脱獄
ある日、ヒルトン公爵を訪れたカーライルは、エドワードから彼に届いた便りで、計画が予定通りに運んだことを知らされた。
現状、疑惑の対象となったクロエとエヴァンゼリンの息子は、それぞれレディオンとグリフォンで収監されているらしい。
手紙の日付けからして後一週間ほどで、エヴァンゼリン姫の国外追放が決まる。彼女は再びラフレシアに出戻ることになるだろう。
ヒルトン公爵は、今やその吉報を素知らぬ顔で待てばいいだけとなっていた。
「よくやってくれた、カーライル」
「お役に立てて光栄です」
2人は一足先に祝杯を上げていた。赤ら顔の公爵は上機嫌である。
「きみの働きには必ず報いよう。あぁ、奥方にもな」
「有難うございます。ですが、シアにはどうぞ侍女の身代わりの件は内密に…」
「分かっている」
カーライルは当然、今回の件をフランシアには話していなかった。彼女はただ竜に乗れる子供が今はクローディアに居るという情報を伝えたに過ぎないと思っている。最近は自分達の結婚式はいつになるのかとそればかりを気にしていて、仕事が落ち着くのを待って欲しいと宥める日々だった。
少なくとも正式に事が決するまでは、目立つ行動は避けなくてはならない。
今回の件で、クローディア帝国はル・ブランに確認をとろうと動くかもしれない。だがフランシアの失踪は既にル・ブランに伝わっている筈なのに、ジェラール側に一切の動きが無いのは事実だ。エヴァンゼリンの息子の件も含めて、ル・ブランが潔白を主張することは出来ないだろう。
そう分かっているからこそ利用したのだが。
ル・ブラン側は密告者を追いたくなるだろうが、カーライルの身はフランシアが隠してくれている。ル・ブランで語っていた素性は全て偽りのものなのだから、他に自分を追う術は無い。
最終的にル・ブランとクローディアは決裂するかもしれないが、その先の未来に興味は無かった。それより気になるのは自分自身の未来である。
ヒルトン家の娘が改めてクローディアに輿入れした暁には、公爵は一生カーライルを粗末に扱うことは出来なくなる。大きな秘密を共有しているのだから、ヒルトンの領地をいくらか任される立場となることは間違いないだろう。
カーライルは愉悦に満ちた顔で、酒に濡れた自分の唇をぺろりと舐めた。
◆
「交代だ」
部屋の外側から掛けられた声で、中の騎士達は一斉に扉の方を向く。彼等の応答を待たずに鍵が外され、扉はぎぃっと外側から開かれた。交代要員がぞろぞろと入ってくるのに合わせて、役目を終えた騎士達もその場を動く。簡単な状況報告の後、去って行くまでに数十秒。扉は再び堅く閉ざされた。
ジルが収監されて5日、入れ替わりに要する時間はそれを繰り返すたびに長くなっていた。
上下灰色の囚人服を纏い、寝床で横になった状態で一部始終を見ていたジルは、視線を天井に戻した。
最初のうちは緊張感を保っていた騎士達も、変化の無い見張りで気持ちに緩みが生じてきたのが分かる。彼等もジルと一緒に閉じ込められているのだ。その精神的疲労が積み重なるのは無理もなかった。
そろそろ、頃合いだろう。
ジルはこの数日、あえて何もせずにずっと寝床で過ごしていた。そして騎士達に一挙一動を見張られながら、こちらもまた彼等の動きを観察していた。
とりあえず見張りの周期や回数、面子は覚えた。今は次に現れる顔ぶれも予測できる。この見事に規則的な行動は主人の影響に違いない。エドワードもまた、毎日同じ時間にジルの様子を見に現れるのだ。
次の交代で、騎士団長らしき男が見張りに入ると同時に、エドワードも来る。
ジルはちらりと扉付近に立つ若い騎士に目を遣り、彼の腰に携えられた銃を確認した。
「交代だ」
だいたい予想通りの時間に、いつもの言葉が届く。そして騎士達の意識が扉へと集中する。――失敗すれば次は無い。
次いで鍵が外される音が響いた瞬間、ジルは寝床から跳ね起きた。
仕事を終えた気でいた騎士達の反応は、予想通りに遅れた。扉付近の騎士は完全にジルに背を向けていたため、なおさらだった。その彼に体当たりすると同時に右腕を固め、腰の銃を奪う。
「な――!」
「静かに」
声を上げられる前に腕を捻り上げ、ジルは彼の後頭部に銃口を押し付ける。部屋の中の騎士が全員、息を呑む。同時に部屋の扉が、外側から躊躇いなく開かれた。
「ダメだ!!開けるな!!」
騎士の1人がそう叫んだ時には、もう遅かった。ジルは拘束していた騎士を突き離し、開いた扉の隙間から外へと飛び出していた。当然入って来ようとしていた騎士と衝突する。咄嗟に対応しきれずよろめいた男の脇を抜け、ジルは彼の後ろに居ると分かっている目的の人物を捕らえた。
彼の首を固めて背後に廻ると、そのこめかみにぴたりと銃口を当てる。
「動くな」
思った通り、騎士団長に次いで入って来ようとしていたのはエドワードだった。一瞬で主人を人質にとられる形となり、その場の騎士達全員が凍り付いた。
ジルの腕が首に食い込み、エドワードが苦し気に唸る。
「…貴っ様…!」
「失礼します、義兄上。少しお付き合いください」
「誰がお前の…!!」
兄だ!と続けようとしたエドワードの声が途切れる。その首を捕らえたまま、ジルはゆっくりと後退した。背後に見える螺旋階段を目指す。
「こ、こんなことをして…ただで済むと…」
「不当に収監されたので、罪は無いと思っています。すみません、魔道とやらをお見せ出来なくて。俺も伊達に騎士団で3年過ごしていないので」
「母親がどうなってもいいんだな?!」
「どちらにしろ国外追放なんですよね?」
「――こいつに撃つ度胸などあるものか!構うな!捕えろ!!」
エドワードはそう叫んだが、銃が主人に狙いを定めているのが見えている状態で、構わず動くことなど出来るはずもない。悔し気な騎士達との距離は着実に開いていく。螺旋階段に出ると、下からはおびただしい足音が聞こえてきた。
主人の声で異変に気付いたのだろう。流石に対応が迅速だ。
駆け上がって来る騎士の姿が視界に入った瞬間、ジルはエドワードの体を離し、彼等に向かって突き落とした。
「うわぁ!!」
騎士達は慌てて主人を受け止め、事なきを得た。だがその間にも、ジルの姿は螺旋階段の上に消える。
上へ向かった囚人の行動に、騎士達は束の間呆気にとられた。その戸惑いを打破するように、エドワードは男数人に抱きとめられた状態で声を上げる。
「屋上に行かせるな!!竜を呼ぶ気だ!!」
よく通る声が、ジルの背を追うように響いた。
最上階を目指して階段を上がっていた彼の耳に、行く手を遮るような足音が届く。――どうやら上からも来る。
ジルは足を止め、振り返った。もう下には戻れない。その目が壁に大きく開いた窓を認めると、手にしていた銃を足元に置いた。エドワードの言う通り、それを使ってこの場を突破しようという発想は無かった。本当に罪を犯しては元も子もない。
ジルは窓の縁に手を掛けて、そこに飛び乗った。同時にエドワードが下から駆け付ける。今にも窓から外へ出ようかというジルの姿に、エドワードも騎士達も思わず足を止めた。
「な、何をしている…」
ここは塔の上階で、落ちれば死は免れない高さだった。顔を強張らせてそう訊いたエドワードに、ジルはふっと哀し気な微笑を零す。
「ここから落ちて死にでもすれば、俺を人間と認めてくれますか?…エドワード様…」
「ば、馬鹿なことを…!」
それはどう見ても、追い詰められた者のとる行動だった。一瞬ジルが魔道士だという確信が揺らぎ、エドワードは思わず後ずさった。
「待て。…分かった。一旦話を聞く」
ジルはそれを聞いて、柔らかく微笑む。
「有難うございます」
そしてひらりと飛び降りた。――窓の向こう側へ。
「うわぁぁぁ!!!」
エドワードの絶叫が、追うように響く。窓に飛びついて外を見た彼は、次の瞬間風を切って飛ぶ青銅色の巨体を目の当たりにした。その翼が起こした風に煽られて息が止まる。長い尻尾を翻して空へと舞い上がった猛獣の背に人の姿を認め、エドワードは瞠目した。
何が起きたのかを正確に理解できたのは、ジルを乗せた翼竜の全身が視界に収まった後だった。
「…、あんの………クソガキが!!!」
由緒正しい皇族の出とは思えぬ悪態とともに、エドワードは憎しみを込めて塔の壁を殴りつけた。
◆
空中で竜に飛び乗るという荒業は初めてだったが、ひとまず脱出に成功した。
5日ぶりに薄暗い牢屋から解放されたジルは、そのまま全速力でレディオンを目指した。
しっかりとヒレを掴み、風を切って飛ぶ。
彼の黒髪は風に煽られ、靡いていた。
「クロエちゃん、果物がいい?焼き菓子がいい?」
「………いや、あの…」
「お茶の葉はどれにする?」
「……いえ、そんな…」
「やだもう、そんな小さくならないでー!開き直って楽しもうよー!」
ジュディにばんっと背中を叩かれ、ぐふっとむせる。
レディオン公爵邸でお留守番中のクロエは、何故か今日も『フランシアを囲む会』改め『クロエを囲む会』に引っ張り出されていた。
フランシアではない一侍女の立場に戻れば、彼女達はクロエにとって雲の上の存在である。おまけに長らく騙していたという負い目があるのだから、なおさら居た堪れない。前身冷や汗を滲ませるクロエに、フラウは聖母のような笑顔で「そうよ楽しみましょう」と言ってくれた。その提案に喜んで!と飛びつけないクロエの顔を、覗き込むようにして窺う。
「ねぇ、クロエ。私達が今まで何のためにお茶会なんてものを開いていたか分かる?」
虚を突かれ、クロエは目を瞬いた。
何のためにと問われれば親睦を深めるためだと思うが――。
答えられずにいると、フラウはそのふくよかで優し気な顔立ちに似合わぬ、辛辣な言葉を口にした。
「この国の皇族に入る子を、品定めするためよ」
唖然とするクロエに、フラウはうふふと笑みを漏らす。
「これでも私この国の貴族の娘よ。皆が上辺を飾る社交界で、人の内面を見抜く技を身に着けてきたつもり。だからこそジョシュアは私に余所者のフランシア姫がどんな人物なのかを見極める役目を任せたのよ。…正直に言えば、私はあなたが良家のご令嬢ではないかもしれないとは、最初の頃から薄々感じていたわ」
食事の所作で分かるのよとフラウに言われ、クロエは赤くなった。
そんな深い思惑がある場だとは、全く想像もしていなかった。ジョシュアとフラウに共通する外面の柔らかさに油断させられて、まんまと本性を曝け出していた自分が今更ながらに恥ずかしい。こんなに大きな領地を統べる人達が、そんなに暢気なはずもないのに。
ジュディとララベルが「うそー、私達は分かりませんでした!」と驚嘆する。フラウは俯くクロエを見て、「あぁ、ごめんなさい。変な言い方をして」と謝った。
ふと優しく頭に手を置かれ、クロエは顔を上げる。フラウの微笑みは、やはりどこかジョシュアに似ていた。
「何が言いたいかというとね。私はそんなことは今更どうでもいいと思うくらいに、あなたのことが気に入ってしまっているということよ」
その掌の温もりに、涙が突き上げた。
「――フラウ様!失礼致します!」
その時突然、切羽詰まった声が割って入った。駆け付けた騎士が、フラウに告げる。
「ジョシュア様の命により参りました。…ジル…ジュリアン様がその…脱獄して来たようで。ル・ブランの侍女の引き渡しを要求しているため、連れてくるようにと…」
最後まで聞く前に、クロエは立ち上がっていた。
ジュディとララベルは揃って歓声を上げ、フラウは「まぁ、大変」と全く大変そうではない調子で呟いた。
騎士に連れられて向かった中庭は、以前クロエが初めてこの家に来た時に竜で降り立った場所だった。
あの時と同じように、青銅色の巨大な翼竜がそこに居る。だが慣れた光景なのだろう、直ぐ傍で騎士団の皆とジョシュアが、ジルと話していた。
クロエが来たのに気付いた皆の視線がこちらに向いたが、クロエの目は輪の中心に居るジルに釘付けになる。
「来た来た」と、ジョシュアが破顔した。
「グリフォンから脱走してきたそうだ」
ジルを指してそう説明する。彼は拘束されていたわりには、いつか見たような私服だった。
「ひどい奴で、竜を使って私を脅すんだよ。仕方がないからきみを引き渡すことにした」
ジョシュアが芝居がかった調子で嘆くと、ジルは「脅されついでに風呂と着替えまで有難うございました」と笑う。近くで見ると、ジルの黒髪は僅かに濡れていた。
「グリフォンの収監所は綺麗なんですけど、洗い場でお湯が使えないんですよ。あれ、辛いですね」
「そうなのか!それは囚人が気の毒だな。レディオンではちゃんと使えるというのに」
「そうですよね。――快適だった?」
唐突にそう訊かれ、クロエは固まる。ジョシュアが楽し気に笑った。
「この子の入っていた牢屋はもっと凄いぞ。お茶とお菓子が付くのだからな!」
「それは物凄い差別ですね」
「す、す、すみません…」
クロエは思わず小さくなる。ジルが本気で収監されていた間、クロエの方はというと相も変わらず豪華なお部屋で客人扱いだったのだ。流石に今は化粧はしていないし、服も本来の自分のもので、地味な膝丈チュニックを着ているが。
ジルはジョシュアに目を戻すと、手にした荷物を肩に掛けながら言った。
「色々と、有難うございました」
「…それで?お前はどうするつもりだ?」
「密告者を探ります」
迷い無く答えた彼に、ジョシュアはふむと呟く。
「それに関しては我々も動いている。本物のフランシア姫と一緒に逃げたという男に関して、この子の侍女として来ていたあの女性が、ル・ブランで素性を調べて来てくれる手筈だ」
クロエ達が話したことに関しては、既にジョシュアの口からジルに伝わっているらしい。ジルは「有難うございます」と応えた。
「…ですが、ただ待っているのも性に合わないので、俺はこの地で手掛かりを探します」
「当てがあるのか?」
「そうですね、少し」
「あと5日だぞ」
「はい」
頷いたジルの紫色の瞳には、強い決意が表れている。ジョシュアはそれ以上何も言わず「分かった」と頷いた。そしてクロエに目を向ける。
「頼んだよ。お茶会の邪魔をして悪いが、例の男の顔を知っているのはきみだけだからね」
「はい…!…有難うございます!!」
ジルの手伝いが出来るなら、こんなに嬉しいことは無い。クロエは力強くそう応じた。
やがて翼竜と伴に、ジルとクロエは空に飛び立っていった。それを見送った騎士の1人が、「あの子、なんか見覚えがあるんだけど…」と呟く。
「俺も思った。似てるよな、ジルが口説きに行った子に」
「あぁそうだ!それだ!」
「あぁ確かに!ジルが珍しく自分から口説きに行った子に似てる!結婚控えてるくせにな」
「振られたって言ってたやつか」
「それそれ」
というか本人か?いやいやまさか!と騎士達が口々に言い合うなか、見送るジョシュアは目を細めて青天の空を仰いでいた。