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疑惑の真相

 ここで顔を合わせるとは思ってなかった。

 あまりの不意打ちに動揺を隠せず、ジルは男に対してとっさに言葉を返すことが出来なった。

 男はジルよりかなり年上に見えた。作業中だったのか軍手を嵌めており、外で働く者らしい焼けた肌色に、薄っすらと汗を滲ませている。

 彼もクロエと同じくこの屋敷の使用人らしい。つまりは此処で出会って――。

 

「どなたかにご用ですか?」


 棒立ちになる客を前に、男は首を傾げて質問を変えた。

 その目に若干不審の色が表れ、ジルは我に返る。当然だが来る時にローブは脱いできていて、今は普段着だ。この格好からは、ジルがエンバリー家に(ゆかり)のある者には見えないだろう。

 ジルは覚悟を決め、口を開いた。

 

「ここで、クロエ・ノアという女性が働いていると聞いてきたのですが…」


 その名を聞いて、男は目を丸くした。

 

「あぁ! はい。確かに」

「…ご存知ですか?」

「えぇ、もちろん!」


 迷いの無い答えに、ジルの顔は知らず強張る。男はそれに気付く様子も無く、「あー、でも今日は居ないんですよー」と続けた。

 

「……居ない?」

「普段は住み込みなんですけどね。今日は休みをとって出掛けてるんです。明日も休みの予定だし、今夜は帰んないだろなー」


 首にかけた手ぬぐいで短髪の頭を拭いながら、男はそんな推測を述べる。その顔には意味深な笑みが浮かび、ジルの神経を逆撫でした。

 膨らむ不安と焦燥と、得体の知れない苛立ちが、ないまぜになって胸を支配する。

 

「…彼女が何処に行っているのかを、…ご存知なんですか?」


 感情を抑えようとするあまり、やけに低い声が出た。そんなジルに対し、男は少し困ったような顔になって言った。

 

「そこは個人的なことなんで、俺の口からはちょっと。――伝言あったら伝えますよ? あ、お名前伺っても?」


 素性の分からない客を前に、それは常識的な対応といえた。不満を訴えることも出来ず、ジルはふと視線を地面に落とす。

 とにかくクロエは居ないのだ。それ以上のことは今は分からない。

 そう自分に言い聞かせ、徐に告げる。

 

「……ジルです。そう言って貰えれば、分かると思うんで…」

「え、――”ジル”?!」


 思い掛けず、男は驚きの声を上げた。

 意外なことを聞かされたという顔の彼に、ジルは戸惑いながらも「はい」と応じる。

 

「――上級魔道士の?!」


 指を差して訊かれ、ジルは思わず固まった。

 何故知っているのだ。――などと訊くことも躊躇われて、何も言えずにただ男の指を見返す。男はその反応を肯定の意味に捉えたのか、腑に落ちたという様子で掌に拳を打ちつけた。

 

「そっか、そうだよな! こんなでっかい竜連れてんだもんな! そりゃそうだ!」


 男がジルの背後を見て頷く。ジルの愛竜は行儀良く翼を畳んだ状態で人間達を眺めていた。

 竜を連れているから上級魔道士…。そんな法則があっただろうか。自問するジルに、男は更に驚くべきことを言った。

 

「あんた、クロエのダンナだろ?!」

「えっ」


 瞬間、先ほどまで頭を支配していた感情が一気に霧散した。

 結果的に真っ白になる。

 声を失ったジルを見て、男は訝しげに首を捻った。

 

「ん? 違った?」

「ち、違いません! ――けど…」

「違わない? だよね! おぉー! 思ったより若い!」


 先ほどまでの礼儀正しい態度は何処へやら、男は急に砕けた口調になる。一方のジルは完全な混乱状態だ。理解が追い付かないままに、男の矢継ぎ早な疑問が投げ掛けられる。

 

「なんで此処に居んの?! 首都に来るんじゃなかったっけ? クロエ、首都に行っちゃったよ! あんたに会いに!」

「えっ――」


 告げられた事実に、ジルの紫の目は限界にまで見開かれた。

 

「ダンナが来るって、なんかめかしこんで出掛けてったよ? 俺、買出しのついでに途中まで送ってったもん。もう着いてると思ってたけどなー。なに? 会えなかった?」


 その問い掛けに、ジルは答えることが出来なかった。あまりの衝撃に打ちのめされて、今にも膝からくずおれそうだった。

 今朝見た光景の本当の意味を、漸く理解する。

 真実を知った今、自分の馬鹿げた妄想が恥ずかしくて、申し訳なくて――。

 

「す、すみません、俺…」


 思わずそう言うと、男は「いや謝ることないけど」と笑った。

 

「まさか俺の方が先に会っちゃうなんて、クロエに悪いなー。とりあえず、はじめまして。俺はキアン・ジョーンズっていって、ここの下働きをやってるもんだよ。クロエにはいつもうちのが世話になってマス」


 少しおどけた調子で、ぺこっと頭を下げる。

 

「うちの…」

「うちの嫁。クロエと同じく、ここの侍女として働いてんだ」


 更に追い討ちをかけられ、ジルは片手で顔を覆った。

 

「…………本当にすみません」

「なんで謝んの?」

「いや、…なんでも…ないです」


 とても説明できない。キアンは特に気にすることもなく、明るく言った。

 

「なんか嬉しいな。会ってみたいと思ってたし」


 意外な言葉だった。ジルは思わず「…俺にですか?」と訊き返す。その声には我ながら、疑わしげな響きが表れていた。

 彼はジルが上級魔道士だと知っている。その上で、本心でその言葉を口にしているとは思えなかった。何故なら彼は確かに言っていたのだ。上級魔道士となど、友達にすらなれる気がしないと。

 だがキアンは「うん」と笑顔でジルの問いを肯定する。

 ふと眉を下げ、罰が悪そうに言った。


「クロエから聞くかもしんないけど、先に謝っとく。俺、クロエの相手が上級魔道士だなんて知らなかったからさ。けっこう偏見の混じったひでーこと言っちゃったんだよね」


 キアンはそう言って、自嘲的に笑った。

 

 ―――

 ――


「だってヤじゃね? 遠見とか透視とか出来ちゃう奴らだよ? いつ盗み見られるかもわかんないじゃん!」


 キアンはそう言って、隣のクロエに同意を求めた。

 魔道を使えない彼女なら共感するであろう意見であり、思ったとおりクロエは「分かります」と頷いた。

 

「私もそう思ってた時がありました」


 過去形で言われ、キアンは眉を上げる。クロエはふと声の調子を変え、独り言のように続けた。


「…でも遠見とか透視とか出来る人達も、好きで出来ちゃうわけじゃないんですよね…」


 それは上級魔道士の気持ちを慮る言葉だったが、キアンの胸には響かなかった。「まぁ…そうかもしんないけど…」と少々白けた思いが声に出る。

 クロエが心からそんなことを言っているとは俄かに信じられなかったが、そういえば彼女はフランシア姫のお気に入りだと聞いている。単純に、上級魔道士を悪く言えない立場なのだろう。そう理解して「クロエは大人だな」と話を締めた。

 だがクロエはキアンの言葉に「とんでもない!」と首を振る。

 

「ただ私の好きな人が、上級魔道士っていうだけですから」

「うん、フランシア様だろ?」

「えっ…! あ、そうですね。フランシア様も好きですけど…」


 クロエの取り繕うような返事を聞いて、キアンの目が丸くなる。

 

「え、――男のこと言ってる?!」

「は、はい…」


 衝撃的な返しだった。馬車を走らせているにも関わらず、完全にクロエの方を向いて、「嘘!!」と素っ頓狂な声を上げてしまった程に。

 キアンの大袈裟な反応に、クロエは楽しそうに笑う。

 

「びっくりですよね。我ながら嘘っぽいですけど、これが本当なんです」

「えぇ!! マジか! これから会いに行く男?!」

「そうなんです」

「ほんとかよ! どうやって出会うのそれ?! 何処に接点があった?!」

「それは…、話すと長くなるので…。と言うか、話していいのか分からないので…」

「なんだよー! すっげぇ気になるじゃん!」

「…すみません。でも彼自身も、自分が上級魔道士であることをつい最近まで知らなかったんです。力の発動が、かなり遅れて…」

「そんなことあんの?!」


 キアンは更に驚嘆した。

 

「つまり、上級魔道士だと知らないで惚れたってこと?」

「はい」

「…なぁるほど…」


 それで漸く腑に落ちた。そういう状況なら、有り得ないことではない。もしキアンの妻がある日突然大きな力に目覚めたとしても――想像するとやはり複雑な思いだが――それを理由に別れることは無いだろう。

 ただ…。

 

「…覚悟が必要だな」


 そう呟くと、クロエが「覚悟…」と隣で繰り返す。キアンは苦い顔になると「俺だったらね」と自虐的に付け足した。

 

「俺がもし上級魔道士並みの力を持ってたら、使いたくなっちゃう時もありそうだからさ。特に惚れた相手に対しては。そういうのは反則だって知りつつ、つい誘惑に負けて…って、絶対無いとは言えないじゃん? 人間だからね。…だから逆の立場で一緒に居るのは、まぁある程度の覚悟が無いと難しいんじゃねーかなぁと…」

「覚悟…」


 再び同じ言葉を呟いたクロエに、キアンは「あるの?」と訊いた。少々意地の悪い問い掛けだったが、クロエは拍子抜けするほどあっさりと首を横に振った。

 

「いえ、そこまで考えてませんでした」


 それを聞いて、正直呆れた。呑気だなと笑いたくなったが、勿論そんな無粋な真似はしない。キアンは感じ入った風を装って、すげーと呟いた。

 

「それだけ相手を信じられるってことか」


 つまり言いたいのはそういうことだろう? と揶揄する気持ちで口にした言葉だった。だがクロエは頷かず、「信じられるというか…」と首を捻る。

 

「ジルは――あ、私の好きな人、ジルっていうんですけど――確かに遠見も透視も出来る人だと思うんです。もしかしたらこの先、ちょっと誘惑に負けて使ってしまうなんてこともあるかもしれないです。人間ですもんね! …でも彼は、そうされたら私がどんな気持ちになるのかを、言わなくても分かってくれる人なんです。分かってしまうから、きっと凄く後悔して、力を使われた私よりよっぽど、使った彼の方が苦しくなってしまうと思うんです。……私の好きな人って、そういう人なんです」


 クロエは恋人の面影を探すように、どこか遠くへと目を遣った。

 

「だから、私が悩むことではないです。望んでもいない力に対する覚悟を強いられてるのは私じゃなくて、…むしろ彼の方だと思うんです」


 ――

 ―――

 

「あんだけ堂々と惚気られたら、ぐぅの音も出ねーよ」


 語り終えたキアンは、そう言って明るく笑った。

 だがジルが同じように笑うことは出来そうになかった。

 喉の奥が熱くて、苦しくて、競り上がる感情を呑み込むのが精一杯で、――声も出せない。

 

「…そこまで言われたらさ、どんな男なのか会ってみたいなってなるだろ? 騙されてないか?って気持ちも半分ありつつ。…でも……実物見て、安心した」


 キアンの目が、優しく穏やかに細められる。問うようなジルの目に、彼は吹き出しつつ言った。

 

「だってクロエが首都に行ってんのに自分はこっち来ちゃうって、上級魔道士の行動じゃねーし! 微笑まし過ぎて笑うわ! …遠見すりゃぁ、一発なのにさ」


 どこか嬉しそうな彼の、柔らかな声が耳に痛い。ジルは目を閉じ、詰めていた息を吐き出しながら告げた。

 

「…しましたよ」


 キアンの眉が軽く持ち上がる。意味が伝わらなかったのだろう、ジルは改めて言い直した。

 

「今朝、遠見したんです。それであなたとクロエが2人で居るところを見て、事情も知らず、馬鹿な思い違いを…」


 自己嫌悪で、言葉に詰まる。

 

「……すみませんでした」


 ジルは知らず、苦いものを飲んだような顔になった。

 キアンは呆気にとられた様子でジルを見ていた。クロエのおかげで彼は少し、上級魔道士への見る目を変えようとしてくれていたのだろうに、結局失望させたかもしれない。そう思いながらもわざわざ伝えてしまったのは、ジルとしても誰かに咎めて欲しい気分だったからかもしれない。

 クロエはジルのしたことを知っても、決して責めないだろうからこそ、なおさらに――。

 

「お邪魔しました。首都に戻ります!」


 ジルは頭を下げると、踵を返した。


「あ、ちょっと!」


 歩き出そうとした背中を、キアンの声が追う。振り返って再び見た彼の顔には、ジルにとっては意外なほど屈託の無い笑顔が広がっていた。

 

「クロエにも言ったんだけどさ、近いうちに2人でうちに遊びに来いよ!」


 明るい声が胸の奥に響き、温もりとなって広がる。ジルの表情も自然と、穏やかな笑みに変った。

 

「是非!」


 ◆

 

 出る時同様、使用人達に変な目で迎えられながらエンバリー邸に戻って来たジルは、早速クロエの捜索を開始した。

 まず一番に自室のある西館に走った。

 クロエが来ているとしたらそこなのではと考えたが、姿は無かった。その付近で働く使用人に訊いて回っても、ジルを訪ねて来た女性を見た者は居なかった。

 ジルは西館を離れると、門に一番近い位置に立つ北館へと向かった。そこの廊下で談笑しながら歩く侍女達と出会う。

 

「ごめん! 訊いてもいいかな?!」


 声を掛けると、全員が驚き顔で固まった。

 

「え、嘘っ…!」

「ジュ、ジュリアン様っ…!」

「――クロエを知ってる? クロエ・ノア」


 ジルの問い掛けに、3人の侍女は更に目を見開き、内の1人が大きく頷く。

 

「は、はい!」

「今日、此処に来てない?」


 重ねて訊けば、全員が一様に頬を高潮させた。

 

「き、来た! 来ました! 厨房に…! ね!?」

「う、うん!! 来た!」

「――それっていつごろ?!」

「い、いつだっけ?! そんなに前じゃないよね!?」

「うん! お昼の片付けしてたら現われて…!」

「今何処に居るか分かる?!」


 気が急くあまりに問いかけが前のめりになる。少女達はおどおどとお互いの顔を見合わせていたが、1人がふと思い出したように言った。

 

「あ、でも確か、会食の会場訊いてたから、行ったかも…」

「――有難う!!」


 ジルはそれだけ言うと、直ぐさま本館を目指して駆け出した。

 その背後では呆然と見送った3人の侍女達が、我に返るなり黄色い歓声を上げ、「見初められた?!」「うそー!」などと興奮気味に騒ぎ立てていた。

 

 

 会場へ向かいながら、ジルは自分が体調不良だと偽って会を中座したことを思い出していた。

 もしクロエがあの場にジルを訪ねて行ったのなら、それを聞かされているかもしれない。だとしたらクロエはもう、帰途についているのでは――。

 そんな可能性が過ぎった瞬間、体内からじわりと馴染みのある熱が生まれる。それが何の合図なのかをもう嫌と言うほど知っているジルは、中庭に面した回廊の途中で足を止めた。

 とっさに目を閉じ、握った拳を額に当てる。

 

 ――止めろ! おさまれ!

 

 その奥に向かって、強く念じた。

 クロエを求める本能と、彼女に対して誠実でありたいという理性と、相反する感情がせめぎ合う。魔道力の暴走は結局、自分の潜在的な願望が引き起こしているのだということを、ジルは既に自覚していた。ならばそれを抑えるのは、自分にしか出来ないのだということも。

 一瞬瞼の裏で像を結びかけた絵が、ふっと霞み、やがて消える。

 鎮まったのを感じ、ジルはふぅっと長い吐息を漏らした。

 開いた目に、再び回廊の景色が映る。吹き抜ける風が、火照った肌を心地よく撫でた。

 ――その時ふと、水が跳ねる音を耳が捉えた。何気なく中庭を振り返ったジルの目が、木立に囲われた池のほとりで止まる。そこで屈み込む人影に気付き、目を見張った。

 水中を熱心に覗く小さな背中。

 それは見間違いようもなく、ジルが求めて止まない恋人のものだった。

 

 ◆

 

 投げ込んだパンにむらがる魚を眺めながら、クロエは頬を緩ませた。

 結局あの後、離れ難くて中庭の長椅子でぼんやりとしていたら、再び来たカミラが気の毒に思ってくれたのか、会食用のパンをひとつ恵んでくれた。

 有難く池のほとりの長椅子で遅い昼食をとったついでに、泳いでいる魚達におすそわけをしている。

 競うように群がる彼等が、最後の一欠片の争奪戦を終えたのを見届けると、クロエはふっと肩を落とした。

 いい加減、帰らなくては。

 諦め切れずにぐずぐずしていたが、いつまでも粘っていては、カミラに気を遣わせるだけだ。

 味をしめたらしく、魚たちは今や軒並みクロエの傍に集合していた。そんな彼等に対し、両手をひらひらと振って見せる。

 

「もう無いんだよー」


「――何が?」


 唐突に降ってきた声に、クロエは心臓が止まるかというほどに驚いた。

 反射的に振り返ると、傍らに立つ人影が視界に飛び込む。

 結果、心臓が止まった。――ような気がした。


 ――う、そ…。

 

 クロエは口を開けたまま、そこに佇む人の顔を見上げて固まることしか出来なかった。

 想い焦がれた紫色の瞳は優しく細められ、記憶のままの微笑みを形作っている。木漏れ日に艶めく漆黒の髪も、整った顔立ちも、すらりとした痩身も――全てが幻のようで。目を凝らしていないと消えてしまうような気がして、瞬きすら出来ない。

 彼は不意に手を延ばし、クロエの腕を掴んで引き上げた。

 

「!!」


 立ったと同時に抱きすくめられ、クロエの体は確かな感触と、温もりのなかに包み込まれた。

 

「――クロエ…」


 耳元の囁きが、鼓膜を震わせる。

 胸を締め付ける、懐かしい呼び声。力強い腕。全てがクロエの記憶と重なって、ゆっくりと実感に繋がる。

 体の両脇に垂れていた腕が力を取り戻し、ぎこちなく持ち上がる。そして震える手が、確かめるようにその背中に触れた――その時、回廊の向こうから足音が響いた。

 クロエが息を呑むのと、ジルが顔を上げるのとが同時だった。誰かが来ると気付いた瞬間、ジルはクロエの手を引いて、近くの木陰へと走った。回廊の死角にクロエを立たせると、自分も覆いかぶさるようにして身を潜める。やがて回廊の方からは、そこを歩く多くの足音が聞こえてきた。

 会食を終えた上級魔道士達らしい。雑談をしながら渡っていくのを、息を潜めてやり過ごす。そんな緊張感のなかでも、クロエの胸は目の前に立つジルに対して、高鳴り続けていた。

 本物だ…、本物だ…――! 胸に鼻が触れそうな距離で、漸くそう確信する。

 こんなに近くにジルが居る。その目は遠くを窺っているのに、クロエの視線は彼に固定されていた。

 感激のあまり、寒くもないのに肌が震える。前より背が伸びたように思えるのは気のせいだろうか。髪も少し伸びて、大人びて映る。そのせいか、以前より更に――などと考えながらずっと注視していたせいか、ジルの目線もふとクロエに戻った。

 目が合うと、そっと距離が近づく。

 そして唇に、彼の温もりが重なった。

 クロエの体を幹に押し付けるようにして、ジルが口付けを深める。クロエもそれに応えながら、彼の体にしがみつく。離れられなくて、止まらなくて、抱き合いながら、何度も何度もキスをした。

 もうジルのことしか見えなかった。ジルの息遣いしか聞こえなかった。まるで五感全部を彼に奪われてしまったかのように、他の全てがクロエの意識から消えていた。息が上がるほどに繰り返して、漸く唇が離れると、縋るように抱き締め合う。

 それでやっと少し、気持ちが落ち着いた。

 激情が和らぎ、クロエは温もりのなかでゆっくりと、周りの景色を思い出す。気付けば既に中庭から、人の気配は消え去っていた。

 2人はどちらからともなく腕の力を緩め、そっと顔を見合わせた。

 今更な気恥ずかしさに、クロエの頬には熱が上る。

 

「……ひ、久し、振り…」


 それもまた、相当今更な挨拶だった。ジルが失笑を漏らす。

 

「久し振り」

「体は、大丈夫…?」

「…体?」

「体調、悪いって聞いて…」

「……あ…」


 言い直すと、ジルはふと罰の悪そうな顔になった。

 

「…ごめん。あれは、会食を抜け出すための嘘なんだ。…さっきまで別邸の方に行ってた。カミラさんに場所を教えてもらったら、居ても立ってもいられなくて…」


 気恥ずかしげに言った彼の顔が、赤くなる。その真相はこの上無く甘い響きを以って、クロエの胸を震わせた。

 嬉しくて声も出せないクロエに、ジルは苦笑を浮かべて見せる

 

「…それで、キアン・ジョーンズさんにこっちに居るって教えてもらって、戻って来た」

「キアンさんに会ったの?!」

「うん」

「うわぁ…。私ここに来るのに途中までキアンさんに送ってもらったんだ。…って聞いた?」

「うん…聞いた」

「今日は他にも、本当に色んな人にお世話になったの。フランシア様にはお休みを頂いたし、この服も貸してくださって…。あ、髪は友達が結ってくれたの! 凄いでしょ? どうなってるのか分からないでしょ? 私、自分ではこんな風にできないし、皆が折角頑張ってくれたから一目見て欲しいと思ってたんだ。良かったー、今日会えて…! 諦め切れなくてぐずぐずしてた甲斐が――」


 不意に引き寄せられて、クロエの声が途切れる。

 再び強く抱き締められて、耳に彼の吐息が触れた。

 

「有難う、クロエ。――大好きだ」


 不意打ちに、息が止まった。

 

「あと…、凄く似合ってる。髪型も服も、死ぬほど可愛い。ヤバいくらい可愛い。…ほんとに……有難う」


 ジルの一言一言が、クロエの耳から胸に落ちては、溜まり切った想いの泉を波立たせる。

 競りあがる熱が喉の奥で燻って、視界はたちまち涙で滲んだ。

 

「クロエ……会いたかった」


 それが限界を超えて溢れ出た瞬間、クロエは堪え切れずに嗚咽を漏らしていた。

 ジルの肩に力一杯しがみついて、呼びかけた声が、涙で震える。

 嬉しくて、幸せで、ただ愛おしくて――。

 

 会いに来てくれて有難う。

 私も大好き。

 私もずっと、会いたかった。

 

 そんな言葉をひとつひとつ、必死で伝えたつもりだけど、まともな声になったかどうかは分からない。

 それでも彼は優しい微笑みと沢山の口付けで、いい歳をして甘えるクロエを受け止め続けてくれた。

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