魂の回廊を泳ぎ渡る者
温かい陽射しに包まれる中、私は彼等を眺めていた。
『ラングリット、起きて下さい。今日はレイシアの家で昼食の予定でしょう? 遅れるとまた怒られますよ?』
『全く、非番の時ぐらいゆっくりさせて欲しいものだが……、分かったよ、直ぐに起きる』
『ふふ、今日はあの子のとっておきのパイを振る舞ってくれるんですって』
『それは楽しみだ。料理の腕は君譲りだな』
『そりゃあ、私の自慢の娘ですもの』
『はは、違いない』
何のことは無い日常の風景。流れる優しい時間、しかし、それも次の瞬間、災厄と化した極黒の波に呑まれて為す術も無く消える。
一切の痕跡すらも残さない残酷な迄に抗いようの無い一瞬が人の命を奪う。これは表層でしかない彼らの記憶、この先も彼らが謳歌するはずだった、失われた生命の記憶。
「何か、思い残す事はないかい?」
彼は無垢な魂に語り掛ける。ただ奪われるしかなかった、浮かばれない魂に対して、彼らの記憶を覗きながら、彼らの声を聞き続ける。
『レイシアが、あの子が幸福でありますように……』
魂の奥底に残るのは純粋な祈りであった。悲しみも、怒りも、憎しみも、愛情も、全てを内包した祈りが魂から漏れ出るのを私は眺めていた。
「きっと大丈夫さ。貴方達の子供なのだから……」
霧散する魂と場に残される魔力。魂の濾過と引き換えに彼はその魔力をその身に取り込む。
私は、彼の役目を知った。そしてそれは、私自身の役目である事も同様に、知っていた。
一つ一つの魂の記憶に向き合い、私達は対話を繰り返す。人の世界に生まれ、無常に散った命の声が咲かす最後の花弁が散り行く様を看取って行く。
それは、気の遠くなるような時間と共に、胸を突く寂寥感と無力感に苛まれながら、それでも声に耳を傾け続ける、他の誰にもできない役割だった。
◇
何千、何万の魂との会話の果てに、私は揺篭の中で微睡むかのような心地よさに包まれていた。温かい毛布、微かに覚えている花の香り、いつまでも眠っていて許される心地よさ。
けれど、そんな私の怠惰を赦さない声が、囁きが、私の意識を揺さぶっていた。
『起きられるかい?』
これは、いつか聞いた声。魔王の魂の欠片。善性を司る魂、オーディウムと名乗る獣が眠りにつく私を揺り起こした。
『ああ、大丈夫だ』
諂う必要はない。彼は私自身と同義であり、最早他人では無く離れがたく混ざり合った存在として私の中、魔翼に封じられた主体者として存在を確立していた。
『ここは?』
私は自分のいる場所がどこか分からず、彼に尋ねる。魂との対話を行っていた筈の自分が佇んでいるいるのは、見渡す限り『白』で埋め尽くされた閉ざされた世界だった。
方向感覚が分から無くなりそうな程に、この世界は虚無で埋め尽くされていた。自分が確りと足元の感触を感じられているのは自分という存在が彼と共にこの場に確りと根付いているからなのだと、漠然とではあるが理解できた。
『魂の回廊だよ』
彼の顔は見えない。無定形と言えばいいのか、無貌、虚無、嘗てエルアゴールと出くわした時に感じた虚無を、本来表情があるべき、吸い込まれそうな伽藍洞の顔から感じていた。
魂の回廊という言葉を私は、嘗て魔王と冥王の会話でも聞いていた、そしてタオウラカルのサルナエも同じように魂の回廊の存在を信じていた。ここは冥王が護りし、魂が帰結すべき場所。そして魔翼が接続し人の魂を還すべき場所。
『ここで、私達は対話を行ってきた。これは古の魔族がその命が尽きるまで延々と繰り返してきた義務であり、生命の連環であり、生命が還り付く場所でもある』
『魔族は魂を還元する者、か……。そして魔翼はその力を強く持った者が発現する物理的な身体変化か』
『そう、魔王バザルジードが分け与えた彼の権能をその身体に宿した証拠という訳さ。神の如き者が齎した宿命にして世界を回す為の機能。魂はエーテルへ還元され、エーテルはマナへと還元される。その合間に魂が吸着した塵芥を浄化する為に、魂は回廊に訪れる』
『人族が持たない、魔族としての機能か』
『人族は生物としては未だ不完全だ。儚き命で有りながら知性を備えてしまった生物、知性を持つが故に、個を持つが故に、先を目指さずにはいられない。しかし、それだけの力が足りなかった』
『お前は、それを哀れと言うのか?』
『まさか。慈しむべき生命の在り方だろう。その種を愛すが故に他種族を駆逐してでも未来を得ようとする在り方は魔族には無い特筆すべき善性だよ。だからこそ、バザルジードは人族を滅ぼさずにその先を見据えた盟約を結んだ』
彼は淡々と事実を述べる。魔王から切り離された魂の欠片であるが故か、まるで他人事のように語る様は奇妙であった。
『だが、その盟約は数百年に及ぶ楔となって、そ人族を苦しめてきた。人は前に進まない事を選べない。停滞を是としない、それ故に人は魔族を嫌い、常に研鑽を積み上げてきた。それこそ、人族の世界が画一的に管理される程となった訳だ……。だが、魔族を倒す為に研鑽を詰むという最適化された世界、その根底を支える人々の生活が存在する。何も知らぬ無垢な者達、彼等は鳥籠の中に囚われている事を知らずに過ごしている。けれど、いつか誰しもが気づく事になる……、それほどに長い年月と言う物は人を苦しめる枷になる。その枷はやはり私という存在が外しておくことが必要なのだろうな』
『それは君が背負う事かい?』
『数万、数十万、数百万という人々の記憶を見た……。人々の生活を見た。死にゆく者達の声を聞いた。皆、皆が生きたがっていた。大地を耕し、子供を作り、育て、家族として幸せを育む。そんなありふれた生活を皆が望んでいた。楔があり続ける限り、何も知らぬ者達が踏みつけられ、犠牲となる。それを終わらせる必要がある』
『それを君は自分の意志で選ぶのだね?』
彼は、恐らく答えを知っていたが、それでも敢えて意志を確認させた。これはちょっとした儀式なのかもしれない。彼自身もまた、目指すべき道を持つ者として、共に歩むための確認作業であった。
『ああ、きっとその先に私のやりたい事がある。自由な世界を、自らの足で進んで行く為に、やるべき事を私はするだけさ……。少し道のりは長いけれど、よろしく頼むよ』
私は恐らく笑っていたと思う。長い道のりを目指す為に共に生きるとここで誓いを立てる。
『そうか……、君はそれもまた自分の為だと言うのだね。それであれば、その手助けを私はしよう。君がやりたい事を、やりたいように、その意志と共に私は生きよう』
ぼうっ、と紫焔が彼から浮かび上がる。白い空間に天高く舞い上がる光の粒子。無の空間に色がともり、空を埋め尽くさんばかりに天体が煌めくかのように迸る魔力の芥。彼自身から火柱が上がったかのような錯覚を覚える程に、強烈な力強さを覚える、彼によって浄化され、還元された純粋な魔力の総体が目の前に存在していた。
彼は私に手を差し伸べながら誓いを謳った。
『我々はここで、魂の盟約を結ぼう。魔法術式等に頼る事は無い。お互いの意志と確固たる信念を以て、共に道を歩む仲間として。互いの道に栄光と祝福があらん事を』
私は彼が差し伸べた手を、握り返した。