第3話:逃亡
剣士の男が嫌らしい笑みを浮かべて剣を肩に担いでこっちに近づいて来ると、ユクトに剣を寄越せとばかりに手を差し出してくる。
いまなら、その手を斬りつけることもできるだろう。
剣士の適性がなくとも、剣で斬れば物は斬れる。
ただ、果たしてそれがうまくいったところで、ここで3人を殺さなければ逆に返り討ちにされるか、捕らえられて街で訴えられるかもしれない。
先に手を出したのがユクトということになってしまう。
それならばわざわざ殺さずとも、楽に欲しい物が手に入る方を3人は選ぶかもしれない。
街に戻れば何をするわけでもなく衛兵に連れていかれ、なおかつ賠償にお金を請求されるだろう。
いや、それよりも逆上した剣士に殺される可能性の方が高い。
目の前の男は往生際の悪いユクトに対して、すでにだいぶイラついている様子だ。
「分かりました」
ユクトはこれ以上の時間稼ぎは、状況を悪化させるだけだと判断する。
そして仕方なく、鞄を地面に下ろす。
「分かればいいんだよ」
「手間掛けさせないでよね」
ユクトの行動にニヤリと笑みを浮かべた男が、肩に乗せた剣の腹でトントンと急かすように自分の肩を叩く。
女の方も、溜息を吐いて首を横に振っている。
「剣を渡したら、命は助けてくれますか?」
「ああ、金さえ払えばな」
「銀貨1枚よ」
「命の値段と思えば、安いもんだろう」
「分かってると思うけど、街に帰ってからも余計なこと言うなよ? そんなことしたら、1人で出歩けないようにしてやるからな?」
ユクトの言葉に、3人がそれぞれ軽口を叩くように返してくる。
ユクトはそれを聞いてほっとしたような表情を浮かべつつ、分かってますよとばかりに微笑みながら頷いて剣を鞘ごと腰からぬく。
そしてそれを受取ろうと前に出て来た剣士に対して、ユクトは剣を地面にトンと置くと……
「くっ! 何を!」
「きゃあっ!」
「こいつ!」
地面を弾いて、3人の顔目がけて砂を飛ばす。
目に砂が入ったのか3人が慌てて顔を背けた隙に、鞄の口を開いて思いっきり勢いをつけて押し倒し……森の入り口に向かって駆け出す。
「誰か! 誰か助けてくれ!」
大声で叫びながら。
「待てこらっ! っと」
「きゃっ!」
「お前ら、何やってんだよ!」
声だけを聞いて逃げたのだと判断した剣士の男が慌てておいかけるが、倒れた鞄から転がったロックホーンラビットの角を踏んで盛大に後ろに転ぶ。
魔法使いの女を巻き込みながら。
さらに、魔法使いの女が横に立っていたレンジャーの男の裾を掴んだため、そっちもすぐにユクトを追う事が出来なかった。
本来ならすぐに逃げ出して、無言でひたすら走るのが良いのだろうが。
相手にはレンジャーの男が居る。
ユクトの足では逃げ切れることは出来ない。
魔導士ということで、ユクトは身体系の基礎ステータスが低いのだ。
それでも人並外れた鍛錬の結果か、ユクトは普通の前衛職並の敏捷とスタミナは持っている。
しかしだ……レンジャーという職業は前後衛を受け持てる上に敏捷値が前衛職よりも高い。
レンジャーのスタミナはそこまで高くないが、敏捷だけでいえば普通の前衛職の比ではない。
加えて、レベルもユクトよりも相手の方が上。
黙って逃げただけでは、すぐに捕まるのは目に見えている。
どうせすぐに追いつかれるだろうと思い、一縷の望みを掛けて助けを求めながらひた走るユクト。
もしこの声を聞いて誰かが来てくれたら、一方的に悪者にされることはないだろう。
なぜなら、助けを求めているのだ。
なんらかの理由で彼らに害されそうになったという言い分を、きっと後押ししてくれるはず。
それに他の冒険者が居れば、殺されることもまずないだろう。
しかし、そんなものはもし居ればという、楽観的観測にすぎない。
だから彼はそうやって走りながらも、次の手を考える。
「逃げられると思ってんのかよ」
案の定、すぐにレンジャーの男が追いかけてくるのが聞こえる。
足音から徐々に距離が縮まっていくのも分かる。
ユクトの心臓の脈打つ音が、どんどん早くなっていく。
ましてや叫びながらだ。
余計に消耗していくのは、明らかだ。
最悪レンジャーの男だけでもどうにかできれば……ユクトは腰につけている革袋の中に使えるものは無いかと必死に探る。
何が入っているかは知っているのだが、実際に物に振れれば何か思いつくかもしれない。
ただし、最善は森に居る他の冒険者に見つけてもらうこと。
だから、彼は叫び続けることはやめない。
そしてユクトの思いは通じる。
その呼びかけに答えるものが現れた。
「グアアアア!」
だが、それは彼の望んだものとは少し違う。
黒い毛足が特徴的な、大きな熊。
ダークベア。
この森でも、上位捕食者に位置する魔物だ。
人の言葉など通じるわけもないが、何もないよりはマシ。
すぐに熊を利用して、この状況をどうにかできないか考える。
幸いにも現れたのは一頭だけ。
うまくやり過ごせれば、生存確率はあがる。
あくまで、熊に殺されなければだが。
「ちっ! 余計なものを!」
レンジャーの男が熊の雄たけびを聞いて、慌てて追いかけるのをやめる。
流石の彼も、この熊は自分の手に余ると知っている。
「戻ってこい! 殺されるぞ!」
まるで心配しているかのような言葉。
だが、彼が心配しているのはユクトの所持品でしかない。
もしユクトが熊に襲われて食べられている間は、彼の所持品を奪うことは出来ない。
3人掛かりならどうにかなるかもしれないが、その血の匂いに誘われて他の魔物が来ても厄介だ。
そう考えた男は一度ユクトを近くに引き寄せて、剣と他に財布でも奪えればそのまま熊の生贄にしようと考えていた。
「グルルル」
四つん這いの姿勢から立ち上がった熊は、涎を垂らしながらユクトを見つめる。
立ち上がったことで3mを超えた巨体に、ユクトが思わず息をのむ。
だが気持ちまで飲まれてしまえば一瞬で自分が肉片にされてしまうことは、村育ちの彼は嫌というほど知っている。
だからその熊の目をしっかりと睨みつけて、迂闊に動かないよう牽制する。
ユクトは熊から目を逸らすことなく自分の腰に付けた袋に手を突っ込むと、先ほど確認したときに指振れたものを探すようにまさぐる。
正直賭けだった。
袋から目当ての物を取り出したユクトは、自分の掌を少しだけ鞘から抜いた剣で軽く傷つけ、流れ出た血を熊の顔にぶつける。
「グアッ!」
小さいくせに自分に怯えることなく挑戦的な視線をぶつけてくるユクトの行動を興味深そうに見ていた熊は、しっかりと見開かれた目に突如大量の血を浴びて両手で顔を押さえて身体を激しくゆする。
幸運なことに、ここでもユクトの目つぶしが成功する。
すぐにユクトは先ほど袋から取り出した干し肉をレンジャーの男の方に向かって投げつけると、ポーションを掌に掛けて止血する。
放物線を描いて飛んでいったそれには、ユクト自身の血がたっぷりとついている。
干し肉の行方を確認することなく、ユクトは走りながら水で血を洗い流して熊を大きく迂回してさらに駆ける。
「ガアッ!」
一瞬視界を奪われた熊だったが、すぐに視力を取り戻しユクトの方をチラリとみる。
ユクトはこの少しの間に、それなりの距離を取ることが出来ていた。
それを見た熊はすぐには追いかけずに鼻をひくつかせ、何かの匂いに気付いたようにレンジャーの男の方に視線を向ける。
熊との距離は今も走り続けているユクトの方が離れている。
逆に男はユクトの行動が理解出来ずに、その場で立ち止まってしまっていた。
もう一度ユクトの姿を見た熊は、小さくなった背中に対して「グルゥ」と一鳴きしてレンジャーの方に向き直る。
完全にターゲットを切り替えたようだ。
顔についた血を、大きな舌でペロリと嘗めると再度四つん這いになって駆け出す。
レンジャーの男に向かって一直線に。
「くそがっ!」
男はナイフを熊に向かって投げると、元来た方向に向かって逃げ出す。
流石に1対1では分が悪すぎる。
そう考え仲間との合流を図ったのだが
「がはっ!」
一瞬で熊に追いつかれ、その体に見合った大きな掌と、凶悪な形をした爪で弾き飛ばされてしまった。
「どうした、ランザ!」
後を追っていた剣士の男がすぐに合流したが、ランザと呼ばれたレンジャーの男は激しく木に激突しており不自然な形に足が曲がっていた。
「そいつにやられた……少し時間を稼いでくれ……回復するからレート、ポーションを」
ランザは苦しそうに剣士の男に返事を返すと、魔法使いの女レートにポーションを要求する。
ランザの仲間に対する当たり前の要求に対してレートが剣士の男にどうするか、伺うような視線を向けると男の方が首を横に振る。
「すまんな……その傷じゃ無理だろう」
「えっ?」
「あんたが、時間を稼いでよ。流石に私とブルートじゃ手に余るし」
「何を?」
ランザの傷は見ただけでもすぐに治るようなものじゃなかった。
ダークベア相手に剣士のブルートだけで時間を稼ぐのも、荷が勝ち過ぎている。
消耗したあとで、ランザが戦線に復帰したところで勝負は五分五分。
このあと街にも戻らないといけないのに、レートの魔力をここで無駄遣いするわけにはいかない。
血の臭いにひかれて他の魔物まで集まってきたら、無事森を抜けることすら危うい。
「ここで半々の可能性で3人が生き残るのに賭けるより、確実に2人が生き残る方が良いと思うんだ」
「馬鹿な……仲間だろ?」
「仲間だから、俺達のために時間を稼いでくれるよな?」
「ひっ……」
返って来たのは信じられないような言葉と、自分も今までさんざん獲物にしてきた人たちに向けていた目だ。
ランザは自身の身にその視線を向けられ、初めてその恐怖を理解した。
「これは形見としてもらっておくわ」
「じゃあ、俺はこれだな」
「お前ら……酷いじゃない……か」
レートがランザの財布とペンダントを引きちぎる
そしてブルートがランザのスリングとナイフを全て奪う。
身体を動かすこともままならないランザが、息を荒げながら抗議するが2人は聞こえないふりをしてそれらを自分の袋にしまっていく。
「グアアアアアア!」
その様子をジッとみていた熊が我慢の限界に達したのか、俺の獲物に手をだすなとばかりに咆哮をあげると、突っ込んでくるのが分かる。
「おっと、これ以上待てが出来ないみたいだ」
「じゃあ、少しでも長生きして時間稼いでね」
「待って! お願いだ! 待ってくれー」
慌てた様子でレートとブルートがその場から駆け出すと、絶望に染まった表情でランザが叫ぶ。
「やめ、くる……ギャアアアアアアア!」
そしてすぐに2人の耳に、ランザの断末魔の叫びが聞こえた。
「あーあ、良い奴だったのに」
「お前がそれ言うか? いっつもイヤらしい目で見て来て嫌だって言ってたじゃないか」
「あいつ、私の胸ばっかりみてくるから、本当に気持ち悪かったのよね」
「俺のものなのにな」
「ふふ、ばかな男だったわね」
ただ2人にとって、それはどうでも良いことだったらしい。
どちらかというと、最近は少しばかり邪魔になっていたのかもしれない。
「さてと、ふざけたことをしやがったクソガキにお仕置きしないとな」
「でももう、追い付けないんじゃない?」
「まあ、暫くは大人しくしとくさ……暫くはな」
「そうね……まあ、一度は仲間だったわけだし、ランザの仇も討たないとね」
さっきの会話はなんだったのか。
2人はユクトにいつかこの落とし前をつけさせることを、楽しそうに話しながらゆっくりと歩き始める。
ダークベアが食事を始めたであろう気配を感じ取って。