猶予は10日
一時騒然となった場は、発端となったエドワードが去ったことにより落ち着きを取り戻していった。
皇帝陛下は皆の前で、10日後に改めて疑惑の真偽を明らかにすることを約束すると、結婚式の中止を告げた。
そして客人が去った後の神殿内には、皇族一家とクロエだけが残される形となった。
「フランシア」
上から声を掛けられ、クロエは自分が蹲っていたことに気付いた。涙に濡れた顔を上げれば、ジョシュアの笑顔と出会う。
「…ジョ、シュア、様…」
「そんなに泣いては折角の晴れ姿が台無しだ。まぁ式自体が中止となった今、気にすることでもないが。ゆっくり惜しんでくれと言いたいところだが……そうもいかんな」
クロエはその場に両手をつくと、床に額がつきそうなほどに低頭した。
「申し訳ございません…!!申し訳ございませんでした…!!」
「ふむ…、それはつまり、きみがフランシア姫ではないというのは事実だということかな?」
冷静に確認され、クロエは覚悟を決めた。事実でございますと認めた上で、力を込めて訴える。
「た、ただ…ル・ブランが仕組んだことではないのです!事情があって、そうせざるを得なくなってしまっただけで…!なのでジェラール様のあずかり知らぬことです!本当です!…ましてやジルがル・ブランの密使だなんてそんなこと…!」
嗚咽が漏れそうになり、クロエはぐっと息を呑む。去り際のジルの目が甦ると、胸が引き裂かれそうに痛んだ。
どうしてこんなことになってしまったのか、未だに頭は混乱が支配している。自分が偽者であると知れることで、ジルにまで火の粉が飛ぶなんて思ってもみなかった。
何の関係も無いジルにまで――。
「あれが密使ならもっと真面目に仕事をしろと言ってやりたいね。社交界への興味も、権力への欲も無さ過ぎるというものだ」
ジョシュアの笑いを含んだ声が落ちて来る。「同感です」とセドリックが重ねると、クロエは漸く顔を上げた。
2人の皇子はいつもと変わらぬ穏やかな目をしていた。クロエが言うまでも無く、彼等はジルに疑惑など抱いていないというのが伝わる。
ふとセドリックは、クロエと目線を合わせるように屈んだ。
「ジルのことなら心配はいらないよ。兄上はああ見えて、子供の頃から血を見るのがめっぽう苦手でね。僕がちょっと傷をつくった程度で自分のことのように大騒ぎしていたものだ。人を痛めつけて喜ぶ趣味は無い」
弟の弁に、ジョシュアは「何十年前の話だ」と苦笑する。セドリックはクロエに手を差し伸べ、立つよう促しながら言った。
「場所を変えて話を聞こうか。きみの侍女も交えてね」
神殿を離れ、クロエは花嫁衣裳のまま皇宮の一室へと招かれた。
そこにはやがて呼び出しに応じたカミラも姿を見せる。
人払いの後、カミラには皇帝の口から全ての経緯が伝えられた。当惑顔だったカミラは顔面蒼白となり、次の瞬間には先ほどのクロエと同じように床にひれ伏していた。
「お、お、お許しください!どうか、どうかお許しください…!!」
「女官長…!」
クロエは思わず椅子を立ってカミラに駆け寄った。彼女一人にそんなことをさせるわけにはいかないと、揃って土下座の体勢になる。カミラがそんなクロエを振り切るように言った。
「陛下、今回の件の責任は全て私にあります!罰するならば、どうか私一人を…!」
「いやいや先走らないで貰いたい。私は事情を聞きたいと言っているだけだよ」
皇帝は苦笑いでカミラの言葉を制すると、徐に本題に入った。
「…まずは密告の件だが、今回の婚姻は最初から身代わりで対応する手筈となっていたというのは本当かい?」
「とんでもないことでございます!!」
カミラは顔を上げ、猛然と言った。
「ル・ブランはお約束通り、フランシア姫様を花嫁として送り出しております!…ただ手違いがあって……姫様が橋の国で姿を消してしまわれて…」
「姿を消した?…何処へ?」
当然の疑問に、カミラは苦悶の表情になる。
「…申し訳御座いません…、未だ不明なのです。祖国への報せは届いている筈なのですが、何の音沙汰も無く…」
「つまりは政略結婚を厭い、直前で逃亡してしまわれたということかな?」
皇帝の声はあくまでも穏やかで、こちらを威圧する意志は無い。それでもカミラもクロエも、揃って返事に窮した。頷くことすら憚られた。
やや間を置いて、カミラがぎこちなく応じる。
「み、身代わりを立てるという対応は、私の独断です。私はエンバリー家で女官長の任にありまして、この子は一侍女に過ぎません。…私が命じて、フランシア様の代わりを演じさせました」
「ジルはその件を承知していたのかい?」
その問いには、クロエが即座に「いいえ!」と答えた。
「他の誰かに伝えたりなどは?」
「いえ…そのようなことは…!」
「…つまり、彼女が身代わりとなっている事実は、ル・ブランの者しか知らなかったということか」
皇帝陛下はそう纏め、ふむと顎に手を当てた。
「気になるのは、エドワードに密告をしたという者の正体だ。あの子が信用したからには、人の地の…それなりの地位にある者と見ていたが」
ジョシュアもセドリックも揃って頷く。確かにル・ブランの者が悪意をもって噂を流したとしても、皇子であるエドワードが容易く真に受けるとは思えない。クロエはそっと隣のカミラと顔を見合わせた。恐らく同じことを考えているのだろうと、その目で分かる。
人の地で、この件を知っている者が他に居るとすれば――。
「あ、あの…」
クロエは思い切って、言った。
「1人だけ…人の地の出身で、フランシア姫の失踪を知っている者が居るのですが…」
「ほぉ?それは何者だ?」
後を引き取って、カミラが続ける。
「カーライルという名で、エンバリー家で下働きをしていた者です。今回同行したのですが、姫様と伴に姿を消しておりまして…」
「…”姫様と伴に”?」
ジョシュアが意味深に繰り返す。その情報で、橋の国で起きたことを正確に理解したのだろう。だが皇帝はそこには反応せず「人の地出身というと、具体的にはどこの国の者だい?」と重ねて訊いた。
「それが…申し訳ありません、分からないのです…。私どもに人の地の知識は無く、その者の出身地を訊いてすらいなかったもので…」
「それはつまり、ル・ブランで魔道士と判定された者ということかな?」
「いえ、人間という判定を受けた者です。ただ、本人の希望でル・ブランに留まったと聞いております」
カミラの説明に、それは酔狂なことだとジョシュアが感想を漏らす。皇帝は難しい顔で「ふむ…」と呟いた。
「ひとまずその男の素性を探る必要はあるな。…だが、何者かがエドワードに嘘の情報を吹き込んで訴えを上げさせたのだとすれば、その目的は何処にあるのか…」
「人の地とル・ブランの間に再び不和を生んだところで、誰に益があるわけでもありませんからね」
皇帝の疑問に、セドリックがそう応える。不意に皇帝の隣で沈黙していたエヴァンゼリンが、ふぅっと大きく嘆息した。
「目的は…私とジルを排斥することでは…?」
全員の視線が彼女に集中した。エヴァンゼリンは堅い顔で、夫に向き直る。
「密使であるかどうかなど、議論するだけ時間の無駄です。私達が消えれば事はおさまるのですから。――陛下…」
一呼吸置いて、意を決したように言った。
「離縁して下さい」
「断る」
「っ、陛下…!」
まるでその言葉を予測していたかのように、皇帝は即座に申し出を退けた。エヴァンゼリンはその美しい顔に困惑を滲ませる。
「勝手を申し上げているのは承知の上です。が…私にはこの疑惑を晴らすことなど不可能なのです。どうか…!」
「だからといって自ら妃の座を降りるなど、疑惑を認めるようなものだ!」
「否定する術が無いのですから同じことでしょう?!これ以上いらぬ詮索をされたくはないのです。あの子のためにも…」
「――お前は私が嫌いになったのか?!」
突然論点がすり替わり、エヴァンゼリンだけでなく、その場の誰もが呆気にとられた。皇帝は眉間に皺を寄せ、頭を振る。
「私に問題があって離縁されるならば納得もするが…、そんな理由では到底受け入れられぬ」
「……あなたを、嫌いになりました」
「嘘だ!」
「嘘ではありません!離縁してください!」
「断るっっ!」
…なんだかおかしなことになってきた。
夫婦以外の全員が居た堪れない気持ちになるなか、皇帝陛下は我を忘れて熱弁を披露する。
「この国ではな、私が駄目だと言ったら駄目なのだ!私は国で一番の権力を持っているのだからな!参ったか!」
「なっ…、それは権力の乱用というものです!」
「何を言う!だったら何のための権力だ!今使わずにいつ使うのだ!」
「……今だけは使っちゃいけない時だったようにも思いますが…。まぁ義母上、ここはひとまず退いてあげてください。これ以上はちょっと…息子として見るに耐えません」
割って入ったジョシュアの言葉で、夫婦はとりあえず言い合いを止めた。ジョシュアは脱線した話を戻すべく、険しい顔のエヴァンゼリンに対して問い掛ける。
「疑惑を晴らすことが不可能というのはつまり、ジルの父親を明かすことが出来ないということですかな?」
だが彼女はただ困惑の表情を浮かべるだけで、明確な答えは返さなかった。
深く追求はせず、ジョシュアは「分かりました」とだけ告げる。
「ひとまず、与えられた期間は10日。…そこの者、エンバリー家の女官長だと言ったな?」
不意にこちらに話が戻って、訊かれたカミラが跳ね上がる。
「は、はい!左様でございます!」
「女官長といえばそれなりの地位だ。祖国に戻って、ジェラール殿を介して情報を得ることも可能な立場と推察するが」
「はっ…、はい!可能でございます!」
「その下働きの男を受け入れたル・ブラン側ならば、素性は把握している筈だろう。調べて戻るとしたら、10日以内に可能か?」
ジョシュアの言葉に、カミラもクロエも瞠目した。あまりにも思い掛けない提案だった。
カミラを1人でル・ブランに行かせるなど、もしカミラの先ほどの釈明に少しでも疑念があったら、できないことだろう。
自分達を――ル・ブランを信じてくれている。その実感が、カミラの声を震わせた。
「は…はい!!ル・ブランに戻るまでには数日を要しますが、陛下から再入国のお許しを頂ければ竜を使えるものと伴に帰って参ります!なんとしても10日以内に…!」
「許可して頂けますかな、父上」
「もちろんだ」
「あ…、有難うございます!有難うございます…!!」
「有難うございます…!」
カミラの隣で、クロエも揃って頭を下げた。熱いものが込み上げて、涙が出そうだった。
「ではフランシアはその間、レディオンで預かろう。うちの子猫ちゃんたちとお茶でも飲みながら待っていなさい」
流石にクロエがカミラに同行出来ないのは仕方のないことだった。気持ちは自分も出来ることをしたかったが、それが今は留守番だということなのだろう。本気でお茶会に興じる気は無いが、クロエは「恐れ入ります…!」と頭を下げた。
ふとジョシュアが思い出したように言う。
「あぁ、フランシアではないのだった。本当の名前はなんというのかな?」
「はい、あの…クロエ・ノアと申します」
漸く本名を名乗ることが出来た。どうぞ宜しくお願いいたしますと今更な挨拶をすると、ジョシュアは「おぉ!」と感嘆した。
「クロエ!それが本名だったのか!」
「知っていたのですか?兄上は」
「いや、ジルとフランシアのことを話している時に、あいつが一度だけそう呼んだことがあったのだよ。誰のことだと訊いたのだが、愛称だというからね。私もそう呼ばせてもらおうかと冗談で言ったら、いかにも嫌そうな顔をして…」
その時のことを思い出したのだろう、ジョシュアは失笑した。ふとクロエを見て、独り言のように呟く。
「きみが偽者だと分かって、一番悲しむのはジルかもしれんな…」
◆
エドワードの一行が領地グリフォンに到着すると、ジルはそのまま収監用の塔に連行された。
石の螺旋階段を上がり、中階の一室に導かれる。窓が小さく明かりが行き届かないせいか、陰湿な印象を受ける部屋だった。
「10日間、この部屋で過ごして貰う」
背中から掛けられたエドワードの声に、ジルは黙って振り返った。部屋にはジルに続いて騎士達も入って来る。彼等は四隅を埋めるように壁際に立った。
「部屋には常に数人の見張りを立てる。窓にはあの通り鉄格子が付いているからな、脱出は不可能だ。――いいか、一時たりとも目を離すな。こいつが魔道を使った時には、お前達が証人となるのだからな」
エドワードに命じられた騎士達が、「は!」と声を揃える。緊張感のある視線を一身に受け、ジルは思わず眉を顰めた。
「一時たりとも…?」
「一時たりともだ。手っ取り早く拷問にかける手もあるが、生易しい方法を選んでやったことに感謝しろ」
「充分に拷問だと思いますが」
これから暫く常に誰かに監視された状態での生活となるなどと、考えただけで気が滅入る。エドワードは嘲るように笑みを浮かべた。
「10日程度だ、辛抱しろ。10日後にお前の素性が明らかになれば解放してやる。明らかにならぬ時にはエヴァンゼリン姫ともども国を去って貰うことになるがな。つまりどちらにしろ10日で出れるということだ。安心しろ」
「去るのは俺だけで充分じゃないですか?」
「いいや、母親ともどもだ。お前等親子にはクローディアとの縁を完全に切って貰う」
2人の間を埋める空気が、緊張感を孕む。不意に、ジルが口を開いた。
「フランシアが偽者だというのは事実ですか?」
意外な問い掛けだったのか、エドワードは片眉を上げた。
「今日の様子を見れば明らかだろう」
「密告では彼女は何者ということになっているのですか?」
「わざわざ訊くまでもなく、お前は既に知っているのではないか?」
「知りません。――ジェラール・エンバリーとの血の繋がりは?」
「あるはずが無いだろう」
「無いのですか?絶対に?」
「当然だ!あれば魔道を使えない筈が無い!」
苛立たしげに投げつけられたエドワードの答えに、ジルは明らかに不満顔になる。
「…根拠が弱いな…」
「黙れ!!!私がお前の質問に答えてやる義理などそもそも無いのだ!尋問するのはこっちだからな!――お前の父親は何者だ」
唐突な問い掛けに、ジルは「知りません」と即答した。エドワードは挑むような目で、ジルとの距離を詰める。
「ジェラールなのだろう?」
「知りません」
「お前はル・ブランに嫁いだエヴァンゼリンが、ジェラールとの間にもうけた子供なんだ」
「…そう言われても、俺には記憶が無いので」
「その息子を、何のために人と偽ってこの地に送り込んでいる?」
「そんな事実はありません」
頑なに首を振るジルに、エドワードは冷たい半眼になる。
「…いいや、ある」
「では証拠は?俺が魔道士かどうかではなく、密使だという証拠はあるのですか?俺がル・ブランとやりとりした記録でも残っていますか?」
「残っている筈が無いだろう。お前は竜に乗れば何処へでも行ける。証拠など残さずにル・ブランと繋がることは造作も無いではないか」
「……」
造作も無いといえば造作も無い。実際には竜でル・ブランに立ち入ったことなど一度も無いが、証明する手段が無いのは確かだった。
ジルは反論を諦め、ふっと肩を下ろした。
「…余計な特技を身に付けるんじゃなかった…」
「あまり自分を責めるな。生まれつきならば仕方が無いだろう」
エドワードはおどけた口調でそう言うと、周りの騎士に「着替えさせろ」と命じて踵を返す。言われて初めて礼服姿であることを思い出し、ジルは窓の向こうに目を遣った。
大事な人達の面影が次々と浮かんでは重なり、最後に見たクロエの泣きそうな顔で止まる。
”ごめんなさい…”
――こんなことをしている場合じゃない。
内心でそう呟いた彼の背中で、重厚な扉が堅く閉ざされる音が響いた。