第一章<佐田の正体>
「山岡さん、ここが進路指導室だよ。」
放課後、佐田は約束通り玲奈を進路指導室へと案内する。
「は、はい…」
そう返事をする玲奈の表情はとても強張っており、誰から見ても緊張していることが明白だった。
「こんなガチガチだったら演技だってバレちゃうよ…」
玲奈の様子を会議室から見ている陸人が呟く。
源五郎も玲奈の姿をモニターから静かに見守っていた。
昨日凛子と共に玲奈の接触プランを変更するよう説得したのが、頑固な陸人がその提案を受け入れることはなかった。
ガチャリ
進路指導室のドアを開ける音がする。
「あ、山岡さん!」
佐田と玲奈が部屋に入ろうとしたそのとき、駆け寄ってきた凛子が玲奈に声を掛けた。
凛子の登場に内心ホッとする玲奈。手は汗ばんでびしょびしょだ。
「葵先生…!」
玲奈が凛子に駆け寄る。凛子の登場に泣きそうなのをぐっとこらえ唇を噛む。
佐田はその様子を静かに見守っていた。
「今日体調が悪いって言って保健室に来たのに、早く帰らないと駄目でしょう?」
凛子は玲奈の額に手を当てて言う。
それを見た陸人は焦ったように
「何やってんだよ、母さん!」
と言うが、凛子はイヤフォンから聞こえる陸人の声は無視して言葉を続ける。
「佐田先生、ごめんなさい。今日は山岡さんを帰してあげても良いかしら?この子微熱もあるみたいで…。」
凛子は申し訳なさそうに佐田に言う。
確かに玲奈の顔色は白く、震えているように見える。実際は佐田と接触することに対する極度な緊張でこうなっているのだが、佐田には体調が悪いように見えているだろう。
「もちろんですよ。僕の方こそ気付いてあげれなくてごめんね、山岡さん。」
佐田は眉を下げて言った。その表情に疑っている様子はない。
「す、すみません…」
玲奈がか細い声で言う。
「保護者の方に連絡して迎えに来てもらうよう言ったから、保健室に居てね。おじい様が迎えに来てくれるらしいわ。」
凛子がそう言うと、玲奈は小さく頷き保健室へと足を進めた。
その様子を見ていた源五郎はすぐさま立ち上がり、車のキーを持つと家を出た。玲奈を迎えに行くのだ。
「だから!作戦は!?」
怒った声を出す陸人。
凛子は自然に口元を隠すと小さな声で囁く。
「玲奈ちゃんの代わりに私がするわ。」
玲奈が歩いて行ったのを確認すると、凛子は佐田に向き直り申し訳なさそうな表情をする。
「申し訳ありません、担任の佐田先生に山岡さんの件を伝えそびれてしまって。」
自然と距離を詰めて言う凛子。白衣の下に着ているシャツの第3ボタンは開いており、豊満な胸の谷間が見えていた。
「いえ、僕も今日の山岡さんの様子はおかしいと思っていたので葵先生に声を掛けていただいて良かったです。」
佐田は凛子の胸元をチラリと見つつ答える。
「そう言っていただけると嬉しいです。」
凛子は佐田の手を取り、微笑んだ。
佐田は驚いた表情で繋がれた手を見つめる。
「あ、ごめんなさい…つい…」
凛子は頬を染めると、すぐのい佐田から手を話した。
調査書によると、佐田は女遊びが激しく夜な夜な様々な女性と夜を共にしているらしい。それに凛子は佐田のタイプど真ん中で、佐田が凛子を放っておくことはないだろう。
「いえいえ、こんな綺麗な女性に手を握ってもらえるとは思ってなかったので光栄ですよ。」
「て、照れますわ…」
佐田と凛子の間に甘酸っぱい空気が流れる。
「あの、よろしければ今晩お食事でもいかがですか?今日は山岡さんの進路指導が最後の業務だってので、葵先生がよろしければ。」
佐田が紳士的に凛子を食事に誘う。
「嬉しいです!独り身で寂しい夕飯ばかりだったので。」
凛子はぱっと花がさくように笑った。
その後二人は待ち合わせ時間と場所を約束すると一旦解散した。
「母さん!何てことしてくれたんだ!!」
保健室へと歩いている凛子に怒鳴る陸人。
自分の作戦が思い通りに行かずに苛立っているようだ。
「…ここからは子どもには見せれないわ。それと、今日の晩御飯は外食でもしてね。」
凛子は静かにそう言うと、身に着けていたイヤフォンとマイクを取り外した。
おかげで凛子の現在の情報は不明となり、状況の把握が出来なくなる。
「母さん!!」
陸人が叫ぶが、その声が凛子に届くことはなかった。
「凛子は俺が尾行する。じいちゃんが帰ってきたら、玲奈と3人で晩飯でも食ってこい。心配するな。」
進路指導室付近で待機していた秋鷹は急いで答えると、凛子の後を追うべく移動し始めた。
いくら玲奈が心配だからって勝手なことを…!
**********
「お待たせして、すみません!」
18時過ぎ、白衣を着替えた凛子は色気を振りまいて駐車場にいる佐田へと駆け寄る。
凛子は服を着替えており、今は胸元の大きく開いたワンピースに黒のヒールを履いている。
「…。」
佐田はそんな凛子の姿を黙って見つめる。
「どうかしました?」
佐田の顔を覗き込む凛子。
「あ、すみません…昼間と随分雰囲気が違うので驚いてしまいました。」
「あ…そうなんです。学校ではTPOをわきまえた格好をしているんですけど、素の私はこういう服装が好きで。お嫌いでした?」
凛子が眉を下げる。
「いえ、むしろ大歓迎です。今夜はこんな素敵なレディをエスコートできて光栄ですよ。」
歯が浮くようなセリフを言った佐田はスポーツカーのドアを開けると、凛子の手を取り凛子を車へと乗せた。
「チッ」
その様子を物陰から見ていた秋鷹は舌打ちをし、跨っていたバイクで走り出し二人を追いかける。
**********
「今の状況は?」
イヤフォンから秋鷹の耳に陸人の声が届く。
「…今は佐田と凛子がイタリアンレストランで飯食ってる。俺は向かいのカフェで待機中だ。」
秋鷹はそう言いながら、店のカウンターから微かに見える凛子と佐田の姿を捉えていた。
凛子と佐田は微笑み合いながら食事を取っており、良い雰囲気だ。凛子が小型カメラのイヤフォンも外してしまっているので会話は聞こえず、動向もあまり把握出来ていない。
「勝手な行動して…」
陸人がイライラとしながら言う。
陸人の隣には帰宅した玲奈がおり、源五郎に支えられながら表情を暗くし俯いている。
「陸人が母さんの言うことに耳を貸さなかったからだろ。今回の作戦は玲奈にとってあまりにも危険だった。」
「…。」
秋鷹の言葉に陸人は返事をすることができない。本人も玲奈を佐田に接触させようとしたことを反省しているようだ。
「で、そっちはちゃんと飯食ったのか?」
秋鷹がため息をつきながら言う。
「こんな状態ではご飯を食べたくないらしい。」
すっかり黙ってしまった陸人の代わりに返事をしたのは源五郎だった。
源五郎が玲奈を車で迎えに行った後、陸人を連れて3人で近くのファミリーレストランへ行こうとしたのだが、二人はそれを拒否したため食事をせずに地下の会議室で待機している。
「…とにかく、俺がちゃんと凛子を無事に家に帰すから。」
秋鷹は凛子達を凝視したままでそう言う。
暫く食事の様子を見ていると、二人は食事を終えたようで席を立つ。
秋鷹もそれに合わせて立ち上がった。
食事を終えたら流石に解散するはずだから、人気のない場所で凛子と合流して帰ろう。
凛子と佐田は腕を組んだ状態で店を出てきた、凛子の頬はワインを飲んだせいか紅葉しており、目がとろんとしている。足元も覚束ないようだ。まだ互いのことをわかっていないので、秋鷹には凛子のその姿が演技なのかそうでないのかは判断がつかない。
二人はそのまま歩き、佐田の車へと乗り込んだ。
「また車移動かよ…!」
その光景を見た秋鷹は焦りながらもすぐに自分のバイクに跨り、二人を追いかける。
暫く尾行をしていると、佐田の車はカーテンのかかった駐車場のあるホテルへと吸い込まれていく。
ホテルの名前は”愛蜜の月”。大人の関係を楽しむ場所だった。
「お子様タイムはここまでー!」
その光景を見た秋鷹は勢いよく自分のボタンカメラを外す。陸人や玲奈がボタンカメラを見ているのを見越したのだ。まだ子どもには早い光景だ…。
「え!?何!?母さんは!?」
あまりカメラの映像を見えていなかった陸人が尋ねる。
「…気にするな、尾行は続けてる。」
秋鷹が気まずそうに言う。
「でも…」
「と、とにかく大丈夫だ!俺は尾行を続けるから返事できなくなるからな。」
秋鷹はそう言うとマイクをオフにし、陸人達の声だけが聞こえるようにした。
秋鷹がホテルの受付に入ると、凛子が佐田と腕を組みながら部屋を選んでいる。なんだか楽しそうな声も聞こえてくる。
少し話した後、佐田は部屋を選ぶと凛子と二人で廊下の先へと消えて行った。
廊下へと消える前に凛子が一瞬秋鷹の方を見たような気がしたが、きっと秋鷹の尾行に気付いているのだろう。
秋鷹は二人が完全に居なくなったのを確認し、自分も部屋を選択する。幸いにも凛子の隣の部屋が開いていたのでその部屋を選んだ。おそらく隣の部屋が開いている部屋を凛子がわざと選んだのだろう。
秋鷹は緊張している心を落ち着かせながら、選択した部屋へと向かう。
自身の部屋に入る前に凛子の選んだ部屋の前で聞き耳を立ててみたが、何も聞こえない。
ひとまず自分の部屋に入るしかないか…ここにいても怪しまれるだけだ。
秋鷹は自分の選択した部屋に入ると、すぐに凛子のいる部屋の壁に耳を当てた。しかし、防音がしっかりとしているこのホテルでは何も聞こえはしない。
秋鷹は自分の部屋の玄関部分に移動すると、そこで待機をすることにした。
二人の部屋の居るドアの開く音がしたらすぐに行動できるようにしよう。
もし1時間経っても動きが無ければベランダからガラスを割って入ろう。
**********
秋鷹は自分の腕時計をずっと見つめている。こんなにも時間が遅く感じたことがあっただろうか…しかし、やっと後5分で入室して1時間だ。
秋鷹静かに立ち上がると屈伸等の運動を始める。
先程確認した感じでは、隣の部屋のベランダに飛び移るのは容易だろう。泥棒のために培ったアクロバティックがある秋鷹にとっては朝飯前だ。問題は佐田をどうやって出し抜くかだ。
残り1分か…。
秋鷹が玄関からベランダへと移動しようとした時、ガチャリと隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
秋鷹は急いで、しかし静かに扉を開けて外の様子を見る。
秋鷹の目に映ったのは、佐田一人の後ろ姿でスマートフォンで電話をしているようだった。
凛子…!
凛子が出てこないことに焦りを覚える秋鷹。
佐田が姿を消すのを確認すると、秋鷹はすぐに凛子のいる部屋に突入した。
息を殺して部屋に入ると、物音は何もせず誰かが動いている様子もない。
秋鷹の脳裏に最悪の状況が過る。
急いで部屋の中に入ると、ピクリとも動かずベットに横たわっている凛子の姿があった。
「凛子!」
凛子に駆け寄り凛子を抱き上げる秋鷹。
凛子からの返事はない。
凛子の身体には布団を掛けられていたが、衣服は身に着けておらず、体中にあざのようなキスマークがある。そして腕には複数の注射の跡。
「おい、返事しろ!」
秋鷹が声を荒げる。
注射の跡があるということは薬物を注射された可能性が高い。薬物中毒で死んでしまったのか…!
秋鷹が凛子の脈を確認しようとしたとき、
「ん…」
凛子が声を漏らした。
「大丈夫か、凛子!?」
秋鷹は凛子の身体を強く揺する。
「あれ…秋鷹…?」
凛子は目を擦りながら身体を起こす。
その姿を見た秋鷹は安堵のため息をついた。
「ふぁあーあ…寝ちゃってたみたい…」
焦る秋鷹の顔をよそに、凛子はいつものようにほわりと微笑む。
「何があったんだよ…」
「違法薬物を服用させられたみたいね~」
緊張感のない凛子は服を着ながら言う。
「ドラッグを!?大丈夫なのかよ!?」
「うん、全然平気。レストランでワインに混ぜられたのと、ここで数回注射されただけだから。」
「それって大丈夫じゃないよな!?すぐに救急車っ…」
「普通の人だと死んでただろうね。私は幼い頃から毒や違法薬物への耐性をつける訓練させられてたからへっちゃらよ。佐田は私が死んだと思ってるみたいだけど~。」
服を着終えた凛子が微笑んだ。
「ったく…で、何があったんだ?」
秋鷹は大きなため息をついた。
「レストランでワインに薬が入れられたことには気付いたから、わざとそのワインを飲んで違法薬物の症状が出たフリをしたわ。幸せ~みたいな感じで。そうしたら、案の定佐田がホテルに連れ込んだから、行為に及ぼうとする佐田をやんわり拒否、すると、私に違法薬物を注射して言うことを聞かせようとしたの。だから私は薬物中毒で倒れたフリをした。それに焦った佐田は私を殺すために薬物をさらに何回か注射したってわけ。佐田は私を徹底的に始末するために部下に連絡してたから、そろそろお仲間さんが来るんじゃないかしら~」
「えっ…それなら今すぐ逃げないと!」
秋鷹は素早く凛子の荷物を取り、凛子の腕を引く。
しかし、凛子身体はビクリともしない。
「おい、行くぞ!」
「ここでそのお仲間さんを待ちましょう~。そしたら、そのお仲間さんから青葉のアジトを聞き出せるから。」
凛子がにっこりと微笑む。緊張感は全くない。
「…大丈夫なのか?」
「ええ、もう優しい方法で情報を集めるのは疲れちゃった。子ども達には内緒よ?」
先程と同じ笑顔を携えてるはずの凛子だが、その姿に恐怖を感じる。
最初から強引な方法で情報を引き出すために動いていたのか…確かに子どもには見せれない光景だ。