賢者の試し⑤
東。バナナを置いた道。【老いる命】の道。
私は、ぐにょぐにょとした地面を踏みならしながら、無心で歩いていた。
これまでとは違い、出口に向かっていった際、不穏な空気を感じることは無かった。
そのまま森から抜け出すと、景色が広がった。
「う、わぁ…っ」
私は目を奪われた。
西の【死ぬ命】、南の【病んだ命】のエリアが酷すぎたのもあるけれど、ここ東の【老いる命】エリアはさわやかな庭が広がっていた。
雲ひとつない青い空に、キラキラと照りつける太陽。ゼウスの大きな目さえなければ、とても良い天気だ。
欧米の庭のように、芝生を白い柵が切り取っていて、赤紫白ピンクと言った色とりどりの花々や、深緑の葉っぱ、たくさんの植木鉢。
とにかく豪華絢爛で色鮮やかで、美しい庭だった。
その庭の中央あたりに、ひとつだけ真っ白な椅子が置いてあって、ひとりの婦人が座っていた。
手に何かを持っている。あれは、編み物だろうか?
それにしても、庭に相応しく婦人も綺麗な方で、キュッと結んでいる鮮やかな黒髪も、彫りの深い顔立ちも、彼女の鮮烈なエネルギーを感じさせた。
あまりの美しさに、しばらく惚けて見ていたら、若い男の人が庭に入ってきた。精悍な男の人…二十代かそこらだろうか。
男性は、婦人の近くに寄ると、仲睦まじく何か話していた。
何を話しているのか気になって、私はソッと正面から近づいていった。
「あの、すみません。少しお話を伺いたくて…」
私が声をかけても、2人は微笑み合いながら談笑をやめない。
「あ、の!」
大きな声で言ってみたが、それでも反応すらしない。
もしかして…。
私は、2人に近づき、肩口に触れようとした。
しかし、私の指先は肩口を通り抜け、2人も何も反応を示さない。
「…私、今透明人間状態なのかな」
試しに頭や腕なども触れてみたが、そのまま通り抜けるだけで。
「うっそ…困るんだけど。話も聞けないなんて」
そうしてる間にも、男性は婦人の頬をなぞったり、口付けしたりして、非常にデレデレとしていた。
なんだか腹が立ったので、男性と女性の密着している箇所に手を突っ込み、離そうとしたが、当然無駄な足掻きで。
『千鶴…お前、何してるんだ?』
ゼウスから突っ込まれたのが恥ずかしくて、私は大声で叫んだ。
「何でもないですけど!!」
まぁ…でも。
ちらりと2人を見やる。
2人とも、何も不満なんてなさそうだし、まあ、東エリアは一番怖いものじゃないってことでいいのかな。
そう、思った時だった。
「…え、何!?」
地面がぐらりと揺れた。
と思ったら、周りの景色も歪んでいって。
咄嗟にゼウスの方を見たら、ゼウスはニタァと笑って、空にあるものを浮かびあがらせた。
何あれ。
巨大な…時計?
時計の針が、超高速で回っている。
時計の進みに従って、周りの景色も早送りのように変わっていく。
あまりのめまぐるしさに、私は怖くなって目を閉じた。
そのまま10分くらい経った頃だろうか。
私は、おそるおそる目を開けた。
すると、先程と同様の椅子に座っている老婆と目があった。
絢爛な庭は、草一本も生えていない腐りきった焼け野原になっていて、椅子だけは妙に白さを保っていたから、不気味に感じた。
なんとなく何があったのかは予想できたが、一応聞いてみよう。
「ゼウス!これ、一体なんなの!?」
『時間を早めたのだ。先程から、大体70年が過ぎている』
「な、70年?」
まあでも、神様だし、造作もないことなのかな?
このフィールドを用意したのはゼウスなわけだから、彼の好きなように変化を与えることもできるだろうし。
それよりも…。
目の前の老婆は、ひどく醜かった。
顔も手もしわくちゃで、背筋は海老のように曲がっていて、伸び放題の白髪も、目やにのついた濁った瞳も、まるで魔女のようだ。着ている服は黒マントではなく、紫のワンピースではあったけれど。
そして直感的に、これはあの綺麗な婦人だったのだと分かった。正直、容姿は劣化しすぎているが、ここは【老いる命】のエリア。あの美しい婦人が醜く歪むことを、怖いと思わせたかったのかな、ゼウスは。
しかし、いまいち心にピンとこなかった。
確かに、美しい人であればあるほど、醜く老いていくのはたまらない事だと思う。それは、わかる。
でも、それが生老病死の中で最も怖いと言われれば、それは価値観によって左右されるのではないか。
容姿に重きをおく人なら何より怖い事なのだろうけど、私は別にそうは思わない。
決して外見を気にしないわけではないのだが、年相応の顔とか身なりというものも、あるのだと思う。
この老婆の場合、身なりを整えないせいで不潔な印象を与えるが、整えたら年相応の顔だとは思う。おそらく、90歳くらいだと思うし。
「痛…っ!」
私は、突如頭に入った激痛によって、思想の世界から現実に引き戻された。
「…」
「え、何?」
気がつくと、目の前に老婆がすごい形相で立っていた。
私の髪が、老婆の手で何十本か抜かれた。
ズキズキと、唸るような激痛が走る中、老婆は狂ったように笑い出した。
「…ぎゃははははっ!!これを食べれば、かつてのあの黒髪に、戻れる、戻れるわぁ!」
老婆は私の髪の毛を口に含むと、すごい色をした液体で飲み込んでいた。
何が起きたか理解出来なくて、私はしゃがみこんでいた。
何、今この人…何した?
「ぐぉっ!ごほごほげぼおぉお」
私の髪の毛が喉につっかえたのだろう。老婆は盛大にむせかえった。
逃げないと…。
こいつ、尋常じゃない!
私は踵を返して走り出した。
そもそも、なぜ!?私の姿は、見えていなかったのではないの!?
森の帰り道に向かって走った。
しかし、出入り口で斧を持って待っていたのは、ボサボサの白髪頭をした、ボロボロの服を着た醜男だった。
老婆と違い、背筋は良い。
そして、10キロほどはありそうな斧を軽々と持ち歩いているあたり、相当な年にもかかわらず、筋力があるのだろう。
老父も例外ではなく、私を見るなりニタァと笑い、そして斧を振りかざしてきた。
「…ひっ!」
避けようとして、私は転んでしまった。
運動神経の無さを、今ほど恨んだときはない。
もう一度振り上げられた斧に、私は固まってしまった。
どうしよう。動けない。
どうしたら…どうしたら。
考えるより先に、体が動いていた。
私はスニーカーを片方持ち、老父の顔面に投げつけていた。
スパイクのついたスニーカーの威力は絶大で、老父は顔を覆って倒れ込んだ。
私のすぐ右…芝生の上に、放り出された斧が突き刺さり、一生分の冷や汗をかいたが、なんとかして足を動かす。
よろよろと立ち上がって、入り口に入ろうとした。
閉じていく葉っぱの間から、こんな恐ろしい歌が聞こえた。あの老婆と、老父のデュエットソングだ。
「「目が良くなりたきゃ目を食べよ♪聞こえるためには耳食べよ♪綺麗な髪はそそっと洗って、水に浸して飲み干そう♪たちまち不思議、今日から僕らは若人だっ♪」」
私はきっと、顔面蒼白になっていたと思う。
そう。これは、価値観。
私は、老いることを恐れてはいない。
だけど、若き頃の美貌を取り戻すために、人を襲って食べようとする人もいる。
本当に怖いのは、老いることそのものじゃない。
老いることによって、醜くなり、心まで捻じ曲がってしまうことが、怖いのだ。
自分の老いを肯定的に捉える人にとっては受け入れられ、老いを否定的に見ている人にとっては拒絶したくなるもの。
それが、老いるということであろう。




