旅立ちの前に その4『記憶に愛の栞を捧ぐ』
冬の朝に見た、銀の世界に灯る一条の光。夜明けを告げる太陽の目覚めは信仰心が芽生えそうな程に美しく思えた。
かじかんだ手に息を吐き、手に持った斧を振るい木を叩く。
これまでにどれだけの回数、斧を振るったのだろうか。最初は寒さに震えていた身体も、気が付けば湯気を発する程に熱を帯びている。
暫くすれば、妻が朝食の用意を告げにやってくるだろう。娘のサーシャもそろそろ起きだす頃合いのはず。
慎ましく、それでも温かい家庭、それだけで十分に幸せであると言えた。日々に感謝を、家族に感謝を、日常は続いて行く。
「……これは、私の記憶では無いな」
私はサンデルス家の別邸で宛がわれた一室で自身の記憶を整理する作業に没頭していた。
手に残る感触、耳に残る息遣いと心拍の上昇。そして確かに胸を打つ幸福の感覚。
自分のものとは思えぬほどに明確に記憶として残った触感の類、しかし、それは自分のものではない。いつか、誰かが過ごし、紡いできた歴史。しかしそれは歴史書に残ることはなく、ただ忘れ去られるほかない、そんな主観的な記憶であった。
自分の身体の異変に気付いたのは、ガイゼルダナンでエルアゴールを打ち倒してからであった。違和感の正体は、私自身の魂における情報置換、そのように原因を推察するのが正解だと思えた。
『魔翼』は魂を浄化し、その記憶を取り込んでいる。
正確に言えば魔翼はエーテルを吸収し魔力を精製する。恐らくは取り込んだエーテルに残留する魂の塵芥に含まれた様々な情報を無意識下で取り込んでいる様であった
元々持ち得なかった力ですら自分の物とする事が出来る、黒騎士が見せた剣技だけでなく、ルーネリアの身体に宿る二つの魂がはっきりと見えるようになったことも、それが原因であるのは時期を比較しても間違いなかった。
己の中でオドとマナの明確な区別とその運用が急激に上達したことについても、恐らくはエルアゴールを取り込んだ事による影響と言えるのかも知れなかった。
「力の増幅、そして記憶の蓄積か……」
この魔翼の力に気づかぬ中で、夢と思える最中で垣間見た様々な記憶があった。
人には幾つもの側面がある。家族がおり、望みを持ち、夢を語り、道半ばで死ぬ。その果てに残された記憶が私の中で蓄積されていく。自分のものではない筈の記憶が、想いが、魔翼を通して自身の中で気づかぬ内に発露する。
それは幼子の時に自分の身体をコントロールできなかったあの時の歯痒い感覚を思い起こすものであった。魔翼を使えば使うほどに力が増大して行く。ただでさえ、生命活動の維持の為に自動的にエーテルを取り込み体内でマナ精製を行っている以上、そうした影響を受けるのは仕方のない事ではあるが、今回、黒騎士並びに人造の獣を解放したことで、魔翼を通じて変換された魂とエーテルはこれまでにないほどの記憶を私に植付け、身体を蝕んでいる。
厄介な体質であるとは思っていたが、これほどまでに自分という存在が希薄化するような感覚に陥ることが恐怖を掻き立てるとは思いもよらなかった。
おかしな話ではある。私は自分の在り方を自分で決める事が出来ずにいた。トリポリ村で暮らす中で、人々の想いに触れ、徐々に感化されて行く自分を悪くないと思っていたはずであったが、今は、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そんな可能性が脳裏を過る度に心を蝕んでいく。
それでも、止めることは出来ない。
エルアゴール、そして黒騎士の記憶を辿ることで、今となっては多くの事実を私は理解していた。
王族派閥、騎士団と魔法技術研究所派閥、そしてノエラ・ラクタリスという個人。この三竦みが今の人族の世界を成り立たせている。人の行く末を見守る様に管理された世界、人が高みを目指すことが赦され、その為に存続する世界。
そうした世界に一石を投じようと画策しているのが天族という存在であった。そして彼らの使命は人族の存続と更なる成長を促す事。
魔族を敵とし、人の世界を押し広げることを使命とした者、それが天族であり、魂の回廊を抜け出た人族の魂の結晶体であった。
彼らが持つ記憶が私の中で情報として置換され、蓄えられていく度に、これまで抜け落ちていた情報が突如として私の中で芽生え、迫るように私を糾弾する。魔族を滅ぼせと。
その一方で、別の声もまた私の中で囁きを繰り返していた。それは人造の獣の声、助けを求める声であった。今ではスペリオーラ大陸に満ちるエーテルを通して王都から流れ出る幾つもの同胞の声が脳裏に響いていた。
ノエラ・ラクタリスが基礎構築を為した魔法術式によって人の身でありながらマナをその身に宿し、人造の獣として造り替えられた者達の悲鳴が聞こえている。彼らは叫んでいる。人を殺せと、滅ぼせと、そして己の身を解放せよと。
「王都に行けば分かる、か……」
ルーネリアは王都に行けば全てが分かると言っていた。それは王都迄の道半ばであるタルガマリア領ですら鮮明に聞こえる声を、彼女は聞く事が出来ない事を指し示していた。恐らくルーネリアは魂を視る事が出来ても、人造の獣が放つ、この怨嗟に満ちた声を聞く事は出来ないであろう。
私のこの感情を理解できる者は人族には存在しないであろうことは理解出来ていた。
この感情が淋しさを伴うものであると気づくのに、時間はかからなかった。私を真に理解することが出来る人族は恐らく存在しない。悲しくはない。これは私に限ったことではないはずなのだ。人はどこまでも孤独であるはずなのだ。
不意に、トリポリ村で出会った者達の顔が浮かんできた。魔族と人族の融和を目的とした小さな村で生きる、悠久を進むかのような平和な村で過ごす人々と魔族の姿が思い浮かんでいた。今は何故か、無性に彼等に会いたいという郷愁が込み上げて、私の心を掴んで離さなかった。
もうじき冬が訪れる間際に王都へと先行したザンクから便りが来るだろう。それを合図に私達は王都に向かう事となる。
それが終われば村へと帰る事が出来る。それまでの辛抱であった、そうすればきっと友人達が私を迎えてくれる。
「ラクロア様、少しよろしいでしょうか」
部屋にノックの音が響くと共に、物思いが中断される。声はルーネリアのものであった。
「ああ、構わないよ。どうかしたのかい?」
彼女が部屋の中に入ると共に、その魂が第一人格のルーネリアである事を私は確認していた。
「少しご相談が有ります、今後のことについてなのですが……」
ルーネリアは何処か言い出しづらそうに言い淀んでいた。
「私達はタルガマリア領を出て王都へと向かう。それに変わりは無いよ」
私は彼女からの言葉を引き出す為に、敢えて予定に変わりがないことを告げると、ルーネリアは意を決したように私に懇願した。
「はい。その旅に私も同行をさせて頂きたいのです」
それは恐らく叶わない話であることを彼女自身も理解はしていたのだろう。だからこその躊躇いであり、私に対する個人的な依頼であるのだろう。
私はルーネリアを見据えその理由を問うた。
「……それはまたどうしてだい?」
「王都で、確かめたい事があるのです」
「それは、王都で起こるという事態について、ということかい?」
「はい。その結末を私は確かめたいのです、私は、ラクロア様にそれを告げた以上、それを見守る義務があります」
理路整然、とは言い難い理論でルーネリアは己の意志を主張している。
「ルーネリア、残念だけれど、それには同意できない。王都に待つのは万全の準備をした騎士団と魔法技術研究所の者達だ。彼等はノエラ・ラクタリスの課した魂の誓約を越える為に全力で挑みかかってくるだろう」
これは明確な拒絶であった。ルーネリアは領主代行としてタルガマリアを支える為に尽力しなければならない。それでなければ、ここまで彼女が積み上げて来たものが無意味になる可能性すらあった。
「その時はラクロア様が助けて下さるでしょう?」
ルーネリアの瞳は、憂いに満ちており、僅かに濡れて見えた。今にも泣き出しそうな表情は、彼女が抱える不安を絵に描いたように表しているように思えた。
そして、その表情はトリポリ村で見た、カトルアの表情と同じものであった。
ルーネリアは無言の私に近付くと、そのまま顔を私の胸にうずめ、顔を隠しながら話し始めた。華奢な身体は僅かに震え、私には無いその温もりが彼女を彼女足らしめているようにすら思わせる。
「……分かっています。分かっているのです。貴方の心に私がいないことなど……それでも、それでも側にいて欲しい、側にいたいと思うことは悪いことなのでしょうか?」
ああ、と私は胸が潰れるような苦しさを覚え、内心で深く息を吐いた。この遣る瀬無さはルーネリアの気持ちに応える事が出来ないことを私自身が理解しているからに他ならない。
「悪いことなんかないさ。ありがとう、その気持ちは嬉しいよ。それは嘘じゃない」
それでも、私にはやるべきことがあった。
「私にはやるべきことがある。これまでの君がそうであったように。私自身が為すべきことが、私でなければ出来ないことがある。その為に、今は全てを注がなければならない」
これは逃げだろうか。それとも彼女を傷つけない為の優しい嘘だろうか。次に会う時に、私は彼女のことを覚えていられるのか、それすら定かではない。そんな私の現状を彼女に言って何になる訳ではない。
「正直な人。そして、どこまでも孤独な人なのですね」
ルーネリアは優し気な眼差しで私を見つめ、そっと顔を近づけた。
香る仄かな薔薇の甘い匂い。そして唇に感じたのは確かな体温と、艶めかしい生の触感。彼女の瞼は閉じられ、見開かれたままの私の目に映った彼女長い睫毛がやけに印象に残っていた。
私は呆然としながら、彼女の口づけを受け入れていた。互いに未だ成人を迎えぬ身ではあったが、既にその魂は成熟を迎えている。互いにこの意味を分からぬ程に子供ではない。
ルーネリアが唇を離し、再び私を見上げて言葉を紡ぎ始める。
「私はそれでも、ラクロア様のことを想っております。貴方がいなければ、私は自ら肉親を殺し、亡くなった領民に対して贖罪の為だけに生きることになったはずです。貴方は、それ以外の道を私に示してくれました。それがどれだけ私を救ったことか……貴方にはきっと分からないのでしょう」
それは偽りの無い、彼女の本心だった。
「だから、私はこの言葉を貴方に伝えます。ラクロア様を愛しています、離れがたいと感じる程に……この言葉が、少しでもラクロア様の孤独を癒す言葉になることを祈っております」
ルーネリアは頬に一筋の涙を流すと、踵を返し部屋を後にした。
彼女が私に与えた感情を、私はまた思い出すことが出来るだろうか。そんな想いと共に、今日の出来事を忘れてはいけないと、胸の奥深くに刻み、そして私は生まれて初めて、祈る気持ちを抱いた。
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これにて第四章完結、次回から第五章開始となります。
王都ではシルヴィア、『白銀』、ノエラ・ラクタリス、騎士団、魔法技術研究所それぞれの陣営が入り乱れることになりますので、お楽しみいただければ幸いです。
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