最後の冒険
迎賓館を出るのは拍子抜けするほど簡単だった。
裏門にも衛兵は居たが、自分はル・ブランの侍女で、主人の命令で街に買い物に出ると伝えれば、特に不審に思う様子も無く門を開けてくれた。おまけに戻った時のための入館許可証まで持たせてくれる。
入る時の警備が厳重なぶん、出る者に対しての警戒は薄いらしい。たぶんカーライル達もこうして出て行ったのだと変に納得しつつ、クロエは夜の街へ向かって走り出した。
カミラにしっかり櫛を通してもらったベージュブラウンの髪が、背中で楽し気に揺れていた。
夜の街は明るかった。
飲食店や宿屋が多いせいか、まだほとんどの店が開いている。石畳の大通りを行けば、軒を連ねる店からは良い香りが漂い、楽し気な客の声が漏れ聞こえる。道端で楽器を奏でる者、屋台で物を売る人、ありとあらゆるものに興味を引かれ、忙しく首を巡らせた。
それはクロエが初めて見る人の国の街並みだった。
ル・ブランの首都と比べると上品に映るのは、建物が統一されているからだろう。ル・ブランは都会に近付くにつれて道も壁も色とりどりに、派手になっていくのだ。建築士の魔道力が高くなるほど遊び心が発揮されるせいかもしれない。
しばらくはただ散歩を続けていたクロエだが、やがて空腹を覚えた。船で夕食は食べたが、緊張しすぎて喉を通らなかったのだ。折角だから何か食べようと、繁華街の中でもひときわ賑やかなお店の戸を引いた。人は日常を離れると気が大きくなるようで、普段だったら躊躇うような場所に、鼻歌混じりに足を踏み入れる。
途端、わっと熱気に包まれた。
かなり盛況で、店内は沢山の客でひしめいていた。
思わず感嘆する。やっぱり人の国だ。料理が空を飛び交っていない。
店員が忙しく給仕して回るのを見ながら、クロエは奥のカウンター席に向かった。L字になっている角に革袋を置くと、丸椅子に腰掛ける。同時にカウンターの中の男性が「いらっしゃい!」と声を掛けてくれた。
「お嬢さん、ひとりかい?」
「あ、はい。ひとりでもいいですか?」
「もちろん大歓迎だ!何呑むかい?」
注文を訊かれ、メニューから適当な飲み物と料理を頼む。聞いたことの無い名前ばかりが並んでいたので、どんなものが出て来るのかは見てのお楽しみだ。
店員が去って行くと、カウンターテーブルに凭れて一息つく。
その時ふと、視界の端に若い女性の一団が映った。
食事を終え、テーブル席を立つところらしい。素早く店員が行って、その場で会計をしている。やがて彼女達はごちそうさまと店主に声を掛けて去って行った。その行方を見るとはなしに見送ったクロエは、ふと彼女達が居た席に目を留めた。そこに店員の姿は既に無く、見事にテーブルは元通りに片付けられている。
まるで魔道を使ったかのような早業だった。
――…あれ?
ふと、クロエはそのテーブルの4人掛けの椅子のひとつに、革袋が置いてあるのに気付いた。
忘れ物だ。そう思って再び出口を見たが、もう女性達の姿は無い。それでも今出たばかりなのは確かだと、クロエは急いで席を立った。そして置き去られた革袋を手に取ると、走って出口へ向かう。慌てて外へ駆け出して左右に目を遣った瞬間、背後から延びてきた手にぐいっと腕を捕まれた。
「、たっ…」
「――この、クソアマ!!なにしやがる!!」
クロエを引き止めたのは、厳つい男性だった。見上げるほど大きな体躯で、睨みつける顔は怒りに燃えている。握り潰されるかと思うほどの力で捕まれた腕には、鈍い痛みが走った。
「え…」
「俺の荷物どこに持ってく気だ、このヤロウ!!」
怒号とともに持っていた革袋をひったくられ、クロエは呆然となった。何が起きたのか理解する間も無く、男の力に引き摺られる。
「来い!憲兵に突き出してやる!」
「え…!」
物騒な単語に反射的に抗おうとするもビクともしない。恐怖で身が竦んだその瞬間、店から駆け出してきたもうひとつの影が、2人の間に割って入った。
「ちょっと待った!」
「――なんだてめぇ!」
「待ちなって!誤解だよ。この人は泥棒じゃない」
一息にそう言った彼の台詞で、ふとその場が静まった。そうなって初めてクロエの目は、現われた影を捉える。夜の闇に溶けそうな漆黒の髪が、その横顔を隠していた。
「俺の荷物持って出ようとしやがったんだぞ!」
「だから誤解だよ。人の物を盗るのに自分の荷物を置いたまま出る人がいる?」
形の良い顎から続く長い首が、襟の空いた長袖シャツに続く。――と、突然彼はくるりとこちらを振り返った。
「――きみ、カウンターの奥に座ってた人だよね?」
瞬間、クロエは息を呑んだ。
耳が被る長さの柔らかそうな黒髪に、それよりは少し明るめの大きな瞳、凛とした眉、通った鼻筋――最初の印象から全く期待を裏切らない…というよりむしろそれ以上の美少年が、そこに居た。
「荷物も上着も置きっ放しだったけど大丈夫?」
訊かれて、クロエは我に返る。同時に漸く自分の犯した間違いに思い至った。クロエが持って来た荷物は、忘れ物なんかじゃなかったのだ。
「あ、私…」
「なんだ??どういうこった??」
「だからつまり…あなたが空いた席を確保しておくために置いた荷物を、彼女は前に座っていた人達が忘れていった物だと勘違いして届けに行こうとしていたということです。…よね?」
同意を求められたが、クロエは硬直したまま動けない。先ほどの熱はどこへやら、その場はひどく白けた空気に包まれていた。
男性の「えぇ~?」という失笑が、クロエの熱をかぁっと上げる。恥ずかしさで、全身から火を噴きそうだった。
「よく見ろよー。こんなごっつい荷物忘れてく奴、居るかぁ?だいたいどう見ても男物じゃねぇか!」
「す、す、すみませんでした…!!!」
体を直角に折って頭を下げたクロエに、男性は眉を歪め、呆れたような、困ったような顔になる。
「…ま、そういうことなら…」
「本当にすみません私…、荷物が気になるので、これで…!」
それ以上その場に居た堪れないのと、本当に荷物が気になったのとで、クロエはそれだけ言い捨てると逃げるように店に入って行った。
もとの席に戻ると、カウンターには無事革袋が置いてある。中を開いて、お財布も迎賓館の入館許可証もあることを確かめると、ふっと肩を落とした。
――帰ろうかな…。
先程まで浮かれていた気持ちが、嘘のように冷えている。なんだか居づらいし、もうこのお店は出よう。そう決めた瞬間、タイミング悪く目の前にグラスとお皿がどんっと載せられた。
「お待ちどー!」
出てきたのはいかにも辛そうな大人向けのお酒と、芋を揚げた料理だった。…そういえば、注文したのだった。
ふっと息を吐き、椅子に腰掛ける。料理はアタリっぽいけど、お酒はハズレの予感。なんだか色々と、ついてない。
やれやれとカウンターに頬杖をついた時、ふと隣の席に人影が立った。
「へぇ、そういうの好きなの?意外だな」
振り返って、クロエは目を丸くした。そこに居たのは先ほどの美少年だったのだ。
「あ…!」
急いで逃げたせいでお礼も言っていなかった。失礼な自分に気付いて立ちかけた時、彼はテーブルにことんと銀貨を置いた。それを長い指で、クロエの目の前まですっと滑らせる。
「はい」
「え…」
「さっきの人が、これで好きなもの呑みなって」
呆然と銀貨を見下ろし、言葉の意味を理解する。クロエはぱっと顔を上げ、首を振った。
「…ダメだよ、そんな。貰えない…!」
「貰ってあげなよ。そうとう罰が悪そうだったから。…渡してくれって頼まれたんだ。喜んであげると、あの人も救われるよ」
クロエは思わず先ほどの席に目を向けた。荷物の主だった男性は、今は友人と差し向かいでお酒を呑んでいる。ちらっとこちらを見たが、気まずそうに目を逸らされた。そんな彼に、美少年は手を振って声を掛ける。
「ご馳走様でーす!」
「!!――こら!おめぇにじゃねぇぞ!」
クロエはハッとして、慌てて銀貨を摘まみ上げた。
「あ…、あの!ご馳走様です!!」
それを掲げるようにして美少年に続くと、男性は気恥ずかしそうな苦笑いを浮かべ、ひょいと手を挙げて応えてくれた。
たったそれだけで、さっきまで沈んでいた心は簡単に浮上して、頬が緩み出す。
隣の美少年を見ると、まさに蕩けるような極上の微笑みを浮かべていた。
「……有難う」
クロエは改めて彼に心からの感謝を伝えた。
クロエの方こそ、救われた思いだった。