白い結婚
公爵の目の前でぶっ倒れるという失態を犯したクロエは、今度こそ医師のもとへ運ばれることとなった。
結果としてただの貧血で、旅の疲れが出たのだろうという結論になり(二日酔いとは言えなかった)、ひとまず休息を優先するため、予定されていた歓迎の晩餐会は後日に延期となった。
カミラ達がまだ到着していないので着替えは公爵家のものが用意され、食べやすいものをと具を柔らかく煮込んだスープまで出してくれる。手厚く介抱して貰い、クロエはすっかり病人の体でベッドに横になっていた。
とりあえず、善い人達で良かった…。
ふと部屋の扉が叩かれ、クロエはハッと目を開く。寝ているクロエの代わりにメイドさんが応対に出てくれた。
「フランシア様。ジュリアン様がいらっしゃいました」
戻った彼女にそう告げられ、クロエは誰だろうと首を傾げる。だが直後、ぶっ倒れる前の記憶が甦った。
”これの名はジュリアン・ヴィンス・クローディア。私の義理の弟であり、我がクローディア帝国の4番目の皇子であり、一時的にきみの夫となる予定の男だ”
「もしお休みでなければ、少しお話させて頂きたいと仰っておりますが」
「だ、大丈夫です!!」
即答して、クロエは勢いよく起き上がった。
寝間着の上にガウンだけ羽織って、クロエはジルを迎えた。案内されて入って来た彼の姿が目に入っただけで、心臓がうるさく騒ぎ出す。彼は先程とは違い、グレイのシャツに黒いズボンという恰好になっていた。腰に銃や剣を携えることのできる太いベルトを巻いているところを見ると、軍服を上だけ脱いだようである。そんな気を抜いた格好すらお洒落に映るから、美形は凄いと感心してしまう。
ジルはメイドさんに椅子を用意してもらうと、見惚れるクロエの傍らに腰を掛けた。
クロエのお世話をしてくれたメイドさんはそれで退がり、部屋には2人だけになる。パタンと扉が締められる音が遠くで聞こえると、自然と視線が合った。
「……」
「……」
暫しにらめっこ状態になったが、不意にジルがぷっと失笑する。
勝った…。――じゃなくて。
「な、なに?!」
「いや、ごめん。分かりやすく”なにもんだコイツ”って顔してるから」
「――っ…!」
そんな顔してた?!
思わず両手を頬に当てたクロエを見て、ジルは「あ、いいよ。無理もないから」と言って笑いをおさめる。
「……ちゃんと説明する。そのために来たから」
そう言いながらも、ジルは何から話せばいいのかを決めかねているらしい。口元に手を当てて考え込んでしまう。そんな彼を手助けするように、クロエは一番気になっていることを口にした。
「…私の結婚相手が……ジルだって…本当…?」
彼は即答はしなかった。僅かに間を置いて、小さく頷く。
「うん」
認められると、どんな顔をしていいのか分からなくなる。それでも昨日からずっと強張っていたクロエの心は、その瞬間ふっと柔らかさを取り戻した。
ほっとしたらしい。自分の心情をそう分析する。
結婚の事実は変わらないのに、クロエは自分でも驚くほど気持ちが楽になっていた。思わず良かったと呟きそうになったが、ジルの様子を見て言葉を呑む。まだ俯いたままの彼は、クロエとは逆に、堅い顔をしていた。
「……ジル…」
「ん?…あぁ、ごめん。それで………何から話そう…」
「もしかして……ジルも無理やり結婚させられるの…?」
そうとしか思えない表情だった。少なくとも喜んではいないということが伝わって来て、浮き上がりかけたクロエの心は再び重くなる。だがジルは「そんなことないよ」と否定して、驚くべきことを告げた。
「そうだ、伝えておかないと。結婚といっても俺達の場合、形だけだから。皇帝陛下は時期がきたら、きみをル・ブランに帰してあげるつもりでいるんだ」
とっさに意味を理解できず、クロエは暫し固まった。
「………嘘…」
「嘘じゃないよ」
そんなことが有り得るのだろうか。だが、言われてみればレディオン公爵も同じようなことを言っていたことを思い出す。
「そういえば、ジルのことを…一時的に夫になる人って…」
「うん。結婚したっていう風に世間には見せるけど、実際に夫婦になるわけじゃないし、時期を見て関係は解消する。魔道の国から来た花嫁を、クローディアの皇子が受け取ったっていう事実を世間に伝えられれば、それできみの役目は終わりだから」
「クローディアの……皇子、様…?」
それは誰のこと?と言外に問い掛ける。ジルはうっと詰まり、きまりの悪い顔になった。
「まぁ、一応俺のことだよ。実際は”皇子”なんてもんじゃないんだけどね…」
「それってどういうこと?」
「俺の母親は、現皇帝の奥さんなんだ」
さらりと告げられた事実は、かなり衝撃的なものだった。
「……奥さん…、え、皇妃様?!皇帝陛下の?!」
だとすれば、ジルは紛れも無く皇子様だ。そう結論付けようとしたが、彼はさらに続ける。
「うん。でも後妻だし、俺は連れ子だから皇帝との血の繋がりは一切無い。結婚したのだってついこの間で、まだ一年も経ってないんだ。皇族の籍にはなんとなく入れられてるけど、当然、皇位継承権だって無い。”皇子”なんて言われても困るんだよ。…って散々言ってるんだけどね…。あの人達は全く人の話を聞かないから」
ジルはやれやれという顔で嘆息する。あの人達…というのは誰か分からないが、ジョシュアが含まれていることは間違いない気がする。
だから”義理”の弟なのか…。
「……ジルの本名は…、ジュリアンっていうの?」
「うん」
「じゃぁ、ジルっていうのは愛称なんだ…」
「愛称っていうか、通称っていうか……。偽名だよ。ずっとジルで通してたから、そっちが定着してるだけ」
「偽名??」
「偽名を名乗っていた時期があったんだ。俺も、俺の母親も」
思い掛けない答えに、クロエは絶句する。偽名を名乗らなくてはならない状況が、まるで浮かばない。ジルは徐に話を続けた。
「俺の母親は、もとはけっこういい家の生まれなんだ。でもクローディアじゃなくて、西のラフレシア王国……って知ってる?」
「……ごめんなさい。あんまり…」
「クローディアの西の隣国だよ。母さんはそこの公爵家の令嬢だった。…で、ずっと昔に一度結婚したんだ。けど、まぁ…色々あってうまくいかなくなって…結局、母さんはその家から出る道を選んだんだ。その時にはもう、俺が生まれてたんだけど」
色々あってと言ったジルは、少し苦い顔になる。それでクロエは、かつて彼が言っていた言葉を思い出した。
”俺の母親は確かに美人だし、たぶん人からは恵まれているように映ったと思うけど、…いいことばかりじゃなかった”
そう言った彼の憂いを帯びた横顔が、今のジルと重なる。何があったのかは気にはなったが、詳しく訊き出す気にはなれなかった。
「家を出たって言っても、…まぁ、分かりやすく言うと逃げ出したんだよ。俺を抱えてね。だから流石に実家には戻れなかった。身寄りが無いって言って、教会を頼ったんだ。そこでお世話になりながら仕事を探して、俺を育てることにした。その時から俺の名前は”ジル”になったらしい。ちなみに母さんはエヴァンゼリンっていうのが本名だけど、”リゼ”って名乗ってた」
前の家の記憶はまるで無いと、ジルは語った。彼はその時まだ3歳だったそうだ。
「俺は育ってからは庶民の学校に通ったし、友達は全員庶民だったからね、貴族や皇族なんて一生縁の無い世界だと思ってたんだ」
ジルの母は、息子に生家のことは何も語らずにいたのだ。話を聞きながら、クロエは彼女の現状を思い出して顔を顰めた。その時の生活は、もう続いてはいない。
「じゃぁ…お母様は…、生家に見付かって…」
今度は皇帝との政略結婚の道具に――?
言葉を続けられずに口を噤むと、ジルは「そうだけど、でもまぁ、皇帝との結婚に至ったのはそんな悲惨な話じゃないよ」とクロエの懸念を否定した。
「そもそも皇帝と先に知り合ったのは、母さんじゃなくて俺だったからね」
そしてまた、さらりととんでもないことを口にする。
「え、えぇ?!」
「結果的に、俺の友達が母さんと結婚することになったっていうだけの話で…」
「――ともだちっ?!」
驚くべき関係性が飛び出てきた。皇帝陛下と友達になる庶民なんて、聞いたことが無い。呆然とするクロエに、彼は順を追って皇帝とのなれそめを話してくれた。
それはジルが12歳の頃のことだったという。
彼は学校に通う傍ら、配達屋の仕事を始めた。決して豊かとはいえない教会での暮らしの中で、母親のためにというよりは、自分の小遣い欲しさが動機だった。仕事は回収した手紙や荷物を馬車で隣街まで運ぶという、内容だけは簡単なもので、給金も悪くなかった。ただ夜に集めて、夜通し馬車を走らせて運んで戻って来るというのは、子供には想像以上にしんどいもので、学校との両立は段々と難しくなっていった。
母親は当然いい顔をしなかった。
お金ならあげるからやめなさいと言われてムキになり、ジルは遂に奥の手を使った――。
「…奥の手?」
「竜だよ」
そう答えて、ジルは苦笑を漏らした。
ジルは物心つく頃には、もう自分が竜を呼べることを知っていた。何かで気付いたという記憶も無く、ただ”知って”いたのだ。
ただ母親には絶対にやってはいけないと禁止されていた。
だがやってはいけない理由が分からなかったし、夜にこっそりならばバレないだろうと高を括って竜を使い、――結果として、目撃した人によって役所に通報された。
報せを受けた役人は、直ちにジルを迎えに来た。
結果、彼のル・ブラン行きが決まったのだ。
クロエは息を呑んだ。それは彼が竜の上で話してくれた話と同じだった。ジルは昔を思い起こすように、遠い目になる。
「怒られるかと思ったんだけど…母さんには泣かれた。我慢強い人で、それまで子供の前で泣いたりしたことはなかったのに。…それで初めて俺は、自分が仕出かしたことの重大さを理解したんだ。……遅かったけどね」
ジルはそう言って、自嘲的に笑った。
ふと押し黙るクロエに目を遣る。そして柔らかく目を細めた。
「そんな顔しなくても、結果的に戻って来てるから大丈夫だよ。俺は結局、竜と相性がいいだけの、ただの人間なんだってさ」
そうだ。彼はこうして戻って来ている。
それはジルの母にとってどれほどの歓びであったか――想像して、クロエの胸は熱くなる。
「……つまり、ジルはただ竜に好かれてるだけっていうこと…?」
「そういうこと」
「…それは…どうして…?」
「そこは俺じゃなくて、竜に訊いて貰わないと」
…尤もである。
「魔道士じゃないって判定を受けた後は、むしろ堂々と竜を使えるようになったんだ。凄く重宝されたよ。どれだけ遠い場所でも、俺ならその日のうちに届けられるからね。おかげさまで、当時の俺はちょっとした有名人になった。その噂は隣の国まで届いたらしい。…で、ある日、おびき寄せられたんだ」
「おびき寄せられた??」
「皇帝陛下にね」
クロエは思わず目を丸くした。
「クローディアの皇帝陛下に急ぎの書簡を届けてほしいっていう仕事が入ってさ。流石に驚いたけど、報酬が高かったからやるって言ってさ。竜で運んだら、そのまま皇帝のもとに連行されて…」
捕まるのかと思ったよと、ジルは肩を竦めた。
皇帝陛下は、12歳のジルの目に優しそうなおじさんとして映ったという。身構えたものの、彼はジルを歓迎し、もてなしてくれた。そして、自分も一度でいいから竜に乗ってみたいのだがなんとか乗れないだろうかと、相談を持ちかけてきた。
彼は昔から竜に憧れがあり、密かに竜笛を練習したこともあったらしい。だが竜笛の出す音は特殊で、ほとんどの人はその音色を聴くことすらできないのだ。皇帝陛下も例外ではなく、吹ける吹けない以前に、音が聴こえる耳を持っていなかった。
それで諦めていたのだが、竜笛を使わないで竜に乗れる子供がいるらしいと聞きつけて、どうしてもジルに会いたくなったのだと熱く語った。
ジルは快く、彼の願いを叶えた。
優しいおじさんは念願叶って大空を飛び、感動のあまり涙を流した。
そんな彼の顔を、ジルだけが知っている。
「一度でいいからなんて言われたけどさ、それだけ喜ばれるとこっちも悪い気しないから。俺はそれからよく、皇帝を空の散歩に連れ出してあげるようになったんだ。そのうち話を聞いたジョシュア様とセドリック様も加わりたいって言いだして――あぁ、セドリック様は第三皇子なんだけどね――そんなに何人も乗れないから順番に…って。あんまりはしゃぐから、この人達本当にエライのかなって疑問に思ったよ」
そんな図を頭に描いてクロエはくすくすと笑った。お城の中で暮らすエライ人達には、エライ人達なりの苦労があって、ストレスを溜めているに違いない。
彼等は子供だったジルから癒しをもらっていたのだろう。
だからジョシュアも彼を、親しみを込めて”ジル”と呼ぶんだと納得した。
「…そのうち、陛下は俺に騎士団に入れてやるからクローディアに来いって言い始めたんだ。学校があるって言ったんだけど、騎士見習いになればお給金を貰いながら勉強もできるんだって口説かれて…。良い話ではあったけど、流石にそこまで世話になっていいのかっていう迷いはあった。でも母さんの後押しもあって、結局受けたんだ。おかげで俺は母さんを養うことが出来る身分になったから、素直に感謝してるんだけど…」
「騎士団に入ったのは、お母さんの結婚前なんだ」
「うん、俺が13の時に」
色々と腑に落ちた。騎士団の人達にとってはジルは仲間なのだ。だから一緒に呑みにいくのも当然で…。
団長がクロエの前ではジルを”あの方”と呼んだのも、いかにも付け焼刃の尊称だった。普段はそういう扱いではないのだろうが、魔道国の姫にとっては彼が結婚相手だから、無理に畏まっていたのだろう。
「皆の方が戸惑っちゃうだろうね。ジルが皇帝陛下の家族に入っちゃって…」
「気にしなくていいって言ってるし、気にしてないと思うよ。俺は別に何も変わってないから。母さんの方が随分迷ってたかな。自分の結婚が俺にとって良くないんじゃないかって」
「それは……相手が皇帝陛下だもんね。思うよね…」
「うん。まぁ陛下の粘り勝ちだったけど」
「粘り勝ち?!」
そもそも最初のうちは皇帝の一方的な片想いだったんだと、ジルは笑った。
ジルとの繋がりで彼の母親に知り合った皇帝は、一目で彼女に心を奪われた。それでもジルの手前、強引な手に出ることはなく、だいぶ長い間打ち明けることもできない想いを抱えていたらしい。
その頃既に前妻を失って長かった彼にとっては、久し振りの恋だったのだ。
そのうち時間をかけて想いを伝えることができた皇帝だったが、結婚に辿り着くのはそう容易くはなかった。身分の無いジルの母を皇妃に迎えるのは難しく、ならば愛妾として…というのは、彼女の方が頷かなかった。
愛妾にされるくらいなら、会うのはこれきりにして欲しいとまで言ったという。
「最初の結婚の時、母さんは4人の妻のうちの1人だったんだ。それで辛い想いをして別れたから…いつか皇妃を迎えなくてはならない事態になるかもしれないと思ったら、愛妾になるのは怖いと思ったらしい。…つまりは、それだけ母さんの方も皇帝陛下を慕うようになっていたってことだけどね」
クロエは内心でジルの母に共感していた。同じ女として、その気持ちはよく分かる。
先程見たようなジョシュアの妻達の和やかさは、普通だったら有り得ないだろう。
「結果的にどうしたかというと、皇帝はラフレシア王国のヴィンス公爵家に対して申し込んだんだ。そちらのご令嬢のエヴァンゼリンを私の妃に頂きたいってね」
「!……そうか…、お母様のご生家は…!」
「うん、ラフレシアの王家の一族だからね。丁度、ラフレシアとの同盟の話も出ていたことが幸いして、話はとんとん拍子に進んだ。母さんは長いこと絶縁状態だった親元に戻って、もう一度嫁に出されることになったっていうわけ。皇帝陛下の正式な妃としてね」
素敵…!と呟きつつも、クロエはハッとする。
「前の結婚相手は?!問題になったりは…」
「ならなかったね、幸い」
「…………ならないんだ…」
あっさりとした答えに、そういうものなのかと内心で呟く。クローディア帝国がそれだけ他国にとって脅威の存在だということだろうか。ジルの語る皇帝陛下からは、あまりそういった怖さを感じないけれども…。
「…以上かな。俺が何者かについての説明終わり」
ジルは両手を広げてそう言うと、話を締めた。
「……有難う。…すごくよく…分かったんだけど…」
「けど?」
「…その皇帝陛下がお決めになったことなの?…あの、形だけの結婚って…」
「うん」
どうして?とクロエは目で問い掛ける。ジルはそれに答える代りに、逆に訊き返して来た。
「…クロエは、人の地に嫁いできた魔道国のお姫様が、どんな扱いを受けるか知ってる?」
「……どんなって…」
「魔道士の姫は、暗黙に白い結婚が義務付けられてきたんだ。そのために王宮から離れた場所に住まわされて、孤独な一生を終えた人も居たらしい。子供は産ませないけど、魔導士の妃が居るというだけで箔が付くから手放さない。そんな結婚に何の意味があるのか分からない。ただの飼い殺しだよ」
嫌悪感を露わに、ジルはそう吐き捨てた。クロエにとっては初めて聞く話で、俄かに信じがたい。思わず「嘘…」と呟いていた。
「嘘じゃない」
「だって白い結婚って……どうして?」
「条約があるからだよ。人の地で生まれた魔道士は、ル・ブランに引き渡さなくてはいけない。そう決められているのに、魔道の国の姫に子供を産ませて、その子が魔道に目覚めたら…?世継ぎがル・ブランに奪われることになる」
クロエは絶句した。それは言われてみれば、その通りで――。
「今回はクローディアが結婚の権利を得たけど、皇帝陛下は最初からきみをこの地に縛りつける気は無かったんだ。だから一時的なものとして誰かが結婚して、ほとぼりがさめた頃にこっそり帰してあげるよう言われてる。相手は誰でも良かったんだろうけど、まぁ結婚してないのは俺だけだし、俺が相手なら…万が一にも、間違いは起こらないだろうって……」
ジルの言葉尻が小さくなって消える。
クロエも何も言えず、俯いた。
間違いは…………既に起こった後だ。
気付けば、ジルは両手で頭を抱えていた。
「………ほんと、ごめん…」
そんなに真剣に謝られると、胸が痛い。でも彼の自責の理由が、漸く分かった。すぐに帰してあげるのだから、名実ともに白い結婚でなくては相手に悪い。恐らくそう言われているのだろうに、蓋を開ければ知らずに手を出した女が現れたのだから…。
「あの…。それに関しては……私の責任なので…」
第一、フランシアでもないのだから問題は何も無い。…とは言えないのだけれど。
皮肉なものだ。愛する人と添い遂げたいからと駆け落ちまでしたフランシアのことを、相手側はこんなにも親身になって考えてくれていたなんて。
その心が、クロエの胸に刺さる。
「………きみがル・ブランのお姫様だなんて、思いもしなかった…。…俺の勝手な想像では…、もっといかにもお嬢様っていう感じの子が来るんだとばかり思ってて…」
……やばい。庶民臭がダダ漏れている。
クロエは慌てて取り繕った。
「わ、私の母親が庶民出身だからかな。わりと雑に育てられて…」
少々苦しい弁解になった。実際にジェラール・エンバリーには幾人もの妻がいるので、その中の1人くらい庶民でもおかしくない…と思いたい。
「…なんか、ごめんね…。期待を裏切っちゃって…」
クロエが自嘲的な呟きを漏らすと、ふとジルが顔を上げる。
「………逆だよ…」
独り言のように、ごく小さく呟いた。
「え…」
「――とにかく、式は来月になったから。俺の誕生日の後に」
「あ、結婚式…」
形だけとはいえ、式の日程を告げられるとまた鼓動が跳ねてしまう。それを誤魔化すように、クロエは「来月誕生日なんだ。何歳になるの?」と話を変えた。
「16」
さらりと返って来た答えに、時が止まる。
「………え」
じゅう……ろく……。
じゅうろく?!
16?!?!
時間をかけて頭の中で変換したが、結論はひとつ。クロエは「え、え、え?!」と声を上擦らせた。
「え、だって、成人してるって…!」
「だから来月成人するよ。あと何週間かで」
頭を殴られたような衝撃が襲った。
知らなかった。クローディアでの成人年齢は16歳だったのか。
つまり彼は現在……――15歳?!?!
「えぇぇえぇぇ!!!」
「…なに?」
「う、嘘吐いた…!成人してるって…成人してるって嘘吐いた…!」
「だから来月で16だって。ちょっとの誤差じゃん。ダメなの?」
ダメだよ犯罪だよ!!!――という絶叫はなんとか内心に留めた。
明らかに引いているクロエを見て、ジルは納得いかなそうに眉を顰める。
「自分だって16でしょ?たいして変わらないじゃん。なに大人ぶってんの」
――いや大きく変わるから!!5歳も下だから!!
と、口には出来ず、クロエははくはくと虚しく口だけ動かした。今はフランシアなのだから、クロエも16歳だ。騒いだりしたらおかしい。おかしいのだが――。
20歳にしては若いと思った。
というか、見たままの年齢だった。
私というやつは、15歳の少年とあんなことやそんなことを……!
クロエの動転を他所に、ジルはふと腰を上げる。
「さて…。長くなったね、ごめん」
そしてクロエを見下ろし、どこか大人びた微笑みを浮かべる。
「じゃあね」
あぁ…そういう顔や仕草が子供らしくないから、お姉さんはうっかり犯罪を犯してしまったのだよ…。
内心でジルに責任を転嫁しつつ、反省の無いクロエの胸は、きゅっと締め付けられる。
「ところで、俺は結局どっちで呼べばいいの?クロエと、フランシアと」
改めて問われ、クロエは硬直した。どう答えるべきか、頭は分かっていた。それでも口からは、心のままに願望が漏れる。
「………クロエがいい…」
「ん、分かった。おやすみ、クロエ」
そう言い残して、クロエのかりそめの夫となる人は、部屋を出て行った。
扉の音が後に続く。
クロエは枕に頭を戻すと、両手でそっと顔を覆った。手に伝わる熱から、自分が真っ赤になっていることを知る。
しっかりしなくては。大人なのだから。
うるさい鼓動に、叱りつける。
5歳も年下の少年に、心乱されている場合じゃないんだから――。
◆
その後、クロエが眠っている間にカミラ達もレディオン城に到着した。
目が覚めて顔を合わせると、クロエは真っ先にカミラに事の次第を報告した。
フランシアの結婚は形だけだったのだと聞かされたカミラは、目が零れんばかりに驚愕した後、空を仰いで絶叫した。
「良かった――!良かった!良かった!神様有難うございますーーー!!!」
興奮のあまり、彼女はクロエにしがみついてきた。その肩越しに、綺麗な部屋を眺める。本当に喜ばしいことなのに、何故かクロエの心は1人置いてけぼり状態だった。
「私正直、身代わりなんて立てたはいいけど、フランシア様が戻って来てくださる気はしていなかったの。もうこの地に骨を埋めるしかないんだろうと思ってたわ」
芝居も忘れ、カミラは言う。
「え…」
意外な言葉だった。カミラは侍女ということになっているのだから、結婚が成立した後はル・ブランに戻るのだと思っていた。クロエの思いを読んだように、カミラは苦笑する。
「あなたの人生をぶち壊すような真似したのよ?私だけ戻れるわけないじゃない」
「……女官長…」
「カミラだってば!」
「あ、それまだ続いてるんですね」
「当たり前でしょう?!終わりが見えたら俄然ヤル気が湧いたわ。あなたがこのままフランシア様として無事に離婚にまで行き着いてくれたら万事解決、めでたしめでたしよ!頑張りましょう!――ね?!」
「…………はい」
クロエはカミラの瞳を、ぼんやりと見返しながら応えた。
フランシアとして、永遠に生きていくことなんてできない。だから離婚で万事解決、めでたしめでたし――その通りだ。
そう頭で唱えながらも、クロエの胸中には得体の知れない靄が立ち込めて、自分の心さえよく見えなくなっていた。