勇者戦線異状なし
「本書の主人公は剥き出しの生である。すなわち、聖なる人間(homo sacer)の、殺害可能かつ犠牲化不可能な生である」
『ホモ・サケル』―ジョルジョ・アガンベン―
「畜生!」
俺は徴税請負人の後ろ姿が消えた後に向かって悪態をついた。
今年のコメの収穫の7割が持っていかれた後で、さらにまだ春の種代や農機具代、土地のリース料が返し切れておらず、膨大な借金が残っているというのだった。利息なんて知ったところで俺は異世界の文字が読めないから契約がどうなってるかわからないし、契約見直しシステムもどうなってるのか知らない。ただ日本語で行った勇者契約の中に「帰還保障」がある。それだけが俺にとっての拠り所だった。
こんなハズじゃなかった。俺は現代知識無双するはずだった。異世界に行って無双!さらにその上スキルを身に着けて現代無双しませんか?という魅力的なメールが届いたのは高校生の頃だった。俺はまんまと乗せられて、異世界の勇者採用担当がいる東京のビルで契約を交わし、そこからはるばる転移してきたのだ。
異世界の採用事務所が東京にあるという時点で、異世界の文明は現代日本より進んでいた。魔法があるのに加え、日本のある世界から、東京の事務所を通して効率的に吸収したテクノロジーも用いてハイブリッドな文明を築いていたのだ。その時点で日本人の知識など当てにしているわけなく、唯一足りないのが労働力で、我々勇者が低賃金労働者として、あるいは消耗品の傭兵として連れてこられたということに気付くまであまり歳月はかからなかった。
要するに、文明の発展のおかげで誰も虫とかがいっぱいいる土に触りたくはないし、命を落とす戦争になんか参加したくはないのだ。おまけに俺の連れてこられた王国は技術革新が遅れた結果、失われた30年とかとかなんとか騒いでいるぐらい経済競争力が落ちており、隣の共和国が急速に発展するのを尻目に沈没までのカウントダウンを進めていた。
「いつ返してくれるんですか?」
「我々は忙しいんだ。せめて書類をそろえてから来てくれ」
俺は何度も勇者省に掛け合ったが、こうやって何度も門前払いを食らった。せめてものの反抗にと農作業をサボっていたら土地の持ち主に労働放棄の罪で告発され、有罪判決を食らって1年間重労働をした。都市インフラの整備のためにくっさい下水管を掃除しなければならず、皮膚に染み付いた臭いは数か月間消えなかった。その間に囚人仲間に、どんな罪であれ3度有罪判決を食らったら一生重労働を
し続けなければならないというルールを聞いて、仕方なしに今では真面目に小作農家として働いている。
スキルとか魔法は確かに身に着けた。ただ、土魔法に耕耘のスキルと、種もみの乾燥スキルだ。現代日本で何の役に立つ?
最近、勇者特権という言葉をよく聞くようになった。共和国のスパイとかいう言葉もよく聞く。勇者特権があるから奴らはいい生活ができているだの、国から年金を貰えてるだの、いざとなれば日本に帰ればいいだの、そういうことだ。俺は全くいい生活などできていないし、帰還させてくれないのは王国のせいだ。何が特権だと思うが、ついに先日家に石を投げつけられた。ここで投げ返すとどうせ有罪判決を食らうので我慢するしかない。
最近すごく文字を読みたくなった。しかし、絶え間ない労働の合間に文字を勉強するのは不可能だし、何より教えてくれる人がいない。勇者同士は連帯するのを防ぐために各地に点々と配置されていてコミュニケーションを取ることが難しいし、たまたま少しの間一緒に農作業することになった、ユウシャという単語が王国では異分子を表す蔑称として定着しているということを教えてくれた日本人の仲間は、傭兵として共和国との紛争に巻き込まれ左足がオシャカになって晴れて日本帰還だ。使えなくなったユウシャの処分先として日本があるのだ。いいご身分としか言いようがない。
たのむ。早く五体満足なうちに返してくれ。そして俺の青春を返してくれ。