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行旅死亡人

作者: 短小マン

 人里離れた山中をえっちらおっちら歩いていると、道ばたに死体が落ちていた。

 年若い女の死体で、髪の色は綺麗に脱色されていて、肌は透けるように白くて、一糸も纏わぬ姿で草むらの上に仰向けで倒れている。享年は十二から十四歳ぐらいだろうか。膨らみ始めたばかりの胸はツンと尖っているが全体的な肉付きはあまり良くなく、痩せ気味で尻は薄く、体毛も薄く、股間の辺りはこどものように毛が生えていなかった。

「……参ったな。これは」

 第一発見者となってしまったおれは、呻き声を上げた。

 これが善良な一般市民であるならば、警察に通報するのが筋であるが、残念な事におれは善良な一般市民からは程遠い存在で、とてもではないが警察に連絡するどころか、そもそも警察と関わり合いになりたくないという手合いであるからだ。

 もっとも、おれが善良な一般市民であったとしても警察に連絡はできなかっただろう。この辺りは携帯の電波が届かない。文明から隔絶された場所だからだ。

「しかし、まあ、こんなに若くて綺麗なのに、可愛そうになぁ」

 おれはあられもない姿の遺体を見て、眉を潜めた。

 少し調べてみたが、少女の遺体に傷はなかった。全く綺麗なものだ。殴られた後も見受けられないし、股間の辺りに白い体液が付着している事もない。死体は、服毒死か心臓麻痺か何かでぽっくり死んだかのような綺麗な死体だった。

 それはそれは、とても美しい死体だったのだよ。

 傍目には眠っているようだが、頬に触れてみると、冷たかくて柔らかかった。その死者特有の冷たさがなければ、おれは彼女が死体であると分からなかった事だろう。死後硬直というやつにはなっていない。少女は柔らかくて冷たかった。暑い盛りであるというのに、その肉は冷え切っていた。

 彼女はどうして死んだのか。なぜ死んだのか。あるいは殺されたのか。殺されたなら、誰が殺したのか。どうして裸であるのか。そうした事をおれは少しのあいだ考えてみた。けれど、何一つ答えは出なかった。そもそも彼女は傷一つない綺麗な死体だったので、その死因を特定する事は出来なくて、だから他殺か自殺か自然死かもわからなかった。そんな調子であるから、少女の死体がなぜ裸なのかなんて、おれには想像も付かなかった。

 ただ、裸のままでは忍びないと思っただけだ。

「このままだと、可哀想だよなぁ」

 おれは羽織っているジャンパーを脱いで、少女に着せてやった。

 それは純粋な仏心から出た行動だった。裸のままでは恥ずかしいだろう。そう思って、少女の死体に上着を着せてやった。幸い、今は夏だ。夜に寒くて凍えてしまう事もない。だから、おれは少女の死体に真っ赤なジャンパーをくれてやった。

「これぐらいしか、おれに出来る事はなくてすまないな。次は真っ当な人間に見つかてくれ」

 そう言いながら、少女にジャンパーを着せてやる。

 その時の声は、自分でも驚くほどの優しい声で、おれは自分自身に驚愕した。どうしておれはこんなにも、山道の死体に優しくしているのだろうか。

 置き引きや窃盗を繰り返し、車上荒らしの常習犯であった小悪党がどうして女の死体如きに、こんな優しさをみせているのだろうか。

 考えてみて、すぐに結論は出た。

 おれは、きっと、もうすぐ死ぬからだ。

 人生の末路ぐらい善行を積んで死んでいきたいという思いが、屑のような人間に良心のようなものを芽生えさせたのだろう。その芽吹いたばかりの良心が、道ばたの死体に対して情けを生じさせた。

 そうする事で、おれはおれの眼前に迫ってくる死から逃れようとしているのだ。死の恐怖を紛らわせるために、おれは良心に流されている。

 つまり、この優しみは現実逃避なのだろう。

 おれは、追われている。

 おれを殺したいと願い連中が、猟犬のように追いかけてきている。

 奴らに追われて、おれは山に逃げ込んだ。そして今も、より深く深くと、何の装備もないのに山の中を突き進んでいる。追手に掴まって殺されるか、山で遭難して野垂れ死ぬか。糞のような二択を迫られている。

 おれを追ってくるのは、ヤクザと警察だ。

 より正確には、ヤクザと癒着した警察と、警察を味方に付けたヤクザである。法治国家において最悪の手合いだ。そんな最悪の連中に命を狙われる事になったのは、稼業の車上荒らしが切っ掛けだった。

 おれは一匹狼の車上荒らしだった。

 停車している高級車に狙いを付けて、鍵を破って車内を荒らす。そういう事を専門にしていた。車自体は狙わない。車の中に放置された金目の物を盗んでは故買屋に売り捌いていた。車両窃盗に比べれば、一台当りの稼ぎは少ないが、数をこなせばそれなりの金になるし、あまり目立つ事もない。それなりに上手くやっていたのだ。

 だが、とあるダムの駐車場に止まっていた黒塗りの高級車を荒らしたのが運の尽きだった。それは警察と癒着したヤクザの車で、おれはそこで一つのブリーフケースを手に入れた。それが不味かった。どうもそのブリーフケースには、警察とヤクザの繋がりを示す動かぬ証拠が入っていたようなのだ。

 おれとしては、単にセキュリティの甘い高級車を狙っただけのつもりだったが、向こうから見ればアキレス腱に刃物を当てられたようなもので、奴らは血相を変えておれを捕まえようとした。

 おれは逃げた。

 証拠となるブリーフケースを放り出して、一目散に逃げ出した。

 だが、連中は証拠を回収しただけでは安心せず、おれの行方を執拗に追った。おれと関わりのある連中は次々に消された。故買屋や兄貴分、弟分、親兄弟。みんな連中に消されてしまった。

 それでも死ぬ気で逃げたのだが、結局、この山に逃げ込む羽目になってしまった。

「掴まって殺されるよりは、山で野垂れ死んだ方がマシか……」

 様々な場所にも奴らの手は伸びている。

 この山を越えて逃げたとしても、希望の光は見いだせない。それこそ海外に逃亡しない限り、おれが助かる見込みはない。

 だから、道ばたで死んでいる少女に上着をくれてやった。どうせ死ぬと決まったら、少しでもいいことをして死んでおきたい。

 それが人間というものなんだろう。



 山を延々進んでいくと、いきなり夜の帳が降りた。

 昼から夕暮れを抜いて夜が来た。おれは慌てながら、近くの大木の影に寄った。そして、その場に座り込んだ。

「いきなり、まっ暗だ……」

 狸か狐に化かされたのかとも思ったが、山の向こう側、山の輪郭線が夕日を受けているのか微かに赤くなっているのが見えた。どうやら、日暮れが山の陰に入っただけのようだ。だから、こんなにもストンと暗くなってしまったのだろう。

 おれは蹲った。

 まっ暗だから動く事も出来ない。変な泣き声の鳥だとかよく分からない虫の音だとか、あるいは訳の分からない獣の鳴き声、そうしたモノを聞きながら、だた黙って蹲っている事しか出来なかった。下手に動けば本格的な遭難をする。殆ど死にに山に入ったとはいえ、積極的に死にたいわけではない。

 生きられる間は、まだ生きていたい。

 ポケットに入っている飴を舐めながら、大木に背をあずけて、暗やみに耐えた。山の闇はおれの心を切り刻む。闇は心理的な圧迫感を持って、心を押し潰そうとする。

 原始的な闇の力は圧倒的だ。人間のちっぽけな心など簡単におかしくしてしまう。闇によって、おれの頭はおかしくなった。平衡感覚が完全に狂い、どちらが前で、どちらが後ろなのだか分からなくなった。おれは上を向いているのか、それとも俯いているのかもわからなかった。

 触覚も喪失した。おれは大木に背をあずけて、自分の身体を抱いている筈なのだが、触れている感覚が微塵も無いのだ。手足を動かす事は出来るようなのだが、なにも感じない。嗅覚もどこかおかしい。ずっと血の臭いが漂ってくる。

 頭がおかしくなりそうだ。

 おれは闇の中でただ震えて、一刻も早く朝となる事を願った。

 それから、どれぐらい経っただろう。

 不意に人の気配がした。

 暗やみの向こう側に誰かがいる気配がある。最初、それは獣か何かかと思った。時折、どこからか聞こえてくるフクロウだのコウモリだの、そうしたケダモノの気配はどこかしらでしていたものだ。

 けれど、違った。

 気配と共に、人の声が聞こえてきたからだ。

「おーい、おーい」

 おれは自分の頭がおかしくなったのだと確信した。だって、そうだろう。こんな人里離れた山奥で人の声が聞こえてくるなんて。昼間なら、ヤクザや警察が追いかけてきたとかハイカーがいるとか納得できる説明を付ける事も出来る。

 だが、今は夜なのだ。山の夜だ。気が狂いそうな闇夜だ。辺りに民家などどこにもないし、街灯や電線だってない。人里離れた場所であるのに、人間の声がするのは可笑しいのだ。

「おーい、おーい」

 けれど、人の声は聞こえてくる。

 聞こえるのは呼び声だった。細くて高い、若い女の声だ。それが闇の深い部分から、おれに向かって叫んでいる。

「おーい、おーい」

 それは少しずつ、大きく、はっきりとしてきた。

 明らかに可笑しな事が起こっていた。こんな夜の山の中で、女の声がするなんて、どう考えても異常なことだ。

 しかも若い女は、どんどん近づいて来ている。

 おれは恐ろしくて恐ろしくて――

「なんだー!」と叫び返した。

 そう叫ばなければ、怖くて気が変になってしまいそうだから、叫んだ。いや、この時点でおれは可笑しくなっていたのかもしれない。そうでなければ追われている身で、こんな事をする筈がない。万が一、この声が追手であったなら、おれは今の一言で命を投げ捨てた事になる。

 しかし、そうはならなかった。

「そっちー?」と闇の中で、若い女が聞き返してきたからだ。

 その声はどうにも幼くて優しくて、その声を聞いた瞬間に、おれはホッとした。心の底から安堵した。この声の主はおれに危害を加えないと確信させる声だったのだ。

「ああ、こっちだ!」

「わかったー! いまいくねー!」

 とても身近なコミュニケーションで、おれは声の主を信頼していた。

 やがて、がさがさと藪をかき分ける音がした。それは少しずつ大きくなった。だが、怖くなかった。むしろ、待ち遠しかった。

 もう一人じゃない。

 そう考えるだけで、おれは嬉しくて堪らなくなった。

「見つけた!」と黄色い声がおれの真隣から聞こえてきた。

 続いて、何かがおれの身体にのし掛かった。重さは大型犬ぐらいだろうか。頬に柔らかな髪が触れた。雀が囀るような笑い声も聞こえてきた。

「君は――」

「もう、酷いよ! 私の事を置いていっちゃうんだもん!」

 おれは彼女の素性を尋ねたが、娘はおれの話など聞いてくれなかった。まず、彼女はおれを叱った。

「置いていく? それはどういう事だ?」

「どうもこうもないよ! 私はね、貴方と一緒に行きたかったの! それなのに良いことしたみたいな顔をして、一人で勝手に行って!」

 そう言いながら、夜の帳で顔を隠した若い女はおれの首に抱きついた。手はとても冷たくて、そして柔らかかった。

 その手の冷たさと柔らかさを感じ、おれは理解した。

 この女は死体だ。

 あの時の山道で見つけた少女の死体だ。あの死体が、なぜかおれの後を付いてきて、ここまでやって来たのだ。そして、こうしておれに抱きついているのだ。

 それを理解した瞬間、おれは恐ろしくもなったが、同時に嬉しくもなった。

 恐ろしさは超常的な現象に出会った人として当然の事である。人は幽霊を恐れ、化け物を恐れ、そして死を恐れる生き物だ。生きているから、死者を恐れる。だから、おれが動く死体を相手にして、怖がる事は当たり前だ。

 だが、同時におれは嬉しくもあったんだ。たかがジャンパー一枚で、この少女の死体はおれを慕ってここまで来た。その心遣いが嬉しかった。死者の人なつっこさに救われた。この暴力的な暗やみの中で一緒に過ごせる相手がいるという事が、どれほど救われる事だろうか。

「……そうか。追ってくれたんだな。ありがとうな」

 おれは闇の中で、少女身体をしっかりと抱き締めた。


 おれは少女の死体と一緒に夜を過ごした。

 視界の全く聞かぬ闇の中で、おれ達は色々な話をした。最近のテレビの話だとか、近頃の天候の話、あるいは知り合いから聞いた馬鹿話など益体も無いはなしばかりだ。

 互いに自分の話は一切しなかった。どうしてこんな場所にいるのか。あるいはどうして死体になっていたのか。そうした話はやらなかった。自己紹介すらしなかったし、しようともしなかった。だから、おれは少女の名前を知らないし、彼女もおれの名前を知らない。

 ただ、二人で下らないお喋りをした。そうすることがなによりも大切な事であるような気がしたし、なによりも楽しかったからだ。

 その内容は、例えばこんな調子だった。

「知り合いに、何の仕事をしているのか分からない男が居たんだよ。ずっと家に引きこもっていて、おれは親の臑でも囓っている無職だと思っていたんだが、実は仕事をしていた事が判明した。そいつはずっと、自分の仕事を秘密にしていたんだな。なんでだと思う?」

「わかった! エロ小説家だから、恥ずかしくて人に話せなかったからだ!」

「いい線行っているけど、ちょっと違う。そいつは月曜日を作っていたんだよ」

「月曜日……? 月曜日って作れるものなの?」

「そりゃそうだろ。誰も月曜日を作らなきゃ、どうして毎週月曜日が来るんだよ。月曜日職人が月曜日を作るから、毎週月曜日が来るんだろ」

「ああ、成る程。そりゃそうだね」

「けど、月曜日ってのは嫌いなやつが多いだろ。そりゃそうだ。学生や勤め人にとっては嫌な一週間の始まりだからな。そいつが死ねば、新しい月曜日職人が決まるまで、月曜日が来る事もない。だから、用心の為にそいつは月曜日職人である事を隠していたんだ。だが、そいつはお見合いをする事になってね。どうしても職業を明かさなくてはならなくなった。それが切っ掛けで広く知られる事になったってわけだ……」

「それでそれで、その人はどうなったの?」

「それを期に公務員になったよ。まあ、月曜日職人なんて長く続けられる仕事じゃないからなぁ」

 そんな風にどうでもいいような話をしながら、おれ達は朝が来るまで飽きずに話をした。

 ある瞬間、唐突に少女の口が止まってしまった。おれは少し慌てた。それまで、おれ達は間断なく話をしていた。おれは夜の暴力的な暗やみから正気を失わないために話し続けていた

。そうする事によって、おれは理性をつなぎ止めていたのだ。その話が途切れたら、おれは本当に狂ってしまう。

「お、おい。どうしたんだよ!」と慌てふためいた声を上げる。

 だが、心配なんていらなかった。少女はちゃんとおれを守ってくれていた。彼女は夜の闇からおれの正気を守り抜いてくれたのだ。なぜなら、ふと顔を上げると、木々の向こうから赤金色の線によって山裾の形が描かれているのが、おれの目に飛び込んで来たからである。朝が来た。山の向こうに現れた太陽によって、夜の闇は追い払われ、暖かな光の世界がおれの眼前に広がっていた。

 フクロウの声はもうしない。コウモリ達はそこら中を飛び回りながらも、急いでねぐらへと向かっている。おれは、ふと隣を見た。

 そこには髪を綺麗に脱色した、赤いジャンパーを着た女の死体がおれの身体に寄りかかっていた。

「ありがとうな」

 おれは彼女の頭を撫でる。

 けれど、彼女が動く事はなかった。暗やみでがさごそ動いていた筈の手足は放り出されて、人形のように動く事はない。闇の中ではあんなに雄弁に語っていた口は、真一文字に閉じたまま何一つ喋ることはない。

 目もずっと閉じている。

 ふと、おれは彼女の目が何色なのか気になった。普通に考えれば黒なのだろうが、綺麗に脱色された髪や、その真っ白な肌を見ていると、黒い瞳は相応しくないと思った。

 黒なのか、別の色なのか。

 少しだけ気になって、おれは少女の死体に顔を近づけた。後は、瞼を開いてやれば、おれは彼女の瞳の色を確かめる事が出来る。

 だが、やらなかった。

 それは、あの素晴らしい一夜を過ごした彼女に対する侮辱だと思ったからだ。だから、代わりに朝食代わりの、サクマドロップの、イチゴ味を一粒含ませてやった。

 そしておれは、少女の死体と共に山道を進んだ。


 人間の死体というやつは割と重い。

 これが生きた人間だったら、もう少しだけマシなのだ。生きた人間は自分で重心を取ってくれるし、自分でおぶった人にしがみついてくれる。だから、生きた人間を運ぶのは楽とは言わないが、まだマシだ。

 死んだ人間というのは、実に重い。それはただの物体であるからだ。生きた三十キロの少女をおぶるのはそんなに骨の折れる事ではないが、三十キロの物体を担いで歩くのは骨が折れる。それが山道ならなおさらだ。

 昼間、おれは汗をダラダラ流しながら、少女の死体をおぶって山を登った。片手には拾った枝で作った杖で地面を突き、反対側の手は少女の身体を支えながら、一歩一歩着実に進む。十分ごとに休憩し、その度に藪によって傷んでしまった少女の髪を梳いてやる。そうして気を整えると、また彼女を背負って山を登った。

 そんなに苦しい思いをするなら、少女を捨てろという人もいるかもしれないが、彼女はおれの道連れだ。置いていくなんて考えられない。

 それに山の夜に抗するためには、彼女はどうしても必要だ。彼女と話をしている間は、おれは闇が怖くなかった。夜の帳が恐ろしくなかった。それどころか、彼女と話が出来るのだと、夜の闇が待ち遠しい程だった。

「ねえねえ、ちょっとやつれてきた?」

「まあ、少しは疲れているかも知れないな。だが、まあ、大丈夫だよ」

 そして、おれは急速に衰え始めていた。

 昼は死体を背負って強行軍。

 夜は夜通しで死体とお喋りだ。

 食事はポケットに入れていたサクマドロップが一缶で、それも彼女と分け合っているから二倍の速度で消費していく。

「おいしいよね。この飴、わたし大好き!」

「ああ、おれもこどもの頃はよく舐めていたよ。けど、ハッカ味だけは苦手だったな」

「そうなの? わたしはハッカが一番好きだけど」

「……そうだったのか。じゃあ、今度からハッカをやろうな」

「うん!」

 けれど、少女は完全なる暗やみの中で、飴を美味しそうに舐めているのだ。おれはそれが嬉しくて、二人で貴重な食料を分け合った。おれ達はなんでも二人で分けた。山道の途中で石清水が沸いていれば、おれはちゃんと彼女に飲ませてやった。木イチゴが実っていてば、採取して二人で分けた。

 彼女は死体で、昼間はモノを言わぬけれど、夜になれば話をするし動いてくれる。おれの心の支えになってくれる。

 だから、二人で分け合った。

 おれは幸せだった。もしかしたら、いまこうしてヤクザと警察から逃げているこの時間が、今まで生きてきて一番幸せな時間であるかもしれない。

 車上荒らしをしていた頃は、幸せなんて何もなかった。

 友人と呼べる人間は何人かいたが、それは共犯関係の上に成り立った友情で、利害関係でしかなかった。単に一蓮托生の緊張感と馴れ合いを友情と呼んでいただけで、とても心から信頼できるやつはいなかった。

 恩人はいた。車上荒らしのやり方を教えてくれた兄貴分。盗んだ盗品を買い取ってくれるおやじさんと呼んで慕っていた故買屋の店主。だが、どっちも心から信頼したわけではなかった。上辺では慕っていても心の中では、いいように使われているだけだと醒めていた。

 だが、今のおれには死体となった少女がいる。心から通じ合っている彼女がいる。それを思うと、今のおれは世界中の誰よりもきっと幸福なんだろう。


 少女と出会って五日目、おれは山頂に立った。

 少し前に森林限界を超えた所為か、辺りには高い木々はない。あるのは岩山と低い木立と高山植物、そして青空と雲と少女の死体だけだった。

「おれがここまで来られたのは、間違いなく君のお陰だ」

 背負う少女におれは囁くも返事が返ってくる事はない。彼女は夜の真なる闇の中でしか、おれと話をする事が出来ない。太陽の照らすところでは死者は動く事を許されず、ただ静かに死体として、その全身を以て、死そのものを体現することしかできない。けれど、それでもおれは語る。なぜならば、彼女は息絶えた死人であるけれど、その魂は未だに地上に留まっていて、おれの言葉を聞いているに違いないからだ。その証拠に、少女は夜の帳が訪れて、その身体が自由に動く時間になると、まず昼間に起きた出来事をおれに話してくれる。今日は水飲み場でお水を飲ませてくれてありがとう、とか、高台で見た景色は綺麗だったね、とか、そういう話をおれにしてくれるのだ。その事からも彼女が、昼は動く事が出来ないけれど、意識がある事は確実で、だから、おれはこうやって、彼女に度々話し掛けているのである。

 そうして、おれは一声掛けてから、遠くを見た。

 今まで上ってきた道を見下ろすと、目眩がしそうなほどに高く、そして遠い。こんな道を、一人の少女を背負ってきたのだとおれは思わず誇らしげな気持ちになった。

 そして、おれの中に一つの希望が生まれていた。こんなにも厳しい山道を通って山の向こう側に出れば、追手も撒けたのではないか。連中は恐ろしい組織力を持ち合わせて居るけれど、必ずしも全知全能の組織ではない。あれを目障りだと思っている連中はいるし、敵対する組織もある。

 そういうところに逃げ込めれば、おれは助かる――かもしれない。勿論、これはかなり無理がある話で、ポケットに残った僅かなサクマドロップと道々で取れる食べ物で、今までと同じかそれ以上の道のりを踏破できたのなら、という注釈が付いてしまうが。

「どう思う? まあ、希望的観測だとは思うんだけどな」

 答えは当たり前のように返ってこなかった。それが戻るのは、夜の話だ。ああ、夜が待ち遠しい。おれはほんの微かな、切れっ端ていどの希望を抱いて、山を降り始めた。

 そうして、浮かれていたのが悪かったのだろう。

 山を降りているときに、おれは滑落してしまった。

 つるつるした岩が濡れていて、滑りやすくなっていたのが直接の原因だが、その遠因は間違いなく『助かるかも』と希望を抱いていた所為だった。おれと少女は団子になって、岩だらけの急な斜面を十メートルほど滑り落ちてしまった。

 幸いにも即死はしなかった。転がり落ちているとき、無意識に頭を守っていたお陰だ。けれど、その防御動作の所為で両腕とも折れてしまった。腰も痛い。足の感覚がまるで無い。動かそうとしても、動かない。いや、足だけでなかった。身体がまるで動かないのだ。痛みで勝手に呻いてしまう以外に、おれは何一つ出来なくなってしまった。

「あ、うう……」

 呻きながら、おれは必死に彼女を探した。すると、おれから数メートル下の方まで転がって岩にぶつかり、奇妙な、ある種滑稽な格好で止まっている少女の死体を見つけた。

 それを見たとき、おれは彼女に駆け寄りたい衝動に襲われた。だが、できなかった。最早、おれは死者よりも不自由な状態に置かれている。身体は指一つ動かす事が出来ないし、声を上げる事すら出来ない。自由な意識で動かせるのは、この二対の眼球だけで、後は身体の勝手に任せる事しか出来ない。

 すまない。とおれは心の中で少女に詫びた。そして、間断ない激痛に去られている間に、いつの間にか気絶してしまった……


 覚醒と失神を繰り返している間に夜となった。

 空を見ると星々と月がささやかな光でおれと彼女を照らしていた。それはとても美しい星空だったが、そうした星々の光の所為か、あるいは岩に叩き付けられた所為か、死体の少女がしゃべり出す事はなかった。もう少し下れば、再び深い森がある。彼女が活動できる暗やみがある。けれども、ここはまだ森林限界の上で、高山植物たちの住む場所だ。月の光を塞いでしまうような深い森は形成されず、真なる闇が訪れる事はなく、死者が動く事もない。彼女と話す事も出来ない。

 おれは、このまま死んでいくのだろうか。

 そう考えると、どうしようもなく恐ろしかった。

 彼女を背負っている間、おれは一人ではなかった。一緒に死ねる相手がいた。だから、死ぬ事は怖くなかった。

 ふと、おれは街で車上荒らしをしていた頃の事を思いだしていた。ある時、湖の畔に止まった車を見つけた。車種はファミリー向けのワンボックスカーで、正直、おれの獲物とはかけ離れた車だったが、なぜか妙に気になって、近づいて吟味をしたことがある。

 何気ない散歩をしている人を装って車に近づいてみると、マフラーにホースが繋がれていて、それが車内に引き込まれている。窓には排気ガスが漏れないような目張り。

 成る程、これが排ガス心中かと、吃驚すると同時に感心した。

 中を覗いてみてみると、似たような年齢の男女が四人手を繋いで、綺麗な顔で死んでいる。どうやら、これは一家心中などではなく、当時流行っていた集団自殺だったようだ。足下には睡眠薬の瓶が転がっていて、死ぬにも随分と念を押すものだと思わず感心してしまった。

 そして、どうしてみんなで死ぬのだろうと、その時は不思議に思ったものだ。どうせ、人は死ぬときも独りだ。なら、独りで勝手に死ねばいい。

 そう思っていた。

 だが、こうして独りで死ぬところまで来て思う。

 独りで死んでいくという事は、どうしようもなく寂しく、心細く、辛いものだ。死ねば独りであるからこそ、せめて死ぬ瞬間は誰かと一緒に居たいのだ。死という絶対的な虚無を前に少しでも温もりがほしい。

 暗く寂しい死出の道も、道連れがいれば寂しさも紛れる。ただ、それだけの理由であり、だからこそ、切実に、人は誰かと一緒に死にたがる。

 そして、おれにとっての道連れは、あの少女であったのに――

 おれは空を睨み付けた。

 夜空は雲一つ無く、空には満天の星々がキラキラと輝いている。その星々の真ん中で我が物顔で夜を真昼のように照らしているのは、半月だ。たかが半分の月のくせに、そいつは煌々と輝いて、夜の闇夜を白く照らす。

 やつらさえいなければ、真なる闇の作用によって、死者の少女は動き出せた。きっと、滑落した岩の辺りから、ここまでやってこられただろう。

 こうして、孤独に呻く事もなかった。

 月よ、呪われろ。

 闇に飲まれて消えてしまえ。

 おれは憎しみを込めて月を見た。だが、夜の女王たる月が人間如きに呪われる筈もなく、逆に天を睨め付けるおれの視界が弱っていった。しかしそれは月の呪いなどではなく、ただ、おれの命数がここで尽きようとしているだけだった。肉体のあらゆる感覚が失われていく、意識も心も何もかも、おれという存在を構成するものが白い闇に包まれて、どんどん溶け出していく。

 死ぬのか、独りで。

 寂しく、死んでいくのか。

「大丈夫」

 死の間際、おれは少女の声を聞いた。

 その声を聞いて。

 おれは。

 嬉しくて。

 嬉しくて。

 嬉しくて。

 歓喜に包まれたまま、しんで――





 その日、陸奥武雄は山に登った。

 N県とS県の境にあるM山脈、その初っぱなに当たるM山を登って尾根をずっと進んでN県へと到達する。そういうルートを組んでいた。あまり人気のないルートだ。その理由は、まずM山への道程が非常に不案内という事が挙げられる。近くに線路が走っていない。国道は一本走っているけれど、それは酷道というに相応しい道であり、ちょっと車で通りたくない道である。だから、陸奥の選択したルートを通るには、近くの街までバスで行って、そこから延々と前哨戦となる低い山々を突っ切って、本ルートに入るという感じで、地味でつまらないルートだった。だから、好んでこのルートを使う登山客は少なかった。

 故に陸奥は、一人きりでえっちらおっちら山を登っていた。登る人が少ないから、自然と藪は深くなっていて、羽虫が実に不快だった。

「もうちょっと整備してやれば、いいハイキングコースになるんだろうがなぁ」

 まあ、そうなったら絶対に使わないだろうなと独りごちながら、陸奥は蜘蛛の巣を払いつつ、進む。基本的に、陸奥は人と同じ事をするのが大嫌いという性分だった。別に人が嫌いなわけではないが、単純に同じ事をするのが嫌なのだ。何かを夢中にやっていても、別の人間が自分と同じ事をしていると馬鹿らしくなって止めてしまう。

 ひねくれ者と見られがちだが、少し違うと陸奥は考えている。単に人がやっているのなら、それを見ていれば結果が分かる。それが少しつまらない。人と違う事をすれば、それがどんな結果になるのか分からない。それは単純に面白い。未知なる事が好きだった。

 だから、陸奥は登山でも人が使わないようなルートを好んだ。と言っても、今の日本で未踏峰なんて一つとして残っていない。だから、あまり人が使わない。そういうルートで山をやっていた。

 何か未知なる事の一つでも、どこかに転がっていないものか。そんな事を夢想しながら、陸奥は一歩一歩山を登っていく。

「……んん?」

 すると、その途上で陸奥は奇妙なモノを発見した。森林限界を越えた先、山頂近くのスラブの下辺りに、人影らしきものが見える。

 最初彼はそれを先客だと認識して、少しがっかりした。このM山ルートを使っていて、他の登山客と会う事なんて一度もなかった。だから、ここを登っているときは山を独り占めにしているような気分が味わえたものだ。それが、先客と鉢合わせ。これはちょっとだけ萎えてしまう。

 けれど、そうした陸奥の心配は完全なる杞憂だった。先客のところへと登っていくにつれて、これはただ事ではないとわかったからだ。なぜならスラブの真下に居た先客こそ、彼が望んだ予想も付かない物、その物だったからである。


 それは死体だった。


 死んで干からびた死体が一枚岩を背にして座っている。死体は男のものだった。真っ黄色に汚れてたシャツに、穴だらけのジーンズ、そして真っ赤なジャンバーを羽織っている。歳の頃は壮年の男で、額に大きな傷痕があった。その顔つきから、カタギには見えない空気があった。

「これは山登りと言ってられないな……」

 陸奥は下山を決意した。

 このまま無視して行くわけにはいかない。すこし観察しただけで、これは事件性があると直感したからだ。

 だから、陸奥はできるだけ詳しく警察に説明をする為に、メモを片手に死体を覗き込んだ。

「こ、これは」

 陸奥は死体の顔を見て、思わず声を漏らしてしまった。

 なぜなら、死んでいる男の顔はとても嬉しそうに笑っていたからだ。こんなにも幸せそうな顔があるのかと疑りたくなるような安らかな笑顔で事切れている。


 男の顔は、本当に幸福そうだった……

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