一夜の恋人
ひとりで帰るつもりが、ジルは送っていくと言って一緒に店を出てくれた。
遠慮したのだが、気付けば仲間は既に解散していて、そこに居続ける理由は彼にも無くなっていた。その時初めて確認した時計で日付けが変わったことを知り、2人して驚嘆する。
本当にどれだけ夢中で話していたのだろうかと変に感心した。未だお互いのことは、よく知らないままに――。
外には流石に来た時のような明るさは無く、どこも店仕舞いした後だった。外灯が照らす道を並んで歩けば、ジルの靴が規則的な音を鳴らして静まった街並みに響かせる。襟の高い真っ黒な外套を纏った彼は、店で見るより少し大人びて映った。
改めて隣に立つと、クロエの頭はジルの顎の高さにある。クロエは少しだけ彼に遅れて歩きながら、その姿を盗み見ていた。
ふとジルが空を仰いで――足を止める。
つられて見上げたクロエは、遥か高く、星空を駆ける巨大な生き物の影を見た。
――竜だ…!
それは翼を持つ翼竜だった。
彼等は巨大な鳥のような容貌だが、その翼は羽毛で覆われたものとは明らかに違う。爪のある翼をいっぱいに広げて、ゆったりと空を飛んでいく。
その姿をこの地でも見ることになるとは思っていなかった。ル・ブランでは日常の光景だったけれど…。
視線を下ろすと、ジルはもう上を見てはいなかった。彼の瞳はいつからか、クロエを映していた。
それに気付いて、クロエは何故か身を堅くする。
「…また会える?」
不意打ちの問い掛けに、クロエの鼓動は大きく跳ねた。とっさに声が出なくて、不自然に硬直する。警戒されたと感じたのか、ジルは少し困ったような顔になった。
「…いや、ごめん。そんな構えないで。ただ今日は楽しかったからさ。これでさよならは勿体ないなと思って。…良かったら、また会えないかな。今度はちゃんと日が出てる時に」
胸がきゅぅっと痛んで、クロエは無意識に顔をしかめていた。なんてちゃんとしている人なんだろうと、改めて感じる。次は宴会の延長としてではなく会おうと、彼は提案してくれているのだ。
そんな風に言って貰えることが嬉しくて、でも応えられないのが悲しくて、胸が絞られるように苦しい。
クロエだって内心では思っているのに。これでお別れなんて、勿体ないって。
真っ直ぐ自分を見詰める彼の目が、あまりに真剣で喉が塞がる。見ていられなくて、クロエは思わず顔を俯けた。
「……止めた方がいいよ。日の下で見たら、がっかりするから…」
ひどく自虐的な台詞が、口をついて出た。寝静まった夜の街に、束の間の静寂が戻る。
ふとそこに、ジルの疲れたような溜息が落ちた。
「なにそれ…」
呟いた声音が、険を含む。
「本気で言ってるの?…それとも俺、体よく断られてる?」
即座に激しい後悔が、クロエを襲った。彼の真剣な言葉に対して、物凄く失礼な応じ方をしたのだと自覚する。結果的に不快にさせたと気付いても手遅れで、ジルは「分かった」と踵を返した。
もともと、断らなければならない誘いだった。だから結果的にはこれで良いはずなのに、去って行く彼の姿に焦燥感が湧き上がる。失望させたのだという事実を、突きつけられるようで――。
「……違うよ…!!」
気付けば、クロエは声を上げていた。
ジルが驚いたように振り返る。
彼の瞳が戻って来てくれた瞬間、理性は何処かへ消え去った。浅はかにも、彼に嫌われたくない思いがその上を行った。
「違うの…、どっちでもないの…、ただ――!」
それでも上手い言葉は見付からなくて、もどかしくて、握った拳を額に当てる。
「…ダメなの…!…私だって会いたいけど…また会いたいけど…――でも会えないの…!ダメなの…!もう嫌だ…!!!」
無茶苦茶に喚いたクロエは、顔を覆ってその場に蹲った。ジルの靴音が鳴って、彼が直ぐそばに来てくれたのを感じる。
「クロエ…」
呼び掛ける声は、もとの柔らかさを取り戻していた。そっと顔を上げると、彼は片膝をついてクロエと目線を合わせていた。そんなことをしたら服が汚れてしまうのに。
「……どうし…」
「――結婚するの」
クロエを映す綺麗な瞳が丸くなる。どうしようもなく切なさが押し寄せて、クロエはいつしか押し上げられるままに、想いを吐露していた。
「結婚しないといけないの…!会ったこともない…名前も、顔も、年齢も……なんにも…知らない人と…」
突然の告白に、ジルは戸惑ったようだった。彼はクロエを庶民として見ている。そんな話が出て来ることを、想像もしていなかったに違いない。「結婚…?」と呟きながら眉を顰めた。
「…なにそれ…。どういうこと?…親が決めたっていう話?」
「……うん…」
「えぇ?そんな馬鹿な…。……断りなよ、そんなの…」
どうしてそうしないのかと、訝るような声音だった。それは至極当然の反応だった。
「断れ、ないから…」
「どうして?断れない理由は?」
目を閉じて、クロエは再び両手で顔を覆った。
「……言えない…」
我ながら、なんて面倒くさい女だろうと思った。情緒不安定で、彼に関係のないことで騒いで、思わせぶりなことを言うのに、肝心なところで逃げる。――…最低だ。
「……もしかして、金銭的な問題とか…?」
躊躇いながら、ジルが問い掛ける。その声には上辺だけではない、クロエを気遣う思いが滲んでいた。
胸が締め付けられる。こんな話、作り話と思われても文句は言えないのに、彼は会ったばかりのクロエの言葉を、無条件に信じてくれている。
「……ごめん…。何してんだろうね、私…」
そんな人を、ただ嫌われたくないという思いで巻き込んだ。自分を顧みれば、猛烈な自己嫌悪に今すぐ消え去りたくなる。
「話してみてよ。……俺、力になれるかもしれない」
「ダメ。…それはダメだよ」
「手遅れだよ…。ここまで聞いておいて引き下がれない」
「違うの、ごめんなさい…!そんなつもりじゃ…」
「――話せって、いいから…!」
ジルがクロエの両手首を掴んで、ぐいっと引っ張る。顔を隠していた手が外されて、泣きそうな顔が晒された。ジルが息を呑むのが伝わる。その眉が、まるでクロエと同じ痛みを与えられたかのように歪んだ。
瞬間、堪えていた思いが決壊する――。
「ふ、えぇっ…」
子供みたいな嗚咽が漏れて、クロエの顔はくしゃっと崩れた。抑えきれず零れた涙が、石畳に落ちる。
「クロエ…」
「ジルぅっ…!」
呼び掛けは、悲鳴のように響いた。
「――結婚なんて嫌だよぉ…!!今まで恋人のひとりも居た事なくて、バカ真面目に生きてきたのは、こんなことのためじゃないんだよ…!!私だって夢くらい見てたのに…!いつか何処かでって思ってたのに!…私まだキスしたこともないんだよ?それなのに…初めてのキスも知らない人に奪われるの――」
不意に近付く気配に、クロエの息が止まる。
瞬間、唇に軽く、温もりが触れた。
顔をぐしゃぐしゃに濡らしたまま、クロエは時が止まったかのように硬直した。呆然と目の前にあるジルの瞳を見詰める。
「…これでもう、”初めて”じゃなくなった」
――胸の奥で、熱い塊が弾け飛んだ。
次の瞬間、クロエはジルの胸に縋りついていた。衝動のままに泣き出したクロエを、彼が抱きとめてくれる。息を吸うたびにしゃくりあげて震える背中を、肩を、髪を――彼の掌が優しく何度も撫でてくれた。
ふと頬に触れた手がクロエの顔を仰向かせて、嗚咽は彼の唇に塞がれる。クロエの唇は、再びジルの温もりで包まれていた。今度はさっきよりも、はっきりと。
胸が啼く音を聞きながら瞼を下ろせば、もう今が、夢か現実かも分からなくなる。
不意にジルの腕がクロエの腰を引き寄せて、体中が彼の腕の中におさまった。クロエの手は、彼の背中を握りしめる。気付けば地べたに座り込んでしまっていたけど、もうどうでもよかった。
いつしか恋人同士みたいに抱き合って、ジルはクロエが数えられなくなるくらい、沢山のキスをくれた。
やがて唇が離れると、はぁっと吐息が漏れる。
息を上がっていることを今更自覚すると、ジルは「ごめん…」と小さく呟いた。
「……暴走した」
クロエは呼吸を整えながら、大丈夫という意味で首を振った。初めてのキスは、少しだけクロエが想像していたのとは違うところもあったけれど、嫌な気持ちは全く無かった。
むしろ――。
クロエはジルの肩に、ことんと額を預けた。離れることが出来なかった。そんなクロエを、彼も受け止めて抱き返してくれる。
「…ねぇ…、どうして断れないの?」
同じ問いが、再び優しく落ちてきた。
「言っておくけど、話すまで帰さないから」
酔いのせいか、彼の言葉を耳が都合よく受け止める。まだ傍に居てもいいと言って貰ったような気がして、クロエは「じゃぁ…帰らない」と応じた。
すると、ジルの声音に困惑が混じる。
「…………それ、どういう意味で言ってるの?」
ただ、離れたくない。そんな気持ちを伝えるために、クロエはジルの首に両腕を廻してきゅっと抱き付いた。ジルの髪は、とってもいい匂いがする…。
「……クロエ、男知らないんじゃなかったっけ?」
「うん、知らない……から、教えて…」
「さらりと凄いこと口走ってるけど大丈夫か?!……いや待って。勘違いしてたら怖いからはっきり訊くけど、………俺を誘ってる…?」
「うん」
「うん?!」
動揺するジルが可笑しくて、酔っ払いのクロエは呑気に笑い声を立てる。ジルがやれやれというように嘆息した。
「……自棄になってるの?」
核心を突く一言だった。クロエの笑みが消える。
僅かな沈黙の間を置いて、クロエは小さく呟いた。
「……なってる、かも…」
ほんの僅か、残った理性がそう答えた。ちゃんと自覚はあった。自分は今、おかしくなっている。
「でも…誰でもいいわけじゃないの…」
何が正しくて何が間違いなのかも、もう分からない程に――。
「初めての人くらい……自分で選びたいだけなの…」
やがてジルは、何も言わずに立ち上がった。腕が外れ、温もりが離れる。座ったまま彼を振り仰ぐクロエに、すっと右手が差し出された。手を乗せると、ジルが支えるようにして、クロエを立たせてくれる。
ずっと座っていた石畳の地面で、下肢が冷えていたことに今更気付く。
覚束ない足でなんとか立ち上がると、夜空を背に、影の落ちたジルの瞳は宝石のように綺麗に映った。
ジルは徐に、クロエの手を引いて歩き出した。また夜の街に、彼の靴音が刻まれる。
彼の向かう先はなんとなく分かっていたし、結果的に自分が彼に何を強請ったのかも理解している。それでも不安や恐怖は、不思議なほど湧いてこなかった。
繋いだ手から伝わる彼の温もりが、もう既に、クロエの心ごとすっぽり包み込んでいる気がしたから。
これが恋というものか、弱った心が見せる恋の幻か、今のクロエには分からなかったけれど――。
◆
「フランシア様、お早うございます!!!」
頭蓋骨に響くカミラの声とともに、部屋には容赦の無い陽光が差し込む。
重い瞼をなんとか持ち上げたクロエは、あまりの眩しさに再度ぎゅっと目を瞑った。同時に頭が奥から痛む。
「………」
両手で顔を覆い、クロエは押し寄せる様々な不快感に耐えた。
眠い。
頭が痛い。
目が痛い。
気持ち悪い。
……あと、下腹部が…。
「朝ですよ、フランシア様ー。いい天気ですねー。さぁさぁ、起きましょうねー」
カミラは歌うようにそう言いながら、次々に紗幕を開けていく。部屋は瞬く間に日の光で満たされた。
なんて爽やかな朝だろう。――クロエひとりを除いては。
悶絶しつつ、一旦腹ばいになる。
両手をベッドに突っ張って漸く身を起こすと、顔の横に流れる長い髪の奥で深々と嘆息した。
「お早うございます!」
「……お、…お早いですね…」
「まぁ!そんなに早くないですよっ!」
――どっちだ…。
「お迎えが来る前に食事と着替えとお化粧を済ませないといけませんからねっ。さぁ、お顔を洗ってらしてくださいませっ!」
「しょ、食事は、…いいです」
「何を仰います!しっかり食べないと馬車に酔ってしまいますよ?!」
今もう既に酔っている。――とは、間違っても言えない。
今この場に無事戻れていることすら、クロエの中では奇跡に近かった。
昨夜、クロエはあの後、ジルに連れられるまま宿に入った。そして2人きりになって、今度こそ誰の目も気にせず思う存分触れ合った――気がする。
一晩明けてお酒が醒めてしまえば、残る記憶はところどころ曖昧で、明瞭なのは我ながらぞっとするような醜態だけだった。
誰だあの恥知らずな女はと、自分で自分に嫌気が差す。
結果的に、昨夜はクロエの方が誘惑したのだ。彼に罪は無い。
彼はクロエの望むままに、男というものを一から十まで教えてくれただけ。
ベッドの中で、本当に全部脱ぐの?などと間抜けなことを訊いたのを憶えている。
肌が触れ合った時、気持ちいいと呑気に呟いたのを憶えている。
凄く痛かったくせに、痛い?と気遣わし気に問われるたびに首を振ったのを憶えている。
そしてクロエの手は、彼の黒髪の感触を憶えていた。
意外に広い背中や、引き締まった体を。彼の息遣いを。囁く声を。
全部、憶えている――。
ジルは最後まで、クロエの結婚のことを心配してくれていた。明日、目が醒めたら全部話すねと約束して、眠った彼を置き去りにして逃げた。
泣きながら無茶苦茶に走って――守衛の人に変な顔をされながら迎賓館に入った時には、既に空は明るかった。
「はいはいフランシア様、起きてくださーい!」
焦れたカミラが、パンパンと手を叩きながらクロエを急かす。
口調をそれらしくしても、その扱いで上下関係がバレますよとは、賢明なクロエは言わないでおいた。
体調は最悪である。
再びドレスとローブを身に纏って化粧を施してもらったクロエは、白粉の内側で蒼白になりつつ、騎士団の迎えを待った。
説明によるとここまで連れて来てくれた第二騎士団に代わって、今日はレディオン城から第一騎士団が来て、残りの行程を担当してくれるのだという。
クロエとしては、もう誰でもいいから早くしてくれという気分だった。
やがて到着の報せを受け、クロエとカミラは迎賓館を出た。
広い前庭に、ディバプールでの光景を彷彿とさせる隊列が出来上がっている。それに向かって立つ3人の軍人。恐らくまた昨日のように挨拶に来る人達だろう。そんなことを思いながら眺めていたクロエは、近づくにつれて3人の中の1人に目が釘付けになっていった。
柔らかそうな黒髪に、バランスのいい痩身。他の2人より背が低い彼の立ち姿は、あまりにも記憶に焼き付いた彼と重なった。
まさかと思うのに、鼓動が暴れ出す。
花嫁の登場を受け、思い思いに言葉を交わしていた隊員達が背筋を伸ばして敬礼する。
同時に、彼がこちらを振り返った。
クロエの姿を、深い紫色の瞳が映す――。
「フランシア様?!」
気付けばクロエはその場にくずおれ、地面に両手をついていた。激しい眩暈に襲われ、気が遠くなる。
こんなこと、信じられない。
第二騎士団の先頭に立つ、まるで少年のような容貌の彼は、紛れも無くクロエの一夜きりの恋人だった。