クラスメイトと行く逃避行(前編)
「お邪魔しますわぁあ!!」
と、少女が叫びながらドアを蹴破って俺の家に入ってきたのは、夏休み初日のことだった。
その時俺は暑さのあまり活動する気になれず、窓を開け放ってベッドで昼寝をしていた。しかし、きれいに粉砕されたドアの残骸はすぐ見えた。ワンルームだからである。苦学生の住居は格安極狭賃貸アパートと昔から相場が決まっている。
上半身を起こし、寝ぼけ眼をこする。もちろん、そんなことでは目の前の悪夢のような光景は変わらなかった。
「……なんだ?」
「あなたのクラスメイトのアミティ・マナオラスタですわ! ロートくん! とりあえず、これに署名と捺印をお願いしますわ!」
土足のままズカズカ歩いてベッドの脇まで来た少女は、波打つ白銀の長い髪を振り乱しながら、なにかの書類を俺に突きつけてきた。高価そうな白いドレスを着ているが、なんかのパーティへ行く途中だろうか。
アミティ。そう、確かにそんな名前だった。正確にはそれは愛称だった気もするが、王立高等学校のクラスメイトなのは間違いない。一学期の終業式があった昨日も一年D組の教室でチラッと顔は見ていた。
少女が突きつけてきた書類は逆光なのもあってよく見えない。目を細めてみるが、やはりよく分からない。
ふと玄関の方へ視線を戻すと、ドアがあったはずのところから誰かが顔だけ出して恐る恐る部屋の中を覗いていた。たぶん、お隣の女子大生だろう。隣の家のドアがいきなりぶち壊されれば俺だってそーする。
「署名? 捺印?」
「そうですわ! 認印でもいいですわ!」
「ハンコ……どこやったかな」
「最悪、拇印でもいいですわ!」
「それにしたって朱肉がいるだろ。ええと」
極狭ワンルームの中を見渡し、必要なあれこれを探す。金がないから当然だが、生活に必要な最小限の物しか置いてない。すぐに見つかるだろうと踏んでいたのだが。
「時間がないですわ! これでサクッとお願いしますわ!」
急かしながらアミティが差しだしてきたのは小ぶりな銀の短刀。
なるほど、親指を切って捺す血判スタイルか。悪くはない。しかし俺の貴重な血液を消費する点は気に食わない。きらめく短刀の刃を見つめながら、どうしたものかと寝ぼけた頭で思案する。
するとアミティは承諾を得たと判断したのか慣れた手付きで俺の親指の腹を切り、書類にぐいっと押し付けた。
「痛ッッッてぇ!!!」
「我慢してくださいまし」
痛みには強い自信があったが、予想外の激痛に思わず声が出た。指だけでなく、魂ごと斬られたような感じがする。夏の暑さとは無関係に全身から汗がぶわっと噴き出た。
「で、あとは署名か?」
切られた指の止血をしながら聞くと、アミティは書類上方にある長方形の欄をトントンと指で示し、万年筆を差し出してきた。
「ここにフルネームでお願いしますわ」
言われるがまま、そこに自分の名前を書き込む。
“ロート・フリートラント”。
フリートラントは由緒正しき魔族の一門の姓だ。もっとも今は完全に没落しているため、これを名乗っているのは世界で俺一人だけのはず。
「ふぁあ……で、なんなんだ、これ」
大きな欠伸をして、たずねる。
さっきの激痛のおかげか、ようやく頭が冴えてきた。しかし大して話したこともないクラスメイトがいきなり家に押しかけてきた理由は皆目見当がつかない。
アミティは書類を上から下まで何度も眺めて、満足気に頷いた。俺が書かされたところ以外はだいたい先に何かが記入してあったが、なんの書類なのだろう。
「婚姻届ですわ」
はーん? なるほど? おもしれー女。
次の瞬間、俺のワンルームは物の見事に爆破され、この世から消滅した。
☆
「な、なんだ? なにが起こった?」
咳き込みながら、誰にともなくたずねる。
腹と背中が猛烈に痛い。意味がさっぱり分からない。
百パーセント理解不能の状況に陥ると、人間は逆に冷静になるものだ。いや、別に俺は冷静にはならなかったが、パニクりもしなかった。
ただ淡々と現状を確認する。
眼前に青空が広がっている。背中の下は土だ。ということは、どうやら俺はアパートの外の地面に仰向けに倒れているらしい。
思い出す。そう、部屋の中で爆発が起きたと思った瞬間、アミティに蹴られて窓の外へ放り出されたのだ。
背中が痛いのは落下時に地面に強かに打ち付けたから。腹が痛いのはアミティにそこを蹴られたからだ。どちらかというと腹の方が痛い。
首を巡らす。予想通り、アパートの二階にあった俺の部屋は跡形もなく消滅していた。奇妙なことに両隣の部屋は無傷だ。俺の部屋のあった場所だけがきれいに消し炭になっており、そこから黒煙がもうもうと立ち昇っている。
先ほど部屋を覗いていた隣の女子大生も無事だった。二階から階段を下りてきたあたりで腰を抜かし、口をぽかんと開けてこちらを見ている。
たぶん、うちに押しかけてきたアミティのことを街の衛兵さんに通報しにいく途中だったのだろう。誰かが隣の部屋のドアをぶちやぶって侵入するのを見たら俺だってそーするし、その途中でいきなり爆発が起こったら俺だってああなる。
「《火球》の魔術ですわね」
気づけば隣にアミティが立っていた。始祖勇者の血を引く証たる白銀の長い髪を風になびかせながら、俺の部屋の跡地を真剣な顔つきで見上げている。着ている高価そうな白いドレスはあちこちが焼け焦げているが、本人に外傷はない。
俺を蹴落とした後に脱出したのだろうか。間に合うタイミングだったとは、とても思えないが。
「《火球》って、あんな局所破壊できるもんだったか?」
「使い手の魔力制御が精密なら可能ですわ。とにかく逃げますわよ」
アミティがドレスグローブに包まれた手を差し伸べてくる。
俺がのろのろとそれを掴むと、肩を脱臼させられそうな勢いで起こされた。アミティはそのまま俺の手を引いて、大通りの方に向かって走り始める。
「とりあえずだな」
「なんですの?」
「意味がわからないんだが」
「つまりは“覇道”ですわ」
「はどう? ……覇道ってアレか? 力で道を突き進むっていうアレか?」
「厳密には違いますけどソレですわ」
「ほう」
意味がわからん。わからんが、少しでも立ち止まると腕を引きちぎられそうなので問答はやめて、とにかく足を動かす。
人混みを縫うように走り、大通りを抜けて細い路地へ。
道中やたらと注目されたが、アミティは一向に意に介さなかった。焼け焦げたドレスの美少女が疾走してたら注目されて当然だが、そもそもコイツのことを知ってる者もいたのかもしれない。有名人だからだ。
走りながら、一瞬後ろに目をやる。
「尾行けられてるぞ」
一般市民の好奇の視線に混じり、明らかに異質な気配が一つ、追ってきている。
アミティも気づいていたらしい。ちらりと後ろに視線を向けたが、それだけだった。
「さっきの《火球》のやつか?」
「いえ、ラナはそんな速く走れませんわ。他の者でしょう」
アミティはこの辺の土地鑑はないらしい。走ってるうちに狭い袋小路に突き当たってしまった。
行く手をふさぐ分厚い焼きレンガの壁を見て、アミティが舌打ちをする。それから踵を返し、猛烈に苦い顔をした。
俺も振り返る。
袋小路を塞ぐように、執事服の男が立っていた。髪を後ろに撫でつけた三十路くらいの男である。黒い首飾と狐のような細い目が印象的だった。
「……だれ?」
「メルヴィルですわ。まったく、面倒くさい」
アミティは大げさに嘆息すると、俺の指を切ったあの銀の短刀を逆手で構えて、臨戦態勢を取った。
たぶん――というか間違いなくだが、この少女よりかは話が通じそうなので、メルヴィルとかいう男に聞く。
「なんなんだ、これ」
「お嬢様の御学友の方ですね?」
お嬢様。なるほど、コイツの家の執事か。
「そうだけど。なんで俺の家は爆破されたんだ?」
「勇者関連法第十六条、『適正管理外の勇者への特殊措置』に則りました。近隣住民の皆様には迷惑を掛けていませんので、ご安心を」
「俺には思いっきり迷惑掛かってんだが?」
「君はお嬢様の逃亡幇助者に認定可能な状況と判断しましたので」
よく分からんが適法行為だったらしい。そういや、この魔法王国にはそんな感じの法律があると中等学校の公民の授業で習った気もする。たしか『勇者の血を引く者に暴走の兆候が見られる場合、その者と幇助者を何人でも現行犯逮捕できる』とかいう法律だった。
しかし、いきなり部屋に《火球》をぶちこむのが現行犯逮捕に含まれるのかは甚だ疑問である。
「えーと、つまり、コイツがなんか悪いことしたから逮捕しにきたと? 何したのコイツ」
隣に立つアミティを指さす。
アミティは何も心当たりがないとばかりに肩をすくめた。
メルヴィルが慇懃に頭を垂れる。
「お戻りください、お嬢様。今からでも、お見合いの時間には間に合います」
「え、なに、見合いなんてすんの、お前」
びっくりして、またアミティの方を見る。
アミティは豊満な胸に手を当て、目を吊り上げた。
「さっきいきなり知らされたのですわ! わたくしの意に沿わぬ見合いですわ! 絶対! 死んでも! 行きませんわ!」
「そりゃまぁ……同情するわ。おい、メルヴィルさんよ。見合いすっぽかしたくらいで、さっきの法律適用すんのは無理じゃね?」
擁護するわけではないが、一応言ってみる。
メルヴィルは芝居じみた調子で肩をすくめて、人差し指を空に向けた。そっちを見ろというジェスチャーではない。
「お嬢様は前科がたっぷりありますし……上の判断ですので」
「そりゃ、しゃあねーな」
「はい。仕方ないのです」
このおっさんも苦労してるのだろう。労働者はいつもそうだ。上の指示には逆らえない。
俺とメルヴィルの間に融和の空気が漂う。それを敏感に感じ取ったのか、労働者の苦労など一切知らないであろう少女が声を荒げた。
「仕方なくなどないですわ! わたくし! アーミティア・マナオラスタは我が道を往きますわ! これをご覧なさい、メルヴィル! わたくしはこの方と婚姻しますわ!」
アミティが胸の谷間から取り出して執事に向けて見せたのは、俺が書かされたあの書類。
先ほどの爆発でも無事だったらしい。つーか、どこに収納してたんだ。
メルヴィルが狐のような細い目を僅かに見開いて、書類を凝視する。
アミティは勝ち誇ったように笑い、また胸元に書類を戻した。
「我が国では婚姻は当事者二人以外には解除不可能! つまり、これが役所に受理された時点でわたくしに見合いをさせることは不可能になりますわ!」
あー、なるほど。ようやく話が見えてきた。つまりこのお嬢様は見合いをすっぽかして逃げる途中で、偶然クラスメイトの男の家を見つけたから、これ幸いと利用することにしたわけだ。
メルヴィルが胸ポケットからハンカチを取り出し、額に浮かんだ汗を拭く。表情では分からないが、動揺しているらしい。
「無茶苦茶やりますねぇ、お嬢様」
いや、ホントそう。
しかし、お嬢様の作戦には穴がある。俺の代わりに執事様がそれを指摘する。
「お嬢様、我が国では婚姻は男女共に十八歳からです。お嬢様たちは二年ほど早いわけですが……」
「もちろん知っていますわ。だから役所ではなく、街の門の方に走ったのですわ。婚姻届を役所に直接持っていっても無駄ですから」
アミティの語りには自信の高さが現れていた。勝ち誇った笑みにも、確かな勝算が窺える。
しばし考え、その根拠に行き着く。さっきアミティは街の正門、つまりは南――王都の方角を目指していた。
「“大賢者への請願”か!」
「ご名答ですわ、ロートくん。適法行為に対抗するには超法規的措置ですわ!」
大声で答えてから高らかに笑うアミティ。
俺は驚くというより、感心していた。
我が国、魔法王国は『大賢者の国』とも呼ばれている。三百年前に真なる魔王を討伐して世界を救った英雄、“始祖勇者”――その仲間の一人である“大賢者”が宮廷魔術師を務めている国だからだ。
そしてこの国の国民は全員、生涯に一度だけ大賢者に請願をする権利を持つ。どんな願いであろうとも、大賢者が承認すれば叶えてくれるのだ。
たとえそれが国の法に反した願いでも、である。婚姻開始年齢に満たない者が書いた婚姻届も、請願が通ればそれは“合法”となるだろう。
このお嬢様、話しぶりはいかにもアホっぽいが、案外考えている。
と、内心で評価を改めていると、メルヴィルからツッコミが入った。
「あの、お嬢様。確かに実現できれば完璧な作戦ですが……前提としてですね」
「なんですの?」
「そちらの御学友は、その作戦に同意してるんでしょうか。初耳だって顔してますけど」
執事さんが常識人っぽくて助かる。
アミティはキョトンとした顔をしていた。そんなこと考えもしなかったというふうに。
「確かに、今初めて話しましたけど。なにか問題が?」
「見合いから全力で逃げてるお嬢様にこう言うのもなんなのですが……婚姻は両者の合意があって成り立つものです。ラナの報告書によると、お嬢様には特に深い仲の異性はいなかったはず。そちらの少年とも別にそういう仲ではないのでしょう?」
そのとおり。こいつと俺は今年の春から同じクラスになったというだけで、ろくに話したこともない間柄だ。たまに視線が合うくらいはあったが、それだけである。
またアミティはきょとんと首をひねる。
「婚姻届はもう書いていただきましたわよ?」
「いや、すまん。寝起きは頭が回らないタチなもんでよ。なんの文書か知らずに書いた。同意したつもりはまったくない。マジすまん」
俺の言葉を聞き、アミティがあんぐり口を開ける。そんなの想定してなかったとでも言うふうに。
「でも! でも、わたくしのような美少女と結婚できるんですのよ!? よもや、この機会を逃したりはしませんわよね!?」
「……まぁ確かに美少女だし、おもしれー女は嫌いじゃないけどよ。それにしたって話が急すぎんだよ」
「えー!!!!!!!」
途端に、あたふたし始めるアミティ。
前言撤回。このお嬢様、やっぱあんまり考えてねーわ。