尿瓶(しびん)も茶瓶も総動員、人質少女を救い出せ〜千鶴と美里の仲良し事件簿〜
(1)
「来週の日曜日、町内会の運動会があるから来ないかって、今朝おじいちゃんが電話で聞いてきたけど、どうする?」
テーブルで宿題をしていた千鶴に、母が声をかけた。
自分の部屋では、静か過ぎて落ち着かず、勉強する気が起こらない。テレビのついた居間の食卓の方がはかどる。でも、遊んでいるときには何も言わない母が、教科書を開いたとたん、話しかけてくるのがうるさい。
「運動会かあ。ウチ、走り好きやから行ってもええんやけど、おじいちゃんとこの町内会、年寄りばっかりやろ。子供いうたら、本屋の意地悪な男の子だけや。この前、店の前で雑誌見てたら、あいつ立ち読みするなって、はなくそ飛ばしよるねん」
ノートから目を離して、千鶴は鉛筆をかんだ。
「おじいちゃん、来てほしそうにしてたで。年寄りだけでは寂しいんや、べっぴんさんがおらんと。行ったりいな。お小遣いくれるかもわからんで」
「でも、もし出かけてみて、子供がウチ独りやったら、遊び相手もおらへん。あの根性悪の、本屋の子と二人やったら、なおさら最悪やし……」
「わかってるがな。どうせ、みさちゃんと一緒に行きたいんやろ。そやから、友達同伴やで、て頼んであるわよ」
「ほんと! ほんなら行くわ」
台所に叫ぶなり、千鶴は玄関を飛び出して、美里のいる七階へマンションの階段を駆け上がって行った。
(2)
「行きたいけど」
玄関ドアにもたれて、美里はちょっぴり憂うつそうに答えた。
「どうしたん。その日、用事でもあるの?」
「ううん、ないけど。あの、ウチな、スタートが下手やから」
彼女の足は遅い方でないが、スタート時の、あのピストルの音に弱い。パンという発射音が目にしみて――彼女の場合、音に目が直撃されるように感じるのである――、全身の筋肉が、一瞬硬直してしまう。
当然動き出すのが遅れる。だから、短距離は嫌いだ。でも、校内マラソンとなると、がぜん実力を発揮する。上級生でも追い抜いてゴールするほどのランナーだ。
「みさちゃん、音がいつ鳴るか、いつ鳴るか、気にし過ぎるからあかんねん。音を聞いてから飛び出すんやのうて、『ようい!』っていう声との間合いを計っといて、ドンと同時に、ぱっと飛び出すねん。ほんなら、大丈夫。みさちゃん足速いから一等賞間違いなしや」
千鶴はそう励ましたが、
「そない言うても、それが出来へんねんもん」
と、美里は運動靴の先で床に「∞」の記号を描いていた。
「ほんなら、練習しよ。子供会に運動会用のピストルがあるから、会長さんに頼んで借りてくる。それで、一週間トレーニングしたら上手なるわ。もうちょっとしたら、学校の運動会もあるし、ちょうどええ練習や。な、そうしよ」
「ほんま、上手になるやろか」
「大丈夫、大丈夫や、まかしとき」
千鶴は、胸をたたいた。
(3)
それから一週間、学校から帰ってくると、二人はマンション横の公園で、スタートの特訓に取り組んだ。そのかいあって、美里は見る見るうちに、短距離走の腕、ではない足を上げた。
「もうOKや。あしたの一等賞はみさちゃんのもんや。スピードでは、ウチみさちゃんにかなわへんもん」
千鶴の言葉に美里は、はにかんだ。
「そやけど、心配やねん」
「まだ何が、気になるのん? あれだけ練習したのに」
千鶴は、不思議そうに尋ねた。
「子供会のピストルの音、よそのよりちょっとやさしいやろ。そやからうまいこと行くんやけど、もっと大きな音のやったら、またびっくりして足がすくんでしまうのやないかと心配なんや」
確かに、子供会のは少し音色がおとなしいように感じる。美里が気にしなくなったのも、そういったことが理由かもしれない。もし、そんなことを心配してスタートラインに立ったら、また以前のように足が緊張して、出遅れてしまうかもしれない。
少し考えていた千鶴は、妙案を思いついた。
「そうや。係の人に頼んでウチらのときだけ、このやさしいピストルにしてもらお。ほんなら、ええやろ。それくらいしてくれるわ」
「そやな。審判のおじさんにお願いしてみよ。あかんかったら、二人でちょっとウインクしてやったら、ふらふらっとして聞いてくれるんちゃうか」
グッドアイデアに、美里も元気を取り戻し、二人は大声で笑った。
そして当日。運動着を着込んだ上にセーターとスカートをはいて、二人はおじいちゃんの住む町内へと向かった。手提げに子供会から借りたピストルを入れるのを忘れなかった。
(4)
「うそやーっ。運動会って、旅行のことなん!? そんなこと、知らんやん。なんで運動会が遠足といっしょなん?」
千鶴は、祖父の説明に大声を上げた。
祖父の徳治は、現代語とずれた言葉を使うことが多い。スプーンを「さじ」、お茶を「おぶ」、おしりを「おいど」食器棚を「水屋」というのは、日常茶飯事。いまだにJRを「国鉄」と呼ぶし、ときどき「省線」などと、わけのわからないこともいう。その昔、鉄道省の管轄だったからだという。
その代わり新しい言葉はからっきしだめで、TDLをTDK、USJはUSA,エクレアを「エクレレ」、ティッシュペーパーを「キッチュペーパー」と間違って覚えている。
「クレープ食べるか」と千鶴が尋ねたら、「あんな下着みたいなもの、どないして口に入れるねん」と問い返してきた。昔は、アンダーウエアに用いられていた縮み状の生地のことを指し、それがおじいちゃんらの時代の「クレープ」であった。
下着といえば、おじいちゃんにとってパンツは当然下履きのこと。新しいのを買ったので履いてみせると言ったら、人前で恥ずかしいことをするなと怒った。
マフラーは「襟巻き」、エプロンは「前掛け」、ショーツを「ズロース」と言うのには驚いた。千鶴にとっては、どちらが外国語かわからない。
運動会もその昔、遠足や慰安旅行のことを呼んだ時代があった。「この間、会社の運動会で白浜温泉に行ってきた」などと使ったそうで、いわゆるスポーツの運動会とは、まったく似ても似つかぬものである。
最近は、近所付き合いもすたれて、隣どうしでさえあいさつさえ交わさない町が増えているが、この町内は古くからの住人が多く、隣組の時代を残している珍しい地域である。
「町内会の運動会ていうたら、月会費をためといて年に一回、みんなで近くの名所へ遊びに出かけることやないか。知らんかったんか、そんな言葉、三年生にもなって。学校は、国語で何を教えてるんや」
徳治は、不満げに答えた。
それ以外に何があるねん、と言わんばかりの口ぶりである。しかし、この祖父も、父の親父だけに、分かっていながらわざと古い言葉を用い、戸惑う家族を見て楽しんでいるところがあるから、どこまで本気で言っているのかわからない。
「ええっ、学校の運動会? あのかけっこしたりするやつか。そういうたら、昔、地下足袋はいて棒倒ししたことあったけど、あれも、運動会やったかなあ」
という受け答えも、そう言えばなんとなく空々しい。
千鶴は文句をぶちまけた。
「走らんならんと思うたから、ちゃんと体操服、下に着込んできたのに。みさちゃんなんか、一週間もスタートダッシュの練習したんやないの。どないしてくれんのよ」
ほっぺたを、ぷーっと膨らませ横目でにらんだ子供たちを見て、祖父はからからと笑った。
「すまん、すまん。また、おじいちゃんの失敗や。いつまでも、昔の言葉覚えてるもんやから。千鶴に勘違いさせてしもうたわ」
そんなことがあったとは知らず、祖父は頭をかいた。
「今日は、お寺さんへお参りに行くんや」
目的地を知らされて、子供たちは一段と非難の声を強めた。
「えーっ、そんなん面白ないわ。遊園地やったらまだええけど、お寺なんか、遊ぶところあらへんやんか」
「まあ、そない文句つけんと、一緒に行こ。バスでカラオケ大会もあるし、お昼は精進料理食べるんやで」
料理と聞いた美里の目が、くるんと上向いた。
「精進料理て、なに。おいしいのん?」
「お坊さんらが修行のときに食べる肉や魚の入ってない、野菜中心の料理や」
聞いた二人の、憤まんは頂点に達した。
お寺参りという子供には、全く興味のない所へ行ったうえに、大好きなお肉のない、見るだけでも嫌になる野菜たっぷりの食べ物が出てくるなんて、想像もしたくない。
「いやや。もう、ウチら帰る。なあ、みさちゃん」
「うん」
二人は、手をつないで自宅へ戻ろうとしたのを、徳治は慌てて引き止めた。
「帰っても、家にだれもおらへんで。あんたら運動会に来るいうたから、お父ちゃんらホテルのバイキングに出かけたわ。お昼ご飯作ってないから、晩までおなかすかして、待たんならんかってもええんか」
千鶴は、泣きたくなった。自分たちは鶏のエサみたいな菜っぱばかりのおかずでご飯を食べなければならないのに、親たちは豪華デラックスなホテル料理をおなかいっぱい味わえるとは。神も仏もないものか。二人は今にも泣き出しそうな顔になった。
だが、彼女らには、じいちゃんたちと、団体旅行に出かける以外選択肢は残っていなかったのである。
「しょがないから、行こか」
千鶴の情けなさそうな声に、美里もうなだれながら、うなずくほかなかった。
(5)
でも、行くとなったら、楽しまなければ損である。そう思い切ると、二人は気持ちを切り替えた。バスの中を飛び回って、愛敬を振りまき、あちらこちらからお菓子や飲み物を手に入れた。
カラオケを楽しみ、シートの上に立って腰を振り振りマイクを握ると、観客からはやんやの喝さいが起こるほどの人気ぶりである。
はしゃぎ終わった彼女たちは、座席に腰を下ろした。もらったお菓子をほおばりながら、美里は話しかけた。
「ちづちゃん、ウチ、ケータイ買うてもろてん」
「うわあ、ええなあ」
千鶴はうらやましそうに声を上げた。小学三年のクラスでは、自分の携帯電話を持っている子は、まだそう多くない。
「ウチもう大分慣れて、片手でブラインドタッチできるようになったんよ。それで、メール送れるねん」
「うわあ、すごいやん。だれにメールしてんの」
美里のなめらかなキータッチを目にして、千鶴は驚いた。彼女は機械物が好きなようで、こういったものの覚えが早い。ノートパソコンも、あっと言う間に習熟してしまい、父や母が使い方を聞きに来るくらいである。
「まだお父ちゃんだけや。お父ちゃんは前から使うてるから。早う帰ってきてねとか、おみやげにケーキをお願いとか言うだけやけど」
「ええなあ、ウチも欲しいなあ」
千鶴は、ため息をついた。
「ねえ、おじいちゃん、ケータイ買うて」
二人の話しぶりから、そろそろ流れ弾が飛んできそうな気配を察した徳治は、後ろの席でわざとらしいいびきを響かせタヌキ寝入りを決め込んでいた。
そうこうしているうち、バスは目的地の日月山万腹寺に着いた。
周りには、土産物店や、食堂も並び、参拝客で大にぎわい。売店で売る食べ物のいいにおいが辺りに漂っていた。
千鶴たちは、まず近くのみやげ物店に飛び込んだ。七福神の置物や数珠などの隅っこに、子供の喜びそうなものも並んでいる。連れてきた子や、孫のプレゼントにするのだろう。
二人は、壁にお化けの浮き上がるペン型ライトと、ガイコツの手になったマジックハンドを買い込んだ。
二人とも、こういうのが大好きだ。映画でもホラー物以外は面白くない。ひとの怖がるのを見て喜ぶという、どちらかというと、ちょっと困った性格なのである。
「ウチ、お母ちゃんの後ろからこのガイコツの手で肩をつかんだるねん。びっくりするで」
美里がほくそ笑むと、
「お父ちゃんが寝てるところで、このライトつけたろ。お父ちゃん、いつもえらそうにしてるけど、怖がりなんや。この前、テレビで幽霊映画をやってるとき、電気消したったらびくっと跳び上がったんやで」
と、千鶴も美里の耳元でささやき、背中を丸めて、くくくっと笑い合った。
そのあとも、タヌキの置物につけてあるふんどしをめくったり、寿老人の頭へ横にあった空の植木鉢をかぶせたり、キャーキャーキャッキャッと大騒ぎ。
お寺さんに来たというのに参拝そっちのけで、信心のかけらも見せぬ子供たちのあまりな振る舞いに、仏さんが、いささか気を悪くなされたのであろう。間もなく二人には、恐ろしい大事件がふりかかる。仏罰が下るのである。
(6)
昼食のあと、いよいよ町内会のメンバーらと寺へお参りである。
線香の煙が立ちこめる中、背丈より高いおさい銭箱に十円入れて、学業上達、家庭円満、無病息災、立身出世、幸運招福、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、金満艶福……を、三人で祈った。
「おじいちゃん、あそこでお札買うてくるから、その辺でいときなさい。すぐ戻ってくるよってに」
祖父はそう言いおくと、わきにある販売所の方へ向かった。
二人は所在なげに、辺りをうろついていると、本尊をおまつりした須弥壇のわきに、下へおりる階段がある。先には、真っ暗な空間が口を開けていた。
「ここ何?おばあちゃん」
千鶴は、バスの中で親しくなったお重ばあさんを見つけて尋ねた。
「戒壇巡りいうてな、このお堂の下に真っ暗な通路があるねん。それこそ鼻をつままれても分かれへんくらいの暗やみや。それを伝うて行って、中にあるお堂のカギが手に当たったら縁起がええねん」
戒壇巡りというのは、多くの人々の信仰を集める寺院で、本堂の地下にトンネルを掘り、参拝者がくぐり抜けるようにしたものである。
堂宇の下をめぐるだけだから、そう長いものではないが、光のない真っ暗な中を手さぐりで進むだけに、ちょっとしたスリルである。若いカップルにも人気があるのは、言うまでもない。
地下を、あの世である他界に見立て、やみから光の世界への生まれ変わりを象徴したものだという。仏画や仏像を安置した寺院もあり、お堂の錠前を探り当てれば、七珍万宝家に満ち、福徳栄華累代におよぶと、モノの本に書かれている。
お重さんは、二人に顔を近づけて小声でささやいた。
「そやけど、こわいで〜」
子供たちを脅かすつもりだったが、かえって彼女たちの好奇心をわき立たせただけのことだった。
千鶴と美里は、目をらんらんと輝かせ、暗がりをすかすようにして眺めた。そして、互いに顔を見合わせ、笑顔でうなずくと、やみの中へと吸い込まれていった。
そのころ……。
(7)
近くの銀行で現金を奪うことに失敗した犯人は、玄関前に止めてあったバイクに飛び乗るなり、国道を一路北へと逃走していた。
「くそー、あの行員が早う札束を寄越せへんから、警察が来てしもうたやないか。えらい計算違いや。こうなったら、パトカーまいて、逃げ切るより仕方ないがな」
フルフェースのヘルメットで顔を覆った男は、バックミラーを気にしながら、アクセルをふかした。
けん銃をふところに銀行の支店へ押し入ったまでは良かったが、よほど気の弱い職員だったのか、天井へ向かって放った脅しの一発に腰を抜かしてしまい、札束をうまくつかめない。ようやく放ってよこした現金の帯封が運悪くちぎれ、金が床に散らばった。
慌ててこれを拾い集め、表へ飛び出したところへ、たまたま近くを巡回していた警察のパトカーが、緊急通報を受けて駆けつけてきた。
バイクで飛び出すのと、パトカーが到着するのがほぼ同時。目下けたたましいサイレンを響かせ追いかける警察車両をなんとか振り切ろうと、逃走している真っ最中なのである。
対向車をよけながら、無理な追い越しを続け、たどり着いたのが、日月山万腹寺。前方からのパトカーと挟み撃ちにあった犯人は、単車を乗り捨て、本堂へと逃げ込んだ。
追いかけて堂内に踏み込んだ警官の目に、犯人が戒壇巡りの出口側から飛び込むのが見えた。勢い込み後に続こうとした若い警官たちを、指揮官が制止した。
中は真っ暗で、彼らがうかつに踏み込むと、逆上した男が中の参拝客に何をしでかすか分からない。悪いことに相手は飛び道具を持っている。
やけになって、ピストルを乱射でもしたら、大惨事につながること必至である。とりあえず彼らは県警本部と連絡を取り、男に逃げられないよう両側の出入り口を固めた。
(8)
「痛っ。ちづちゃん、だれかにぶつかったわ」
「暗うて人がいても、わからへんさかい。みさちゃん、その人に謝っとき。おばあちゃん、大丈夫?」
千鶴と美里は、お重ばあさんと手をつなぎ、壁づたいに暗やみを歩いていた。
「気ィつけなはれや。ワテの手をしっかり握って、離したらあきまへんで。痛っ、だれやな、こんなとこにボサーッと立ってたら危ないがな。前へ進みなはれ」
漆黒のやみとは、正にこのようなのを指すのだろう。全く何も見えない。
町中では夜でも、何かの明かりが漏れている。暗い夜道といっても、向こうから歩いてくる人影くらいは判別できる。
鼻をつままれても分からない、こんな真っ暗やみは、みんな生まれて初めてといっていい。三人は、壁をまさぐりながら通路をすり足で進んでいた。
「こらっ、静かにせえ。騒いだら命はないぞ」
犯人が怒鳴った。
三人は、ただならぬ気配に立ちすくんだ。目を凝らしたが、相手の姿は見えない。激しい息づかいだけが聞こえてくる。
「ワシはナ、いま銀行強盗して逃げてきたところや。けん銃持っとるんやぞ。言う通りにせなんだら、一発であの世行きや。そこで、じっとしとけ。一人でも逃げ出したら、残りの二人の命はないと思わんとあかんで」
男は、ドスの利いた声で脅した。
お重ばあさんは、恐怖のあまり、そこへへなへなと座り込んでしまった。千鶴らも、訳のわからぬまま、同じようにしゃがみ込み、男の次の言葉を待った。
(9)
「こらーっ、ポリ公。入ってきたら、人質の命はないぞ。電気もつけるな、明るなって、ワシの顔見られたら、こいつら皆殺しじゃ。わかったなあ。ま、ここにいるおばんはワシがやらんでも、もうすぐお迎えが来よるやろけど」
戒壇巡りの通路から、犯人が叫んだ。
暗やみのなかで、お重さんは、むっとして口をとがらした。
普段なら若い男の一人や二人、ぼろんちょんに言い負かしてやるのだが、何せ相手が武器を持っているだけに、ちょっと分が悪い。ワテより隣に住んでるマサ子はんの方が先じゃわい、と心の中で毒づくだけで気を休めた。
警官たちは戸惑った。中の様子がわからないだけに、手のつけようがなかった。内部に参拝客が何人いるかも分からない状態である。
ただ、年寄りが一人いるだけは分かった。まあ、ばあさん一人やったらしょうがないかという、不謹慎な思いが一瞬みなの頭をかすめたなどということは、決してない。
「もう、逃げられへんぞ。おとなしく出て来た方が身のためや。いまやったら、懲役も短うてすむ。もし、人でも殺めたら、それこそ死刑になるかもわからへん。お前の母親も泣いとるぞ。早う出てこい、ここで待ってるさかい」
相手がどこのだれとも判明していないのに、母親が泣いているかどうか、わかるはずがない。ただ単に人質事件のマニュアル通り叫んでいるだけなのである。
辺りでも、ここの県の警察はもう一つ評判が良くない。迷宮入り事件が多く、職員の不祥事も目立つ。こんな頼りない警察に来てもらって無事助かることができるのだろうか。
同じ事件に巻き込まれるのなら隣の県のお寺にしておけば良かった、とお重さんはいまになって後悔した。
「うるさいわい。ここに女の子二人とばあさんがおるんや。逃走用の車をガソリン満タンにして用意せえ。今はみんな元気やけど、指示通りにせなんだら、こいつら、どないなるかわからへんぞ」
子供が中にいると聞いて、警官らの緊張度は高まった。
「えっ、年寄りだけと違うんか」
彼らは青くなった。そして、とりあえず、犯人を刺激するのは避けようと、通路の出入り口から離れた。
(10)
堂内は大騒ぎだった。警官たちがなだれ込んで来たと思ったら、男の怒鳴り声。大勢の参拝客たちは、本尊を安置した内陣を遠巻きにして、こわごわ見守っていた。
「千鶴ゥ! 家内安全のお札買うてきたで、あんたらの家のんも一緒に。これさえあったら、向こう一年間は災難に遭えへんというお守りや。ありがたい、ありがたい」
徳治は、お札を押しいただきながら小走りに戻ってきた。
「さあ、バスに乗ろか。あれ、あの子らどこにおるんや。ここら辺で待っときて、言うといたのに。それにしても、えらい人だかりやなあ。何があったんや」
霊験あらたかなお札でも、間一髪のところ買うのが遅かったようである。せめてもう五分も早ければ、孫たちの厄除けにもなっただろうにと悔やまれる。運のないときというのは、えてしてこんなものである。
辺りの騒ぎに、祖父は後ろからのぞき込んだが、人垣で何も見えない。前の方でわいわい騒いでいるようなので、近くにいた人に尋ねた。
「何か、おましたんか」
聞かれた男は、興奮して答えた。
「えらいことでんがな。警察に追われた強盗犯人が戒壇巡りの通路へ逃げ込んで、ばあさんと女の子二人を人質に取って立てこもりよりましたんや」
徳治は青くなった。慌てて周囲を捜したが、やはり千鶴らの姿は見えない。人込みの中に町内会長を見つけた彼は、足をもつれさせるようにして駆け寄った。
「会長はん、うちの子供ら見まへんでしたか、千鶴とその友達の」
息せき切って尋ねる徳治に、町内会長は顔をしかめて口ごもった。
「それが、そのなあ……。その、あの子ららしいんや、戒壇巡りの中にいてるのは。二人とお重さんが見当たらへんねん。中で捕まってるみたいなんや」
気の毒そうに答える会長に、徳治はたたみかけた。
「そ、そいで、警察はどないしてまんねや。は、早う突っ込んで犯人を捕まえるなどして、あの子らを助けてくれまへんのか」
みけんに、しわを寄せた会長は、思い切って打ち明けた。
「犯人がピストル持っとるさかい、うかつに飛び込めんのや」
「ぺ、ペストル!」
びっくりした徳治は、舌がもつれて正確に発音できなかった。
「え、えらいこっちゃ、こら早う政雄らに知らせなんだら……。どこやったかなあ、息子らの行ったホテルは。こんなことになるんやったら、千鶴ら連れて来たるんやなかった。もしものことがあったら、どないしよ」
震える手で、徳治はポケットのメモを取り出し、あたふたと本堂わきの公衆電話に走った。
(11)
真っ暗な戒壇巡りの中で、四人はじっと座り込んでいた。犯人はいつ用意したのかロープを取り出して、千鶴の腕をつなぎ、端を握って逃げ出さないようにしている。
出口には近いようだったが、厚いカーテンか何かで仕切られていて、光は全く差してこなかった。時折、警官が話しかけてくるが、犯人は無視した。
「お前ら二人はくくってないけど、逃げたらこの子がどうなるか、わかってるやろな。ま、この子が可愛かったら、じっとして言うことを聞くんや」
男はヘルメットを脱いでいるようだった。興奮したまま、こんなものを被っているのは息苦しく、いつまでも我慢できない。そのため、顔の見えない暗やみは都合がいいのである。多分どこかに電気はあるのだろうが、それを点灯させないようにしているのは、そういった理由だった。
「のどが乾いたのう。おい、そこの子供。お前出口のとこまで行って、お茶もろうてこい。言うとくけど、先にお前らに毒味してもろうて、時間がたってからしか飲めへんからな。お巡りには、そう言うとけ」
犯人に命令された美里は、手探りで歩いて行き、仕切り越しに警官隊へ指示を伝えた。
「用事すんだら、早う帰ってこい。ぐずぐずしてたら、お寺の仏さん、一人増えることになるで」
男は怒鳴った。美里は警官隊に犯人の要求を伝えると、素直にすぐ戻ってきた。
表で、いろいろ人の動きが聞こえた。犯人の要求に応じるため、用意したり対策を練ったりしているのだろう。
しばらくして、外からアルマイト製のヤカンが差し入れられた。受け取って来た美里が実験台になって、コップについだお茶を飲まされた。少し時間をおいても変わった様子がないようなので、安心した犯人はあおるようにして何杯も茶を飲み干した。
乾きが治まったためか、犯人は少し落ち着いたようだった。
ところが、今度は反対にお重さんの方が、そわそわし出した。時々ため息を漏らしたり、座り直したりしていて落ち着きがない。気づいた男が、うるさそうに言った。
「どないしてん、ばあさん。ゴソゴソせんと、じっとしとけ。体の調子でも悪いんか」
すると、お重さんは、せっぱ詰まった声で訴えた。
「すんまへん、おしっこしぃとうて我慢できまへんねん。行かしてもらえまへんか。ここへ入る前からもよおしてましたんでっけど、この子ら一緒やったから行きそびれて」
しかし、犯人は許さなかった。もし、外へ出して戻って来なければ、子供は敏しょうだから、いつ逃げ出されるかわからない。ばあさんだけでは、使い走りに役立たない。どうしても、子供と年寄りが必要なのである。
「あかん。我慢せえ」
「そんなん、言うても……。もう、漏れそうですねん。パンツもこの間、三越で買うたばっかりのん、はいて来ましてん。汚したらえらい損害ですわ。あかんかったら、もうここでちびるより仕方おまへん」
「あほか、そんなところでやられてたまるかい。ワシの方へ流れてきたらどないするねん」
泣き声を出すお重さんに負けた男は、また美里に命令した。
「ばあさん、小便出そうやさかい、尿瓶用意せえ、言うてこい」
彼女はきょとんとした。
「シビンて何?」
男は面倒くさそうに言った。
「尿瓶ていうたら、寝てる病人がションベンする入れ物や。尿瓶くらい、学校で教えへんのんか。最近の学校教育はどないなっとるんや」
銀行強盗に、学校教育をなじられる筋合いはないはずだが、いらいらいして何にでも当たり散らしている凶悪犯人には、みんな我慢するほかなかった。
「うんどう会」を覚えなければならないし、「尿瓶」も勉強しなければならない。小学生も大変だ。
「そんなこと、どうでもええから、早う行け。あ、女用やて念を押すんやぞ。男もんやったら、外にこぼれるさかい」
可哀そうに美里は、また壁伝いに出口へと向かった。
頼まれた警察の係官も弱った。言われてすぐ調達できるようなものでもない。といって、至急用意しないと、人質の緊急事態である。辺りを見回したが、お寺の本堂に代用品があるわけはない。
ふとわきを見ると、先ほど犯人にお茶を用意したときに、警官らにもと準備した、ちょっと大きめのヤカンがある。とりあえず、急場をしのがなければならない。責任者は、ヤカンの茶を捨てて美里に手渡した。
「尿瓶ないさかい、これ使うよう犯人に渡してくれ。すぐには無理や言うてな」
受け取った美里は、犯人に事情を伝えた。
「ヤカンしかないんやて。これでせえて言うてたわ」
「しょうがないな。ばあさん、ここへしとけ」
空のヤカンを彼は、おばあさんの方に転がした。お重さんは、しぶしぶそれをつかんだ。
「恥ずかしいさかい、あっち向いといてんか」
用意を始めたお重さんが注文をつけた。
「真っ暗で何も見えへんのに、どっちへ顔を向けとっても同じやろ。若い娘やったらともかく、だれがオバンのションベン垂れてるのんなんか見るかい。ぶつぶつ言うてんと早うせえ」
犯人は、また怒鳴った。
(12)
千鶴の父母が、万腹寺に着いたのは、夕方だった。タクシーを降りるなり、美津子はあわてて本堂へ駆け込んだ。運転手に代金を払うのももどかしく父親も、後を追った。
「奥さん、美里らがまたえらい事件に巻き込まれてしまいましてん」
先に来て、本堂わきで気をもんでいた美里の母親、幸恵が美津子を見るなり、駆け寄った。
「ほかの子より可愛いさかい、人質にされやすいのと違いまっしゃろか。ああ、ええ子は損や」
戒壇巡りの真っ暗けの中でどうして不細工か可愛いかわかるねん、と美津子はまたまたむかついたが、そんな下らないことを考えているときではない。慌てふためき、警備の警官をつかまえた。
そして、事情を聞くなり、やはり
「ペ、ペストル!」
と、叫んでその場にへたり込んでしまった。夫の政雄も息をのんで、ぼうぜんと突っ立っていた。
(13)
「えらいここムシムシするやないか。秋やいうのに、もう暖房でも入れとるんちゃうやろな」
千鶴らは、別段暑いとは感じなかったが、犯人は興奮しているのか、しきりにタオルを使っていた。
「お前ら、汗出えへんか」
「ううん、ちょっと寒いくらいや」
犯人の問いかけに、美里が答えた。使い走りをしていうるちに、美里は話しやすくなったようである。
「そうか、暑うてしょがない。また茶でも飲もか」
と言いながら彼は、手探りでヤカンを取り上げ揺すった。中でわずかに残った液体が音を立てた。
「なんや、もう終わりか。ポリ公ら、もっとぎょうさん入れといたらええのに、ケチりやがって、くそったれ」
犯人は、警官らを口汚くののしった。
「持ってきたとき、いっぱいあったんよ。かついでくるの重たかったくらいやねんけどなあ」
美里の不審がる言葉に耳を貸さず、男はコップに注ぐと、ぐっと一息にのどへ流し込んだ。だが、彼はすぐにそれをブワーッと吐き出した。
「うわっ、何や、これは。しょ、しょ、ションベンやんか。だれや、お茶のヤカンにションベンなんか入れたんは」
男がすっとんきょうな声を上げた。
「おっちゃん、こっちのがお茶や。その大きいのは、おばあちゃんの使うた方や」
ヤカンの大小は、運んできた美里だけしか知らなかったので、犯人が間違ったのである。まだいっぱいお茶が残っているという彼女が注意してくれたのに、聞かなかった罰である。
「こっちの方が、お茶や」
手を取って美里が渡してくれたヤカンを、男はひったくるようにしてつかんだ。
「くそっ、ついてないなあ。金は途中で落としてくるし、ポリ公に追いかけられて、ガキやババアの相手はせんならんし。ションベン飲まされるし。もう散々やないか」
言いながら、別のヤカンから注いだ新しいコップを口にした途端、再びブワッと噴き出した。
「こらあ、これ、さっきのションベン入りのヤカンやないか。お前ワシをだましたんやな」
美里は、あわてて弁解した。
「違うもん。ほら、さっきのヤカンはこれや。大きさ比べたらわかるやろ。いま飲んだのは、小さい方やから、本当のお茶や。さっきのことでおっちゃん、舌がおかしなってるからとちゃう」
「あの、おっちゃん……」
そのとき、千鶴がおずおずと口を出した。
「なんや、おっちゃん、おっちゃんて。ワシまだ二十八やで、にいちゃんて呼べ」
怒鳴られて余計に小さくなった千鶴が続けた。
「あの、あの、ウチ、ね……」
「何や、言いたいことあるんやったら、早う言え」
いらいらして、若い男は声を荒らげた。
「あの……」
「早う言え、いうとるやろが!」
言いにくそうにまごまごしている千鶴に、男はよけいいら立ち、大声で怒鳴った。
「あのう、ウチ、さっき間違うてお茶の入ってるヤカンにおしっこしたみたい……、ゴメン」
「エエーッ。ほな、やっぱり、これもションベン入りの茶ァか。くそーっ、人をバカにしよって。お前ら、ワイがおとなしうしとるさかい、なめとるんやな。覚えとれ、こうなったらもう……」
叫んだ男は内ポケットからピストルを取り出した。と、そのとき――。
(14)
ぐうぉ〜〜〜〜〜ぉん
と、腹の底に伝わるようにして響いてくる音があった。
「な、なんやねん。あれは、なんや?」
いままで元気に大声を上げていた男が、急に情けなさそうな口調に変わった。
「あれは、鐘突堂の釣り鐘でんがな。日暮れで坊さんが鳴らしてまんねんやろ」
お重さんが、説明したが、男はなぜかうろたえているようだった。
「この本堂のすぐきわに鐘突堂がおますんや。そやから建物の基礎伝いに鐘の音が響いてきますんやろ。その横手が納骨堂で寺務所との間が墓場、ちょうどウチらのいてる戒壇巡りの壁ひとつ隔てたとこらへんが、死人の埋まってる……」
「う、うるさいわい。もうええ。だれが寺の案内せえ言うとるんや。いらんことしゃべりよって」
男は、いまいましげにお重さんの言葉をさえぎった。
「おばあちゃん、墓場いうたら、この間あの事件があった」
千鶴が、口を挟んだ。
「そやがな。あんたらも知ってますのやな。まあ、あれだけ大きいに新聞やテレビに出たら、子供でも覚えてますやろ。墓石の間に若い女の人が目ェむいて死んでたという話でっしゃろ。それが、けがも何もなくて、病気でもなし。ただ顔は恐怖にひきつっていたらしおますやんか。警察でなんぼ調べても、死因がはっきりせえへんのでっけど、テレビのレポーターの話では」
と、ここでお重さんの声がぐっと下がった。
「このお寺、出ますんやて」
「何が」
暗くて見えなかったが、こんどは美里が体をぐいと乗り出したようだった。
「ゆ〜れん、ですがな」
大阪近辺の年寄りは、ときどきよく分からない言葉を使う。幽霊を「ゆ〜れん」、葬式を「そうれん」などと古い言い回しをしたりするのだ。
「そのレポーターの説明では、夏場の蒸し暑い晩で雨がしょぼしょぼ降る夜に、土が湿気でやわらこうなると、墓石と墓石の間から白〜い手が、にゅーっと伸びて、歩いてる人の足をつかむなり『よう来〜た〜な〜〜ぁ』ていうて地面の中へぐいっと……」
「黙れ、やかましい!!」
男の金切り声が、前よりオクターブ上がった。
「お、お前、もっとこっちへ来い。こっちへ来んかい。早よそばへ寄れ」
男は、千鶴の手をぐっと引っ張った。
「なんで」
男のあわて声に、千鶴が不思議がった。
「なんでもええから、ワシにくっついとけ、て言うとるんや」
そのとき、二つ目の鐘の音が陰にこもってものすごく、
ぐぉぐぉぐぉ〜〜うぉうぉうぉ〜〜〜んんん〜〜んんんん
と響き渡った。地下道だけに反響がきついのである。
「き、き、気持ち悪いやんけ。あんな音。ワシあんなん嫌いや。やめてくれへんかなあ。あ、また鳴っとる。うわぁ」
先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、からからに乾いたのどから情けなさそうな声を絞り出していた。千鶴を抱えるというより、抱きついていたと言ったほうがいい。暗やみだからよかったが、外だと見られた格好ではなかった。
千鶴は、そっと美里のひざをつついた。
「このおっちゃん、震えとるわ。大人のくせに、とびっきりの怖がりや」
男は恐怖で、二人が横でひそひそ話をしているのさえ気づかない。それほど恐ろしさに震えていたのだった。
「そうや、ええことあるわ。あのな、さっき買うたおもちゃでな、むにゃむにゃむにゃ。そのために……」
美里は、千鶴の計画にこっくりうなずいた。そして、ポケットから取り出したケータイをスカートで隠し、ライトが漏れないように気を使いながら、ブラインドタッチで父親の携帯電話にメールを送った。
(15)
本堂には、警官たちを除くと、人質の家族しかおらず、がらんとしていた。一般の参拝客は、事件で立ち入り禁止になって出ていったあとだった。
町内会のメンバーは心残りながらも、バスで帰宅してしまい、残ったのは会長一人。あとは、千鶴の父母と幸恵に、少し遅れてかけつけた美里の父、浩二だった。
だれ一人、口を利こうとはしなかった。まもなく、夕食の時間なのに、犯人と警察の交渉は進まないようで、こう着状態に入っていた。
向こうは、人質とともに脱出したいというし、警察側は車の提供は子供たちと交換だとして譲らない。お互い神経戦が続いていた。
そのとき、かばんの中にある浩二の携帯からメール着信のメロディーが流れてきた。
「だれやろ、こんなときにメールなんか送ってきて。人の気も知らんで。そやから、電話とかメールは嫌いや」
ぶつぶつ言いながら、電話を取り出し、画面をのぞいた浩二が、あっと声を上げた。
「どないしましてん」
幸恵が聞いた。
「美里からメールや。サンニントモゲンキ、やて」
「ほんまでっか。わあ、よかったわあ」
二人のやり取りを聞いた、千鶴たちの父母らものぞき込み、ひとまずほっと胸をなで下ろした。子供たちが捕まっているのは地下だが、出口に近いところにいるので、電波が通じるのだろう。
聞きつけた刑事らも近寄ってきて、携帯をのぞき込んだ。
「連絡はそれだけですか」
年長の刑事が浩二に問うた。
「いや、続いてますんや。ハンニン、コワガリ。ユウレイノデルヨウナオト、ナガシテ。ハンニンガ、ビビッタトキニ、オオキナオト、ダスカラ、トビコンデキテ。こない、言うてますわ」
しかし、警官はまゆをしかめた。
「いやあ、それは危険ですな。うまいこと相手が驚いてくれればいいが、もし、逆上でもして銃を乱射させたら、どんな事態になるか予測もつきませんわ。やめるよう、伝えてもらえませんかなあ」
言われると、もっともである。だが、美里に連絡する方法がない。メールを送ると、受信音か、それを見るときに犯人に気づかれてしまい、それこそ何をされるかわかったものでない。呼んで話すわけにもいかず、浩二らは頭を抱えてしまった。
しかし、いずれ突入せねばならない。そこそこ時間もたち、犯人も相当あせっている。年寄り、子供もいるだけに、交渉もそう長くは延ばせない。
相手が小心者のようなので、警察は、子供たちの発案に乗ってみることにした。
「何かいい方法がありますか、ご住職」
聞かれた僧は、ぽんと手を打ち、近くの修行僧に声をかけた。
「ほら、夏の林間学校で使うたあのテープ、まだ残ってないか。ほら、あの肝試しで、生徒を怖がらせたのや。え、あるか。ほんならぴったりやな」
住職の話では、近隣の小学生たちを招いて催したサマースクールで肝試しをしたときに、流した効果音がまだ残っているというのである。
堂内には、火災などの非常時に避難案内をするためスピーカーが設置されている。もちろん戒壇巡りの通路にも埋め込まれていた。
木魚とかねをマイクの前に置き、テープをスタンバイさせて、支度は整った。
まもなく、ゴーンという銅鑼のあと、アンプのエコーいっぱいに利かせた僧たちの読経が流れ出した。
(16)
「なんや、あれ何や。えらい陰気なお経が聞こえるやないか。だれか死んだみたいで気色悪いやんけ」
震える声で、犯人は身を縮ませた。
地の底をはうような読経がとぎれると、幽霊が出る前の、あのヒュ〜ゥ〜ゥ〜という背筋が寒くなるような音がどこからともなく流れてくる。
男は、歯をガチガチ鳴らして、千鶴の腕にしがみついた。そのとき、ピストルをわきに落としたのを、千鶴はかすかな音と気配で察した。素早くそれを拾うとともに、手提げにあった、運動会用のものとすり替えた。
ころあいをみた千鶴は、土産物屋で買ったおもちゃのペンライトを取り出し、壁に向かって照射した。光の中にうすぼんやりと、人影が映る。少しずつピントを合わせていくと、幽霊の形がくっきりと浮かび上がった。犯人は男と思えぬような黄色い声を張り上げた。
その間に、千鶴は男の持っているロープをほどき、美里が買ったガイコツのマジックハンドを代わりにくくり付けた。
恐怖に震えた犯人は、慌ててそのロープを引いて千鶴の手をつかもうとした。しかし、握ったのはからからに乾いた髑髏の腕であった。
「ぎゃーっ」
叫び声は本堂まで響いた。
しかし、ここで手違いが生じた。男が腰を抜かしたところで、美里がヤカンを床にでもたたきつけて大きな音を出すよう打ち合わせていた。そうすれば、男が腰でも抜かすだろうと考えたのである。
しかし、ヤカンの中には二人のおしっこが残っている。美里は、より“名案”を考えついた。
ヤカンよりもっと大きな音を出せるものが千鶴の手提げに入っているではないか。あれならもっと犯人がびっくりするはずである。そう思った彼女は袋から「運動会用のピストル」を引っ張り出し、天井に向けて引き金を引いた。
パーン
撃った途端、美里は反動で後ろへひっくり返った。何が何だかわからず、目の前を火花が飛び交った。
防弾チョッキを着込み出口で待機していた警官らも驚いた。急に銃声がして本堂の床板がめくれ上がったからである。
警備能力いま一つとはいわれても、そこはプロ。すぐ体勢を立て直すと、強力ライトをつけるなり通路へと飛び込んだ。
「痛い。おっちゃん、足踏んだら、骨が折れるぅ」
「お巡りさん、ヤカンけ飛ばしたら、あかん。辺りにばらまけたら、えらいことになるで!」
「だ、だれや。ワテの草履、汚い靴で踏んづけたんは。去年大丸で買うた高級品やのに。ちょっとあんた、弁償してや」
「犯人捕まえた者には、ボーナスはずむぞ。死んだら名誉の殉職や。骨は、指揮官のワシが拾うたる。安心して突っ込めーっ」
そんなことで、隊員が後顧の憂いなく飛び込めるとは思えないが、とにかく、戒壇巡りの中は、犯人、人質、特殊警備隊員が入り交じり大混乱に陥った。
「うるさい、こうなったら、皆殺しや」
突然の銃声と、警官の姿を見た犯人は慌てて横にあったピストルをつかみ、めったやたらに撃ち放した。
しかし、ただパンパンと音が出るだけで、何の役にも立たなかったのは、言うまでもない。千鶴らの持ってきた運動会用のピストルだった。美里の撃ったのが本物である。
結局、犯人は折り重なった警官に手錠をかけられ、あっさり逮捕されてしまった。
(17)
「千鶴、大丈夫か。けがはないか」
犯人が引き立てられて行くのと入れ違いに、政雄らが飛び込んで来た。
「怖なかったか。かわいそうに、長い間こんな暗いところに閉じ込められて」
涙声で母は娘をしっかと抱きしめた。
父母ともに、銃声が聞こえたときには、生きた心地がしなかった。皆もあれは当然犯人が撃ったものと信じ込んでいるのである。
「美里、気ィしっかり持ち! 美里」
「お父ちゃんやで、分かるか美里」
彼女の方は、すでに抱き起こされてはいたが、まだ放心状態といってよく、ひとみは宙をさまよっていた。彼女は何が起こったか、もうひとつ理解できていなかった。
「何や、ようわからんわ」
美里の第一声は、これだった。
四人の父母らは、気遣いの緊張から解き放たれ、力が抜けたようにしゃがみ込んでいた。
徳治は、座ったままのお重ばあさんに声をかけた。
「大丈夫でっか。なんやったら、新しいズロース買うてきまひょか」
と、親切心を出して尋ねた。
「なんで、ズロースが要りまんねん」
「いや、床がえらいぬれてまっさかい、ひょっとしたら、大捕物にびっくりして、もらしはったんやないかと……」
お重さんの振り回した、きんちゃく袋が空を切って、徳治のあごへパンチを食らわせた。
「失礼なこと言いなはんな。ワテは、まだそんな締まりのないことしまへんわ」
お重さんは、ぷりぷり怒りながら草履のゴミを払い、立ち上がって階段を上って行った。
「おじいちゃん、それ犯人のや」
「えーっ」
徳治は、目をまるくした。
「幽霊が壁に映ったり、ガイコツの腕をつかんだりして震えてるところへ、大きなピストルの音がしたもんやから、びっくりしたんや。暗やみで、あっ、ちびった、て泣いとったもん」
千鶴の説明に、なんと情けない男かと皆はあきれかえった。そして、その肝っ玉の小さな犯人に、親たちは感謝した。
「犯人がピストルを乱射する中で、撃った弾の一発が天井に当たり、本堂の床を撃ち抜いただけで、何ら人的被害の出なかったことはまさに奇跡といってもいいでしょう。よかった。よかった」
特殊警備隊の隊長が、ほっと胸をなでおろした。
「いやいや、これも仏様の功徳。当寺に参拝された皆様方の信心深い心が通じたのでございましょう。仏様が守って下さったのでございます」
終始沈着冷静にして、横に立っていた住職が、数珠を手に合掌した。そして、満足げにうなずいた。
「た、大変です。住職、一大事です」
そのとき、皆の中へ副住職が駆け込んできた。
「なんじゃ、みっともない。もう犯人も捕まったし、そんなに慌てるでない。落ち着きなさい、もっとゆっくり」
「いえ、ちょ、ちょっと、上へ、上の本堂へいらして下さい」
副住職は、住職のそでつかみながら出口へ引っ張っていき、無理やり階段を押し上げた。
「ひゃー」
と、床を通して住職の悲鳴が聞こえたのは、一瞬間を置いた後だった。
「だ、だれじゃ。ご本尊さまにこんなことをしたのは。罰当たりめが!」
騒ぎにつられて、千鶴らが階段を上ってみると、住職がしりもちをついて震えていた。その指さす方向を見ると、本堂に祭られていた仏様の首が半分飛びだして傾いている。
寄せ木造りといって、胴体と首や手を別々に作り、組み合わせてあったため、下から大きな力が加わって飛び出したらしい。頭の一部分が欠けて、弾丸がそこで止まっていた。
「怒られる、黙っとこ」
美里は、みんなの後ろで首をすくめた。
(おわり)
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