運命の日(2)
ジルはクロエに気付くと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。その唇がごめんと動くのを見て、クロエは頭を振る。大丈夫だと伝えたくて精一杯の笑顔を作ってみせると、彼もまた温かい微笑みで応えてくれた。
脱獄した筈の者が誰にも拘束されずに戻って来たことで、人々のなかには戸惑いが広がる。皆の思いを代弁して、皇帝陛下が「どういうことだジョシュア」と息子に訊いた。対してジョシュアは、笑顔で応じる。
「失礼致しました、このご令嬢は先日知り合った子でして、ジルと同じく竜に乗れるので、2人でひとっ走り証人を連れに行って来てくれるよう、今朝私が頼んだのです。――で、証人は…」
ジョシュアの求めに応じて、レディオンの騎士達が議会場に入って来た。彼等と伴に現れたのはまず、ジルの祖父ヴィンス公爵閣下だった。立派な礼服に身を包んだ品の良い紳士は、右手に書簡を携えている。彼が皇族席に対し一礼すると、エヴァンゼリンは「お父様…!」と小さな驚嘆を漏らした。
そして――。
「……ヒルトン公爵…!?」
続いて入って来た者の顔を認め、エドワードが瞠目する。眼鏡を掛けた細身の男性は、エドワードに事の発端となる情報を提供した上に、先程のジルに関する手紙を送って寄越した張本人だった。
最後にカーライルも会場に入り、全員が揃う。ジョシュアが満足気に頷いた。
「待ち侘びたぞ、ジル、フランシア。随分遅くなったではないか。何かあったのか?」
フランシアの名を聞いて、エドワードは更に目を見開いた。と同時に、少女の正体を知った人々のなかにはどよめきが起こる。当のフランシアはそれを気にすることなく、微笑みを返して言った。
「申し訳御座いません、殿下。ヒルトン公爵がタイミング悪く旅行中だとかで、別邸にまでお迎えに上がったもので…」
「それはご苦労だったな」
「フランシア。エドワード殿下だよ」
ジルが割って入り、フランシアに対してエドワードを紹介する。すっかり放心していたエドワードは、それで漸く我に返ったようだった。
フランシアは膝丈のドレスを摘み、礼儀正しく膝を折る。
「お初にお目にかかります、殿下。私の名はフランシア・エンバリー。この度の婚姻にてクローディアに嫁ぐ予定であった張本人でございます」
エドワードは何も応えなかった。応えられなかったという方が正しい。クロエはそんな彼等を見ながら、鼓動が速まるのを感じていた。
クロエとフランシアは、3日前に別れたその後、また直ぐに再会していた。彼女はあの翌日にはカーライルを連れて、もともと嫁ぐ予定であったレディオンまで来てくれたのだ。ジルとクロエが用事を全て終えてラフレシアから戻った時には、ジョシュアが今までの経緯を全てフランシアに伝えた後だった。
今朝方唐突に連行されたヒルトン公爵は、まだ呆然としている。
そして今日を迎えるまでレディオンの収監所に入れられていたカーライルは、灰色の囚人服姿でそこに居た。いまや彼は、完全なる無表情だった。彼の目にはもうフランシアも、他の何も映っていない。全てに対しての興味を失っているように映った。
フランシアとカーライル――2人の今の距離が、クロエの胸を締め付ける。
駆け落ちという形で一度は祖国を捨てたフランシアは、結局、祖国のために彼への想いを断ち切る道を選んだ。
それを手放しで喜べないのは、ぎりぎりまでカーライルを信じようとしたフランシアの、深い想いを知っているからだろう。
「――皆様!」
ふと議会場にフランシアの綺麗な声が響く。
「この度は私の身勝手により、大変お騒がせ致しました。事の真相を私の口から皆様にご説明致します。私は先日クローディアへの輿入れのためル・ブランから送り出されました。が、橋の国まで来たところで、ここに居るカーライルと伴に駆け落ちしたのです」
フランシアがカーライルの腕を取り、隣に引っ張ってくる。カーライルは抗うことなくそれに従った。駆け落ちという言葉に、またざわめきが起こる。
「重ねて申し上げますが、私の身勝手です。父の与り知らぬことで御座います。侍女達が真実を告げられず、ル・ブランとクローディアの間に不和を生まぬようにと身代わりを立てたのも無理からぬことであり、当初の責任は私にあります。――なお」
フランシアは一度言葉を切ると、ヒルトン公爵を掌で指す。
「私の正体に関しては、こちらのヒルトン公爵閣下にだけは事前にお話ししてありました」
ヒルトン公爵がぎょっと目を剥く。エドワードもまた、衝撃に瞳を震わせた。
「…なん、だと…?」
「そうですわね、閣下」
当然ながら、ヒルトン公爵は認めようとはしなかった。蒼ざめた顔で「知らん…!」とぎこちなく首を横に振る。だがフランシアは容赦無く続けた。
「閣下は全てご存知でした。私の正体も、ラフレシアに来た経緯も。目の前で魔道力をお見せ致しましたから、当然魔道士であることもご存知だった筈ですが、…エドワード殿下。殿下は閣下から私のことをお聞きになっていらっしゃいましたか?」
「聞いている筈がないであろう!」
エドワードは即座にそう答えた。
当然である。ヒルトン公爵とカーライルは魔道士が人の地に居るのだと訴えに来たのだ。そのくせ自分達はフランシアの存在を隠しているなどと、あってはならぬことだ。私欲のために都合の悪いことは隠し、エドワードを嘘の情報で翻弄した。その真相を突きつけられたエドワードは、切れ上がった目を更に鋭くしてヒルトン公爵に詰め寄った。
「……どういうことだ、公爵」
ヒルトン公爵は反射的に後ずさる。
「ち、違う!違うのです!私も騙された1人なのでございます!この男に…!」
狼狽しながら指差した先には、カーライルが立っていた。
「私はこやつが私に報告したままを、閣下にお伝えしたまでです!このような女性は存じません!会ったこともない!今回のことは、全てこの男が1人で仕組んだことにございます!――こ、こいつはクローディアの皇妃様の座を私の娘にと、いらぬことを考えたのです!こちらが頼んでもいないのに、勝手に…!!」
捲くし立てる公爵の叫びに、カーライルはすっと青い目を眇めた。そんな彼に、隣からフランシアが問い掛ける。
「…この人のどのあたりを信頼していたの?」
カーライルは久しぶりに無表情を崩し、冷笑を浮かべた。
「地位と権力かな」
どこか投げやりな響きだった。ヒルトン公爵は即座に「口を開くな、この悪党が!」と彼を罵倒する。
「――失礼します、ヒルトン公爵閣下」
不意にジルが話に割って入った。エドワードとヒルトン公爵の間に立ち、まずは公爵に向けて問い掛ける。
「あなたはここに居るカーライルをル・ブランへ密使として潜入させた。その件に間違いはありませんか?」
周囲の視線を気にして、公爵は目を泳がせた。
「…それは…、なんだ?!クローディアで罪に問われることなのか?!」
「…いいえ。ただ、あなたはエドワード様にこうお話しになった筈です。このカーライルがル・ブランの密使で、ル・ブランの陰謀を探り出したのだと。つまりは俺を密使として人の地に送り込んだという話のことですが」
「……そう聞いたな」
エドワードが頷く。そのやりとりは、ジルがヒルトン公爵の記憶から探ったものだった。ヒルトン公爵は頷かないが、ジルは構わず、今度は後方で傍観していた祖父を振り返った。
「ではヴィンス公爵閣下。そのような事実はあったのでしょうか」
「いいや、無かった」
「――何を適当なことを!そなたが何を知っておる!そもそもヴィンス公爵はエヴァンゼリン姫の実の父親だぞ!!証人になりうるものか!!」
ヒルトン公爵の抗議に対し、ヴィンス公爵は嫣然と笑みを返す。
「あぁ、失礼。今回私は代理で訪れたに過ぎないのだ。今の証言は――」
そう言って、携えていた書簡から紙を取り出し、皆に見えるように掲げ持った。
「この通り、陛下からのものであることをここに宣言致します!…陛下はル・ブランからの密使の件など何一つ知らされていないと仰っておりました。陛下の署名と、ラフレシアの王印がその証拠です。…ヒルトン公爵、閣下がカーライルに聞いたままをエドワード殿下に伝えたと主張するならば、その話を陛下にお伝えしていないのはどういうことですかな?――事実であれば真っ先にお伝えすべきは他国の皇太子殿下ではなく、我が国の国王陛下でございましょう!この場で納得のいく説明をして頂きたい!」
ヒルトン公爵は返事に窮し、顔を赤くしながら悔しげに唸った。その恨みがましい目を無視して、ヴィンス公爵は再び紙を書簡に戻すと近くの騎士に託した。それはすぐさま皇帝陛下のもとへと届けられる。
そしてヴィンス公爵は、屈辱に震えるヒルトン公爵に向き直った。
「うちの孫が議会場を騒がせたあの後、改めて私のもとを訪ねてくれてね。話を聞かせてもらったのだよ。…あなたがいざとなったらカーライル1人に罪を被せて逃れようと考えることくらいは想定内だ」
彼の言う通り、ジルはフランシア達と会った翌日、再びヴィンス公爵のもとを訪ねていた。
公爵はそれを予期していたように快く迎えてくれ、ジルの話に真剣に耳を傾けてくれた。その上でカーライルから届いた情報の中にル・ブランの陰謀に関するものが本当にあったかどうか、今日の議会までに、ラフレシア国王に直々に確認しておくと請け負って下さったのだ。
全ての逃げ道を塞がれ、ヒルトン公爵は最早抜け殻のようだった。
彼の目の前で、クローディア第二皇子のジョシュアが「ご足労感謝する、ヴィンス公爵」と声を掛ければ、公爵も「いえ、楽しい空の旅でございました」と応えて握手を交わす。
同じ由緒ある公爵家の者同士でありながら、そこにははっきりとした明暗があった。
ヒルトン公爵にとってその光景は、以前娘が皇妃候補から外された時と同じ悪夢の再現に思えた。
「それで、如何いたしましょうか。兄上」
ジョシュアに声を掛けられ、エドワードが我に返る。何のことだと目で問う兄に、彼は「この者の処分ですよ」とヒルトン公爵を指した。
処分という言葉に、ヒルトン公爵は声にならない悲鳴を上げる。
エドワードはふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
「……それは私が決めることではない。ラフレシアの問題であろう」
「…それでよろしいのですか?」
「よろしいもなにも…、見事に踊らされた私が、ただの愚か者だったという結論だ。――父上」
不意にエドワードは皇帝陛下を振り返った。そして周りを見渡し、皆の目が自分を見ていることを確認して言った。
「この場で宣言します。私は次期皇帝継承の権利を、此処にいるジョシュアに譲るものとします!」
「――えぇぇ!?」
素っ頓狂なジョシュアの声と伴に、その場は人々の驚嘆で埋め尽くされた。皇帝陛下も凍り付き、直後、蒼くなって立ち上がる。
「ま、待て!!何を言いだすのだエドワード!!冗談ではないぞ!!」
ほとんど悲鳴のような声でそう言った。
そこまで慌てられると思っていなかったのだろう、エドワードは虚を突かれた様子で「冗談ではありませんが…」と返す。
「今回の件を見れば明らかでしょう。私よりジョシュアの方が帝位につくに相応しいと、恐らく誰もが思っております」
「またお前はそのような…だったら具体的に誰が思っているのか言ってみろ!!私はこんなうつけに国を任せたくはないぞ!」
「誰がうつけですか!!――ではなくて、兄上、考え直して頂きたい!!私が帝位につくなどそんな面倒……いや、荷が重するというものですっ」
揃って引き止められたエドワードは、呆気に取られていた。2人からそんな反応が返って来ること自体、想像していなかったという顔だった。ジルは思わず失笑する。そしてエドワードに対し、こっそりと言った。
「この場はどうか退いてあげて下さい。陛下は自分の後にはしっかり者のエドワード様が居るから安心だと、常日頃仰っているので」
皇帝陛下が皆に向け、今の宣言は無しだと慌てた様子で訂正している。
その姿を、エドワードは何とも言えぬ複雑な顔で見守った。
家族から浮いていると思い込んでいたエドワードは、その実、彼の知らないところで家族全員から頼りにされていたのだ。その事実を前に喜んでいいのかどうか迷っている――そんな心情が窺える顔に、クロエは思わず口元を綻ばせた。
その時ふと、フランシアが口を開いた。
「ではヒルトン公爵の処分はラフレシアに委ねるということで…、こちらのカーライルなのですが――」
まだ腕を掴んだままのカーライルをちらりと見遣る。
「私の夫ですので、ル・ブランで預かってもよろしいでしょうか?」
カーライルは目を見張り、フランシアを振り返った。クロエもまたその予想外の発言にカーライルと同じような顔で固まった。
――私の、夫?!
聞き違いかと思ったが、カーライルの心底驚いたという反応を見るからにそうではないのだろう。
訊かれた皇帝陛下は、「勿論、構わない」と応じる。
ヒルトン公爵の処分をラフレシアに委ねるならば、普通の流れではカーライルの身もラフレシアに引き渡されることになる。だが今回、最もカーライルの被害にあったのは濡れ衣を着せられたル・ブランだ。ラフレシアは当然、引渡しに応じるだろう。
「…誰が、誰の夫だって?」
カーライルはまだ信じ難いという顔で、フランシアに訊いた。フランシアは「いやだ、今更改まって!」とカーライルの腕を叩く。
「一緒にル・ブランに帰りましょうね、カーライル。私を騙して利用した罪は、一生かけて償ってもらうわよ」
「……ちょっと待って。きみはまだ僕と結婚する気でいるのかい?」
「勿論よ。あなたの処分が済んだらね」
フランシアは呆気に取られるカーライルの鼻先を、ちょんと突いてそう言った。傍から見ればそれは恋人に対する仕草にしか見えなかった。
フランシアはふとヴィンス公爵を振り返って言う。
「ヴィンス公爵閣下。どうかラフレシアの国王陛下にご伝言下さい。今回の件に関し、カーライルの家族は何ひとつ関与しておりません。カーライルの罪はちゃんと本人に償わせますので、カルバート家が責めを負うことが無いよう、お口添え頂きたいのです」
本当に良くして頂いたのでと、フランシアは花が綻ぶように微笑んだ。ヴィンス公爵も目を細め、「承知した」と請け負った。
クロエはそんな光景を、とても不思議な気持ちで眺めていた。
きっとカーライルも同じ心情だろうと、呆然とする彼を眺めて思う。
誰だって相手に価値を求めるものだと当然のように言った彼は、この期に及んで自分を手放そうとしないフランシアをさっぱり理解できていないに違いない。
それでもカーライルの悪巧みに乗っておきながら役に立たなくなったら切り捨てるヒルトン公爵と、今のフランシアと、どちらが本当に自分にとって価値ある存在なのか――きっと今度こそ、気付けた筈だ。
クロエは少し複雑な思いで、フランシアから目を逸らした。
それと同時に、和やかな空気に低い声が割って入った。
「…私は悪くない」
呟いたのは、ヒルトン公爵だった。彼は蒼ざめた顔でジルを指差すと、突如声を張り上げた。
「こいつは魔道士だ!!――そうだ!!魔道士なんだ!!この者が魔道士であったことは…私が伝えたことは事実だったではないか!」
空気が再び緊張する。ジルは静かに公爵を見返していた。
「何人もの証人が居るのだぞ!ジェラール・エンバリーの判定が偽りであったことは確かなのだ!!その事実はどうするのだ!!どう説明するのだ!!」
「――俺は国を出ます」
ジルが宣言する。
迷いの無いその答えが、クロエの胸に突き刺さった。皇帝陛下は衝撃を受け、硬直する。
彼は全員に向け、改めて言った。
「その通り、俺は魔導士です。それが分かった以上、もうこの国には居られません。皇族から抜け、人の地を離れます」
エドワードが何かを言おうと口を開いたが、言葉にはならなかった。皇帝陛下が堪らず「ジル…!」と彼の名を叫ぶ。
それに対し、ジルは屈託の無い笑顔で応えた。
「母を、お願いいたします」
皇帝陛下は愕然として、声を失った。
「――あっ!」
不意にフランシアが、何かに気付いたように声を上げた。
割って入ったそれに、皆の注意が引き付けられる。注目の中、彼女はその菫色の瞳で、何も無い虚空を見詰めていた。
ジョシュアが訝し気に「どうしたフランシア」と問い掛けると、彼女はぱっと振り返って言った。
「すみません、少し外して構いませんか?父が来るようですので」
クロエは思わず息を呑んだ。ジルも、そしてエヴァンゼリンもまた、その報せに固まった。
フランシアが「竜が群れで現われますので、お報せしてあげないと大騒ぎになってしまうので…!」と慌ただしく出口へと向かう。
だが扉を開いた瞬間、兵士達の絶叫がその場に届いた。ただ事ではないその声に、全員が目を丸くする。
フランシアはそれを聞いて、ひょいと肩を竦めた。
「遅かったみたい」