消えた花嫁
『親愛なるカミラとクロエ。
ごめんなさい。
私は、クローディア帝国の皇子と結婚することは出来ません。
実は私、カーライルと愛し合っているのです。
お父様は許してくださらないだろうから、打ち明けることが出来ませんでした。
私達はここで皆様とお別れします。そして普通の女の子になって、彼と2人で、新しい未来を生きていきます。
こんな我儘で身勝手な私を、どうか許してください。
――フランシア』
◆
「う、………嘘っ…!」
短い置手紙を手に、クロエは震える声でそう呟いた。榛色の目は限界にまで見開かれ、血の気が失せた肌はいつもに増して白い。隣では彼女にそれを届けてくれた年嵩の女性が、気難しそうな眉を更に顰めて嘆息した。
「やられたわ…」
「女官長…、これは…」
どういうことですかと声を続けられず、ただ悲壮な顔を向けたクロエに、女官長カミラは容赦無く告げる。
「駆け落ちってやつかしらね」
どこか投げやりな口調だった。
「今朝フランシア様のお部屋に伺ったらベッドは空っぽで、それだけ残されていたのよ。直ぐに辺りを探し回ったけど、何処にもいらっしゃらなくて…」
「も、申し訳ありません!私、こんな時に寝坊するなんて…!すぐに私も…!」
「――無駄よ。私もつい動転して走り回っちゃったけど、…相手はフランシア様なんだから」
カミラの言葉の意味を理解して、クロエは絶句する。
フランシアは本人が手紙に”普通の女の子になる”と書くことからも分かる通り、普通のお人ではない。
彼女はクロエの祖国であるル・ブラン共和国の代表者、最上級魔道士ジェラール・エンバリーのご令嬢であり、父と同じく魔道を操る術者なのである。
つまりは家柄的にも、能力的にも、”普通”からは逸脱していた。
「あの方が海を渡るのに船なんていらないもの。夜のうちに翼竜を呼んで、カーライルと2人で乗って行ったのでしょう…」
全く気付かなかった。気付かずに今の今まで寝ていた。その事実に愕然とするクロエに、カミラは「一服盛られたわね、私達」と自嘲的に言った。
それでハッとする。確かに昨夜、クロエは従者仲間のカーライルの勧めで果実酒を呑んだのだ。その後、異常な眠気に襲われて直ぐに寝てしまった。ただ長旅で疲れているせいだと、特に疑いもせずに…。
「…最初からこのために…」
「用意したのでしょうね。色々と…」
――いつから?
胸に湧いた疑問を、口に出すことは出来なかった。まるで石を呑んだように、胸が重い。クロエの指先で、フランシアの文字は小刻みに震えていた。
「こうなったら仕方ないわね!」
不意にカミラは何かを吹っ切ったようにそう言うと、クロエの髪を束ねていた紐を引っ張って解いた。
首の後ろでひとつに纏められていたベージュブラウンの髪が、背中にさらりと流れて広がる。何事かと目で問うクロエに、彼女はうんと頷いて見せた。
「良かった。この長さがあればそれらしく結えるわね」
「え?」
「あなたならフランシア様と体格もそう変わらないし、持ってきた衣装も着れるわ。急いで身支度するわよ。クローディアからの迎えが来る前に」
「身支度…?」
呆然と訊き返すクロエに、カミラは焦れた調子で告げる。
「だから…!あなたしか居ないでしょう!フランシア様の代わりを務められるのは!」
「――え、えぇぇぇ!!!」
クロエの絶叫が、昨夜到着したばかりの島国ディバプールに木霊した。
この世界には昔から2種類の人間が存在した。
魔道を操れる者と、そうでない者。
数としては圧倒的に後者が多い。
魔道というものの始まりは、詳しく知られていない。太古の昔から棲む「竜」と呼ばれる神秘の生物が、人と交わって生まれた者が始祖だという言い伝えもあるが、真偽は定かではない。
ただある時突如として、常人とは違う能力を持つ者が人類の中に現れたのだ。
ある者は手を使わずに物を動かし、またある者は何処までも遠くを見通せる目を持つ。ある者は水や炎を自在に操り、またある者は未来の出来事を予知して見せた。
その力は人によって様々であり、力の強さもまたそれぞれに違った。
人々は彼等を畏れ敬った。彼等の力を借りて政治を行う為政者も現れた。結果として彼等は権力闘争の火種となり、長い時を経た後には、彼等こそが災厄の源だとして迫害されるというお決まりの歴史を辿った。
そして多勢に無勢の中、魔道士のなかの一人が、ある時驚くべき力に目覚めることとなる。――「竜」を操る技である。
海を泳ぐ海竜、空を駆ける翼竜――普段は人の前に姿を見せない彼等が、魔道士の心のままに牙を剥き、火を吹いた。その圧倒的な力の前に、何十万の軍隊が屠られていった。
だが力を持たざる者達も黙ってはいなかった。自力で活路を見出した。竜の鳴き声を聞ける耳を持つ者が、彼等と交信するための笛を作り出したのだ。それを扱える者は竜騎士と呼ばれ、もともと数少ない魔道士達を追い詰めていった。
魔道士は魔道で、人は竜笛で、それぞれ竜を戦いへと駆り出し――。
だがそれで残ったのは、疲弊した大地のみだった。
やがて2種の人類は、不毛な争いを止めた。
そして魔道士達は人の地から去って行った。
彼等の辿り着いた新しい地で生まれたのが、現在のル・ブラン共和国である。
住む地を変える時、ル・ブラン共和国の代表者(その時代に誰よりも魔道力が強い者が選ばれる)と人の地にある各国の王は、次の条約を締結した。
1.以降、魔道に目覚めた者が新しく現れた際にはル・ブランへ引き渡すこと
2.軍事目的での竜笛の使用を、法で禁ずること
3.無断で互いの領地へ立ち入らぬこと
そして永遠に変わらぬ不可侵条約の証として、人の地と魔道の地の縁を繋ぐ婚姻の習慣が生まれた。
それは100年以上の時が経った今も続いている。
人の地からル・ブランに、どこぞの国の姫が輿入れしたのが20年ほど前。
次はル・ブランから人の地にあるクローディア帝国へ花嫁が向かう――はずだった。
「いや無理です、無理です!カミラ様、それは無理ですって!!」
クロエは首を振りながら、後退した。
「じゃぁ、どうするの?」
ぐいっとすぐさま距離を詰め、カミラは挑むように問う。
「今からまた船に乗ってル・ブランまで戻ったら一週間はかかるわ。でもここには間も無くクローディアからの迎えが到着するのよ。往復で10日以上の時間を、彼等が大人しく待っていてくれると思う?!直ぐに騒ぎになってしまうわよ!だからといってクローディアの人達に正直に事情を話すことも出来ないわよね?!花嫁が結婚を嫌がって逃げちゃったなんて、そんな失礼なことをどんな顔で…!!――あぁ、カーライル、あの男!!この場に居たら燃やして灰にしてやるのに!!」
こ、怖い…!
短いプラチナブロンドをがしがしと掻きむしって喚くカミラの迫力に、何も悪いことをしていないはずのクロエがなぜか身を竦ませていく。カミラは火の魔道士なので、洒落にならない。
でも彼女の怒りも尤もだ。
他に機会が無かったのかもしれないが、何故よりによって今この時にと、クロエも思う。
カミラの言う通り、クロエ達の一行は一週間前に既に祖国を離れ、昨夜漸くこのディバプールに到着し、迎賓館に迎えられたところだった。
ディバプールは人の地とル・ブランの中間に位置し、唯一、両人類の自由な立ち入りが許されている地である。そのため『橋の国』とも呼ばれている。
今日、ここでフランシアを引き渡し、クロエ以外の者達は祖国へと戻る予定だった。…のだが…。
クロエは顔を上げ、弱々しく訴える。
「でも…身代わりはやっぱり無理があるのではないでしょうか…。私、20歳ですし。16歳のフランシア様の代わりなんて…」
「その程度の誤差が何よ。32の私とどっちがバレにくいと思うの?」
「うっ…」
「幸い相手方はフランシア様との面識が無い。16だと言い張れば通るわ」
「そんな…、いえ、それだけではないです!私、魔道力まったく無いんですよ?!どうするんですか、何かやってみせてと言われたら!!」
そう、それが最大の問題だ。
ル・ブランの国民が全員魔道士かといえば、実はそうではない。もちろんほどんどが魔道を操れる者なのだが、一部には例外もある。クロエは両親とも中級魔道士にも関わらず、生まれた時からその素質が皆無なのだった。
だからこそ今回、フランシアのお供に選ばれたのだが。
人の地は、余計な魔道士を迎えることを嫌う。
そしてル・ブランとしても、余計な魔道士をあちらに送ることに抵抗がある。
お互いのため、侍女は魔道力を持たない者が選ばれる慣わしなのだ。どちらにしろ、婚姻が成立した後には祖国へ戻されるのだろうが。
どうだとばかりに言ったクロエに、カミラはふっと微笑すら浮かべてみせた。
「いいじゃない。人の地で魔道を使うことは父に禁じられているとかなんとか言って誤魔化せば。嘘ではないわ。実際にフランシア様はそう教えを受けていらっしゃるはずよ。あちらの目的は魔道ではないのだから文句は無いはずよね?」
「でも…でも!まさか一生それで乗り切れと仰るんですか??そんなのって…!」
「一生とまでは言わないわよ。あなたが時間を稼いでくれている間に戻った人達がジェラール様にご報告するでしょう?そうしたら直ぐにフランシア様の行方を追って下さるわ。いくらフランシア様でも、ジェラール様から逃げ切ることなんて不可能よ。安心して待っていましょう」
笑顔でぽんと肩を叩かれたが、真に受けて安堵できるはずもない。クロエは必死で言い募った。
「でも、もしフランシア様が見付かったとして、花嫁の交代なんてできるんですか?!既にカーライルと夫婦になっていたらどうするんですか??もし連れ戻せたとして、クローディア帝国にはなんて言って交換を申し出るんですか?!もし結婚式を終えた後だったらもう無理じゃないですか?!」
その時になって、「実はコレ偽物でした」と明かせるとは思えない。今言いくるめられたら、結局そのままクロエが代わりを務め切るという話になってしまいそうではないか!
そんなのは嫌だ。――知らない人と結婚なんて嫌だ…!!
半泣きのクロエに、カミラの顔から笑みが消えた。
ひどく真摯な瞳で厳かに告げる。
「…覚悟を決めなさい、クロエ。これもエンバリー家に仕える者の務めよ」
目の前が真っ暗になる。
ひとつも納得は出来ないのだが、拒否出来ないのも事実だった。