クローディア帝国の迎え
細身の白いドレスに白いブーツを合わせ、その上から魔道士の正装であるローブを纏う。白地に金銀の糸で細かく刺繍が施されたそれは、眩いほどに光り輝き、ずっしりと重く感じた。
長い髪は既に結い上げられており、白金の冠が飾られている。その格好で椅子に座るクロエに、カミラは化粧を施しているところだった。
「あなた化粧映えする顔立ちよね」
カミラが呟く。閉じた瞼を筆が撫でるのを感じながら、クロエは「そうですかね…」と苦笑した。
「部品は小作りだから顔立ちは派手じゃないんだけど、形と配置がいいのね。肌も綺麗だし。…はい、目を開けてみて」
言われるがまま目を開くと、鏡には見知らぬ自分が映り込んでいた。瞼に加えられた若草色が、光る粒子を含んで目元を彩っている。頬に広めにのせられた桃色は、見事にあどけなさを演出していた。
「おぉ…!」
「どう?」
「凄い!10代に見えます!」
「そこ?……まぁいいわ。できあがり」
カミラはそう言って、満足気に化粧道具を片付け始めた。目の前の大きな鏡に、格好だけはどう見てもお姫様な自分が居る。
”化粧したら絶対、綺麗になるよ”
ふとそんなことを言われた記憶が甦って、鏡の中の顔が曇った。
クロエにそう言ったのは、今あまり思い出したくない人物――カーライルだったのだ。
カーライルは明るい金髪に青い瞳の、爽やかな青年だった。人当たりが良く、自然に注目を集めていたらしい、本人と知り合う前に色々な人から噂だけは飽きる程聞かされていた。
そんな彼とクロエが直接関わることになったのは、彼が今回の随行者に決まったほんの3ヵ月前からである。あまり男性に慣れていないクロエに、彼の方から積極的に声を掛けてきてくれたのだ。
もちろん特別な意味は無く、彼は誰に対してもそういう人なのだけれど。
一緒に仕事をする中で、カーライルはクロエに自分のことを語って聞かせてくれた。
ル・ブランで生まれたのではなく、故郷は人の地にあること。ある時魔道力に目覚めたとしてル・ブランに送られることになったが、蓋を開ければ単なる間違いで、彼は純粋な人間だったのだということ。
実際、そういう事は珍しくはないのだ。疑いを向けるのがそもそもただの人間だからである。
なので人の地から送られてきた者はまず魔導士ジェラールの判定を受ける。彼はル・ブランで最大の魔道力を持つが故に、相手の魔道力の程度も軽く触れるだけで断定出来るのだ。
結果、ただの人であるとなれば、また人の地へ戻れる。
だがカーライルは違った。ル・ブランが気に入ったと言って、そのまま住み続けることを希望したのだ。
全く魔道力を持たないクロエが、その話を聞いてカーライルに親近感を覚えてしまったのは否定できない。魔道力を持たなくても気にせず堂々としている姿に、憧れに似た感情を抱いていた…気がする。
だから彼に”化粧をしたら綺麗になる”なんて言われて、胸を高鳴らせたりして…。
バカだった。
知らないところで彼はずっと、フランシアと愛し合っていたというのに。
腰まで届く柔らかい金色の髪、菫色の瞳――天使のように、綺麗で愛らしいあの方と…。
「…何処へ、行くんでしょう…」
独り言に近い呟きに、カミラの手が止まる。
「大丈夫よ。カーライルったらしっかりしてるから、持参した支度金はほとんど持って行ったもの。ジェラール様に見付けて頂くまでの間、何処へ行っても困ることはないわ」
クロエの懸念を読み取ったような慰めに、少しだけ癒される。ジェラールの宮殿で何不自由無く大切に育てられたフランシアにとっては、色々なことが初めてで戸惑うに違いない。が、カーライルも居る。心配は無い筈だ。
「カーライルの故郷は人の地にあるんです。それが何処なのか、聞いておけばよかった…」
「聞いたって私達、人の地は右も左も分からないじゃない。あなたは余計なことを考えずに役に徹しなさい。そうよ!私はあなたの侍女なんだから、敬語なんて使って頂いては困ります。――”フランシア様”」
……確かに他のことを考えている余裕は無さそうである。
◆
迎えが到着したのは夕方頃だった。
船が着いたとの報せを受けて、クロエ達一行はディバプールの迎賓館を出ると、馬車に乗って港へ向かった。
その間中、クロエは花嫁の入れ替わりがディバプールの人達に悟られないようにと、ローブについているフードを目深に被って顔を隠していた。
やがて馬車は、クローディア帝国の紋章がついた船が停泊する港に着く。そこでは黒い軍服を身に纏った男性がずらりと並んでいた。
圧巻な光景に、クロエは馬車の中で身を竦める。
「にょ、女官長!怖いです…!」
「フランシア様、あれはクローディア軍です。ただのお迎えですよ。誰も取って食おうという気は御座いませんので、堂々となさっていてください。ちなみに私は女官長ではなく、カミラです。――カ、ミ、ラ!!」
こちらも充分怖かった。
怯む間も無く馬車は停まり、クロエ達は恭しく降ろされる。迎賓館の人達はそれで役目を終えたのだろう、丁寧に礼をして一歩退がった。それを合図にするように、クローディア軍の隊列から男性が3人ほどこちらに歩いて来る。
いよいよ本番だ。
3人はクロエの前に立つと、踵を合わせて敬礼した。
「お初にお目にかかります。クローディア帝国レディオン騎士団、第一騎士隊隊長、ゴードン・レインと申します」
「お迎え有難うございます。こちらがル・ブラン共和国エンバリー家のご息女、フランシア様でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
クロエはフードの中で冷や汗を浮かべながら、カミラに教わった通り小さく礼をする。余計なことを口走らないよう、極力口を開くなと言われていた。
「こちらが魔道士ジェラール殿のご令嬢であらせられる…」
「左様でございます。そしてここに我が共和国の代表者ジェラール・エンバリーからの書状がございます」
カミラは厳かに筒を差し出す。筒にも中の書状にも共和国の紋章が押されており、ジェラールの署名付きで「花嫁は間違いなく自分の娘のフランシアだからよろしく」といった内容が堅苦しく記されている。
騎士団の代表者と思われる男性はそれを一読し、小さく頷いた。
「分かりました。では失礼ながら、姫様の魔道力をこの場で少しご披露願えますでしょうか」
――えっ。
懸念していたことではあったが、この場で言われると思ってはいなかった。
意外な展開に内心で動揺しつつも、押し隠してカミラを見遣る。期待に反し、彼女の目は「自分で断りなさい」と言っていた。はい、すみません。
事前に打ち合わせしておいて良かった。クロエは台本通りの台詞を口にする。
「…恐れ入ります。父より人の地でみだりに魔道をひけらかすことのないよう言いつかっておりまして…」
「お心遣い痛み入ります。ですがこの橋の国では問題ございません。こんなお願いは心苦しいのですが、確かに魔道国の方であることを確認してからお連れする決まりになっているのです。なのでごく簡単なもので構いません。形式的な手順とご理解頂ければ幸いです」
「…あ…なるほど」
クロエはフードの奥で蒼くなった。
いえ、生まれも育ちも魔道国でも、ただの人間だってヤツも居るんですよ?!…などとここで言っていいものかどうか。あまりよくない気がする。
刹那、視界が唐突に色を変えた。
「うわっ…!!」
何が起きたのか一瞬分からなかった。地から吹き出すようにして炎が立ち昇り、クロエと騎士の間に一瞬にして巨大な壁を作ったのだ。
それが騎士団の3人に襲い掛かる勢いで膨れ上がる。
男達が慌てて退くのを見送り、カミラはクロエに耳打ちした。
「幻覚です、ご心配無く……と、あの人達に言ってやりなさい」
――流石です、女官長!
クロエは騎士達と同じ勢いで逃げたことがバレないうちに元の位置に戻ると、素知らぬ顔で立つ。
それと同時に、巨大な炎の壁は綺麗に消え去ったのだった。
◆
頼もしい女官長の助けもあって、クロエはその後無事にクローディア帝国の地へと運ばれた。
再び長い船旅の後、港からは馬車に乗り換え、結婚相手の領地であるレディオン公爵領へと向かう。
だが船を降りた時に既に日が暮れていたこともあり、その日はまた途中の迎賓館に入ることとなった。
広い貴賓室に通された後、監視の目から解放されたクロエは、何はともあれ長椅子に倒れ込んだ。
「………しんどい…」
天蓋付きのベッドに感動する余裕も無い。カミラが代わりに辺りを鑑賞しては少女のようにはしゃいでいた。
「女官長…」
「”カミラ”!」
「……ここでも続けるんですか?それ」
「勿論でございます、フランシア様。癖にしておかないとふとした時にボロが出てしまいますからね」
「…そうですね…。…カミラ…、これ脱いでいい?」
今やただの重石としか思えないローブを指して訊くと、カミラは微苦笑で応じる。鑑賞を中断すると、クロエのもとへ来てくれた。
「どうぞ。お手伝い致します」
無事重石から解放されたクロエは、そのままお風呂に入り、化粧も落として寝支度を整えた。
カミラはまた明日と言って続き部屋に退がり、ひとりになったクロエもベッドに入る。だがいざ寝る体勢になると、不思議なことに眠気はいっこうに訪れなかった。
明日はいよいよレディオン城で、結婚相手と会う。そう思うだけで、不安が邪魔をして寝付かれない。
小一時間苦しんだ後、クロエは結局寝るのを諦めて一度ベッドを出た。水でも飲もうかと、水差しを求めて歩き出す。その途中で窓の前を通り、ふと足を止めた。迎賓館の敷地は高い柵で囲われ、その向こうには街の灯が点々と広がっていた。
クロエは突然、得体の知れない寂寥感に襲われた。
今夜が『クロエ・ノア』としての最後の夜なのだという実感が唐突に形を成し、胸を圧し潰す勢いで膨れ上がる。
クロエはとっさに荷物へと駆け寄っていた。
もとの自分の荷物も、そこにある。
革袋から膝丈のチュニックと長袖シャツと外套を取り出し、絹の寝間着を脱ぎ去った。
深い考えは何も無かった。――ただどうしても今、あの街の灯りの中へ行きたかったのだ。