婚約者との対面
突然倒れ込んだ花嫁に、その場は騒然となった。
「フランシア様、大丈夫ですか?!」
ただ躓いただけだと思ったのだろう、カミラが慌ててクロエを支え、立たせようとする。けれども貧血状態のクロエは、それに応じることが出来なかった。霞んだ視界に、駆け寄る軍靴が映る。
「如何致しましたか?」
「…申し訳ありません。フランシア様のご気分が優れないご様子で…」
カミラの声が遠く聞こえる。軍靴は3人分。彼が直ぐ傍に居るのだと思うと、顔を上げることも出来なかった。橋の国を離れたことで、今はもうフードも被っていない。
「直ぐに医師を呼んで参りましょう」
壮年の男性がそう言って動きかける。
「――団長」
不意に口を挟んだ若者の声に、クロエの心臓は激しく跳ねた。それは昨夜耳に焼きついたまま離れない、彼の声だった。
「ここで足止めになるよりは、レディオン城でゆっくりお休み頂いた方がいいかと思います。医師もいますから。俺がフランシア姫だけ先にお連れします」
「だがそれは…」
「非常事態ですから。ジョシュア様には俺の方から説明しますので」
団長と呼ばれた男性は、渋りながらもジルの提案を受け入れたようだった。話は入って来るのに意味はよく分からない。それはカミラも同じだったようで、「お待ち下さい」と2人に割って入った。
「姫様をどうなさるおつもりですか?先にお連れするって…どのようにして…?」
「竜を呼びます。竜の翼ならレディオン城まで直ぐですから」
クロエは更に血が引くのを感じた。まさかここで竜に乗って行けばいいという話になるとは思っていなかった。
だがクロエを魔道士の姫として考えれば妥当な提案ともいえる。残念ながら、クロエにそんな芸当は不可能だが。
クロエと同じように解釈したのだろう、カミラも直ぐ「とんでもありません!」と声を上げた。
「姫様はご気分が優れないのですよ?!魔道を使える状態には御座いません!」
「勿論です。フランシア姫に呼んで貰おうという話ではありませんのでご心配無く。――失礼」
軍靴が動いて、ジルが1人その場を離れる。漸く顔を上げることが出来たクロエは、その背中を見送った。彼は人の居ない方へと歩いていく。ある程度開けた場所で足を止めると、ふと空を仰いだ。
広大な芝生に佇むジルの姿は一枚の絵のようだった。惜しみなく降り注ぐ陽光がその場を更に神秘的に彩る。まるで昨夜の夢の続きかと思う幻想的な光景だった。
――その時突然地面に巨大な影が生まれて、迎賓館の前庭を滑るように流れた。
思わず空を仰いだクロエは、次の瞬間視界に入ったものに我が目を疑った。青天の上空、そこには巨大な翼竜が姿を現していた。
雄大な空を大きく旋回しながら、竜が一声高く鳴く。
その巨体が作る影で、前庭の半分が包み込まれる。
それはいつも見るような距離ではなかった。ありえないほど低空を飛んでいた。その翼の起こす風が、こちらまで届くかと思う程に。
誰もが言葉も無く、空を見上げていた。ジルの上に、竜の大きな影が被さる。それが徐々に濃くなっていく様を、クロエは呼吸も忘れて見詰めていた。
全身青銅色の翼竜が、ゆっくりと舞い降りる。ジルの居る場所へ。やがて2本の足が地につくと、竜は立派な翼を畳み、その場に落ち着いた。
瞬間、クロエの耳には先程の彼の言葉が甦る。
”竜を呼びます”
そうだ。彼は「呼んでくれ」とは言わなかった。「呼びます」と、そう言ったのだ。
「あの人は……竜騎士ですか?!」
カミラが上擦った声で訊いた。訊かれることは分かっていたのだろう、騎士団長は「いえ…!」と即座に否定する。
「違うんですか?!でも…!」
「…申し訳ありません。こうして混乱を招くことが分かっていたので、公爵には馬車でお連れするよう言い付かっておりましたが…。彼はあなた方の意味する竜騎士とは、厳密には違います。軍人が竜笛を用いて竜を扱うことは法で禁じられておりますし、そもそもあいつ…いえ、あの方は竜笛使いではありません」
「…では…」
「――いえ、魔導士でもないのです。恐れ入りますが、あの方に関しては後ほど公爵の方から改めてご紹介頂けると思われますので…」
団長は言外にそれ以上の追及を退けた。カミラは困惑顔で口を噤む。
――”あの方”…?…”ご紹介”…?
団長の言葉の端々が、激しい違和感とともにクロエの耳に残る。
ジルは見たところ騎士団の一員だが、団長と肩を並べて出てきたところを見るからに、ある程度高位な立場に居る人なのだろう。だが騎士団の最高位である団長が尊称を使うということは――彼より”家柄的に”身分が上ということに…。
クロエは思わず内心で頭を振った。それは有り得ない気がした。
決して育ちが悪いとは思わないが、昨夜のお店はとても庶民的だったし、彼自身にだって良家の子息らしい近寄りがたい雰囲気は微塵も無かった。そうでなかったら庶民のクロエがあんな早々に打ち解けられる筈がないではないか!
と、なると――…実はよく似た別人?
願望に近い結論を強引に導き出してはみたものの、釈然としない。クロエは混乱しながら、とてもよく知っているようで、実は何も知らない彼へと再び目を向けた。
ジルは翼竜の傍を離れ、クロエ達の方へと戻って来るところだった。カミラのあからさまな奇異の目を気にする素振りも無く、クロエの側まで来ると、傍らに片膝をついて身を屈める。
「失礼します」
「っ、え…!」
背中と膝の裏にジルの腕が差し込まれ、次の瞬間には体が浮き上がる。気付けばクロエは、ジルに横抱きにされていた。
覚えのある髪の香りに、全身がかっと熱くなる。
「――フランシア様…!」
「あなたは侍女の方ですか?」
「っ…、は、はい」
ジルに問われ、カミラはぎこちなく頷く。
「フランシア姫は自分が先にお連れします。恐れ入りますが、馬車で追っていらしてください。――団長、後を頼みます」
「畏まりました」
恭しく敬礼する団長に、ジルは居心地悪そうな顔になる。だが何も言わず、その場を離れた。
謎のやりとりにまた激しく混乱するも、答えを得る間も与えられず、クロエはジルに連れられていく。カミラに助けて下さいと目で訴えるも、効果は全く無かった。
翼竜は、ジルが戻って来ると長い首をもたげてこちらを窺った。その目に居竦められ、クロエの全身は恐怖に凍り付く。
ジルは迷い無く歩み寄るが、クロエにとってはこの距離で竜と相対するのさえ初めてのことだ。
その巨体に、ただ圧倒される。
間近で見れば、青銅色の表皮はいかにも硬そうで、鎧のようだ。巨大な頭から背にかけては尖ったひれが幾つも繋がっている。爬虫類系の顔には金色の眼がらんらんと輝き、大きく裂けた口には鋭い牙がびっしりと並んでいた。
もしジルに抱かれていなかったら、とっくに逃げ出しているところだった。
ジルが足を止めたのに合わせ、竜は徐に巨体を伏せる。頭から尻尾まで全身、翼すらぺたんと地面につけ、彼を迎えるように背を空けた。ジルは竜の硬い表皮を足掛かりに、クロエを抱いたまま慣れた足取りで登っていく。やがてひれの付け根あたりに辿り着くと、そこにそっと下ろしてくれた。
「では、飛ばします」
――えぇっ、いきなり!?!?
相手がフランシアだと思っているせいか、ジルからは何の説明もなかった。更に恐ろしいことに、翼竜には手綱らしきものがついていない。手掛かりといえばひれくらいだが、掴んでいいのかどうかもわからない。フランシアの振りをしている以上質問するのも躊躇われ、焦りまくるクロエを他所に、両の翼がぐわっと跳ね上がる。
瞬間、クロエの恐怖は限界を超えた。
「きゃあぁぁぁ!!!」
クロエが絶叫とともにジルにしがみつくのと、竜の体が大空へ向かって飛び上がるのが同時だった。
ごぉっと風の唸る音が、後に続いた。
激しい揺れや突風を覚悟して、クロエは固く目を閉じていた。だが暫く経っても、いっこうにそれらは襲ってこない。恐る恐る目を開くと、視界には既に果てしない青空と、竜の体しか無くなっていた。
「…………あれ?」
ここは何処だろう。地面は僅かに揺れてはいるが、まさか上空ではあるまい。気温やら気圧やらの変化を全く感じない。
「……飛んで、ない?」
「飛んでるよ」
耳元で声がして、クロエは我に返った。思い切りしがみついていたものがジルの体だったことに今更気付き、慌てて飛び退く。
「ご、ごめんなさい!!」
「うわ、待った!!」
だがクロエの腕は即座にジルに捕まれ、再び引き戻された。その反動で、彼の胸に顔から突っ込んでしまう。
「飛んでる竜の上で暴れるなよ!落ちたらどうするんだ!」
「ご、ごめんなさい…」
怒られて、再度謝る。顔を上げた瞬間ばっちり視線がかち合い、クロエは全身硬直した。その紫色の瞳を明るい場所で見たのは思えば初めてのことだった。
「……す、すみません、でした…」
暴れる鼓動を自覚しながら、クロエはそっと彼から距離をとる。ひとりで動揺しているのが、今更ながら恥ずかしかった。
ジルが驚いている様子は無いし、きっと気付いていない。そういえば化粧をしているのだ。分からなくて当然だ。安堵と落胆が入り混じった思いでそう結論付けると、不意にジルの声が思考に割り込んだ。
「昨日ぶりだね」
「――ひぃぃぃ!!!」
「だから動くなって!!」
あまりの驚きに再度飛びすさろうとして、またもや捕獲される。目を見開いて固まるクロエに、彼は半眼になって言った。
「どう?二日酔いの具合は」
「ひえぇぇぇ!!」
「…いちいちなんなの、その反応は…」
「――い、い、い、いつから気付いてたの…?!」
「目が合った瞬間分かったよ。なに、分からないと思った?」
ジルは分かりやすく不機嫌だった。全身冷や汗が吹き出る思いで、クロエは小さく返す。
「……思った…」
「あ、そう…」
ジルが口を閉ざす。
何をどう言っていいか分からず、そのまま暫くお互いに沈黙した。
竜の立てる翼の音を聞きながら、居た堪れなさが募る。その気まずい時間を、不意にジルの問い掛けが遮った。
「………本当に、きみがフランシア姫なの…?」
そう確認したくなるのは当然といえば当然だが、もしや疑われているのかとクロエは蒼くなった。それでも認めるしかなく、「はい」とぎこちなく頷く。
「……”クロエ”ってなに」
指先まで冷たくなる。迂闊に本名を名乗った昨夜の自分を呪っても、もう遅い。
「それはあの…。愛称っていうか…、お母さんにもらったもうひとつの名前で、正式な名前はフランシア・クロエ・エンバリーなんだけど…公式の場ではフランシア・エンバリーで通していて…」
苦しいだろうか。無理があるだろうか。不安でいっぱいだったが、ジルは疑う様子は無く、そっかと呟いただけだった。
「……び、びっくりしたよね…。ごめんね…。私も……びっくりしたけど…」
「びっくりしたなんてもんじゃ…」
ジルの言葉は力無く途切れ、残りは溜息として吐き出された。頭を抱え、立てた膝に顔を伏せてしまう。その憔悴ぶりから、クロエは今更彼の立場に思い至った。ジルが何者かははっきりしないが、公爵の臣下であることは間違いない。――と、すると彼は結果的に主人の花嫁に手を出してしまったことに…。
さーっと音を立てて血が引いた。
今更だけど…本当に今更だけど…――大変なことを仕出かしてしまった…!!
ジルに責任を負わせるわけにはいかない。動かなくなった彼に、クロエは慌てて声を掛ける。
「あ…あの!大丈夫よ?私、言わないから!絶対に言わないから!…私、あなたにはとっても感謝してるから…。だって、皇族のお嫁さんが生娘じゃないっていうのは問題でしょ?これで破談になるかもしれないから!…あ、もちろんそんな事態になってもあなたの名前は絶対に出さないけど…」
クロエの声が届いているのか否か、ジルは顔を上げない。
その絶望は当たり前だろう。騎士は君主に絶対の忠誠を誓う者。知らぬこととはいえ裏切ったという思いが、彼を苛んでいるに違いない。そしてそんな思いをさせているのは、クロエなのだ。
罪悪感と自己嫌悪で泣きたくなる。
だがジルは再び大きく嘆息すると、漸く顔をあげて言った。
「………そんな心配……してないよ」
「え――」
――途端、ふわっと一瞬体が浮いた。
悲鳴を上げてジルの腕にしがみつくと、彼は不思議そうに問い掛ける。
「…竜に乗るの、初めてなの?」
……マズイ。
こんな調子ではバレてしまうと焦ったが、それ以上に怖い。とても平気な振りなど出来そうになくて、クロエはしどろもどろに言い訳した。
「…えっと。父はもちろん乗れるんだけど、私には竜を操る力は無いの…。ごめんなさい…実は魔道はそんなに強い方じゃない…かも…」
「そっか…ごめん、勝手に乗れるものと思い込んでた」
「ううん、そう思うのは当然だから…。…でも、びっくりだった。本当に飛んでるの?って思うような乗り心地で…」
「俺達は今、竜が張る結界の中に入ってるんだよ」
「…竜が張る結界…?」
「そう。竜は魔道を操る生き物だからね。飛ぶときは自分に結界を張るんだ。おかげで乗ってるこっちまで外気の影響をほとんど受けないで済む。首の付け根のこの位置は筋肉の動きも小さいから、馬車より快適なはずだよ。…まぁ、竜が本気で飛んだら流石に捕まってないと振り落とされるけどね」
ジルに掴まらせて貰ったまま、クロエは慎重に辺りを見廻した。遠くに山々が見えて、先ほどより高度が下がってきたことを知る。
「……ジル、凄い。…魔道士でもないのに、どうして竜が乗せてくれるの?」
クロエの問いに、ジルは軽く眉を上げる。
「俺は魔道士じゃないって感じるの?」
「……あ、ううん。分からないけど…。さっき団長さんがそう言ってて…」
ジルは「あぁ…」と納得したように呟いた。
「そうだよ。俺は魔道士じゃない。12の頃にル・ブランに送られたけど、きみの父上からそう判定を受けて戻ってきてるから」
思い掛けない過去の話に、クロエは榛色の瞳を丸くした。
「ル・ブランに来たことがあるの?!」
「うん」
「……そうなんだ…!…でも、そうか。そうなっちゃうよね…」
竜笛も使わずに竜に乗れるのは魔導士だけ。そんな風に誰もが思っているはずだ。クロエだって先程は、ジルが魔道士に見えた。
12歳――そんな小さい頃に国を追い出されかけたなんて…。
「……良かったね。魔道士じゃなくて」
クロエの呟きに、ジルは少し意外そうな顔になる。
「…良かった?」
「……あれ、良くなかった?」
「いや、俺は良かったけど…。周りには残念だったねって言われたから…」
「そうなんだ…。なんでだろう。家族と離れ離れになる結果が嬉しいわけないのにね」
ジルからは何の返事も無くて、クロエはふと顔を上げる。すると思い切り目が合って、思わず硬直した。
先に視線を外したのはジルの方だった。俯いた顔を、彼の黒髪が隠す。
「……もうすぐ着くよ」
「あ、う、うん」
間も無く、2人きりの空の旅は終わりを告げるらしい。本当にあっという間だった。いつしか気分の悪さも何処かへと消えている。
もっと遠くても良かったのに――などと思う懲りない自分を、クロエは内心で嘲笑した。
◆
レディオン城の中庭にクロエ達を下ろすと、翼竜はまた空へと戻って行った。
こうしてジルが竜で降りて来るのは日常なのか、誰も驚くことなく速やかに公爵に報せに走ってくれる。クロエがジルの案内で応接室へと到着した時には、公爵自身が部屋の真ん中で両手を広げて出迎えてくれていた。
「おぉ!フランシア姫!よくぞ遠方からお越しくださった!」
実に屈託の無い笑顔で、レディオン公爵閣下がクロエのもとへと歩み寄る。クロエより10歳は年上と思われる彼は、中肉中背、栗色の長い髪を首の後ろで品良く纏め、赤を基調としたお洒落な礼服を身に纏っていた。天真爛漫を絵に描いたような笑顔で「お会い出来て嬉しいよ!」とクロエの両手を握ってくれる。細められた瞳は優しげな空色をしていた。
「こ、こちらこそ、お目に掛かれて光栄です。フランシア・エンバリーと申します」
「そう畏まらないでくれ。長旅で疲れたことだろうね。私はジョシュア・レディオン・クローディア。ここクローディア帝国の第二皇子であり、この地の領主だ。ジョシュアと呼んで貰って構わないよ。私もフランシアと呼ぶからね」
「お、恐れ入ります…」
少々圧倒されながらも、クロエは精一杯笑顔で応えた。とりあえず感じの良い人で良かった…。
ふと公爵は背後を振り返り、そこで一緒にクロエを迎えた数人の中から、ひとりの女性を指して言う。
「で、これが私の妻のフラウだ」
――えっ。
彼の示す先には、ふっくらとした優し気な雰囲気の女性が立っていた。柔らかい笑顔で、クロエに挨拶する。
「フラウと申します。よろしくね」
「こ、こちらこそ…。ふつっ、不束者ですが…」
動揺のあまり、呂律が回らない。
まさかの妻帯者だった…!
予想外の展開に呆然とするクロエの視線の先で、続き部屋へ繋がる扉が開く。小さい顔がいくつか覗いては、こちらを窺っていた。
「あぁ子供達だ。こらこら出てくるんじゃないぞ!――ロバート、抑えておいてくれ。フランシア姫はお疲れなんだからな」
「はっ…!」
執事らしき男性が急いで動き、扉の向こうの子供達に何やら言ってきかせる。
まさかの子持ちだった…!
勝手に第一夫人になるのだと思い込んでいたが違ったらしい。正直2番目くらいの方が気楽でいいので文句は無いが…。
が、更なる予想外は続いた。
「で、こっちが、愛妾その1のジュディと、愛妾その2のララベルだ」
「2番目です、よろしくね!」
「3番目でーす、よろしく!」
――私、いらなくないですか?!?!
内心で盛大に突っ込んだクロエを他所に、巻き毛のジュディが「お茶会しましょうね!」と提案する。すると正妻のフラウが「あら、いい考えだわジュディ。歓迎のお茶会を開きましょう」と返し、ララベルも「しましょう、しましょう!」と手を叩いて賛同した。
……なんだろう、この和やかな一夫多妻の図は…。
クロエはまた軽く眩暈を覚えた。本当に和やかなのか、表向きなのか、判別がつかなくて恐ろしい。
どうしよう、入って行ける気がしない…。
やがて妻たちの盛り上がりを微笑ましく見守っていたジョシュアは、再びクロエに向き直り、纏めるように言った。
「まぁ、短い間になるかもしれないが、私達は新しい家族を心から歓迎するよ。それは離縁した後も変わらないからね」
――ん??
何やら不穏な単語が耳に入り、クロエは思わず固まる。
「きみも私達を本当の家族と思って、皆と仲良くしてくれると嬉しい。――というわけで皆、改めて、ル・ブランのフランシア姫だ。よろしく頼む」
短い間になる?離縁した後も??
言葉の端々が理解できず、クロエの頭は疑問符で埋め尽くされる。まるで離婚が前提のような物言いではないか。
クロエは全員の視線を浴びているのに気付き、頭の整理がつかないままに一礼した。
「どうも……4番目です」
――間違えた。
ハッと我に返った瞬間、部屋には皆の笑い声が弾けた。ジョシュアも奥方様達も腹を抱えて笑ってる。
クロエはみるみる耳まで赤くなった。
慌てて取り繕おうとしたところで、ジョシュアが「いやいや愉快な姫様だ」と笑いながらクロエの肩を叩く。
「これはフランシア姫、誤解があるようだ。私としてはまことに遺憾だが、きみの結婚相手は私ではないぞ」
「――え?!」
思いがけないことを言われ、驚きのあまり変な声が出る。脳内で2度ほどジョシュアの台詞を反芻した後、クロエは目を泳がせながら言った。
「でも…、でも結婚相手はレディオンの皇子様だと伺っていて…」
そうだ。確かにそうだ。そう聞いている!
動転するクロエを越えて、何故か公爵の目線は後ろに立つジルに向かった。
「おい、ジル!まさかお前、伝えていないのか?来るまでの間に説明しておくよう言っておいただろう!」
クロエも思わず振り返る。ジルは眉を歪め、苦い顔になる。
「…その予定だったんですが…。不測の事態があったので竜を使って来たんです。彼女にはこの後、俺の方からゆっくり説明させて頂きますので…」
「困った奴だな!いくら時間が無かったとはいえ肝心なところを伝えていないとは。――申し訳ないね、フランシア。混乱させてしまったようだ」
「あ、いえ…」
現状まだ大混乱の最中なのだが。
そんなクロエの疑問に答えるように、ジョシュアはジルの隣に立つと、その肩にぽんと手を置いた。
「改めて、私の方から紹介させてもらおう。これの名はジュリアン・ヴィンス・クローディア。私の義理の弟であり、我がクローディア帝国の4番目の皇子であり、一時的にきみの夫となる予定の男だ」
――瞬間、視界が暗転する。
流石に何かが許容量を超え、クロエは今度こそ昏倒したのだった。