恋じゃないから
その日、ル・ブラン共和国のエンバリー邸はひどく騒がしい朝を迎えていた。
橋の国から帰国した一行が、衝撃的な報せを持って戻ったためである。
「ジェラール様…!お休みのところ大変申し訳御座いません!急ぎ、お報せしたいことが…!ジェラール様…!」
エンバリー家の家令であるその男は、随行者達からフランシア嬢の置手紙を受け取った後、すぐさま主人であるジェラールの寝室へと走った。
呼びかけに応じて、ゆっくりと扉が開く。
それは家令の狼狽を考慮しない、ひどく緩慢な動きだった。
扉の向こうから、素肌にガウンを一枚羽織っただけの美丈夫が、気だるげな様子で姿を現す。彼は青みがかった長い黒髪をかき上げながら煩そうに訊いた。
「……なんだ…」
その苛立ちが、眇められた濃紺の瞳に表れている。はだけた胸元からは引き締まった体躯が覗き、恐らくは女性の移り香であろう甘い匂いを漂わせていた。
42という歳を感じさせない彼の美貌と色香は、昔から今に至るまであらゆる女性を惑わせてきた。国一番の魔道士は天から二物を与えられているのか、または彼の魔道力には人を魅惑する妖術まで含まれているのか。この主人を前に、家令は度々そんなことを考える。――が、今はそれどころではない。
「…申し訳ございません。フランシア様に随行した者がこれを持ち帰りました」
ジェラールは黙って、差し出された紙を受け取った。目を伏せて読む彼に、家令は傍で説明を添える。
「カーライルというのは従者の1人でございます。ここで働かせていたのですが、恩を仇で返すとはまさにこのことで…。ひとまず同行した侍女がフランシア様の身代わりとなってクローディアへ向かったそうなのですが――」
ふとジェラールの後ろから、彼と似たような格好の女性が現われた。ジェラールが最近迎えた、一番新しい妻だ。
「ジェラール様…?」
「…何でもない」
彼は妻にそう応えながら、手紙を家令に返した。
「話は分かった」
「え…」
それだけ言って背を向けようとする主人を、家令は慌てて呼び止めた。
「ジェラール様…!この件の対応は…!」
ジェラールは足を止め、瞳だけをこちらに向ける。
「いらん。………放っておけ」
そして奥方の肩を抱き寄せると、片手は再び扉を閉ざす。
主人の姿が視界から遮られた後も、家令はしばらく呆然とその場に佇んでいた。
◆
朝の神殿に、高い位置から陽光が降り注ぐ。それによってより神秘的に映える祭壇の女神像を、クロエは感嘆の溜息とともに見上げていた。
「ここで私が宣誓の言葉を唱えますので、お二方は像に対して跪く形で目を閉じて頂いて…、はい、有難うございます」
神官の指示に従い、クロエは隣のジルとともに祭壇に続く階段の中腹で膝をつく。それを確認し、神官は本に記されている言葉を読み上げる。内容は神様への祈りや、夫婦になるための誓い――要するに現在2人は結婚式の予行演習中だった。
実際に式を挙げるのはクローディア帝国の皇居内に建つ神殿でになるようだが、手順を確認する意味で今日はレディオン公爵邸の敷地内で行っている。本番のものより小さいらしいが、ここも充分に立派な神殿だ。
神官の朗々とした声が辺りを満たす。
クロエはこっそり目を開くと、そっと隣を盗み見た。いつも通りの軍服を纏ったジルが、跪いた格好でそこに居る。伏せた睫が羨ましいほどに長くて、内心で感嘆した。
軽装で良いということだったので、クロエも今日は着ているだけで肩がこるような服ではなく、シンプルで生地の軽い紺色のローブ姿である。それでも正装には違いないのに、釣り合っていない気がするのは何故だろう。服装は関係なく、ジルの持つ雰囲気が華やかすぎるからかもしれない。
なんだか不思議な気分である。
たとえ真似事でも、一時でも、彼の隣で花嫁として並んでいる自分が。
ふとジルが薄く目を開いた。そしてその視線がこちらに向く。思い切り目が合ってしまい、ぎょっとしたクロエは慌てて目を逸らした。
焦った…。
「はい、では立って頂いて――」
いつの間にか宣誓が終わっていたらしく、神官の指示が飛ぶ。立ち上がると、「向き合って下さい」と言われた。
内心どぎまぎしながらジルと向き合う格好になる。
「今度はこの状態で、お互いへの宣誓となる言葉を唱えますので――」
そう言って、神官はまた何かを読み上げ始める。暫し目を伏せていたクロエは、またそっと瞳を上げた。
また目が合った。当たり前だ。
耐え切れなくなり、ぷっと吹き出してしまう。
神官の声が、一瞬止んだ。
「あ、すみません」
彼は目礼で応え、また続ける。ジルが「なに」と小さく窺った。
「ううん。ごめん…なんか…」
「なんか?」
「…なんか…」
じっと見詰められ、クロエは片手で顔を隠す。
「………照れてしまって…」
ジルは絶句した。
「ごめん。気にしないで」
慌ててそう言ったが、ジルからは何の反応も無い。神聖な場で何を言っているのかと呆れられたかもしれない。不安になって目を上げると、彼もクロエと同じように顔を赤くして目を背けていた。
クロエの視線に気付いたのだろう、拳で顔を隠す。
「……勘弁してよ。…伝染るから」
――う、うわわわわ…!!!
不意打ちで、凄いのが跳ね返って来た。
倍返しで伝染されてしまったクロエは、一気に耳まで紅潮した。
練習が終わったクロエとジルは、揃って神殿を出た。その後を数歩遅れてカミラが続く。
ジルはそのまま騎士団に戻ると言った。午前中は講義の時間で眠くなるから、抜け出せたのは幸運だったと笑う。その笑顔を間近で見るのが久しぶりに思えて、クロエの頬も一緒に緩んだ。
「クロエはどうするの?この後」
「フラウ様がお茶会に招待してくださってるの」
「あぁ、歓迎のお茶会…」
「うん、『フランシア姫を囲む会』…の、第2回目」
「俺の知らないうちに1回目が終わってる…!?」
ジルはそう言って笑うと、「どうだった?」と感想を訊いてきた。
「楽しかったよ?フラウ様もだけど、ジュディさんもララベルさんも皆感じのいい人達で」
フラウはレディオン公爵閣下の妻である。そしてジュディとララベルは愛妾だ。なんとも奇妙なこの3人の関係は、クロエが想像していたものとは少し違うということが、前回のお茶会で判明した。クロエはレディオン公爵が愛妾を招いたのだと思っていたが、実際に2人を連れてきたのはフラウだったという。
フラウには6人の子供がいて、現在7人目を妊娠中である。精力の強すぎる旦那は彼女の手に余るらしく、子育てに集中させてもらうために、自分で選んだ愛妾を招いたのだそうだ。
ちなみにジュディもララベルも以前は旅芸人一座の踊り子と歌姫で、2人とも親は無く、血は繋がっていないが姉妹のように育ったのだという。フラウのお陰で貧しく不安定な日々から抜け出せたと恩を感じていて、まるで母親のように慕っていた。
そんなわけで、本当に仲良しらしい。
緊張してお茶会に挑んだクロエは、それを聞いて心から安堵したが――。
「……でも、ちょっとやっぱり、私の知らない世界を覗いている感はあったかな…」
ジルは失笑すると「やっぱり?」と言った。
「あの人達、ちょっと変わってるからね。悪い人達じゃないけど。まぁジョシュア様もたいがい変だから、似たもの同士なんだけど」
「そうなの?」
「うん、フラウ様に愛妾見つけてもらって喜んでるあたりとか。フラウはなんて出来た妻なんだ!って…。俺だったら自分の奥さんに女をあてがわれたらヘコむけどね」
「!――そうだよね?!やっぱり普通そうだよね?!」
ジルの感覚が自分と同じであることが嬉しくて、クロエの声は自然と大きくなった。
「良かった!ジルまで”よくあることでしょ”って感じだったらどうしようかと…!」
――と、言いつつ我に返る。
ジルの感覚がどうであろうと、本当に夫婦になるわけではないのだから関係ない。一瞬舞い上がった自分が恥ずかしくて、クロエは誤魔化すように目線を地に落とした。
「うん、俺もクロエが違和感無くあの3人に溶け込んでたら焦る」
彼の返事に、クロエの胸がとくんと鳴る。そこから生まれた熱が、ふわっと広がった。
関係は、無いけど…。
やっぱり、嬉しいみたいだ。
「…そうだ。今度、皇帝陛下がクロエを夕食に招待するって言ってた」
「そ、それは…。畏れ多いな…」
「心配ないよ。会ったらびっくりするほど普通だよ。ジョシュア様もセドリック様も、あの一家は気さくな人達ばかりで……。まぁ、エドワード様だけは、俺もあんまり話したこと無いけど」
「エドワード様?」
「皇太子殿下だよ」
皇太子殿下ということは、第一皇子だ。そういえば、初めて名前を聞いた。彼はジルの竜に乗ってはいないのだろうか。
ジルは皇太子殿下について深く語ることは無く、独り言のような呟きを漏らす。
「そういえば、騎士団の奴らももっと近くで見てみたいとか言ってたな…、それは無視するけど」
「え、わ、私を??」
「うん。一応俺の結婚相手だと思ってるからね。一時的ってことは知らないし」
「…あ、そっか…」
今回の結婚が形だけのものだということは、内輪だけの秘密だと言われている。騎士団の人達にとっては、クロエが本当にジルの婚約者なのだ。興味が湧くのも当然である。でもどうせ離婚するのだから、紹介なんてしないのも当然で…。
不意にジルが足を止めた。
「じゃぁ、またね」
「あ、うん。また…」
手を振れば、彼はまぶしいほどの笑顔を残して去っていく。一抹の寂しさを感じながら、クロエはその後を見送った。
――”一時的”かぁ…。
その言葉に、ちょっとだけ切ない気持ちになってしまう自分を持て余す。
彼は最初から期間限定という前提があったからこそ、この話を受けたのだろうに。
でも時々ふと考えてしまうのだ。
あの日クロエが、また会えないかと言ってくれた彼に対して頷いていたら…。頷けるような立場だったら…。
自分達はその後一体、どんな関係を築いていたのだろう――。
「クロエ」
「はいぃっ!!!」
びくぅっと肩を震わせ、クロエは声の方を振り返った。そこには付き添ってくれていたカミラが立っている。……物凄く怖い顔で。
「あ、あれ…?”フランシア様”じゃないんですか…?」
久しぶりに本当の名前を呼ばれた。カミラは何故かすっかり素に戻った様子で、「こっちの台詞なんだけど」と返す。
「え…」
「どうしてあの人、あなたのことをクロエって呼ぶの?」
クロエは思わず蒼くなった。そういえば、カミラの前でジルと話すのは初めてだった。
彼の素性はクロエの口からざっくりと伝えてはいるものの、呼び方を本名で指定したなどということは話していなかった。
今更ながら、冷や汗が吹き出る。
「それは、あの…。愛称っていう感じで伝えてて…」
「だからどうしてそんな必要があるの?なんのために私がずっとあなたをフランシア様って呼んでると思うの?」
しどろもどろのクロエに、カミラは鋭く突っ込む。反論の余地も無く、クロエは赤くなって俯くことしか出来なかった。
カミラはそんなクロエの様子に、語気を和らげる。
「ねぇ…。こんなこと言うまでもないって思ってるけど…。あの人のことを好きになっても辛いだけよ?あなたはフランシア様じゃないんだから。…分かってるわよね?」
諭すというよりも、乞うような口調だった。
クロエは声も無く、ただ頷いて応えた。それは凄く、物凄く、分かっていた。
大丈夫、これは恋じゃないんだから。
身分が違うし、歳も大きく違うし、彼はちゃんと離婚するつもりだし…。
あの夜、私達の間に恋なんて生まれてはいない。
ただ少し、慣れない恋の幻に、翻弄されているだけ――。