175話
☆ アラン視点 ☆
牢屋から逃げ出した俺たちを、待ち構えていやがったかの様に良いタイミングで出てきた、ギャズの野郎に仕えている女秘書は、胸元から取り出した一本の注射器を、手遊びの様に手の平の上でクルクルと回しながら、
「躾のなっていない犬って、私、嫌いなのよねぇ」
そう言うと、履いていたハイヒールで、床をカツンと踏み鳴らす。
すると、女秘書の後ろに突っ立っていた、メイド服姿の変態ハゲの一人が、突然跪く。そして、赤ん坊の様に四つん這いになると、そのままハイハイしながら、女秘書のハイヒールまで近付き、なんと顔を近付けてそれをペロペロと舐め始めた。
一心不乱にハイヒールを舐める禿頭の大男。その様子を見ていた女秘書は、怪しい美しさを放つ顔に恍惚を浮かべると、
「——どう? これが躾の行き届いた犬よ」
「……生憎と俺は、そっち系の趣味は持ち合わせていねぇんだがな」
「そう、それは残念ね」
これっぽっちも残念には思っていない声色でそう口にすると、舐められていたハイヒールを振る。そうして舐めるのを止めさせると、禿頭の男の涎で濡れ光るハイヒールを高々と上げ、四つん這いになって必死にハイヒールを舐めていた大男の背中に落とした。
「あ、ありがとうございまぁす!」と、ほざく大男の背中に、ピンヒールをこれでもかとグリグリ押し付ける女秘書は、
「私、犬の調教って得意なのよ。特に悪びれて強がっている癖に、ほんとは弱い犬っころは、ね?」
「……言ってろ。おい、ノエル」
「なんだ?」
俺と女秘書の会話と、女秘書にピンヒールで踏まれ、喜んでいる変態ブタ野郎にドン引いているノエルに対し俺は、そのドン引いているノエルの横に、寄り添うように立っているノインを指差しながら、
「情操教育上、あまり見せない方が良いんじゃないか?」
「はっ!? いけません、ノインさ……、ノイン! あんなものを見ては、目が腐り果ててしまいます!」
慌ててノインの視界を塞ぐように、前に立つノエル。だが、そうするのが少し遅かった様で、
「ねぇ、ノエル。あの人は何で、踏まれているのに喜んで尚且つお礼まで言っているの? それに犬っていったい?」
「忘れてください! ノイン!」
ノインの純粋さからくる怪しい質問に、ノエルはノインの肩に手を置くと、必死に忘れる様に説得する。
「……おい、ミナはあんな質問、してくれるなよ?」
「大丈夫よ、アラン兄。子供扱いしないで」
「そ、そうか」
こっちにまでとばっちりが来る前に、先手を打ったつもりなんだが、逆効果立ったようだ。いつまでたっても、女心というやつは分からない。
「……さて、無駄な時間を過ごしました。最後にもう一度聞きます。素直に檻の中に戻りませんか?」
悦びの声を上げる変態ブタ野郎の反応に一頻り満足したのか、背中に乗せていたヒールを下ろす女秘書は、少しだけ上ずった声で確認してきた。
それに対し、俺は下品なジェスチャーを女秘書に返しながら、
「何度も言わせんなよ。戻る気なんてさらさら無ぇんだ。犬だって、気に食わなきゃ飼い主の手を噛むだろう?」
「……そう、本当に残念ね」
そう呟いた女秘書は、無念の表情を浮かべた。意外にも本当に残念に思っていたのかもしれない。
だが、それも一瞬で消えると、次の瞬間には嗜虐に満ち、楽しみで仕方ないと、隠す気もない愉悦に満ちていた!
「じゃあ、やはりお寝んねしてもらわないとね。安心なさい、寝ている間に、私好みの犬に変えてあげるから!」
女秘書のその言葉が合図だったのか、四つん這いになっていた奴も含め、女秘書の後ろに控えていたメイド服を着た禿頭の男達が、一人は首を回しながら、一人は手首を組んでほぐし、そしてもう一人は指をパキリポキリと鳴らしながら、女秘書の前に並んで立つ。
その安っちい脅しに、俺は笑みを浮かべるが、ジャンとミナは竦み上がった様な声をあげていた。
そんな時、
「……私が相手になろう」
俺の肩に手を乗せ、ズイっと前に出た銀髪の優男、ノインがそう言って三匹のブタ達の正面に立つ。
「良いのか?」
「あぁ」
そう短く返事をすると、俺が剣の長さ位に折って作った棒を、ヒュンと振るい、
「これ以上、不快なモノを見たくは無いし、ノインにも見せられん!」
そう言って、棒っ切れを腰の高さで止めると、棒先をスッと正面ーーさっき、四つん這いになって、女秘書に踏まれていたブタ野郎——に向けた。
その後ろでは、未だに納得がいっていないのか、ノインがまだブツブツと疑問を口にしていた。
「へぇ? 俺たちに勝つ気でいやがるぜ?」
「全く、身のほどを知れってんだ」
「やっちゃおうよ、ニイちゃんたちぃ!」
ノインと対峙する三匹の大ブタが、ノインが構えたのを見て、不敵に笑う。ってかお前ら、兄弟だったのかよ!? 全員禿げ頭で、太った大男だから、似てるって言えば似てるけどよ!
その三人の中の一人、ちょうど真ん中に立っていた、さっきまで女秘書に踏まれて悦んでいた、禿頭が一歩前に乗り出すと、
「我が主、ブリジット様のご命令により、一番上の兄である俺様が直々に相手してやる。なぁに、ブリジット様は寛大なお方だ。多少楯突いた所で、キチンと躾を施して貰えるだろうよ。——生きていれば、なぁ!」
唾を撒き散らしながら、ノエルに突っ込んでいく禿頭の大男!ってか、お前らの主はギャズの野郎じゃねぇのかよ!? それに長男が、弟の前で女に踏まれて喜んでいるんじゃねぇよ!
三匹のブタ野郎の中で長男だと名乗る、見れば三人の中で一人だけ顎髭を生やした禿頭の大男が、その巨体に似合わないスピードでもって、ノエルに迫る! そうして、自分の間合いに入ったノエルに、その巨体に似合った大きな拳に、そのスピードをそのまま乗せる勢いで殴り付け——、
「——フッ」
「がぁあ!!?」
悲鳴を上げたのは、何故か殴り掛かった顎髭のブタ野郎の方だった。顎髭のブタ野郎は、腹を押さえてその場で蹲る。
「ゲボッ、ゴホッ! お、お前、何をした!?」
「あ、兄貴!?」「ニイちゃん!?」
苦しがる顎髭のブタ野郎。その後ろでは、顎髭の上げた悲鳴を聞いて駆け付けた、苦しがる長男を心配した口髭と髭無しのブタ野郎が、丸まった顎髭の背中を擦りながら、気遣う。
傍から見れば美しい兄弟愛なのだろうが、メイド服を着た禿頭の大男が寄り添うその姿は、哀れみよりも滑稽さがより強調されている。
その様子に、腹を抱えて笑うのを必死に耐えながら、一人残された形となっていた女秘書に視線を向ける。その手には注射器は握られていなかった。いつの間にかしまっていた様だ。
「良いのか? お前のご自慢の犬たちがピンチそうだぜ?」
「問題無いわ。そんなヤワには躾けていないもの。それに、ここで壊れちゃったとしても、すぐに新しいオモチャが手に入りますから、ね」
「言ってろ。さて、お前のご自慢のワンちゃんたちの相手は優男に任せるとして、お前の相手は俺って事になるのかな?」
「そうね。そうなるかしら?」
そうなる事を見越していたのか、それともそれが自分の希望だったのかは知らないが、その顔にフフッと軽く笑みを浮かべると、背中に手を回す。
どこから取り出したのか、その手には、表面がやけにツヤツヤと怪しく光る、ゴム質で出来たムチが握られていた。しかも良く見ると、表面に金属で出来た円錐形の棘が、無数に付いている。
「おいおい、物騒なモン持ちやがって」
「あら、お気に召さない? アナタだって、長いモノ、持っているでしょ? 男のアナタ達だけ持っていて、女の私が持っていないなんて、男女不公平でしょう? 大丈夫、その内コレが癖になるわよ」
「全くそうは思えねぇけどな」
「そう……」
不満がる女秘書は、取り出したムチを伸ばす。そして頬ずりをしながら、
「あぁ、思い出すわ。この棘の一つ一つに、過去の犬たちを躾けた時の記憶が刻まれているの。アナタに記憶はどの棘に刻まれるかしら?」
そう言って、危ない光を宿した目を俺に向ける。俺はそれにまともに返事する事無く、
「おい、どうでも良いけどそれはキレイなんだろうな? こう見えても俺はキレイ好きなんだよ」
「あら、面白い。これから床に這いつくばるっていうのに、汚れる心配をするなんて」
口に手を添えて優雅に笑ったあと、その添えていた手を、行き止まりになっていた壁に寄り掛かる様にして立っていたミナとノイン、その女子たちを背後に守るようにして立ち、持っていたナイフを微かに震わせながら、その刃先を女秘書に向けていたジャンに指す。
「ところで、そっちの坊やは一緒に戦わなくても良いのかしら? アナタ一人では、荷が重いでしょう?」
その安っぽい挑発に、俺は肩を竦めると、
「なんだ? アンタ少年愛好家か? 若い男が相手にしてくれないからって、ジャンの奴に手を出そうなんて、青田買いが過ぎるってなもんだぜ?」
挑発を返す。すると、その挑発の内容が、女秘書の地雷を踏み抜いたようで、俺を睨む視線に射殺す様な憎悪を籠めると、
「……ほんと、これだからバカな犬は嫌いなのよ!」
ムチをしならせると、床をバシンと叩く。それが俺と女秘書の戦いのゴングとなった!