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17/30

その先の未来に

 レディオンの地にも、夜が訪れる。

 一日の政務を終えたジョシュアは長椅子でくつろぎながら、妻フラウの酌で寝酒を楽しんでいた。

 瓶を傾けて夫のグラスを満たしながら、フラウはふと思い出したように告げる。

 

「…ジルの件、エヴァンゼリン姫宛ての手紙で首都にも報せておきました」

「ん…。これで義母上もひとまずは安堵されることだろうな」

「あの子達、何処へ行ったのでしょうね…」


 フラウが瓶を戻しながら呟く。ジョシュアは「さぁな」と気の無い返事をした。

 

「”さぁな”って…」

「何処でもいいだろう。なんならそのまま戻って来なくても構わない」

「構わないことありますか」

「父上は既に覚悟を決めておられるよ。5日後にエヴァンゼリン姫が国外追放となったら、自分も帝位を降りて彼女と運命を伴にするおつもりだ」


 明言されたわけではないが、ジョシュアは確信を持ってそう言った。父は今まで充分に責務を果たしてきた。2度も伴侶を失う不幸に見舞わせるより、ジョシュアとしては気持ちよく送り出してやりたい気分だった。

 けれどもフラウはいかにも嫌そうな顔になる。

 

「そうしたら次の皇帝はエドワード殿下なのですよね?……もしかしたら最初からそれを狙って…」

「まさか。そうなったら兄上が真っ先に異議を唱えるさ。またひと悶着ありそうだな」


 ジョシュアは苦笑交じりに肩を竦める。そしてふと遠い目になった。

 

「ル・ブランのジェラールがどう動くかも気になるところだ。この機に妻と息子を取り戻すことも可能だが…」

「……妻と息子?」


 フラウが訝し気に繰り返す。夫の表情からその意味を悟り、ハッと目を見開いた。

 

「ジルの父親はジェラールだと…?」

「恐らくな」

「そんなまさか…!」

「…まさかもなにも、エヴァンゼリン姫がジルの父親をああも頑なに隠す理由はそれ以外に無いだろう。それに…」


 ジョシュアは何かを思い出して、ひとり失笑する。フラウは非難めいた口調で「何が可笑しいのです」と訊いた。

 

「いや、ジルがな。レディオンに戻って来た瞬間、何を訊いたと思う?」


 ”フランシア姫が偽物というのは事実でしたか?”

 

 開口一番、彼が確認したのはその件だった。

 クロエが本物のフランシア姫であればジェラールの娘だ。今まで彼女を気に入っているのは明らかでありながら、離婚すると言い張っていたジルの態度を思い起こし、ジョシュアはその時、全てに合点がいった。

 なので即座に答えてやった。

 

 ”いや、紛れも無く本人だ”

  

「――そう言った時のあいつの顔ときたら…!」


 思い出して爆笑した瞬間、ジョシュアの顔面には物凄い勢いでクッションがぶつけられた。

 

「最っっ低!!」


 結果的にグラスの中身がぶちまけられたが、続けて容赦の無い2発目が繰り出される。

 

「ま、待てフラウ!落ち着け!」

「あなたって人は…!あの子の気持ちを分かっていてなんて下らない嘘を!!悪趣味にもほどがあります!!」

「いや違う!最後まで聞け!その後すぐに、”…と言いたいところだが、残念ながら赤の他人だった”って付け足したんだぞ!!嘘は吐いてない、嘘は!」

「当たり前でしょう!!こんな時までジルで遊ぶなんてどういう神経してるの!!」

「わー!分かったから!俺が悪かったからー!」


 そして結婚15年目の夫婦の夜は、喧騒と伴に更けていくのだった。

 

 ◆

 

 食事を終えたジルとクロエは悩んだ末、次の目的地をアルムント王国と決めた。

 地図で位置と方角を確認し、再び竜に乗って橋の国を後にする。再びあっという間にアルムントに辿り着き、夜の闇に紛れて広野に降り立った。そこから民家のある町まで出て、また寄り合い馬車のお世話になる。折角なので居合わせた人にカーライルの出身地とされている地名について訊いてみると、首都の名前であることが分かった。ただ首都は広いので、住所が示す街についてまでは知らないという。

 2人はひとまず首都を目指すことに決めた。

 

 漸く駅に辿り着いた時には、かなり時間も遅くなっていた。

 最終の汽車になんとか駆け込み、田舎町を離れる。

 重低音の汽笛が遠吠えのように響く中、2人はガラ空きの座席に並んで腰を下ろした。肩で息をするクロエを、ジルが「大丈夫?」と気遣わしげに覗きこむ。

 

「だ、だいじょ、ぶ…!侍女は、体力が、勝負だからね…!」


 呼吸を整えつつ応えると、ジルはなるほどと優しい笑みを浮かべる。そして申し訳なさそうに言った。

 

「ごめん、慌ただしくなって…。でも流石に今日の移動はこれで終わりだから。首都までは届かないけど、続きは明日だね」

「汽車が終わっちゃうから、仕方ないよね…。探せば貸し馬屋さんとか、あるかもしれないけど…」

「いや、いいよ。明日改めて首都の地図を買わないといけないし、夜中に闇雲に動くより人に聞きながら進んだ方が早いから」

「そっか…、だよね…」


 気持ちばかり焦っても仕方がない。クロエは深呼吸すると車窓に流れる景色へと目を遣った。外にはほとんど灯りが見えず、町は寝静まっている。

 

「ル・ブランにも汽車は走ってるの?」


 ふとジルに訊かれて、クロエは彼を振り返った。

 

「うん。竜には乗れない人の方が多いから、普通に馬車も走ってるよ」

「へぇー…クロエの住んでるところってどんなところ?」

「私はね、16の時からエンバリー家に住み込みなの。でも実家は田舎町だよ。お父さんは建築士で、お母さんは主婦で…。でも私が巣立ったから、お母さんも最近は近所の知り合いのお店をお手伝いしてるみたい。料理が得意なの」


 再び会話が始まると、時間を忘れる。移動の最中はこうしてずっと、お互いことを話していた。初めて会った時には伝えられなかった、色々なことを。

 クロエの両親の話を、ジルは興味深そうに聞いてくれる。幼い頃の家族との思い出を幾つか披露すると、「仲が良いんだね」と目を細めて言った。そんな風に感じて貰えるのは、素直に嬉しく思う。

 

「…うん。あっちに居る頃は、ちょくちょく実家に戻ってたし…」

「じゃぁ、クロエが人の地に行くってなった時には相当寂しがってただろうね」

「ううん、名誉なことだから喜んでたよ」


 クロエの答えは意外なものだったようだ。ジルの綺麗な眉が持ち上がる。

 

「そうなの?でも会えなくなるのに…」

「あ、違うの。随行した侍女は結婚式が終わったらル・ブランに戻る慣わしだから」


 自分で言いながら、ふとその事実を思い出した。そう、クロエはフランシアが逃げていなければ、今頃は帰途についていた筈なのだ。両親はこうしている今も、クロエの帰りを待っている。5日後に自由の身になれたら、今度こそ戻ることを考えなくてはいけなくて…。

 

「……そうなんだ…」


 ジルはそれだけ呟くと、ふと視線を前に戻した。

 お互いになんとなく沈黙したことで、車内には車輪の音だけが残る。

 

 ――自由の身に、なれたら…。

 

 クロエは思わず自問した。その時が来たら、自分は本当に故郷に戻るのだろうかと。今更、そんな疑問に立ち返っていた。

 クロエは最初からずっと、いずれはル・ブランに帰るつもりでいた。でもそれは、ジルとの未来が絶対に無いという前提での話だった。例え身代わりの結婚があのまま成立していたとしても、いずれは離婚する予定だったから…。

 今、クロエ達が奔走しているのは、ル・ブランの疑惑を払拭するため。

 でももしそれが叶ったら、クロエはその後どうするのだろう。

 それは今更というより、今だからこそ初めて、悩むことが出来る問題なのだと気付いた。

 もしル・ブランに戻ったら、人の地には二度と立ち入ることが出来なくなる。

 ジルとも、二度と会えなくなる。

 想像した瞬間、そんなのは嫌だと、クロエの心は即座に悲鳴を上げた。それでも、ル・ブランで待っていてくれる家族や友達に永遠の別れを告げる覚悟も、直ぐには決まらない。

 答えを出せずに、クロエは押し黙った。

 そんなクロエの隣でジルもまた、誰も居ない車両を瞳に映したまま、じっと何かを考え込んでいた。

 

 ◆

 

 終着駅で降りた2人は、暗い街を暫く歩くこととなった。開いている宿がなかなか見付からなかったのだ。

 いよいよ野宿かと不安が過った頃、漸く宿付きの酒場に行き着いた。安堵しつつ賑わう店内に入ると、ジルは早速カウンターの内側に居る主人に声を掛けに行く。

 

「泊まりたいんだけど」

「おぅ、何人だい?」

「2人……で、2部屋」 

「待ってな」


 鍵箱を確認に向かう彼を見送ると、なんとなく目を見合わせる。クロエが「2部屋…?」と訊くと、ジルは「うん、2部屋」と繰り返した。

 

「2部屋…」

「うん、2部屋」

「私、ほんとに一緒でいいのに…」


 思わずそう呟くと、ジルは困ったように眉を下げる。

 

「誘惑しないでよ」

「え!……い、今のは、誘惑…?」

「違うの?違うなら何なの?同じ部屋で泊まろうって誰にでも言うの?」

「言わない、言わない、言わないけど…!」

「じゃぁ、友達感覚?それは流石に怒るよ、俺」

「いやいやいやいや!!そんな、そんなことは…!」

「誘惑したね?」

「しました、すみません」


 誘導尋問の末、観念して頭を下げる。ジルは堪え切れないという様子で吹き出した。なんだか遊ばれた気がして、カウンターに突っ伏して笑うジルの肩を照れ隠しに一発叩く。彼は「ごめんごめん」と笑って顔を上げた。

 

「クロエがあまりに嬉しいこと言うから」


 そんなことを言われると怒れなくなる。ジルはゆでダコのようになったクロエから目を離すと、店主の去った先を見ながら呟いた。

 

「…本音を言えば俺も、すっごい乗っかりたいんだけどね…。でも先が見えない状態で、また一夜の過ちみたいになるのは嫌だから……自重しようと思ってさ…」


 一夜の過ち…。

 その一言が胸に刺さって、クロエは何も言うことが出来なかった。

 あの日クロエがしたことは、結果的に一夜の過ちにしかならなかった。クロエの気持ちがどうであれ、ジルとの未来は絶対に無いと分かっていたのだから。それが分かっていて誘ったのだから、無責任な行為だったとしか言いようがない。

 誘惑に負けたのはジルじゃない。クロエの方だった。

 そして今も、負けそうなのは彼じゃなくて…。


「はい。…自重します…」


 自戒を込めて呟くと、ジルの瞳がこちらを向く。同時に奥へ引っ込んでいた主人が鍵を持って現れた。それを無造作にカウンターに置いて、早口に告げる。

 

「悪いね、2人用の部屋が1つしか空いてないよ。どうする?」

「……」

「……」

 

 ――どうする?


 すぐさま答えを出すことは出来ず、2人は暫し鍵を見詰めて固まっていた。

 

 

 

 足を踏み入れた部屋にはベッドが2つ、間に小卓を挟んで並べてあった。

 結局同じ部屋になったのは、不可抗力だ。今から違う宿を探すのが難しいのはお互いによく分かっている。明日も動き回るだろうから寝ないという選択肢はなく、この結果は仕方がない。

 内心で言い訳を並べながら、クロエは「いい部屋だね」と振り返った。顔を見合わせると、ジルは何とも言えない複雑な表情でこちらを見返す。明らかに、直前のやりとりが尾を引いている。そのぎこちない空気の中、後から入ったジルが扉を閉ざした。

 

「風呂場先にいいよ」

「…あ、うん。…寝間着…あるかな…」

「置いてないみたいだね。俺ので良かったら貸すけど」

「でもそうしたらジルが…」

「俺は大丈夫。適当なシャツ着て寝るから。最悪、裸でもいいし」

「はだかっ…!」

「いや、嘘だよ。なんか着るよ」


 ジルは即座にそう言い直すと、片方のベッドに荷物を置いた。そしてクロエに上下揃った寝間着を渡してくれる。

 

「…すみません、お借りします…」


 それを両手で受け取ると、クロエはそそくさと風呂場へ向かった。慌ただしく出発したのでクロエの荷物は何も無い。下着だけは途中で調達したのだが、寝間着にまで気が回らなかった。

 脱衣所で服を脱ぐ間も、壁一枚向こうにジルが居ると思うと妙にそわそわする。そういえば最初の日は部屋に入った途端、ベッドに直行したのだった。お酒の力、恐るべし…。

 そんなことを思い出しながら浴室に入ったが、お湯に触れればその心地良さに、余計な物思いは全て消え去る。髪と体を洗ってさっぱりすると、漸く人心地ついた。

 置いてあった布で水気を取って、借りた服に袖を通す。ジルの服はやっぱり大きくて、シャツの裾が腿まで届いているし、ズボンは腰ひもを引き絞らないと落ちてしまう。

 男の人なんだと、改めて実感させられた。

 彼の香りに包まれると、まるで抱き締められているようで、クロエの気持ちはまた舞い上がりそうになる。年下のジルがあんなに落ち着いているのに、なんてザマだろう。恥ずかしいぞと自分を叱咤し、自重自重と唱えながら風呂場を後にした。

 部屋に戻ると、ジルはベッドに横になっていた。こちらに気付いて身を起こす。

 

「お風呂、どうぞ」


 そう言うと、ジルは我に返ったように、ふいとクロエから目を逸らした。

 

「うん。…先に寝てて」


 そう言って、逃げるように風呂場へと去って行く。残されたクロエは、ベッドに座って髪を乾かし始めた。

 櫛でとかして、水気を拭くという作業を淡々と繰り返す。その最中にも、風呂場から聞こえる水音に落ち着かない気分を味わった。

 そしてどれ程の時間が経っただろう。クロエの髪がほとんど乾いた頃、ジルは漸く風呂場から戻ってきた。

 振り返ったクロエと目が合って、彼は一瞬動きを止める。

 

「…起きてたの?」

「あ、うん…」

「……そっか…」


 ジルもまた濡れた髪を拭きながら、もう一つのベッドへと向かう。そんな彼の姿を目で追いながら、クロエは彼に呼び掛けた。

 

「ジル…」


 ジルの目がこちらを向く。

 

「ん?」


 髪を拭いていた布を取って、彼は自分のベッドに腰を下ろした。風呂上りのせいだろうか。彼の顔や項には濡れた黒髪が降りかかり、緩いシャツから覗く鎖骨もあわせて、いつも以上に艶っぽく映る。

 ドギマギする自分を抑えつつ、クロエは徐に切り出した。

 

「あのね、ずっと考えてたんだけど、私、将来は橋の国に住もうかなって思って…」


 ジルが紫色の瞳を軽く見張った。その驚きが伝わって来ると、なぜかクロエまで声を上擦らせる。

 

「ご、ごめん、唐突だったね!しかもまだ考えるには早いことかもしれないんだけど……ただ、私がル・ブランに戻ったとしても、それでお別れにはしないで欲しいっていうか…。その先も私はずっと、ジルと会い続けたいと思ってて…」


 言いながら、これはほとんど告白ではないかと思った。まだジルから正式に何かを伝えてもらったわけでもないのに…。

 ジルは何も言わなかった。ただ驚いたような顔でクロエを見ているだけだった。先走った自分を認めながらも、もう後には退けない。そして、後に退く理由も無い。

 意を決して、クロエは続けた。

 

「つまり…、一夜限りはもう二度と嫌だって言うのは、私も同じ気持ちだって言いたいの。大事にしたいの。は、……初めての、恋だから…!」

 

 どもりつつそう告げた直後、束の間部屋には静寂が戻った。

 その時間があまりに長く感じて、息苦しさを覚える。

 ジルは暫くただクロエを見ていたが、不意にそれまで息を止めていたのかと思う程大きく吐き出した。

 そして片手で顔を隠し、俯いてしまう。

 不安になって呼び掛けようと口を開きかけた時、小さな呟きがクロエの耳に届いた。

 

「……ヤバい。嬉し過ぎて死にそう…」

 

 そう呟いた彼の表情は見えない。それでも真っ直ぐ受け止めてくれたのだと分かる一言が、クロエの胸に熱く広がった。

 それはこの上無い答えだった。

 クロエの好きな人が、クロエを求めてくれる。――こんな奇跡が、自分に起こる日が来るなんて思っていなかった。

 込み上げる感情をぐっと堪えて、クロエも目を伏せる。

 

「…っていうか、俺も橋の国で住む」


 ジルの呟きに、クロエはハッと我に返った。

 

「え、そこまでは…!」

「いや、住むよ。というか、俺も考えてたから。クロエがル・ブランに戻るなら、俺はどうしようって…。追いかけては行けないし、せめて橋の国に行こうかなって…。そうすれば、また会えるかなって…」


 まさかクロエが同じこと考えてくれてるなんて思わなかったと、ジルは柔らかく微笑んだ。

 その気持ちが、胸に沁みる。ジルはル・ブランに帰りたいというクロエの思いを、ごく自然に尊重してくれている。その上で、クロエとの未来を繋ぐために出来ることを考えてくれていた。

 抱き締めたい――そんな衝動が突き上げて、溢れてしまいそうになる。

 躊躇いながら、クロエは小さく窺った。

 

「…あの…、少しだけ傍に行っていい?」


 ジルは応えなかった。ただ黙って、ベッドから立ち上がった。そしてそのまま、クロエの方へ来る。彼が隣に座ると、ぎしりとベッドが鳴った。

 至近距離で目を見合わせたら、心臓が飛び出しそうに暴れて、苦しくて堪らなくなった。なんて綺麗な瞳なんだろうと、改めて思う。ジルならきっと、どんな素敵な女の子とだって恋が出来るに違いない。――のに、どうして…。

 

「…好きだよ」


 その囁きが、クロエの心の奥を揺さぶった。視界は涙で霞み、もう言葉を返すことも出来ない。

 2人の唇は、ごく自然に重なり合った。

 最初は優しく触れるだけのキス。それを繰り返しながら、少しずつ深くなる。肩に廻されたジルの腕にも、徐々に力がこもる。その熱を受け止めるほどに頭の奥は痺れて、何も考えられなくなっていった。

 クロエが知っているキスは、彼のものだけ。

 こうしてクロエに触れるのも、抱き締めるのも、全部彼だけ。

 一生、彼だけでいい。

 彼だけがいい――。

 ジルの掌はやがて、クロエのシャツの裾から中に入ってくる。それを感じて、肌がぴくりと震える。

 ふと目が合って、ジルは困ったような顔になった。

 

「…ダメって言って」

「…う…」


 確かに自重すると決めたばかりだった。それでもジルの掌に撫でられると、クロエの体は正反対の反応を示す。

 

「…んっ……だ、ダメ、だよ…」

「ダメ…?」

「あっ…、ダ、メ…」

「……なんか……なんでだろう…。物凄い逆効果なんだけど…」

「んん、…なん、で…?」

「そんな声出されたら変に煽られるというか…。…もっと嫌そうに言って…」

「え、…っ…」


 一瞬止めた息を吐き出しながら、クロエは涙目でジルを見た。

 

「嫌じゃ、…ないのに…?」


 彼が息を呑むのが伝わる。再び抱き寄せられて、噛みつくようにキスされた。

 ジルの香りはもしかしたら媚薬を含んでいるのではないかと真剣に疑ってしまう。感じれば感じるほど、お酒に酔ったみたいに頭がぼやけていく。耳朶を噛まれて、背筋がぶるりと震えた。

 

「あ、ダメっ…」

「――ごめん、俺もダメ。もう限界…」


 そう言って、ジルは耳元で囁いた。

 

「誘惑に負けていい…?」


 それこそが、何より強烈な誘惑だった。クロエはジルの背中に腕を廻し、その体をきゅっと抱き締めて言った。

 

「……負けて下さい…」


 笑いを含んだ声が、はいと応えた。

 ジルが貸してくれたシャツは、たくし上げられてあっという間に頭からぬかれてしまう。夢中でキスを交わしているうちに、クロエの背中はベッドに受け止められていた。

 脱ぎ去られた服が、床の上に次々と落ちていく。柔らかい寝具の上で、肌の温もりが重なり合う。

 不意に最初の夜の記憶が、あの日感じていた切なさと伴に甦って、クロエは危うく泣きそうになった。

 まるでそれを見抜いたかのように、ジルの囁きが落ちてくる。

 

「クロエ、好きだよ。…大好きだ」

 

 違う――。今はあの時とは違う。この恋はもう幻なんかじゃない。

 

「わ、私も…!…私も好き…、好きなの…」


 幻なんかに、しない――。

 

 今までの想いを全部吐き出すようなクロエの言葉は、ジルの唇に呑み込まれて消える。

 2人はそれ以上言葉も無く、ただ強く抱き締め合った。

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― 新着の感想 ―
[一言] ここまで来ましたー! どうなるかと思いましたが、ようやく2人の障害が1つ取り払われてなりより♡ ていうか、ジルがほんとに可愛かっこよくて!!! 読みながら寝落ちしてしまって感想が朝に… 何…
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