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皇族一家との会食

 クローディアの皇太子の預かる領地グリフォンは、3兄弟の領土の中でもひときわ広く、首都に続く産業の中心地となっている。

 その領主が身を置くグリフォン城は、今日もいつも通りの朝を迎えていた。

 使用人達は早起きな主人の着替えを手伝い、慌しく朝食を給仕する。執事は食事の席についた主人の傍らに立ち、恭しく礼をした。

「おはようございます、殿下。今夜は例の会食が開かれる予定の日でございますが…」

「欠席の返事は出したのだろう?」

「…はい」

「予定通り欠席する」

 

 はっきりと言い切られ、執事は一瞬何か言いたげな様子をみせたが、結局は「はい」と了承した。

 グリフォン公爵エドワードは現在35歳。母親譲りの癖の無い金髪はすっきりと短く切られ、やはり母と同じ飴色の目は切れ上がっている。兄弟の中では外見的にも性格的にも、今はこの世に無い前皇妃の面影を継いでいた。

 それが原因なのかもしれないと、エドワードは思う。自分が父のすることを、弟達ほど容易く受け入れられないのは――。

 エドワードはかつて、父がジルを騎士団に招いたことに対して意見をしたことがある。

 竜に乗れる子供を自軍に招く行為は、父にそういう意図が無かったとしても、他国に余計な警戒心を生む。止めておくよう言ったのだが、父は聞かなかった。脅威になるならいいではないかと笑っていなされた。そして更に、ジルの母親との結婚である。エドワードは呆れるを通り越して、失望した。

 騎士団に入れるのも抵抗はあったが、まだ配下に加えるに留めていれば許せたのだ。皇族に招いて無駄な権力を与えてどうするのか。その上、今回折角ル・ブランから花嫁を迎える権利を得たというのに、父はその結婚相手にジルを選んだ。正気の沙汰とは思えない。

 エドワードは当然、直談判をした。だが父にはル・ブランの姫はいずれ返すつもりだから心配するなとあしらわれた。

 耳を疑う言葉だった。それがその場しのぎの嘘だとしても、本気だとしても、納得できるものではなかった。

 結局言い合いは平行線を辿り、それきり父とは会っていない。

 父は明日、息子を全員招集してル・ブランの姫との会食を予定している。エドワードも招待を受けてはいるが、参加する気は無かった。

 

「閣下、こちらは今朝届いた手紙になります」


 盆の上に手紙を重ねた状態で、執事はエドワードにそう告げた。

 その中に気になる紋章を見付けて、エドワードは食事の手を止める。封蝋を見るからに、ラフレシア王国からのものだった。

 手に取って確認すれば、差出人はヒルトン公爵。ラフレシアの有力貴族で、宝石を取引する商売相手でもある。かつてラフレシアから皇妃を迎えるという話が持ち上がった時、エドワードはこの家の娘を推したのだが、それもまた父には聞き入れられなかった。

 余計なことを思い出し、エドワードは溜息を漏らす。その手紙を優先的に読むものとして選り分けると、食事を再開した。

 

 ◆

 

 扉の中へ足を踏み入れると、そこは豪奢な食堂だった。

 クロエの姿を認め、細長いテーブルに腰掛けていた人々が一斉に立ち上がる。最奥に座っていた男性が代表して歓迎の意を示してくれた。

 

「フランシア姫!よく来てくれた!」


 クロエは思わず硬直する。彼は、一目で皇帝陛下だと分かる顔立ちをしていた。

 

 ――うわぁ…!めちゃくちゃ似てる!ジョシュア様に似てる…!

  

「こ、この度は…!お招き頂き、恐縮です!あ、有難うございます……!」


 用意しておいた言葉だったのに、発してみるとひどくぎこちないものになる。クロエが体を二つ折りにした瞬間、部屋には独特な笑い声が響いた。顔を上げるまでもなく、それは一足先に首都に来ていたジョシュアのものだった。

 

「こらフランシア、分かりやすく堅くなるんじゃない!猛獣と対峙した子リスのようではないか!繊細な父上が傷ついてしまうぞ!」


 ジョシュアはおどけてそう言ったが、クロエの気分的にはまさにそれだった。食われると思ってはいないが、皇帝陛下というだけで自分の50倍くらいの大きさに見えるから不思議だ。陛下は「ここが2人の席だ。まずは落ち着きなさい」と椅子を勧めてくれる。爪先までかちこちのクロエの背に、ジルの手が励ますように添えられた。

 

「行こう」

「は、はいっ…」

「あぁ、ちょっと待った!」


 その動きを遮ったのは、ジョシュアの隣の若い男性だった。席を離れ、クロエとジルのもとまで歩み寄る。

 

「僕は初めてだからね。挨拶をさせて貰うよ。ようこそ、フランシア姫」


 にっこり微笑んだ彼は、恐らくは第三皇子のセドリック殿下だろう。兄弟そろって長髪の似合う甘い顔立ちを活かし、ジョシュアはひとつに纏めているが、彼は肩に流している。クロエの片手を取ると、すっと持ち上げ、優雅に指先に口付けた。慣れないご挨拶で、クロエの肩は思わず跳ね上がる。


「僕はセドリック。ジルの一番歳の近い兄だ。よろしく」

「いや、そこは普通にクローディアの第三皇子と名乗ってください」


 横から口を挟んだジルに、セドリックは大袈裟に瞠目する。

 

「なんだとジル…!お前は僕を兄と認めてくれてはいないのか?!」

「なんでそうなるんですか!」

「聞いたぞ、ジル!では私もお前の兄ではないということか?!」


 何故かジョシュアも参加する。ジルは明らかに面倒臭そうに「だからそんな話じゃ…」と言いかけたが、遮るように皇帝の声が割り込んだ。

 

「――なんてことだ!私はお前の父ではないのか!?」


 見事な連携で皆がジルを黙らせたところで、クロエは耐え切れず吹き出していた。その場は一気に和み、笑い声に満たされる。

 あれほど怖く見えた陛下は、よく見れば陽だまりのような笑みを浮かべている。そして彼の隣ではジルの面影を映した美しい女性が、くすくすと肩を震わせて笑っていた。

 

 結婚式まで後2週間という今日、クロエはジルとともに皇宮での晩餐会に招かれていた。

 皇帝陛下がクロエに家族を紹介するためにと開いて下さったのだ。

 ここに来るまでは震えるほど緊張していたが、先程のやりとりでだいぶ肩の力は抜けている。出された前菜を口にして、クロエは「美味しいっ…!」とひとりごちた。皇帝陛下がそれを聞いて破顔する。

 

「お口に合うかな?」

「は、はい!とっても!」

「それは良かった。今日は長男は都合がつかなくてね。全員揃ってと思っていたのだが、申し訳ない」


 言われて初めて、一席空いていることに気付く。

 

「兄上には随分とお会いしていないな」


 セドリックが呟く。ジョシュアが「私もだ」と相槌を打った。

 

「あいつは責任感が強いからな。私用で領地を離れるのは抵抗があるようだ。まぁ、式の当日には参列するから、その時に改めて紹介しよう」

「兄上には、フランシアがいずれ国に戻ることは話されたのですか?」


 ジョシュアの問いに、皇帝は「あぁ、勿論話した」と答える。

 

「納得していましたか?」

「していたとも」


 ほぅと呟き、ジョシュアはグラスを傾けた。琥珀色のお酒が彼の喉に流れていく。クロエのグラスはそれとは違い、甘い果実酒で満たされていた。きっと事前にジルが好みを伝えてくれたのだろう、細やかな心遣いに胸が熱くなる。

 そんな彼等に、クロエとしては今日、是非伝えたい思いがあった。場が静まったところで、勇気を出して口を開く。


「あの、陛下…」


 空色の瞳が、クロエに向いた。

 

「改めて…今回の結婚に関しては、陛下にお気遣い頂き有難うございました。本当に、勿体ないご配慮で…。…有難うございます」


 令嬢らしい上品な言葉で話そうとすると、どうしても語彙が足りなくなる。しどろもどろになってしまったクロエの謝辞に、陛下は柔らかく微笑んでくれた。

 

「いや、礼には及ばない。私としても下心があってのことだからね」


 彼はそう言って、肉を切っていたナイフを、テーブルに置いた。

 

「フランシア。国に戻ったら、是非ジェラール殿に、二国間の婚姻の現状を伝えて貰えるかな。結果としてル・ブランがこの不毛な習慣を無くす方向へ動いてくれたらと、私は願っている。最終的には、人の地とル・ブランの壁が取り除かれればいいとも思う。その為に私が出来ることがあれば、教えて貰いたい。出来る限りのことをするつもりだ」


 真摯な目と言葉が、激しくクロエの胸を打つ。感動のあまり、クロエは危なく泣きそうになった。

 そして同時に、悲しくもなった。国に戻っても、ジェラールに何かを伝えられる立場にない自分が。

 この場に居るのがフランシアだったらと思わずにいられない。フランシアに、居て欲しかった――。遣り切れない思いに苛まれて、クロエはただ「……はい」と応えるのが精一杯だった。

 皇帝陛下は嬉しそうに頷くと、ふと問い掛ける。


「きみ自身はどうかな、フランシア。人と魔道士が再び一緒に暮らせる未来は来ると思うかい?」


 返事に窮し、クロエは思わず固まった。つい隣のジルを振り返ってしまうと、クロエの不安を察し、ジルは「大丈夫だよ」と応えてくれる。

 

「思ったまま、正直に答えていいよ。陛下は本音を聞きたがってるから」

「ジルの言う通りだ」


 2人の言葉に背を押され、クロエはおずおずと口を開く。


「…私…。ル・ブランに居る頃であれば、無理に一緒に暮らす必要は無いとお答えしたと思います。ル・ブランで教わった歴史のままに人を見れば、怖いという印象しかなくて…。今折角平和が保たれているのだから、また壊れてしまうようなことはしたくないと…思ってしまったと思います」

「ん…、無理もないことだ」


 皇帝がそう応じれば、ジョシュアもセドリックも神妙な顔で頷く。クロエは慌てて「でも…!」と言葉を繋げた。


「でもそれが偏見だったのだと、私はクローディアに来て知りました。魔道力があるかないかを除けば、皆同じ人間なんだ…って、そんな当たり前のことに、今更気付かされた思いです。あのままル・ブランで一生を終えていたら、一生気付けなかったことだったかもしれません」


 ふと皇妃様と目が合って、クロエは両手を握り締めたまま固まった。ジルと同じ紫色の瞳でじっと見詰められて、かぁっと頬が熱くなる。

 

「有難う」


 皇帝陛下はそう言って、少しだけ哀しげに微笑む。

 

「正直に言えば、人の地に住む者が皆、私と同じ考えだとは言い難い。人の地でもまだ、魔導士に対する恐怖心は残っている。だがそれは結局きみの言う通り、見知らぬものに対する偏見なのかもしれない」

「…はい。それは誰の心にもあると思います。ル・ブランを見て頂ければ、魔導士だからって特別に魔道の無い人を迫害したりしないし、苛めたりしないのは、分かって頂けると思うのですが…」


 まぁ、尊敬もされないけど…とは内心だけで呟く。少なくともクロエは、魔道力が無いことで差別を受けたことは無かった。

 

「でも…もちろんル・ブランに悪い人が全く居ないわけではないんです。普通に犯罪もありますし、争いもあります。それは魔道力に関係無く、人というのは欲に負けて悪行に走ってしまうことがある生き物だというだけで…!」


 ぷっと隣でジルが吹き出した。…何か可笑しいところがあっただろうか。クロエが冷や汗を滲ませていると、ジョシュアが「フランシアの言うとおりだ」と笑いを含んだ声で言う。

 

「人の心に棲む欲が魔物に変化するのは往々にしてあることだ。人間が魔道力を憎むのも、もとはと言えば羨望に値する力に対する妬みからくるものじゃないかと思うよ。かく言う私もかつては竜に乗れるジルを羨んだものだ。気持ちはよく分かるさ」


 唐突に矛先を向けられ、ジルは目を丸くする。皇帝陛下も「それは私もだな」と肩を竦めて同意した。

 クロエは「そうなんです!本当にそうなんです!」と力強く頷く。


「私も気持ちはとても分かるんです。私自身にも、人を妬んでしまう気持ちはあるので!」

「フランシア姫にも?」


 セドリックが意外そうな顔になる。

 

「あなたのように多くを持つ方でも人を羨むことがあるというのは興味深い。例えばどういったことで?」


 それで自分がフランシアだということを思い出し、クロエははたと止まった。

 しまった。完全に素の自分として話していた。

 だがセドリックの視線を真っ向から受け止めている今、後には退けない。

 

「あ…、あの、例えばジルの睫毛が女の私より長いのはずるいんじゃないかとか…!そういうところで…!」


 苦し紛れに引っ張り出した例は、我ながら相当下らない内容になった。隣で「睫?!」とジルが声を上げると、その場はまた笑い声に包まれる。

 

「なるほど睫か!ジル、失礼だぞ!」

「俺にどうしろと?」

「ご、ごめんね違うの!ちょっと例が細かすぎたんだけど…、私は決してジルの睫が抜ければいいのにとかは思わなくて、ジルは人の睫毛が短いのを馬鹿にしたりしないいい人だから、全然受け入れられるの!」

「…良かった。危なく抜かれるところだった」

「抜かないよ!……いえ、すみません。つまり何が言いたいかというと…!」


 腹を抱えて笑う皇族一家に向き直ると、クロエは真っ赤な顔で続ける。

 

「大事なのはやっぱり人間関係なんだなぁと思うんです。魔道士も人間もお互いに、この人達、実はいい人達だなって思えたら…。そう思えるくらいに歩み寄れたら…。いいなぁって…思うんです…」


 言葉足らず過ぎて、自分でも嫌になる。それでも皇帝陛下は、優しい微笑みで応えてくれる。

 

「有難う、フランシア…。それこそが、私の願いだ」


 その一言が、胸の奥まで染み入った。

 思わず視線を巡らすと、皆クロエにとても温かい眼差しを向けてくれていた。最後にジルを見ると彼も微笑んでいて、クロエの顔は余計に熱くなった。

 誤魔化すようにお皿に目を落とすと、不意にジョシュアから「フランシア」と声を掛けられる。

 

「はいっ」

「なんだったらまたクローディアに戻って来てもらってもいいんだぞ」 

「え?」

「うちの義弟の本当の妻になる気はないかい?」


 ぐふっとジルが隣でむせる。固まるクロエを他所に、セドリックが「それはいい考えだ、兄上!」と調子を合わせた。

 

「え、いやそれは…!」

「だめかい?別にジルを相手にだったらどんどん子供を作ってくれて構わないのだがね」

「へ?!」

「ジョシュア様!何を言い出すんですか!」


 ジルの怒声に、ジョシュアは何がいけないんだい?とばかりに首を傾げて返す。

 

「実際そうだろう?ジルは私たちの家族ではあるが、クローディアに縛られる義務はない。両方の人種を受け入れている橋の国で住んで、週に一度でも里帰りしてくれれば、父上に文句は無いだろう。普通であれば不可能な話だが、お前ならわけないさ」

「そういう問題では…!」

「2人を困らせるな、ジョシュア。先に決めたことだ」


 皇帝陛下が横から助け舟を出してくれる。ジョシュアは残念そうに「勿体無い。気が合っているようなのに…」と呟いている。

 クロエは内心、蒼くなっていた。

 気が合っているように見えるって…もしかして無駄に親密感が出てしまっているのだろうか…。

 

「そもそもジルがここまでフランシアと2人きりで来るのに、竜ではなく馬車を使っているところが凄い。長時間2人で話が出来るのだからな」

「え…」


 わりと初歩的なところで感心され、クロエは目を瞬いた。その隣で、ジルはすかさず反論する。

 

「やたらと竜を飛ばさないよう言ったのはジョシュア様でしょう?!会話くらい出来ます!俺をなんだと思ってるんですか!」

「よく言ったものだ!ご令嬢の間ではお前は無口と評判だぞ!話し掛けても会話を続けてくれないだけでなく、直ぐに何処かへ逃げてしまうとな!」

「……会話を続けないのではなく、続かないんです」

「同じことだろう?!――いや、フランシアとの結婚が決まる前のことだがね、嫁でも見つけてやろうかと、舞踏会に出席させていた時期もあったのだよ。我が義弟ながら、悪い病気ではないかと本気で心配したものだ。正直に言えば、一時的とはいえ今回の結婚を承諾したのも私には驚きだったよ」


 そう説明してくれたジョシュアの話は、クロエにとってはかなり意外なものだった。

 ジルはとっても話しやすいし、女性の相手に慣れているような気がしていたので、逃げている姿が想像つかない。

 

「とにかく…。放っておいてください。結婚相手は自分で探します」


 疲れたようにそう言ったジルの言葉が、何故かクロエの胸を刺す。

 その痛みから目を背けるため、クロエはグラスのお酒を一気に喉へと流し込んだ。

 


 会食終了後、両公爵はそれぞれ首都にある自分の別邸へと戻って行った。ジルとクロエは滞在するよう勧められたが、ジルが「明日も予定があるから」と断ったので、レディオンまで戻ることとなった。

 夜も更けていることもあり、2人は竜に乗って帰途に付いた。

 

 エヴァンゼリンは、そんな2人の見送りのため、中庭に出ていた。

 竜の影が次第に小さくなっていくのを、夫と一緒に眺める。夜空を仰ぐエヴァンゼリンの耳に、ふと彼の呟きが届いた。

 

「いい子だね」

「……えぇ…」


 返事に少し間が空いたことで、夫がこちらを向く。

 

「どうした?」


 エヴァンゼリンもまた彼の方を向くと、躊躇いがちに言った。


「いえ、とてもいい子だわ。……ただ、あの子のお母様にあたる方が…、どの方か分からなくて…。会ったら直ぐに分かると思っていたのだけれど…」


 当時、ジェラールの他の妻達との交流はほとんど無かった。むしろ避けられていたと言っていい。だから1人1人をはっきりと覚えているわけではないのだが、どの女性も、エヴァンゼリンの頭の中では今日会った少女と面影が重ならないのだ。

 かといって、ジェラールに似ているとも思えない。

 少しだけ考え込んでいたエヴァンゼリンは、夫の視線に気付いて顔を上げた。

 

「ごめんなさい。どうでもいいことよね…」


 もう全てが昔のことだ――。

 エヴァンゼリンは優しく微笑む夫に寄り添うと、彼に肩を抱かれながら、再び皇宮へと戻って行った。

 

 ◆


 遮るものが何もない、降る様な星空が広がる。

 ジルの呼んでくれた竜の上で、クロエはその絶景に目を奪われていた。

 

「綺麗…!凄い綺麗…!」


 2度目だからだろうか、もう怖さは感じない。ただひたすら感動に打ち震えている。まるで星空に抱かれているようだった。

 後ろに座るジルを振り返ると、彼は慣れているのだろう、空を見てはいなかった。目があってしまうとはしゃいでた自分が恥かしくなり、誤魔化すように「ジル、明日も忙しいんだね」と話を振る。ジルは「ううん、別に」と首を振った。

 

「…でも、予定があるんでしょ?」

「…あぁ、あれは嘘」

「嘘?」

「…なんとなく、今日はクロエ頑張ってたから、そろそろ限界かなと思ってさ」

 

 そうでもなかったかなと独り言のように呟いて、彼は同じように空に目を遣る。けれどもクロエはもう彼から目を離すことが出来なくなっていた。喉が熱いものに塞がれて、とっさにお礼も言えない。彼のさり気無い心遣いが嬉しくて…。本当に、精一杯頑張ったつもりだったからこそ、なおさらに。

 あぁダメだ。いけない。――頭の奥で、誰かがクロエを止める。何がダメで、何がいけないのか。考えたくなくて、クロエは視線をジルから外した。

 

「…少し下を覗いてみてもいい?」

「いいよ。ちゃんと掴まっておいて」

「うん。ここって手を掛けても平気?」

「うん、大丈夫」


 ヒレを手がかりに、クロエは身を乗り出し、竜の首越しに下を覗き込む。瞬間、想像以上の世界がクロエの眼下に姿を現した。

 

「う、うわわわぁ…!!」


 感激のあまり、クロエは思わず絶叫していた。夜の闇に包まれてはいるものの、山や森の形がはっきりと分かる。そこには広大なクローディアの陸地が、作り物のような大きさで広がっていた。

 

「見えた?」

「見えた!凄い!凄い!!」


 まるで精巧な模型のようだ。または地図を立体にしたようだ。

 大興奮のクロエは、状況も忘れてさらに身を乗り出す。

 

「あ、あっちは海――!」

「こら、危ないって!」


 不意に腕を掴んで引き戻され、クロエは小さく悲鳴を上げた。その背中はどんっと温もりに当たる。

 目を上げると、眉を顰めたジルと視線がかち合った。

 

「…酔っ払い」


 ジルが、呆れたように言う。

 見上げた彼は、満点の星空を背負っていた。

 月明かりを浴びる黒髪が、微かに風に揺れて、彼の端正な顔を彩る。

 あまりに幻想的で、眩暈を覚えた。目に映るもの全てが、息を呑むほどに綺麗すぎて…。

 吸い込まれるように見詰めるクロエの顔に、ふと影が落ちる。

 そして唇に、彼の温もりが重なった。

 驚きはしなかった。クロエはそっと目を閉じて、それを受け止めた。ジルの香りが、甘く鼻腔をくすぐる。延ばした手は、彼の柔らかい髪に触れる。強く抱いてくれる腕の力に、応えるように抱き返した。

 胸が苦しくて、熱くて、焦がれて…。全てが、あの夜の記憶と重なる――。

 ふと唇が離れたのを感じて、クロエは瞼を上げた。まだ吐息が触れそうな距離に、彼がいる。思わず追い掛けてしまいそうになった時、その唇が動いた。

 

「……ごめん」


 ひどく苦しげに、ジルはそう呟いた。それはクロエを、幻想の世界から引き戻す一言だった。

 

「………どうして謝るの…?」


 ジルは応えず、クロエの両肩を掴んで自分から離した。

 

「ジル…」

「近づかない方がいいよ。俺も酔ってるみたいだから」


 俯いた彼は、片手で顔を隠してしまう。

 

「子供だから直ぐ抑えがきかなくなるんだよ。…知ってると思うけど」


 自虐的な呟きに、クロエの胸が痛む。

 

「…そ、それは大人も同じだから…!…知ってると思うけど」


 慌てて言ったが、彼は顔を上げなかった。すみませんと頭を下げると「また大人ぶって…」と不満気な声が返る。クロエは「いや、ごめん。子供だよね」と応えて項垂れた。

 今は彼の年齢を知っているぶん、クロエの方が罪は重い。むしろ自分が先に正気に返るべきだったのに。

 2人の間に、気まずい沈黙が流れる。クロエは意を決し、彼へと身を乗り出した。気配を察して目を上げた彼の唇――を奪う度胸は無いので、頬に軽くキスをする。

 改めて目を合わせると、ジルは呆気にとられていた。

 

「…ね、…これで同罪だから…」


 ジルは絶句し、眉を歪めた。がくりと頭を垂れ、溜息を漏らす。

 

「なんでそういうことをするかな…」

「ご、ごめんね…。私もほら、抑えがきかないから…」

「なんでそういうこと言うかな…」

「……ジル?」


 窺ったクロエの耳に、彼の小さな小さな呟きが届く。

 

「しんどい…」


 ――ううう…。

 

 苦しめるつもりなんてなかったのに、追い詰めてしまっているようで居た堪れない。どうしてこうなってしまうのか。

 クロエは彼の気を楽にしたい一心で「あの、無理して抑えてくれなくても大丈夫だよ?」と言ってみた。

 

「……はい?」

「だって白い結婚って言っても、もう既に白くないし…。それは私の責任だから、結婚したら普通に、あの、ジルの好きなようにして大丈夫だよ?」

「…勘弁してよ、頼むから」

「ごごごめんなさい…!」


 即座に拒絶され、クロエは小さくなる。

 

「自分がどれだけとんでもないこと口走ってるか分かって……」


 ジルはふと言葉を切ると、疲れたような溜息を漏らした。


「……ないか…」

「ちゃんと避妊のことは考えるつもりだったけど……」

 

 ダメですかね…と窺ってる自分が、そろそろ怖い。

 でもこの地にもちゃんと避妊法はあるのだと、クロエは”フランシア姫を囲む会”で学んでいた(聞き出したわけではなく、勝手に解説されたのだけど)。要は子供さえできなければいいはずで…と考えたクロエの甘い考えを、ジルは「ダメだよ…」と跳ねのける。


「俺達は離婚するんだから、中途半端なことはするべきじゃない」

「…………はい…」


 我ながら、どこが大人なのだろうと呆れてしまう。5歳も年下の子に、常識を諭されて。

 

 ”うちの義弟の本当の妻になる気はないかい?”

 

 不意にジョシュアの明るい声が耳の奥に甦って、クロエの痛みを覚えた。

 女として求めて貰えても、妻としては望んで貰えない。

 望まれたって応えられもしないくせに、その事実に落ち込んでいる自分が、無性に情けなかった。

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