力を入れる。
ふらついたが、今度はなんとか立てた。腹の痛みは引いてきたが、単に痛覚が麻痺してきただけな気もする。
「骨と内蔵は……無事……だな。いや、骨は分からんが、内臓は平気そうだ」
「喰らうときにとっさに後ろに跳んでましたから、それが功を奏したのだと思いますわ。さすがロートくんですわぁ」
「ふふふ、よせやい……」
笑おうとする。が、腹を動かしたくないので、頬をひきつらせることしかできない。
「あの! イチャついてるところ悪いんですけど!」
ぷんすかと怒ったような声がしたので、二人揃ってそちらを向く。
ニルダが滝つぼのところから池のふちに降りてきていた。
「執事長様から言われてるので拘束しますね! アミティちゃん、ローくん!」
ニルダは片手でビシっと俺たちを指さした。だが、相変わらずもう片方の手は胸のあたりを隠すのに使っている。
正常な恥じらいがあって何よりだ。しかし、気にかかるところがないわけじゃない。
「おうおうおう、ニル公よ。いきなりあだ名呼びとは馴れ馴れしいじゃねーか」
「え」
ニルダが突きつけてきていた人差し指をへにゃりと曲げる。
なんかショックを受けたような顔をしてる。
横から気まずそうにアミティが目を向けてくる。
「……あの、ロートくん、ひょっとしてですけれど、初対面だと思ってらっしゃる?」
「あ?」
「ニルダもわたくしたちと同じクラスですわよ?」
「うっそだろ!?」
本気で信じられなくて声がでかくなった。
アミティはアミティで、本気で信じられなさそうな顔をしている。そりゃそうだが。
「ニルダは修業と称して年がら年中、山籠もりしてますから、顔を覚えてないくらいなら不思議ではないですけどね。耳も学校だと隠してますし。……でもラナに続いて名前すら覚えてないなんて、ちょっと……」
さすがに擁護できない、という顔でアミティが身を反らす。文字通り、若干引いている。
ニルダはニルダで涙目になっていた。
「酷いよ、ローくん! ちょっとカッコいいなと思ってたのに!」
「いや、思い出した! 完全に思い出した! 確かにいたな! こんな感じの美少女、教室にいた!」
「え。美少女?」
コロリとニルダの表情が変わる。にへりと口元を緩めている。
俺の横でアミティも表情を変える。眉をひそめて、だいぶ険しい感じに。
「ニルダ、誤解しないでくださいましね。ロートくんはつい今朝がた、わたくしが一番かわいいと言ってましたから。ねぇロートくん?」
「たしかに言ったけどよぉ」
貧血の眩暈を感じながら親指を噛み、赤い長剣をもう一度出す。さっきのは大ダメージを負ったせいで集中が切れて消えてしまった。
ニルダが若干、緊張を増した様子で身構える。
「ラナちゃんから手紙もらったので知ってます。それで斬られるとどこかに飛ばされちゃうんですよね」
知っているなら仕方がない。剣の腹をペロペロ舐めながら威嚇する。
「そうだぞ。怖いだろぉ? その辺の火山の溶岩だまりにでも落としてやろうか?」
「そういうのはたぶんできないとも、ラナちゃんは書いてましたけど」
「さーて、どうかな。その綺麗な体で試してみるか? へっへっへ」
ゲスい笑みで脅してみたが、ニルダは臆した様子を微塵も見せない。ラナの言葉を信じているのか、俺の善性を信じているのか、はたまた剣を喰らわない自信があるのか、あるいはそのすべてか。
いずれにしても、さっきの身のこなしを見るに一対一なら一撃喰らわすのも難しそうだ。アミティと同時にかからなければいけないだろう。
そう思ってアイコンタクトを送ると、アミティは急に俺を手で制して一歩前に進み出た。
「ニルダ、わたくしと一対一で勝負しなさい。もしあなたがわたくしに勝てたら、素直にアランダシルに帰って見合いを受けますわ」
「分かった! 手加減はしないからね、アミティちゃん!」
ニルダは張り切った様子で構えを取る。握った右の拳は腰のあたりに、左手は開いて前に置く、基本的な拳法の構えだ。
アミティも素手のまま、似たような形に構えた。あの聖銀の短刀は使わないつもりらしい。
「ロートくん、手出しは無用ですわよ。くれぐれも不意打ちなんてしないでくださいましね?」
「ん? お、おう」
「くれぐれも、ですわよ?」
「うん……」
露骨なくらい念押ししてくるアミティ。
とりあえず俺は戦いに巻き込まれないように下がった。
「行くよ、アミティちゃん!」
ニルダは正々堂々と宣言してから猪のように突進してきた。
アミティはその場で待ち構える。
接敵。鏡写しのように同時に繰り出される上段回し蹴り。
それらは噛み合わず、恐ろしい風切り音を発しながら両者の頭上を通過した。
息がかかるほどの超至近距離。二人は共に下がらず、その距離で激しい殴り合いを始めた。
俺なら一発で致命傷になりかねない威力の打撃がバンバン飛び交う。拳が空を切る音で背筋がぞくりとする。
互いに相手の打撃を巧みに捌いているため、直撃はない。勝負は完全に互角であるように思われた。
だが徐々に優劣がつきはじめた。アミティがニルダに押され始めたのだ。
「いつものキレがないよ! どうしたの、アミティちゃん!」
そんな言葉を投げかける余裕すらニルダにはあった。
確かにアミティの動きは今朝より悪い。息を切らし、苦しそうな顔で後退する。
……でも、たぶん演技だ。
ニルダは容赦しなかった。
足を踏み出し、逃げるアミティの右腕を掴むと、懐に潜り込んで背負って投げ飛ばす。
一本背負い。その投げっぱなしバージョンだ。
きれいな放物線を描いて、近くの藪の方に消えていくアミティ。
それを見送ったニルダは両腕でグッとガッツポーズをして、ピョンと跳ねた。
正直、可愛い。
「試合なら一本だな」
「ですよね!」
この世のすべてを信じているかのような眩しすぎる笑顔で俺の方を振り返るニルダ。
投げのダメージはたいしたことなかったのだろう。アミティはすぐに藪から姿を現した。
「また腕を上げましたわね、ニルダ」
ニルダがそちらに向き直る。つまりは俺にまた背を向ける。
その隙だらけの背中を、俺は赤い剣でバッサリと斬りつけた。
こちらへ振り返り、『え』と大口を開けたニルダの体が掻き消える。
なんか、すまん。
「思ったとおり、楽勝でしたわね。性格的に一度は決まると思ってましたわ」
アミティは、体についた葉っぱやらを手で払いながらこちらへやってくる。作戦が上手くいったからか、鼻歌でも歌いそうなくらいの上機嫌だった。
俺はなんか、釈然としないものを感じていた。
「……いいのか、これで」
「いいに決まってますわ。敵の言葉を信じる方が悪いんですわ」
「そうだけどよぉ」
「『奥の手と策さえあれば格上にも勝てる』ですわよ、これも」
「そうだけどよぉ……」
実行しておいてなんだが、罪悪感で一杯である。
「敵の言葉と言えばですけど。ロートくん、ラナに嘘つきましたわね?」
と、アミティが指さしてきたのは俺の赤い剣。
さすがにバレるか。【血液操作】を解除して剣を消してから、俺は肩をすくめた。
「再戦する可能性のある敵に、自分の能力をべらべら喋る馬鹿はいねえわな」
「ですわよね。でも、あの時に言ったことすべてが嘘だったわけでもないのでしょう?」
「まーな。アイツらをアランダシルに飛ばしたのは本当だよ」
アランダシルのある北方を見やる。厳密ではないが、飛ばした先は分かる。飛ばした先というより、正確には“飛ばせた”先だが。
「ロートくんの剣、発動させるのに、斬りつける以外に何か条件が要るタイプだと見ましたわ。それと効果自体も単純な《瞬間転移》ではない……」
「御名答」
完璧な推理だ。やはりこのお嬢様、地頭はいい。
「そう、ただ斬りつけるだけじゃダメなんだ。さっきニルダにやったみたいに不意打ちするか、“負けた”と相手に思わせないと発動しない」
「負けた? 抽象的ですわね」
「そうとしか表現できねえんだよ。子供の頃に色々検証してそういう結論になったんだ。なんでこんな能力なのかは知らん」
「ふぅん」
アミティは顎に手を当て、思案顔を作る。今朝の戦いを思い出しているのだろう。
メルヴィルには完璧に崩した上でに一撃を加えた。
ラナはもう完全に勝敗が決した状態で剣を当てた。
どちらもまず発動するケースだ。
「別に完全に“勝ち確”の状況にする必要はねえんだ。剣を当てる一瞬だけでも、『やられた!』と相手に思わせればいい」
「魔力抵抗が機能しなくなる隙を狙う……ということかしら。魔術の《瞬間転移》は敵対する相手にはまず発動しませんけど、相手が無警戒だったり、無力化されてる場合は効くこともあるそうですし」
そう。たぶん、その辺と似た理屈だと俺も思っている。
アミティはポンと手を打った。
「だからメルヴィルに『俺たちの勝ちだ』とわざわざ宣言したのですわね?」
「そういうこと」
「思ったより発動条件が厳しいですわね。その分、効果が強力になっているのでしょうけど……それでも《瞬間転移》は強すぎるように感じますわ。ロートくんは魔族として世代が浅いわけでもないのですし」
目つきを鋭くして、独り言のように呟くアミティ。
“条件が厳しいほど効果が強力になる”。こいつの【同衾加護】がそうであるように、これはどんな力にも適用される大原則だ。
「恐らく“斬った相手を飛ばす”という効果の方にも何か制限がありますわね。しかしそれは距離の制限ではない。……飛ばせる方角が限定されているとか?」
犯人を追い詰める探偵のように、アミティはじっと俺を見る。
この推理もかなり惜しかった。降参するように、両手を挙げる。
「正解は“時間”だ。そいつが過去二日以内にいた場所の中でしか、飛ばす先が選べない」
「……《帰還》! 魔術の《帰還》が発動するのですわね? なるほど、それなら《瞬間転移》と比べれば、ずっと効果は弱い。先ほどの条件とつり合いますわね。納得ですわ」
アミティはしきりに頷き、南方を指さした。
「とすると、先ほどニルダを飛ばした先は王都の方角なのですわね? あちらから来たわけですから」
「そう。これで向こうも、俺の剣の効果をおおむね把握しただろう。ま、ラナも『そんな強力な能力あるわけない』って言ってたし、元から俺の言う事を鵜呑みにはしてなかっただろうけど」
『奥の手と策さえあれば格上にも勝てる』。これまでそれでどうにかしてきたわけだが、奥の手の一つを知られてしまったわけだ。
「知られると本気で致命的になるから言いたくなかったんだよなー。口外しないで欲しいなー、ホント」
「わたくしは別に言いませんけど」
俺は山脈の向こうを見通すように南方を見やる。ニルダがそちらへ転移したのは感覚で分かっていた。
「そういやニルダのやつ、下着姿で飛ばしちまったけど大丈夫かな」
「さぁ? あちらについたのですから、自業自得ですわ」
いつの間にかアミティは、ニルダが残した大型鞄を漁っていた。そこから取り出したのは古風な女中服。あの擬似投影紙でニルダが着ていたやつだ。頭につける大きな頭飾りもある。
アミティが今着ている制服は、右腕の袖のところが肩のあたりからなくなっていた。先ほど投げられたときに千切れたのだろう。
俺が以心伝心で背中を向けると、アミティはその女中服姿に手早く着替えた。
「あら。初めて着ましたけど案外動きやすいですわね、これ。悪くないですわ」
「ああ、悪くない」
「可愛いって言ってくださいまし」
「可愛いよアミティ、可愛いよ」
「ふふふ、ありがとうございますわ」
アミティはご満悦な様子でスカートの裾を摘まむと、ちょこんとお辞儀をした。
本当に悪くない。可愛い。
例のごとく【体内収納】のためだろう。アミティは女中服の胸元のボタンを二つ外した。ニルダはラナと違って割と胸がある方だったので、あの陰キャ魔術師から奪った制服の時よりかはきつそうではない。
そういえばと目をやると、俺たちの荷物をかっぱらった土精霊たちの姿はもうどこにもなかった。使役者であるニルダと距離が離れたから、どこかへ帰ったのだろう。
「あいつ、怒ってるかな。俺のこと」
「そりゃもちろん。あの子は嘘をつかれたり、騙されたりするのが一番嫌いですから」
「俺、エルフだけは怒らせまいと心に決めてたんだが?」
「今度会ったら謝るといいと思いますわ。たぶんロートくんの姿を見た瞬間に殴りかかってくるでしょうけどね」
「……謝る前に殴られないように気を付けねーとな」
「そうですわね。ロートくんの耐久力だと、下手すると一撃死ですし」
「まだ死にたくねぇなぁ」
まだまだ痛む腹を擦り、あの天然気味なエルフの少女が怒るところを想像する。
ニルダも最大値である二日分の距離を転移させた。だが俺たちの進行方向へ飛ばしたわけだし、移動に長けた[精霊使い]でもある。王都に着く前にもう一度遭遇する確率は極めて高い。
土下座をする覚悟と上手い言い訳。その二つを今のうちに準備しておこうと、俺は新たに心に誓った。