遭遇
翌朝、微かに朝陽が差すベッドで目覚めたクロエが一番にしたことは、例によって反省会だった。
――すみません、また未成年に手を出してしまいました…。
ジルが聞いたら怒りそうな謝罪だが、20年ル・ブランで過ごしたクロエとしてはやはりどうしてもその感覚は抜けないのだった。
だからといって自重も出来ないのだから、意味は無いが…。
ちらりと隣を見てしまえば、ジルの寝顔に知らず頬が緩んでしまう。彼と触れ合ったのは初めてじゃないのに、こんなにも多幸感に包まれた朝は初めてだった。
クロエは目を戻し、ぱんっと両手で顔を叩いた。
いけない、いけない。気を引き締めなくては!
己に喝を入れたクロエは、彼を起こさないよう気を付けながら早々にベッドを出た。着替えと洗顔を終わらすと、部屋を出て街に繰り出す。店を巡って朝食と首都の地図を調達して戻ると、部屋では目を覚ましたらしいジルがベッドに身を起こしていた。
まだ起きたばかりなのだろう、裸のまま呆然とクロエを見ている彼の黒髪は、少し寝乱れている。
いつもと違うそんな姿が、なんだか可愛らしい。
「おはようっ」
挨拶すると、ジルは気が抜けたように枕に突っ伏した。クロエは小卓に買い物袋を置いて「パン買って来たの。食べる?」と明るく声を掛ける。だがジルは顔を埋めたまま呟いた。
「……また黙って居なくなった…」
「……あ…」
そういえば以前も黙って消えたのだった。かつての自分の所業が甦り、慌てて「ごめんね…」と謝る。
「私昨日からあんまり役に立ってないから、せめて買い物をと思って…」
枕からジルの顔が少しだけ覗き、紫色の瞳がクロエを映す。
「一緒に行きたかった」
――う…、かかか可愛い…。
寝起きのせいだろうか、いつもと違う甘え声に胸がときめく。内心で身悶えつつ、クロエはそれが顔に出ないよう必死で平静を装った。
「ごめんね…。あの、首都の地図も見付けたの。お店の人にも訊いてみたんだけど、やっぱり例の住所、聞いたこと無い地名が入ってるって。私もざっと見てみたけど見付からなくて」
クロエは地図を広げ、ジルに見せるようにして持った。
「やっぱりでたらめだったのかな?どう思う?」
「…………そうだね…」
「……えーと、とりあえずパン食べる?」
気の無い返事なのでひとまず地図は置いて、紙に包まれたパンを差し出してみる。不意にその手首を掴んで引き寄せられ、気付けばクロエは再びベッドの中に連れ戻されていた。裸のジルに圧し掛かられ、声が上擦る。
「ジ、ジル?!」
「なんか悔しい…」
「え?!なんで?!」
「…もう俺のこと眼中に無いじゃん」
「えぇ?!そんなことないよ!私はただ大人として…!――わぁ、待って!もう脱ぐのはナシ!」
「やだ、脱がす」
「ちょっ…、ジル?!どうしたの?!待って、待ってー!」
いつに無い強引さでジルはクロエを下着姿にすると、そのまま抱きかかえるようにして、すぅっと二度寝に入った。
「……?」
慌てていたクロエは、意外な展開に目を瞬く。
もしかして…寝ぼけたのだろうか。
遅れてその事実に気付くと今度こそ抑えきれず、クロエは顔中を緩ませて悶絶した。
◆
結局昼前には、2人はアルムントを発つことになった。
念のため首都の役所にまで行って確認したが、思った通りカーライルの住所はでっち上げだったのだ。そうなるとジルの言っていたラフレシアが最有力候補となる。
無駄足だとは思わなかった。ひとつ分かったことがある。
「結局、カーライルと、彼をル・ブランに送った人は一緒に嘘を吐いてたってことで決まりだよね」
「そうだね…」
「どうしてそんな嘘、吐いたんだろう?」
最近お世話になりっぱなしの翼竜の背中で、クロエは昨日の疑問に立ち返っていた。背中側のジルが「うーん…」と唸る。
眉を顰めて考え込む彼はいつも通り大人びた表情で、今朝の彼とは随分違う。あの後、本格的に目覚めたジルは下着姿のクロエを見て「いつの間に着たの?」と訊いて来たのだ。思わず吹き出してしまったクロエを見て、なんで笑うんだと慌てていた様子を見るからに、寝起きはあまり良いほうじゃないのだろう。実は貴重な一面を見てしまったのかもしれないと内心ほくそ笑んでいると、顔にも出ていたらしく、ジルが「なに?」と訝し気に訊いた。
「ううん!ね、どうしてだろうね。そうまでしてル・ブランに来たかったなんて、なんだかカーライルの方が密使みたいだよね!」
誤魔化すように口にした言葉に、自分でハッとなる。ジルの方も同じように目を見張った。
「密使…!」
「それ、…有り得る!?」
思わず訊くと、ジルは即座に頷いた。
「うん。そういう目的なら腑に落ちる。だとすると、ル・ブランにその男を送り込んだ人物は、ただ者じゃないな。人を1人、二度と戻れない地に送り込む権力を持ってるってことだから…。あぁ、でもエドワード様との繋がりがあるんだから、当然か」
「そうだよね!皇帝陛下もそれなりの地位にある人だろうって言ってたし!…そうか、密使だから、人間だって判定を受けても残るって言ったんだ!そしてル・ブランの情報を手に入れるために、フランシア様に近付いた…!」
説得力のある仮説に、クロエは興奮を覚えた。それが真実だと思えて仕方がなかった。
カーライルは最初からフランシアを利用する気だったのだ。彼女を本当に愛していたら、ル・ブランを貶めるような事を出来る筈は無いのだから…。
「どうしよう…。カーライルを、どうやって見付けたら…」
本名も分からない状態では、どこをどう探せばいいのか分からない。だがジルは迷いなく言った。
「ある人を訪ねてみようと思ってる。ラフレシアの有力貴族で、かつ、今回の件に絶対に加担してないと分かっている人」
「えぇ!そんな人が知り合いに居るの?!」
「…実は直接会うのは初めてなんだけどね。一応、俺のお祖父さんだよ」
クロエはハッとして、手を叩く。
「ヴィンス公爵様!!」
「うん」
「そうだ!そうだよ!その人が居た!凄い!ジル凄い!頼もしい!」
歓喜のあまり拍手するクロエとは裏腹に、ジルは苦い顔になる。
「…俺が頼もしいというより、俺の周りが全員、やたらとデカすぎるんだよね…」
ジルの呟きに、クロエは心から頷いてしまった。
◆
かつてラフレシアで竜に乗れる少年として名を馳せたジルとしては、今回の着地には今までで一番気を遣っていた。かなりの僻地に降り立ったため、都会に出るのにも時間を要し、漸くジルの馴染みの街に着いた頃にはもう夕刻だった。
「わぁ、綺麗…!」
街の中心地に出たクロエは感嘆の声を上げる。大きな円形の噴水を真ん中に公園が広がり、更にその周囲を囲うようにして環状の商店街が出来上がっている。公園の美しさもさることながら、連なる店舗の外観もお洒落で統一感があり、絵に残したくなるような素晴らしい景観だった。
その公園を横切りながら、ジルは「懐かしいな」と呟く。
王都にほど近いこの街は、田舎に住んでいたジルが都会気分を味わいたい時に、よく友達と遊びに出てきた場所だったという。確かに道行く人達の服装は洗練されていた。
ジルはやがて、ひと際大きな建物に入った。そこはいかにも高そうな宿だった。
クロエの問うような目に答えて、ジルが言う。
「今日の部屋、決めておこうと思って。そこでクロエは待ってて。俺はこの後ヴィンス家に行ってくるから」
「…あ、そっか…」
なんとなくクロエも同行する気でいたが、よく考えれば貴族のお家なのだ。流石にヴィンス家に無関係の者がくっついて行っていい場所じゃない。
お留守番は納得したものの、クロエは辺りを見回して不安顔になる。
「でも…ここ高そうじゃない?」
「うん。一度泊まってみたかったんだよね」
「ジルったら、庶民みたいなことを…」
「だから俺、庶民だって」
2人は笑い合いながら、受付へと向かった。
今回ジルはごく自然に2人で1部屋をとってくれた。
一瞬今朝の反省を思い出し掛けたクロエだったが、「一緒でいい?」と訊かれたら反射で頷いていた。
相変わらず誘惑に勝てないダメな大人である…。
その後、クロエはひとり贅沢なお部屋でお洒落な長椅子に座り、サービスの飲み物を楽しんでいた。
ジルは買い物に出ている。流石にちゃんとした服装で行かないといけないだろうからと、ヴィンス家に行く前に服を買いに出たのだ。クロエも一緒に行こうとしたが、疲れてるだろうから休んでいてと気遣われてしまった。その優しさに甘え、がっつり休んでいる。
冷たいジュースで人心地つくと、クロエはお部屋の探検を始めた。置いてある家具や調度品の見事さに一々感嘆しながら歩き回り、最後に窓から商店街を眺める。公園の噴水が、まだ元気に水を上げていた。
夕焼けが、景色を茜色に染めていく。
思わずため息が零れるほどの絶景だった。
暫くぼんやりとそれを眺めていたクロエは、ふとその視線を商店街に落とした。――瞬間、クロエの顔が強張る。
そこを歩いている男女の姿を認め、榛色の目が大きく見開かれた。
「…フランシア、様…!」
驚きのあまり、声が震える。遠目でもはっきりと分かる。それは紛れも無く、かつてクロエが仕えた姫様だった。
一緒に居るのはカーライルだ。やはり彼はラフレシアに居た。それを確認して、クロエは部屋を飛び出した。絶対に見失うわけにはいかないと、必死で階段を駆け下りた。こんな高級な宿で走り回る客など居らず、従業員は仰天している。それでも構ってなどいられず、クロエはロビーを駆け抜けて宿を飛び出した。
息を切らしながら辺りを見回せば、窓から見た2人の姿は直ぐに見付かる。
クロエは全力で彼等に駆け寄り、フランシアの腕を掴まえた。
悲鳴を上げた彼女と目が合った瞬間、菫色の瞳が驚愕に震える。金色の長い髪に透き通るような白い肌、お洒落な膝丈ドレスがとても良く似合う。久し振りに相対したフランシアは、相変わらず羨ましい程の美少女だった。
「クロエ…」
フランシアの唇が、小さく自分の名を口にする。
「フ、ランシア、様…!」
こんなところで会えるなんて――。感激に顔が緩みかけたが、フランシアの反応は真逆だった。お化けでも見たような顔で後退る。
「待って、待って下さい、フランシア様…!」
追い縋ろうとするクロエを、フランシアは「いや!」と叫んで振り払った。そしてカーライルの背後に逃げ込む。
「カーライル…!!」
頼られたカーライルは、フランシアを庇うようにしてクロエと対峙した。だが彼もまた、その顔に戸惑いの色を浮かべている。
偽物だとバレたクロエが自由の身で居るだけで、彼にとっては予想外の事態だろう。「…クロエ…何故きみが此処に…」と目を泳がせながら訊いた。
だがクロエはカーライルを通り越し、フランシアに向かって訴えた。
「――フランシア様、お願いです!話を聞いてください!」
「嫌よ!連れ戻しに来たんでしょう?!私はもうカーライルの妻なんだから!結婚なんて出来ないのよ!」
「結婚なんてしなくていいですから!!」
クロエの言葉に、フランシアの纏う空気が僅かに緩む。
「え…」
やはり思った通りだった。クロエはフランシアの反応に力を得て続ける。
「今回の結婚はもともと形だけのものだったんです!――フランシア様…!フランシア様は、何もご存知無いんですよね?私がフランシア様の身代わりになっていたことも、今クローディアで何が起きているかも、ご存知無いんですよね?」
フランシアは純粋に、クロエをル・ブランからの追手だと思っているのだ。「身代わり…?」と眉を顰めたフランシアの表情で、その考えは確信に変わる。
「今、ル・ブランが大変なんです!クローディアとの婚姻に対して、最初からフランシア様ではない偽物を送り込んだと疑われていて、このままだとジェラール様が責めを負うことになってしまうんです!どうかフランシア様…、そんな事実は無いとクローディアの人達に伝えて下さい!」
クロエは必死で懇願した。今回の件の解決には、フランシアの協力が絶対に必要だった。
だがカーライルも黙ってはいない。即座にフランシアに警告する。
「耳を貸すな。きみを連れ戻すための造言だ」
「違うわ!!」
怒鳴り返すと、彼は蔑むような目でクロエを見下ろした。
「ならどうしてきみはここに居る?身代わりが知られたと言いながらも、無罪放免だった?その格好、どう見てもシアの代わりが務まるとは思えない。下手な嘘は吐かないで貰おうか」
「、それは…」
「そ、そうよ…!」
カーライルの言葉に励まされ、フランシアも声を尖らせる。
「お父様からの命令なんでしょう?!そんな風に言えば、私が戻ると思ってるんでしょう?!そのくらい、私でも分かるわ!」
「違うんです!!――カーライルはル・ブランに潜入した密使なんです!」
ほとんど自棄になって、クロエはそう言い返した。まだ仮説の域を出ていない話だったが、言わずにはいられなかった。瞬間、カーライルの表情が一変する。明らかに衝撃を受け、強張った。
その反応で、クロエは自分の攻撃が功を奏したことを知る。だがそんな彼の顔が見えないフランシアは、嫌悪感を露わにして言った。
「何を言っているの?」
「全くだ。なんて下らない…!」
「証拠だってあるんだから!!」
とっさの嘘に、カーライルは凍り付く。その隙を突いて、クロエは必死に言い募った。
「フランシア様、お願いします。私と一緒に来て下さい。そうしたら、カーライルのしたことが分かります!この人はあなたの思うような人ではないんです!私が偽物だということをクローディアの皇太子様に伝えたのは彼です!彼しか居ないんです!それだけじゃありません!ル・ブランが密使を送り込んでいるという疑惑まで植え付けて…」
「やめて!!」
クロエの言葉を遮って、フランシアは言い切る。
「嘘だわ。信じない」
「姫様…」
「そんなに言うなら、証拠を見せて」
挑むようなフランシアの要求に、カーライルは顔を引き攣らせる。今この瞬間、本当に何かを出せたらどんなに良かったろう。クロエは悔しい思いで肩を落とした。
「……今、この場では…」
「――話にならないな。フランシア、行こう」
そう言い捨てると、カーライルはフランシアの背を押して歩き出した。顔を寄せ、彼女に何かを囁きかける。
「フランシア様…!!」
足早に去って行こうとする2人を、クロエは堪らず追い掛けた。2人はふと商店街を逸れ、建物の間に延びる路地に入って行く。クロエも後に続くと、ハッと立ち竦んだ。2人はそこで足を止めていた。
フランシアは振り返りざま、クロエの眼前に手をかざした。
その瞳が赤く色を変えていることに気付いた時はもう遅かった。
クロエの意識は急速に遠ざかっていった。
倒れ込んだクロエの体を、カーライルが受け止める。
彼の指示通りに人気の無い場所で魔道を使ったフランシアは、気を失ったクロエを複雑な顔で見詰めた。
「……ジェラール様に居場所を辿られてしまったかな」
カーライルの呟きに、フランシアは「…遠見の気配は感じなかったのに…」と腑に落ちない思いで返す。
カーライルはクロエの体を横抱きにして言った。
「馬車に戻ろう」
「…連れて行くの?」
「どうやってこの場所に辿り着いたのかを聞く必要があるからね。追っ手は他にどのくらい居るのかも気になる。…クロエの後を遠見で追われないよう防ぐことは出来る?」
フランシアは頷いて、小さく溜息を漏らした。
何故そっとしておいて貰えないのだろう――それが自分の我儘であることは承知の上で、悲しくなる。
「大丈夫。なんとかするよ」
カーライルの力強い言葉に、フランシアは顔を上げる。彼の微笑みに、ぎこちないながらも笑みを返した。
◆
宿に戻ったジルは、部屋にクロエの姿が無いことに気付いて怪訝に思った。
買い物に出たにしては、部屋の鍵は開け放してあった。受付けに尋ねてみたが、やはり鍵は預かっていないという。困惑するジルに、ふと近くに居た従業員がすみませんと声を掛けてきた。
「お連れの方でしたら、走って出て行かれたようでしたが…」
「走って…?」
「はい。大変に急いでいらっしゃるご様子で…」
胸騒ぎを覚える。
ジルは従業員に礼を言うと、宿の外に出た。辺りを見回したが、クロエの姿は見当たらない。環状の道を走りながらひとつひとつ店舗を覗いたが、やはり見付けることは出来なかった。
――クロエ…。
焦燥感が突き上げて、ジルのこめかみには冷や汗が伝う。再び宿に戻ってもやはり姿は無く、居ても立ってもいられない思いでまた駆け出した。
取るもの取りあえずという様子で出て行ったクロエに、何があったのか。
一体、何が――。
その時、ジルは不思議な感覚に襲われた。視界に突然クロエの姿が現れたのだ。
ハッと息を呑み、足が止まる。それは幻のように霞がかった光景だった。
現実にそこに居るわけではないということは、直ぐ分かる。それでもただの幻ではないと、本能的に感じる。
ジルに見えるクロエはどこか慌てている様子で、きょろきょろと辺りを見回していた。そして不意に走り出す。ジルもその背中を追うように動いた。
クロエが駆けていく先に居たのは、見知らぬ男女だった。クロエはその2人に駆け寄り、女性の腕を掴んで引き止めた。
『クロエ…』
『フ、ランシア様…!』
その名を耳にした瞬間、ジルは瞠目した。
彼等のやりとりが、まるでその場に居合わせたかのようにはっきりと聞こえる。
これがフランシアと…”カーライル”。クロエの記憶を通じて、ジルも初めてその姿を見ることが出来ていた。
やがてクロエは商店街を離れ、彼等を追って路地に入り――クロエの体がぐらりと傾いだ瞬間、映像は唐突に途切れた。
景色は再び、元に戻る。そこにクロエの姿は無い。
路地を辿りながら、ジルはクロエの気配を探した。だがもう見付けることは出来ず、そこで完全に途絶えていた。
道行く人が、訝し気にジルを振り返る。
だがジルの目には入らない。
唇を噛んで虚空を睨み据える彼の瞳はその時、燃え盛る火のような紅色に変化していた。